S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

ご注意、ご注意

2005年09月30日 | つぶやき
「こちら宅配便の配送センターですが」という電話。
「ご近所の○○さんが、いつ配送してもお留守なので、ちょっと○○さんのことについてお聞きしたいのですが」
「○○さんは、こちらにお住みでしょうか」

丁寧な、いかにも電話営業が板に付いた女性の声。

「どんなお名前を名乗られても、突然かかってきた電話で個人情報に関わることをお答えできません」

「こちら、宅配便の配送センターなんですよ、疑われましても、困ります。
 では他のご近所の方にお聞きしますのでけっこうです、失礼します」

なんなんでしょう、いったい。
すぐに該当の○○さんちにお電話。
このお宅、数日前に高齢のおじいちゃんの葬儀が終わったばかりなんですが、それでも宅配便が迷子になるような長期の不在は無いし、宅配便の不在通知など一件も来ていないと。
「他の方に聞く」と言っているし、とても巧妙な感じだったので、注意してくださいとお伝えしました。

最近、巧妙な言い方で個人情報を聞き出そうとする電話が子どもがらみで増えていて、「どんな言い方をされても絶対に答えないでください」と、学校からお便りが何度も出る。
教育サービス関連なのだそうだけれど、数年前にうちにかかってきたことがあるのはこんな感じ。
「役所のなんとか」と名乗り、自分のミスでわからなくなったのだけれど、お宅のお子さんの○年生のときの同じクラスだった○○さんや××さんの電話番号がわかりますか?」と、なんだかとても困ってしまった風を装う。
「学校に聞いてください」と言って、電話を切ったのですけれどね。
「役所のなんとか」なら、当然学校名や連絡先がわかるはずだろ?と。
翌日校長に言うと、いわゆるお決まりの手口だと。
低学年の名簿が入手しやすく、それを頼りに中学年以降の情報を入手するためのものだそうだ。

今回の「ご近所の○○さん」のお宅は、お子さんは成人されていて、子どもがらみなんぞ、全く関係ない。
今度は何が目的なんだ、と、とても不気味。
生き馬の目を抜く世の中だ。

再会

2005年09月28日 | つぶやき
今日は娘の心臓検診でした。
生後3ヶ月時の手術・退院後、最初は数日後から始まった検診が2週間に一度になり、数ヶ月に一度になり、一年に一度になり、そして二年に一度になったもの。
心電図とレントゲンを撮り、そして診察。
心電図にもレントゲンにも異常は見られないけれど、心雑音は残っていると。
ただし、運動制限も無く、日常生活にも問題ナシ。

検診に関して必要性を質問。
通常の心室中核欠損症の手術は「根治手術」であり、術後は「治った」と解釈。
検診を必要としない例の方が多い。
ただしあなたのお子さんの例に関しては、肺動脈による気管の狭窄があり、手術を受けた病院の○○先生から「丁寧な検診を」との申し送りが紹介状に明記されている例。
今後、18歳以降は、小児専門病院であるこの病院からは卒業してもらうが、心臓に関してや健康全般に関しての記録を残していく「かかりつけ病院」を持った方がいい。
今後どんな治療をしていく時でも、心臓の病歴があると、そのことにこだわる医療従事者もいるので「問題無い」という所見がすぐにとれる態勢でいた方がいいと思う。
ダウン症の仲間内で心室中核欠損症の術後にこんなに丁寧に心臓検診を受けている例は少ないので、この話になんか納得。
前住地の手術を受けた病院の循環器内科の主治医の紹介状は、その内容に力のあったものらしいと勝手に解釈。
今は健康に問題は無いけれど、心臓に関してかかりつけ病院を持っている安心感は確かに大きい。
術前の検査で、異常のある心臓が血管に異常をきたし、その血管の異常で片側の気管がぺったんこにつぶれていると、ペンで紙に図示しながら教えてくださった日が今は懐かしい。

今までに何度もやっている検索。
手術を受けた病院の、この紹介状を書いてくださった主治医の名前での検索。
わあ、すごい、こんなことがあったのね。
主治医とこの病院の院長の責任編集で、新しい小児外来の教科書を作ったそうだ。
●清瀬小児病院の総力で教科書刊行
写真だ、写真だ、写真だ、写真だと、大コーフン。
8年ぶりのお顔拝見だ。
愛しの恩人は左です、左。
死の危険すれすれをけして「死の危険」とは言わず、「低空飛行」という言葉を使った主治医。
「深刻な状態」とは言わずに、「まだ、会わせたい方に早急に連絡をという状態には達していません」という言葉を使った主治医。
こんな小さなことって、実はとても大きい。
ていねいな説明の繰り返しを受けたわたしは、今でも心臓の図が書ける。
小児科医が減少していく中で、存在価値のある教科書を作った主治医に、勝手に誇りを持つわたし。
しかしこんな高額な専門書を、わたしが「ちょっと読んでみる」こともできないのだが、ありがたいことにネット上でこの「教科書」の序文が読める。
実践で役立つ小児外来診療指針

主治医の功績が、小児医療の明日を支えていけますように。

続「エゴグラム」

2005年09月27日 | インターネット雑記
前記事「エゴグラムによる性格診断」で、わたしは「エゴグラムによる性格診断」というサイトの診断結果に関しての不満をぶちかましましたが。
このサイトの診断結果、5つの領域のどこかに「c」が入るものの記述に関してどうも問題があるような気がします。
なんというか、実在しそうで実在しない人物像というか、人間というものをとらえる暖かみと深みに欠けると言ったら言い過ぎか。
実際クレームもあるようで、その辺のことが「コラム 管理人のつぶやき」に記されています。
特に「8番」が、なんとも…。

エゴグラムによって自分を知ろうというときには、わたしは「エゴグラムによる性格診断」というサイトよりも「エゴグラムの部屋」の方がおすすめです。
どんなことを診断されているのか理解しながら回答を進めることができ、また結果に関しての考察が自分にゆだねられているからです。
(わたしは後者の診断の方が「FC」が上がります)

さて、このエゴグラムによりブロガー傾向を考察したのがLstyさんの記事でしたが、わたしもちょっとマネをして考察。
以下、女性ブログに関して。

*NPが高そうで、ACが高そう。
 モラルハラスメントブログ
ACが高いという自分自身を見つめ、考察することがコンテンツのひとつになっていることから、そこが逆にブログの「強み」ともなっているブログ。
*NPが高そうで、Aが高そう。
 アトリエf.f. ゆうくんちの日常
べたついた記載が無いのが「A」の高さのように思う。
24時間テレビスペシャルドラマ「小さな運転士 最後の夢」」や、以前gooを場として使っていた時期の「『クニミツの政』記事→取材依頼」では、「CP」より「A」が前に出ている要素が興味深い。
*Aが高そうで、CPが高そう
 ☆ 今日の幸せ ☆
彼女の「CP」的一言に惹かれている読者は多いんじゃないかと思う。
*FCが低そうで、ACが高そう
 明けぬ夜の夢
自己を見つめ続ける更新は、本人自身を支えるものとなっていて、ブログが有効活用されていくことでゆっくりと本人自身が変化をしていきそうな可能性が、読んでいて興味深い。
*Aが高そうで、ACが高そう
 障害者の“きょうだい”のつぶやき
自己のACの持つ要素に対して、更新によって「立ち向かっている」感じがするブログ。

Lstyさんの記事では、「ブログで成功する資質を持っているのはNPやAが高い人」というような記載があったけれど、「ブログで成功」というのは、わたしは「そのブログの持ち主がブログでの更新でどんな収穫を得るか」という方が興味が引かれるわけで。
どの要素がどんな風に出ている人でも、そういう「成功」の可能性というものがあるのだろうし、わたしはそれをブログ上で見るのが楽しいかもしれないです。
そういう意味で、同性として、女性ブログを考察してみました。

以上、実に主観的判断ですので、列挙に入った方、迷惑かけたらごめんなさい、です。

「エゴグラムによる性格診断」

2005年09月26日 | 時々プロフ
この記事、あっちゃこっちゃで取り上げられているようです。
あなたのブログ適性がエゴグラムでわかる!(かも)/他人の不幸は蜜の味

これは「エゴグラムによる性格診断」で、ブログ適性を考えてみようという記事です。
この性格診断は、性格を5つの心の領域に分け、どの分野が高いか低いかなどで性格傾向を調べていくというもので、5つの心の領域とは、「エゴグラムによる性格診断」の「エゴグラムとは」というページや、別サイト「エゴグラムの部屋」の こちらのページ がわかりやすいと思います。
この5つの領域のページをしっかり読み込んで あなたのブログ適性がエゴグラムでわかる!(かも)/他人の不幸は蜜の味 を読むのがわたしはオススメです。
Lstyさんの記事が二倍楽しめます。

さて、わたしの結果なのですが。
ずいぶん前からこのサイトは知っていました。
しかし、結果が「気に入らん」のです。
「気に入らん」のは、診断結果が、なんか、かわいくない、からです。
「気に入らん」ので、月日をおいて、迷う設問に関して意識的に回答を変えてみたりしました。
でも、結局、結果は全く同じ結果になり、それもなんか「気に入らん」のです。
「気に入らん」理由は、けしてこの性格診断に対してではなく、ひとえに結果がなんか、かわいくない、からです。
だから、ブログ上でどんな性格診断を紹介しても、(これは紹介するモンか)などと思っていました。
それでLstyさんのこの記事を見つけたとき、なんというか、なんかこう、(くっそー)と思いました。

こうなったら、開き直りです。
わたしの結果は「CP-B、NP-A、A-A、FC-B、AC-C」の「baabcタイプ」です。
(かわいくね~よ)と思っている結果はコチラです。
あー、かわいくない。

気を取り直して、「baabcタイプ」を「エゴグラムの部屋」の こちらのページ で解釈することにします。
ふむ、ここのページに出てくる具体的シチュエーションで見てみますと、確かに自分、「baabcタイプ」なんですよね。
「うんうん、そうそう、そう思う」とあてはまるのが、擁護的な親部分と、大人部分。
批判的な親部分は、「肉が固い」以外のマイナス要素をレストランに見つけなければ出てきませんし、見つければ出てくるので確かに「b」です。
自由奔放な子ども部分は、例えばそのレストランに連れてきてくれた人が困った顔をしていれば、かなりのハイテンションで出ることが予想されますが、連れが困った顔をしたことで、という要素から来る行動なので、これは擁護的な親部分から連動でくるものということで、確かに「b」だ。
順応した子ども部分で、このページの例としての反応は、わたしはあり得ません。
順応ということで、なんで自分にマイナスの要因を持って来なきゃならんのだ、と反感すら持ちます。
ということで、確かに「c」だ。

結局、「かわいくない診断結果」から、逃れられません。
いーんだよ。
自分の男に「かわいい」って言われりゃ、それでいーんだよっと。

それとね、
今回のLstyさんのこの記事のこの部分に、にこにこしてれば平和かな、と。
■NPが一番高い人
 おめでとうございます。あなたはブロガーとしての優れた資質を持った人と言えるでしょう。特に、NPの次にAの高い人は、どのような形態のブログを運営しても成功する可能性が高いでしょう。
これで、「かわいくない診断結果」の(くっそー)を、切り抜けることにします。
Lstyさん、サンキュです。

*トラックバック
あなたのブログ適性がエゴグラムでわかる!(かも)/他人の不幸は蜜の味

「嘘」

2005年09月24日 | つぶやき
もう、数年前のこと。
夜、電話が鳴りまして。
深刻そうな声で、「わたし嘘をついていたんです」と。
「んん?」

いや、その日の日中、何人かで彼女の結婚のなれそめなど聞きつつ、ノロケがかわいらしくてからかいまくっていたんですが。
「嘘」とは、知り合ったのが「バイト先」ではなく、「就職先」だったと。
「バイト」ではなく「正社員」だったと。
この彼女、中卒だったんですね、要するに。
そのこと自体は自分では納得していることなのだけれど、そのことで他者の余計な関心を引くのが面倒で、ついそれがわからないように嘘をついてしまう、と。
でも「お世話になっている」ので、嘘をついたという思いに耐えられなくなったのだと。

笑止。
語りたくないことは語らなくていいという自由が人間にはあるのだよ。
それを語らなくちゃならなくなるきっかけが出ることを避ける「嘘」なんてものは、自分に許してやってもいいのだよ。

と返答しつつ、「思いつめた声での電話」という部分をありがたくありがたくいただいたのだけれど。
わたしは、この彼女の「10代の経験」の話が好きなので、その背景になる「学歴」自体はそのことを解釈する情報でしかないということが、相互で確認できたという要素もあったなあと。

娘がまだ小さい頃、連れて歩くときに話しかけられる言葉。
「何ヶ月?」
いや、頻繁にこう言われる時点で、「何ヶ月」ではなく「歳」なんです、「歳」。
言えば、相手、固まります。
大きさとしても発達としても「歳」とはとうてい思えない現状でしたから。
言えば、障害に関して語らなきゃ、その場はおさまらなくなります。

最初はいちいちまともに答えて、驚きのどん引きに丁寧に対処し、娘の状況なんぞを答えたりしていたんですが。
だんだんめんどくさくなった。
「7ヶ月くらい?」と聞かれりゃ、そうですと答える。
「10ヶ月?」と聞かれりゃ、そうですと答える。
「まあやっぱり」なんていううれしそうな顔を見ながら、まあよろしいんじゃないかそれで、なんて思ったり。
そう、「7ヶ月」とか「10ヶ月?」って言葉が妙に記憶に強く残っているので、多分、1歳半から2歳くらいの頃のことだと思います。

3歳下の息子が生まれたら、今度は「あら、双子ちゃんよ」と言う声かけが多くなる。
(双子じゃね~よ)
でも、そう言えば結局、展開は同じ。
「3歳ちがい」と答えれば、相手の驚きのどん引きは簡単に推測できた。
もうこの頃は、どーでもいいよの心境だったんで、相手が言うままで放置。
「双子ちゃんですか?」と聞かれれば、曖昧な笑みで返す。
相手は「勝手に」肯定と取り、それだけのこと。

まあ、このくらいの「でまかせ」なんぞ、罪も無いことよ、と思いつつ、どこかに引っかかっていく部分というものは、多分「正直に言えないようなことなのか」っていう自問自答が関わってくるからなんでしょうね。
でも、関わる相手によって「嘘」も含めて、対応を変えてもいいんではないかと思うのが結局の結論だった。
相手の反応に、いちいちいちいちつき合わなきゃならんことから解放される自由だって、あるよねって思う。

まあ、こんな「通りすがり的相手」に対しての嘘っぱちなんぞは、自分が割り切ってしまえば楽なんですが、難しいのは「中途半端な仲の人間関係」だと思う。
自分が「ちゃんと言いたい」と思う相手には、迷わずに「言う」っていう展開もあるし、迷ってから「言う」というケースもあるだろうと思う。
ただ、そんなときに「視点」として持つ部分。
「嘘」をまぜるときに、問われているのは「自分」というケースももちろんあるのだけれど、問われているのが「相手」って場合だってあって、実はこっちの方が多いんじゃないかとも思う。
まあ、そういうときは、「正直な展開」じゃなくたって、別に罪もあるまいと思う。
どこまで相手に理解されるのか不透明と思いつつ、言葉を尽くしていくのも面倒なときは非常に面倒だ。
話すことを「迷う」部分を抱えているってこと、相手が全て引き取って救ってくれるわけでもないのだし、相手の解釈に誤解があれば、それを解く努力もまた、しなくちゃならなくなっていく。
現実的なとこで言えば、「嘘をつく」か「つかない」かは、現実的な対処として相手に「情報」を与えることが必要不可欠かどうかって、そういうポイントが分かれ目になってくるのではないかと思うのが、個人的な見解。

*トラックバック
 嘘をついた/明けぬ夜の夢

「不平等」のススメ

2005年09月23日 | 「障害」に関わること
「ママとおねえの交換日記」
いや、勝手に言ってるだけです。
「ママ」のわたしはぼんぼこぼんぼこ「障害児のきょうだい児ネタ」をあげ、障害者の“きょうだい”のつぶやきの「おねえ」はぽんぽんぽんぽん反応してくれます。

さて、「おねえ」が今回上げて、初トラックバック発信となったのは「甘い汁」。

「障害児のきょうだい児」をお育ての皆様。
ってこの立場で読んでる人って、いったいどのくらいいるのかね。
まあいいや、
「障害児のきょうだい児」をお育ての皆様。
「障害児の親」の育児を自分の親に見続けながら育つ、「障害をもつ子のきょうだい児」が持つ淋しさというものがあります。
親がきょうだい児に対して後回しになってしまうときに、「障害のケア」を理由にするのはやめましょう。
はっきり言って、そんなことはわかってます、近くで見てるんだから。
「待たせてゴメン」「待っててくれてありがとう」で充分です。
まずいのは、理由を提示して「ゴメン」と「ありがとう」を省略することです。
「あなたの理由はわかる、でもわたしの気持ちは納得しない」なんてことを子どもが言うのは「技術的に」無理です。
自ずと、口はふさがれます。

その上で、今回はきょうだい児に対しての「甘い汁」の与え方です。
きょうだいってのは、愛情は平等がよかろ、と思いますよね?
片方は障害をもつことで手がとられるから、なんとか「平等」にしてやろうと思いますわね?
ところがどっこい、です。
きょうだいっていうのは心理として、欲しいのは「平等」ではなく、「平等より自分がちょっとだけアッチよりもかわいがられてる」というヒソカな喜びです。
罪悪感を持つほどでもない、ほんのちょびっと「優越」みたいなもの。
これ、障害があろうとなかろうと「○○にはナイショだよ」な~んてこと言いながら自分だけオヤツもらっちゃった~~みたいな「甘さ」ってのを喜ぶ心理ってのが、人間にはあるわけです。
障害児のきょうだい児こそ、これが必要な子どもたちなのだとわたしは思います。

ところが、障害児の親というのは、大胆に定義してしまえば、コレ、下手な人が多いですね。
障害をもたない子どもの方にちょっと優遇ってのは、障害をもつ子の方に、というより「障害」というものを冷遇するような罪悪感があるんでしょうね。
そんなことは、子どもを生んで「障害」と出会った「親」の事情です。
子どもを生むまで「障害」と無縁であった「親」の事情です。
「障害」と生後数年で、もしくは生まれたときから「障害者の家族」であるきょうだい児は、そんなことよりまず「親の愛情のゲット」が最重要課題です。
「障害」=「被害の要因」になるところから救ってやらなければなりません。
障害児のきょうだい児というのは、「自分」と、「障害をもつきょうだいと母」、という景色でものを見ていること、見なければならない状況が多いです。
ちょっとくらいのズルは、ものすごく欲しがっているわけです。
「自分と母」と、「障害をもつきょうだい」の位置関係だって欲しいです。
大人になれば、自然そういう位置関係は増えますが、関係のベースを築くのは「生育歴」の時代です。
すでに「大人になった」親は、そういう経過が想像できますが、きょうだい児は経過以前に「現在進行形の今」が大事です。

ただし、きょうだい児が欲しいのは、障害をもつきょうだい児に対しての「冷遇」ではありません。
きょうだい児にとって、障害をもつきょうだいは、障害があろうがなかろうが「きょうだい」です。
障害をもつきょうだい児に対しての「冷遇」を、きょうだい児に感じさせてしまっては「やりすぎ」です。
欲しいのは、「ちょっとだけズル」です。
以前聞いた話ですが。
「障害をもつ子のきょうだい児の親」のある「先輩」、ちょっとこじれてきた「きょうだい児である『妹』」と、解決のために交換日記を始めました。
そこでわかったこと。
最後に「○○(妹の名前)が好き」と、書いて欲しがるのだそうだ。
「○○と××(障害児の名前)が好き」ではダメ、「○○も××も好き」でもダメ。
「○○(妹の名前)が好き」、なのだそうです。

「障害をもつ」ということで、家庭内にいろんな要素が生まれる中、障害をもつ子が不在の時は「チャンス」です。
きょうだい児が病欠で、きょうだい児だけが在宅という時も「チャンス」です。
「あなただけ特別よ、うふ」ってテンションが効果的にきょうだい児に届きます。
「ちょっとだけズル」の要素が伴うためには「うふ」ってテンションが必要です。
「わたしはあなたにちょっとだけズルをしてあげたかったのよ、したかったのよ、うふ」です。
つまり、それは「母親の義務感」ではなく、「母親の希望によるもの」であるべきです。
きょうだい児は、そうした「自分のところに走ってきてくれる」ことを待っています。
障害をもつ子が不在で、きょうだい児だけを連れて外出する場合は、障害者の“きょうだい”のつぶやきのエントリーの「甘い汁」にも出てきますが、帰るタイミングで絶対に「障害をもつ子の方の我が子」のことを帰る理由として出してはいけません。
「障害をもつ子の方の我が子」のことを帰る理由として出した時点で「馬車」が「かぼちゃ」になってしまいます。
つまり、障害をもつ子が不在の時間は、きょうだい児を「シンデレラ」にするチャンスです。
ちょっと大きくなったきょうだい児は、「馬車」が「かぼちゃ」であることは知っています。
「12時になれば魔法が解ける」ことも知っています。
だからこそ、「かぼちゃ」を「馬車」にする魔法が必要なのだと思います。
わたしは、わたし自身がこの「魔法」を楽しむことが必要だと思っています。
きょうだい児には「ナイショ」ですが、
わたしは実は、障害をもつ子である娘の方にも、「ナイショだようふふ」の「ちょっとだけズル」をするあばずれです。

「楽しいちょっとだけズル」とは、ちょっと違うのですが。
息子が年中のとき、土曜日に熱を出したときのこと。
土曜に受診をして、熱が下がらない日曜の夜、わたしは娘を支援してくださる方に電話をかけました。
「明日の朝、娘を学校まで送ってくれないか」と。
娘は学校までの送迎が必要でした。
息子はその留守番を、何度も何度も経験していました。
でも、熱を出したときくらい、留守番をさせずにそばにいてやりたかったのです、わたしは。
ほんの短い時間でもね。
月曜の朝、娘の送迎をかってでてくれた方が玄関のチャイムを鳴らしました。
すると息子がわたしに、玄関まで連れていってくれと言う。
熱い体を抱き上げて連れていくと、まだ5歳の息子は、その方に「ありがとうございました」と頭を下げました。
ほんの短い時間でも、この子には「自分が直接お礼を言いたい」というくらい、大切なことだったのだなあと、「きょうだい児の心理」を教えられたような気がしたのでした。

以上、「甘い汁」(障害者の“きょうだい”のつぶやき)にトラックバック。
かるとーしゅかさん、
これから育つ「後輩」たちのために、障害者のきょうだいの「先輩」の立場から、本文詳細に関しての「添削指導」よろしく。

「自分語り」と「その先」

2005年09月22日 | インターネット雑記
「S嬢のPC日記」
このサブタイトルとして以下の一行を加えてある。
考えるのは、常に「その先」

ブログを作った頃に、自分の中に発見があった。
それは他者と「事実とその考察」に関しての会話をしているときに、自分の発する言葉に頻繁に「その先」という言葉が出てくること。
これはいつ頃からだったんだろうと思う。
気づいたときには、すっかり自分に定着していたのだと思う。
ことさらに意識して使っていたことはほとんど無い。
持ち慣れたもの、使い慣れたもののように、自分の中にそれはしっくりとはまっていた。
意識して使うというよりも、出てしまう。
現在の状況、考えられる解決策、そして「その先」に見えるもの「その先」で獲得できるもの。
わたしはこの「その先」に対して好奇心があるのだと思う。
そのことに気づいてから、「その先」という言葉が自分の口から出たときに、その言葉が出た状況を改めてふり返ってみたりするようになった。

最近、いくつかのブログで「自分語り」という言葉を目にする。
「自分語り」という言葉で定義されるもの、想像されるもの、そのニュアンスには個人差があるのかもしれない。
わたしは夕食のメニューも、今日行った場所も、きれいに塗れたネイルの写真も、ペットの画像も、個人の「感情体験」の域を出ない映画やドラマの感想も、日常の話や過去の話も、そうした「自分語り」には、知っている人かどうかに関わらず、その人自身を知る、または見えてくる情報性の魅力に欠けた単なる「報告」である限り、申し訳ないが興味が無い。
遭遇した場面や状況、そこで思うこと、そしてその人が経験した後の、またそれを書き上げて公開した後の、「その先」のその人の姿に興味がある。
そこでその人が何を獲得するか、そのことがその可能性が推測できる文章には、「人間」という生き物の持つ魅力がある。
この「その先」の可能性が見えるベクトルがそこに存在するのなら、わたしはどんな「自分語り」にも関心を持って読むと思う。
そして実はその書き手の「その先」の可能性が見えるベクトルがそこに存在する限り、どんな記事も「自分語り」につながっていくのだと思う。

*参考リンク
うざがられる自分語り/ARTIFACT ―人工事実―
読ませる「自分語り」/BLOG STATION
私が自分のサイトを持つ理由。/304 Not Modified

「障害をもつ子のきょうだい児」を育てる日常

2005年09月21日 | 「障害」に関わること
今日はね、天気予報では「夜から雨」だったんですよ。
朝、曇ってたんだけど、ガキ共二人に傘を持たせなかったんですよ。

…降ってきたよ。

まず、今日は早帰りの娘を傘持ってお迎え。
次に、息子ですが。
さて、どうするかな、と。
5年生の男の子に、かーちゃんが学校まで傘持っていってやるもの?
しかもコイツが帰宅しそうな時刻、すっかり小雨になってきた。
「男の子」がご丁寧に傘を普通にさして歩く雨じゃない。
どちらかというと、遊びながら振り回して「傘を壊す」雨だ。

…いっか。

と、思ったのですけどね。
コイツは、いわゆる「普通の子」じゃない。
いや、正確に言えば「普通の子」だが、「普通の状況の子」じゃない。
同じ状況でも「母が絶対傘持って迎えに行ってやる姉」を持つ「弟」なわけで。
こういう場合、「姉の障害」だのなんだのってのは、知ったこっちゃないんですよね。
なんというか「ねーちゃんはしてもらえるが、ボクはしてもらえないもの」としての「カウント」がある。
そうした「カウント」から、まだ卒業できているとは思えないわけです。

行きましたよ、小雨だけど。
回りの友人にこうした「母」を恥ずかしがるか?
いや、そういうとこ、まだ、無い。

…ところが。

ウチは学区のはずれで小学校から遠いもんですから、車で行っちゃったんですよ学校まで。
どうも、すれちがっちゃったみたいで。
学校の前で車停めて待ったりしてしまった時間があったわけで。
いや、こりゃ、すれちがっちゃったかも、って思ってたら、家の近くの「おばあちゃんち」にいる息子から携帯に電話。
車停めて、かけ直しました。

電話に出た義妹。
「雨降ってたから、ちぃちゃんお迎えに行ってたんでしょ?」

おいおいおいおい。
「おばあちゃんち」に行った息子に、祖父母も義妹も「当然のように」そう息子に言ったらしい。

…だからさ。
言うなよ、そういうこと、即座に。
優先順位でオマエは低いんだって、そういうことになっちゃうんだってば!
「障害をもつ子のきょうだい児」は、育っていく中でハンディを持つんだ、
そのハンディは、何よりもまず家庭から発生していくんだ。
…身内からだぜ。。。

「ちがうよ!」
「アイツ迎えに行って、すれちがっちゃったんだよ!」

義妹に語気荒くするわたし。
「あら~、そうなの?
 てっきりちぃちゃんのお迎え優先だったから仕方ないねって言ってて」
(言うなよ)
「んじゃ、本人に代わるわ、安心するから」
(ってそう思ってるんなら、だから言うなってば)

まあ、「そう思って」ても、息子をしっかり支えてくれる愛情を持った「おばあちゃんち」ではあるんですけどね。

ここで電話で「アンタを迎えに行ってたんだ」と言い、「そうだったんだ」といううれしそうな声を聞き。
そして帰宅後に再度「アンタを迎えに行ってたんだ」と言い、直でうれしそうな顔を見る。
数回同じことを言っても「しつこい」にならないんですよ。
「好きだ」「好きだ」と何度も何度も言われたい女のようだ。

…まだまだコイツは甘やかしてやらにゃならんのか。
そうでもしないと「障害を持った姉」とはとんとんにならんのか。
しかし、なんというか「世間様とのギャップ」はどうしたらいいんだ?

全く、イレギュラーな環境ってのは難しいよ。

「検索トラックバック」で得たもの

2005年09月20日 | インターネット雑記
傑作記事を書き上げてしまったブロガーの悩み/304 Not Modified
この記事では、「読んでもらいたい記事」を「検索トラックバック」を使わずに「読んでもらう」方法について述べています。
検索トラックバックを使わずに、という理由に、わたしが上げた記事である「検索トラックバック」で失うもの が上げられています。

しかし、わたしは「検索トラックバックを使う」という選択は「アリ」だと思います。
ただし、わたしが考える重要な注意点があります。

1.「検索トラックバック」という手段を使うための「動機」を確実に持て
 「単なる宣伝」以外の確実な動機が無いのなら、「検索トラックバック」という手段を安易に使うな
2.送信先は確実に熟読しろ
 熟読できないもの、自分の記憶に残らないような場には送るな
3.トラックバック送信する記事に、相手に渡せる「情報」があるかきちんと判断しろ
 相手にとって無益なものは送るな

わたしが過去行った「検索トラックバック」は以下の記事です。
「たったひとつのたからもの」:感想
この経験を考察したのが、以下の記事です。
「こんな使い方があったのか!ブログの可能性に挑戦」の体験例

この「たったひとつのたからもの」:感想 という記事を上げたときに、わたしには「検索トラックバック」という手段が必要でした。
「検索トラックバック」という手段を使わなければ、わたしが書いた記事はただブログという大海の中で沈むだけだったでしょう。
また、あれだけの「濃いコメント」がコメント欄を埋めていくことにはならなかったと思います。
コメント欄に記載されたものではありませんが、こうした記載に出会うこともなかったでしょう。
また、この記事はブログ上では見えないところでわたし以外の人間にも有効活用されました。
ネット上で見える形の例のひとつとして、この記事のコメント欄に出てくる「Sさんのブログから多くのことを学ばせてもらうことになりそうです」というもの、これも「検索トラックバック」によってリンクさせていただいたところや、送信先から訪問いただいてコメント欄を濃いものにしてくださった方無しには語ることはできないと思います。
また、この記事には記事限定でアクセス解析をつけていますが、解析をつけた日から今日までアクセス数が「0」の日は存在していません。
訪問された延べ人数は、解析をつけた11月の末から今日現在までにユニーク数で3000を超えています。
この数字に責任を持つ思いを持てるのも、やはり「検索トラックバック」によってリンクさせていただいたところや、送信先から訪問いただいてコメント欄を濃いものにしてくださった方無しには語ることはできないと思います。

「検索トラックバック」で失うもの という記事中に出てくる「検索トラックバック」という言葉は、記事中にも記載した通り、むだづかいにっき「越後屋的トラックバックの分類のメモ」に従ったものとして定義しています。
わたしが行った「検索トラックバック」はこの定義に出てくる「かたっぱしから」ではありませんでしたし、「多くの場合」という記載からもはずれると自分では思っています。
しかし、これは「自分が勝手に解釈すること」であり、わたしが行った「検索トラックバック」がスパム行為であったかどうかは、トラックバック送信先と閲覧者にその判断はお任せします。

ただし、わたしがこの「検索トラックバック」で得たものは大きく、また「検索トラックバック」によって力を得たこの記事は、今日もアクセスが続いています。
わたしが欲しかったのは「数」ではなく、そこで得られるものでした。

*トラックバック
傑作記事を書き上げてしまったブロガーの悩み/304 Not Modified

「検索トラックバック」で失うもの

2005年09月19日 | インターネット雑記
某所にて閲覧したコメント、
「たくさんの人に見てもらいたいから検索トラバはしないわけにはいかない」
という言葉に対しての反応。

この方、ご自身のブログに対して「啓蒙活動的意義」があるとおっしゃる。
だから、そのことを広めるためにと、前述のことをおっしゃる。

おいおい、ちょっと待ってくれよ、と思う。
スパム的検索トラックバックをやっていては、「啓蒙活動」どころじゃない。
トラックバック記事以外の記事に対してまで、閲覧者から見た価値は下がる。
本末転倒、やらない方がずっといい。

本当に「啓蒙活動」をブログにおいてやりたいのならば。
「全ての記事において説得力を持つ努力をすること」だと、わたしは思う。
ブログは記事単位で閲覧され、他の記事を閲覧する意志を閲覧者に持たせるためには、まず最初に閲覧者が出会う記事の「力」が大きくものを言う。

ひとつのブログ記事に出会ったときに。
閲覧者は、たったひとつの出会いの記事で、そう簡単には啓蒙などされない。
あなたが「読まれた」と思っていても、それは「眺めた」だけのことも多く、記事自体に「啓蒙」の要素があったとしても、ひとつの記事との出会い程度では「こんなことを言っている人がいた」程度の記憶しか残らないのが現実だと思う。
たったひとつの記事に訪れた閲覧者が、別の記事を開くボタンをクリックするかどうか。
重要なのはそこなのではないかと思う。

検索トラックバックは、トラックバック送信により、送信先の管理者を、そのブログ内のたったひとつの記事に「閲覧に来させる」ことはできると思う。
「閲覧に来させられた」受信先の管理者が、そこに「検索トラックバック」の要素を見出したときに、「たくさんの人に見てもらいたいから」なんて可能性は簡単に崩壊する。
逆に言うと、「たくさんの人が自分のブログを訪れる可能性を失う」ことでもあると思う。
こんな「手段」に頼っていては、「啓蒙活動」なんてできるはずが無い。
その文章を記載するその個人を信頼するかどうかで、ブログの持つ力は左右されるのだから。

検索トラックバックとは、そうした「危険」を大きくはらんでいることを、検索トラックバッカーは知るべきだとわたしは思う。

(注:ここでの「検索トラックバック」は むだづかいにっき「越後屋的トラックバックの分類のメモ」に従ったものとして定義)

男脳・女脳

2005年09月18日 | 時々プロフ
話を聞かない男、地図が読めない女―男脳・女脳が「謎」を解く
アラン ピーズ (著)



ネット上で見つけた「男脳女脳診断」という診断テストをやってみました。
このテスト、以前「話を聞かない男、地図が読めない女」を読んだときに本書に掲載されていたものをやってみて、正確にはどうだったのか忘れてしまったのだけれど。
男脳よりに近い女脳だったか、女脳よりに近い男脳だったか、とにかく極端にどっちという結果じゃなかった。
結果:
あなたのポイントは 0ポイントです。 (男脳度数:50%/女脳度数:50%)
あなたは、極端な考え方をせず中性的な考え方を持っており、融通が利くため、問題解決の時とても役に立ちます。冷静で論理的に物事を考える男性的な部分と、感情豊かにコミニュケーションをとれる女性的な部分を、両方持っており、また、考え方が理解できるため、異性、同姓を問わず、たくさんの友達ができます。ただし、恋愛に関してはポリシーをもって友達で終わらないように注意しましょう。
わはは「0」ですか、見事だ。
「話を聞かない男、地図が読めない女」では「0」にならなかったのは、設問がもっと多かったからでしょう。
「0」ですが、この男脳女脳というものを述べた代表的な本である「地図の読めない」のタイトル通り、わたしは地図が読めない。
いや、正確には「読めない」のではなく、女性脳の典型というか、「そのままでは読めない」。
わたしは地図を見るときに、「行きたい場所があり、地図を見ているとき進行方向が上になるように回転させながら見る事がある」んですよね。

しかし、この「結果」の最終行。
「ただし、恋愛に関してはポリシーをもって友達で終わらないように注意しましょう。」
大きなお世話じゃ。
「恋愛」ってのは、脳味噌じゃなくて、心でするんだよ。
ポリシーだのなんだのってのが、なんというか「ぶっ飛ぶ」のが、恋愛なんじゃないだろうかと思うんだけどね。
恋愛の相手との時間の中で、会話として男性脳が表面に出てくるものももちろんあるけれど。
「女性脳暴走」で相手を困らせたという経験が、わたしが恋愛をした相手には記憶として強く残っているだろうと心あたりが「いっぱい」あることが、なんというか、とても気恥ずかしいです。

「地域」で育む

2005年09月17日 | 「障害」に関わること
「えらいでしょう?」
「えらいんですよ~」
「すごいでしょう?」

「親」たるもの、たいがいの親は「親バカ」だと思う。
ただ、たいがいの人は、そうそう、他人の「親バカぶり」を受け入れてくれるわけではない。

ところが。
知的障害児の親の「親バカ」は、たいがいの人が受け入れてくれるモンだ。
ありがたい、ありがたい。

明日は地域の神社のお祭りです。
御神輿と山車が出ます。
今日は、その「宵宮」。
神社で、地域の子ども会と、その地区の大きなマンションの子ども会との合同の主催の「宵宮」行事。
自治会の役員も「招待」されます。
神社の境内で子ども相手の出店を並べる中で、自治会の役員さんたちとマンションの自治会長にふるまい酒が出ます。
地域の子ども会の会長経験者であるわたしは、そこに呼ばれてふるまい酒のお相伴。

うちの町内の自治に関わる役員の重鎮たちは、うちの娘を熟知です。
当たり前だ、わたしは数年前町内会の広報紙に
「知的障害児の娘が町内行事に参加するのに配慮をいただいたご恩返しに、子ども会の会長を受けることにしました」と書いたんだから。
この「おおっぴらに言うこと」で、地域の中で「おらが町内に住む知的障害児のちぃちゃん」を「見守る方々」は、圧倒的に増えた。
娘に対してどう対応していいかわからなかった「傍観者」の中に「支援者」が増えた。
わたしは安心して町内の「一人歩き」をさせられる。
もしも娘に何かが起きたとしても、目撃者となる人は大勢存在するはずで、それはとても心強い。
障害をもつ子にとって、「地域の目」は財産だと思う。

今日は、在住地区の大きなマンションの自治会長さんの座る席の隣に、ちょこんと娘が座っていた。
酒のつまみが好物の娘は、ばくばくと柿の種やら、おしんこやらを食う。
娘を知らないこの自治会長さんは、時折娘を眺める。
わたしはその前で、うちの町内会長に話しかける。
「腰の具合はいかがですか」
「最近、朝お会いする機会が無くなって、どうされているかと思っていました」
そして娘の隣の自治会長さんに話しかける。
娘が養護学校まで自力で電車で通っていること、その練習のためにわたしが娘を見守っていたときにうちの会長と朝いつも出くわしていたこと。
うちの会長の話は、いわばダシで。
娘の話を手っ取り早くするためのテクなわけで。

「電車で通っているんですか」
「この子にそれを教えて、それが実現しているんですか」

「えらいでしょう?」
「えらいんですよ~」
「すごいでしょう?」

わたしは堂々と親バカになる。
「親バカぶり」が許されることにしあわせを感じながら。

こうしてわたしはまた、地域に娘の味方を増やす。
これはけして「正解」などではなく、わたしの個性を使った、単なるひとつの「やり方」なんだと思うのだけれどね。

「ありのまま」と「その先」

2005年09月16日 | 「障害」に関わること
巡回先になっている『斬(ざん)』のエントリー「あなたの今のWEB界における注目の話題は?」を読む。
列挙されるものを見ながら(ふーんこれが話題なの)と思いつつ、目が止まる。
「非モテ」ってなに?
最近話題なの?
と思って、はてなブックマークに行き、検索。
はてなブックマーク > 非モテの検索結果

つらつらと眺めつつ、ふと目が止まり、本文を読む。
[雑記]「非モテ」という言葉なんか捨ててしまえ!/Rivers and Bridges

これを書かれた「iduruさん」という方からは、「なんでそう発展するのか」と戸惑われそうなのだけれど、わたしはこの文章に、「障害児の親が『障害児』という存在の子どもを受け入れるということ」ということと共通の要素を見出す。

障害児の親の中に、その障害に対応する早期療育や機能訓練に「躍起になって」という表現が合うような情熱の持ち方をする人は少なくない。
とても短い期間ではあったが、わたしも一時は、この「躍起になって」という表現が似合う行動に引っぱられそうになったこともあると思う。
しかし、ふと立ち止まった。
子どもの声が聞こえるような気がした。

「努力して努力してあなたの好みに少しでも合うように自分を作り変えないと、わたしはあなたから受け入れられないのか」

「普通に近づける」という情熱の「普通」とはいったい何なんだろう。
この子はこの子としてまず存在しているわけで、この子が持っているひとつの要素である「障害」を認められないままに「改善」を子どもに押しつけようとするのはまちがいなんではないだろうか、と。
「障害」を認められない人間が「障害」を改善しようなんて「欲」は、なんというか、そう、醜い。

「ありのままを認める」。
しかしこれはけして「停滞しろ」という意味ではない。
あなたはあなたが行きたい方向に進む権利があり、成長する自由がある。
手を引っぱって「普通に向かって連れていく」のではなく、あなたが成長する自由と成長したいと思う気持ちを育むこと。
そのことが大切なんではないかと、ある日気づいた。
「ありのままを認める」とは、「そのままでいろ」という意味じゃない。
あなたが進もうとする出発点、そのあなたのスタートの姿とあなたの自由をそのままに、その「生きる命」を認めるということなんだと思う。
「生きる」ということは、変化するという可能性を持ち続けることだと思う。

[雑記]「非モテ」という言葉なんか捨ててしまえ!/Rivers and Bridgesの「iduruさん」は、1人の女性から服装に関しての「助言」を与えられる。
これは、この女性が出会った「iduruさん」を、まずそのままで「認めた」からこそ出てきた「助言」だとわたしは解釈した。
「認めた」ということがなければ、他人の服装やそれが他者に与える印象なんぞ、ほうっておけばいいことだと思う。
無視し、流し、忘れる、それで終わることだろうと思う。
「ありのまま」を認めるからこそ、「その先」に対して関心を持ち、相手に対して不快感を与えたらどうしようかと迷いつつ、そのことを出す。
「iduruさん」さんの「行動」とその報告により、自分が伝えようとしたことが「伝わった」こと。
この女性がどんなにか喜ばれたか、わたしはなんというか、見えるような気がした。

「ありのまま」が出発点になり、「その先」へ発展していくこと。
わたしはそのことを信じたいと思うし、信じているからこそ、人間はまずありのままで認められることが大事なんだと思う。
誰かの「ありのまま」を認めるということは、穴蔵の中の自己満足につき合うことじゃない。

[雑記]「非モテ」という言葉なんか捨ててしまえ!/Rivers and Bridgesの文中で、橋本治氏という方の「恋愛とは中途半端に出来上がった自我を壊して築き直すためのプロセスなのだ」という名言の紹介が出てくる。
そしてわたしはこ「名言」を読みながら、さらに思った。
この文章を書かれた「iduruさん」の「人と人とが関わるということはその他人との出会いによって自分が変わるような、そういう経験なのだ」という言葉も、「名言」だよなと。

*トラックバック*
[雑記]「非モテ」という言葉なんか捨ててしまえ!/Rivers and Bridges

障害をもつ子の「きょうだい児」を「育てる」ということ

2005年09月15日 | 「障害」に関わること
障害をもつ子を育てる。
障害をもつ子の「親の会」というものがある。
障害種別である場合もあるし、障害の要因となる症候群別である場合もある。
参加の意志があれば、たいがいどこかの「親の会」に所属できる。
インターネット上でも、同様の立場の人間同士が交流できる。
共通の体験、共通の感情体験、共通の必要な知識・認識等、仲間内での相互交流が「明日を育てる」ことにプラスの影響を与えていくことはたくさんある。

障害をもつ子の「きょうだい児」という立場の人間が存在する。
「きょうだいの会」というものがある。
インターネット上でも、同様の立場の人間同士が交流できる。
共通の体験、共通の感情体験、共通の必要な知識・認識等、仲間内での相互交流が「明日を育てる」ことにプラスの影響を与えていくことはたくさんある。

なぜだろう、と思うことがある。
「障害をもつ子の親」という当事者グループがあり、「障害をもつ子のきょうだい児」という当事者グループがある。
なぜ、無いんだろうと思う、「障害をもつ子のきょうだい児を育てる親」の当事者グループというものが。
「ハンディをもつ子を育てる」という意味では、「障害をもつ子のきょうだい児」は、確実にハンディを持っていると思う。
そしてそのハンディは、まず家庭から発生する要素は大きいのに。
「親」は「障害をもつ子のきょうだい児」の抱えるハンディに関して、「外の誰か」にばかり意識を向ける。
いやいや、まず家庭から発生するんだってば。
不思議だと思うのは、わたしが「障害をもつ子のきょうだい児」のことを考えようと思うときに、主として「交流相手」になるのが、いつもいつも「きょうだい児本人」だということ。

「障害をもつ子のきょうだい児」は、育っていく中でハンディを持つんだ、
そのハンディは、何よりもまず家庭から発生していくんだ。


なんというか、その主張は、障害をもつ子の親に「キツすぎる」という印象をいつも感じてしまう。
親はこのことに対して、目を伏せすぎるのではないかと、思う。
自分が問われるということに、負けてしまうのだろうか。

大胆な言い方をすれば。
障害児のきょうだい児に対して持つ親の「思い」は、「点」として存在することが多いと思う。
支障、トラブル、困ったなという思い。
それはそう思った「案件」の解決に使われ、その「点」が小さな解決を見ようとすると、「親」の思考はそこで終わってしまうことが多いと思う。
障害児のきょうだい児に対して、もっともっとその成長に対して「線」で考えていく必要があるんではないかと思う。
「点」ではなくて。
だって、障害をもつ子に対しては、「点」ではなくて「線」で考えてるじゃないか。
不公平じゃないか。

そんなことを 「 壁 」/障害者の“きょうだい”のつぶやき を読んで、あらためて思う。
ちょっと不機嫌なことがあったので一気に書きなぐってしまった。これも言葉のぼーりょくか?
いやいや、言っとけ言っとけ。
最後の一文にこの一行をつけ加えなきゃならんほど、きょうだい児の口はふさがれている可能性を持つ要素がある。
それってさ、大きいよ。

*トラックバック*
「 壁 」/障害者の“きょうだい”のつぶやき

*関連記事*
障害者のきょうだい
二人のわが子と、その個性

「検索トラックバック」考

2005年09月14日 | インターネット雑記
繁華街の雑踏で、歌なんぞを歌ってる方がいらっしゃいますな。
それが風景のように通りすぎる人もいれば、立ち止まる人もいる。
立ち止まるだけのものを持っていれば、立ち止まるなあと思う。

さて、検索トラックバックというヤツ。
なにそれ?という方には、 こちらの分類の説明 がわかりやすかろと思います。
で、この分類を出している むだづかいにっき のエントリーで 「くたばれ 検索トラックバッカー 」というものがあります。
自分が書いた記事を投稿する際に、ブログ検索などで共通する話題を書いているブログを見つけ出してトラックバックを送る「検索トラックバック」は、かなりの高確率で嫌がられるトラックバックなのですが
はい、かなりの確率でイヤです。
のべつまくなしという感じの「大量送信」がすぐにわかるとこもイヤです。
内容がつまらなきゃ、イヤは炸裂します。
アフィリエイトがべたべたとくっついてると、もっとイヤです。

なのですが。
巡回先のトラックバック欄に、あるトラックバックがありまして。
これがまた、そのブログを巡回先にしている自分が(これ、どの記事についたの?)と、なんというかピンと来ず、表示タイトルを見るだけでいかにも典型的な「大量送信検索トラックバック」って感じだったので、なんで消さないんだろうなどと、ずっと思っていたのですが。
ある日、ふとそこに飛んでみましてね、結局その記事と同じカテゴリ記事、読破してしまいました。

このトラックバック。
トラックバックの根拠となる共通ワードは、トラックバック受信記事本文中に一個。
トラックバック送信記事のコメント欄には「トラックバックありがとうございます」が続き、多数のトラックバック送信をしていることが察せられる。
アフィリエイトはべたべた。

でもね。
おもしろいんですよ、これが。
同一カテゴリ記事10個、あっという間に読破してしまうくらいに。
資料となりそうなものをよく調べてありますしね。
記事に使っている話題にまつわる個人の経験談も、おもしろい。

自分で検索してわざわざ調べるほどのものでもないのに、自分がふっと出した単語一個で向こうから「情報」がやってくる。
こうした「棚からボタモチ」的効果もあるんではないか、検索トラックバック。

ただし、「棚からボタモチ」の「ボタモチ」がおいしくなくてはダメなんですけどね。
なんといっても、重要なのはここかもしれない。
「棚から単なる個人広告」が出てきたら、古新聞といっしょに束ねるだけだ。
でも、ボタモチがうまけりゃ、それはおいしい。

だから「検索トラックバック」は、全てにおいて「くたばれ 検索トラックバッカー」というわけではないと思う。
ただし「検索トラックバック」を送信するということは、トラックバック送信で少なくとも受信先のブログ主には「読ませる」という行為がほぼ確定しているという自覚の上で、「読ませる」水準が要求されるものかもしれない。

最後に、この「おもしろかった検索トラックバック」のブログですが。
太田裕実 石川セリ 岩崎宏美 黛ジュン 奥村チヨ 渚ゆうこ 八神純子 平山三紀
このどれかに関心を持つワードがある方は、下記ブログにいらしてみてください。
トラックバック送信先からのコメントに対しての誠実なレスも、好感です。
カテゴリ名「コーヒーブレイク(歌手紹介)」/ クレイジーポーカー Crazy Poker

*トラックバック*
くたばれ 検索トラックバッカー / むだづかいにっき