S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

存在の証明

2005年04月22日 | たったひとつのたからもの
うちの娘は歌を歌う。

「この子は発語がありませんね」

そう、発達検査で言われていた時代から、歌を歌う。
日常生活で言葉というものをほとんど口にしなかった頃から、
その頃から、歌を歌う。

何度も聴く曲の歌詞を耳で覚える。
拙い発音で歌を歌う。
人に聞かれていると意識すると、やめてしまう。

やがて稚拙なりにも、言葉を使うようになった。
13歳の現在、彼女の持つ言語能力は、
3歳児にもまだ届かない程度だと思う。

他者が自分の知的能力をどう評価するか。
そんなこととは無関係に、娘は歌を歌う。
「歌う」ことが課題のひとつの「音楽」の授業では、
いまだ、声を出して歌わない。
口を閉じ、音楽のリズムに合わせて体を動かす。

「音楽」の授業では、歌わない。
でも、式典のときには、歌を歌う。
小学校の卒業式のときに、
卒業生として別れの歌を歌うのを、
卒業生として校歌を歌うのを、
担任は、娘に気づかれないようにそっと見ていた。
彼女が歌うことを気づいているのがバレると、
そう意識させてしまうと、
彼女は歌わなくなるのを知っていたから。

この3月に、養護学校の卒業式に在校生として出席。
まだ一年しか在籍していない学校の校歌を、娘が歌う。
「音楽」の授業で歌わないことを知っている担任が、
その姿をそっと見守ったという。

わたしは BUMP OF CHICKENの「sailing day」 がとても好きで、
一時期、車の中で何度も繰り返しかけていたことがある。
娘はこの歌の歌詞の断片を記憶する。

今、この曲を車でかけると、彼女は歌う。
サビの部分を、彼女は歌う。

「精一杯 存在の証明」

この歌詞を、きっと彼女は一生漢字で書けることはないだろう。
この歌詞の意味を、言葉で説明できる力を持つこともないだろう。

でも、わたしは、彼女がこのサビの部分を歌うたびに、
それを聞く度に、感動する。
わたしが聞いているのを悟られないように、
細心の注意を払いながら。
運転に専念しているようなフリをしながら。
そんな嘘の素振りをしながら、
この曲をリピートさせるスイッチをそっと押す。

ゆうくんとちぃちゃん

2005年02月16日 | たったひとつのたからもの
本日、娘の養護学校は、小中学部の次年度新入生の「体験入学日」で、在校生は「自宅学習日」でした。
ま、つまりは「お休み」。
ということで、お休みを利用して、娘とともに行ってきました、「ゆうくんち」

家の前で手をふるリエさんを見て、車を停めた途端に、娘は車を降りて走っていきました。
エンジンを停めて、車を降りたら、娘はもう視界にいませんでした。
・・・おい、どこ行ったよ?

「ちぃちゃん、ちぃちゃん」と呼びながら探すと、ゆうくんちの戸が開き、「なに?」という感じで顔を出した娘。
アンタ、行動、早すぎ。

おうちに入ると、娘はゆうくんのところに「あいさつ」に行きました。
ゆうくんを見て、「おにいちゃん」と呼びました。
(娘は中学一年、ゆうくんは小学三年生。でも身長はほとんど変わりません。)
娘は「おにいちゃん」のそばに行きたがりました。
ゆうくんのママがゆうくんに、吸引をしている様子をじっと眺めていました。
数十分後に、この「吸引」のための動作をゆうくんの前で「パントマイム」で細部まで再現していたことには驚かされました。
ゆうくんのいるお部屋の中で、娘は一人遊びを組み立てて遊び始めました。
ゆうくんのママが、「微笑ましい顔」で、そばでその様子を見ていました。

娘が何か、ゆうくんのママに言いました。
小さい声だったので、ゆうくんのママは、微笑ましい柔らかな表情で聞きました。

「なあに?」

娘、今後ははっきりと、ゆうくんのママに言いました。

「じゃま、じゃま。
 あっちいって。」

大爆笑。

「そこはダメ~~、ちぃちゃん~~」
というゆうくんのママの悲鳴をものともせず、娘は家の中の全てを探検しました。
彼女にとっては、物珍しいトイレ空間で、「おしっこ」もしてみました。
水の流れる音を聞いて、わたしたちは「あら」と思った。
ウチの子、出先で見たトイレを「使ってみる」のが好きなので、わたしは「ははは」と思いました。

娘がゆうくんに近づいて、そこで展開される「ほんわかワールド」を見てるのは楽しかったです。
大人二人はそれを見て、あわてて携帯を持ってきて、カメラを振りかざして、大騒ぎをしていたのでした。。。

娘の「交流」

2005年02月13日 | たったひとつのたからもの
今日の日曜日は「父・息子」「母・娘」と両者別行動。
息子の行きたいトコは、娘の行きたいトコではない。
それでは行ってらっしゃい、母は娘としか行けないトコへ行きたいから。
はい、いわゆる「スーパー銭湯」というヤツです。

ウチのお嬢様、「異種交流」がお得意です。
カップ酒を飲むホームレスのオジサンが座るベンチの横にちょこんと座り、にこにこしていたこともありました。
耳鼻科の待合室で、「ギラギラと太い金のネックチェーンをして、濃い色の開襟のシャツ、派手なスーツ、白いエナメル靴の青年」の隣にわざわざ座り、にこにこしていたこともありました。
この時は、息子の受診のために来ていたのですが、この方の「いいよいいよ、この子見ててやるよ」という言葉と娘の態度に、「お願い」せざるを得なかった、ということもありまして。

ちょっと前に温泉で、「美しい肢体」のフィリピン女性の一群に近づきまして。
中でも一番美しい胸の持ち主のオネエサンに近づきまして、いきなり自分の胸を指さして「オッパイ」とおっしゃいました。
それから、その女性の胸を指さして「オッパイ」と。
そして「きれい~~~」と言いながら、手をたたきました。

アンタ、まちがっちゃいない。
でも、母、どうしていいか、わからない。。。

さて、今日のスーパー銭湯で。
露天風呂に入って、くつろいでおりました。
扉を開けて、30代前半くらいの女性が入ってらっしゃいました。
片側の腰から腿にかけて、大輪の花が咲きまくってました。
男性名もその肌に書かれていました。
つまり、刺青。
タトゥーなんてものではなく、まちがいなく「そちらさん」系統の「彫り物」でした。

こういうパターンに限って。。。

と一抹の不安はありましたが。
案の定、娘の「友好視線アプローチ」が始まりました。
結局、アイツ、「さわらせて」いただいてました、その「お花」に。

彼女の「異種交流」、たいがいにおいて、先方の「にこやかな笑顔」を引き出すのよね。
コイツが引き出すのか、引き出す相手を選べるのか、不明。
とても平和。
でも、母、いつもけっこう、ヒヤヒヤ。

映画「ハッピーバースデー 命かがやく瞬間」

2005年02月12日 | たったひとつのたからもの
地域の子ども会行事で「ハッピーバースデー 命かがやく瞬間」という映画を観ました。

本も映画もよく知られているもので、前々から興味があったので、子ども会行事に自分も参加。
内容は、テーマと山が盛りだくさんで、こんなにたくさんのテーマを盛り込んだら、子どもにはきついかもとも思って見ていました。
タイトル通り、命の大切さを主要なテーマにしています。
その中で、「暴力の連鎖」、「障害児のいる家庭におけるきょうだい児が持たされる心理的ハンディ」というものも盛り込まれていました。

途中で飽きて、ごそごそと動く子どもがいる中で、わたしは「コレは息子にも長かろう」と思っていました。
後で、何気なく、彼に聞きました。
「どうだった?」

「すっげ~~~~~~~~~~~、おもしろかった」と答えた。
ちょっとびっくりした。
あら、あんなに主要テーマが盛りだくさんの内容についていけたんだこの子、と思った。

その後で、ちょっと胸が痛んだ。
ドラマの中で出てくる、主人公に精神的虐待を加える母親は、「重度というところに位置する肢体不自由児の姉を持つ」障害児のきょうだいという立場。
映画の中ではこの母親が思春期に書いた「姉に両親の全てを取られる嫉妬で苦しむ日記」が出てきます。
この母親の両親である主人公の祖父母からも、「上の子の障害に対しての対応で精一杯で、下の子をかえりみなかった日々があった」という言葉が出てきます。
下の子が母親になったときに、娘に精神的虐待を加えるようになったのは、自分たちの「罪」なのだと。

ウチの息子も幼児期「みんながちぃちゃんにばかり注目する」「ちぃちゃんばかりかわいがる人がたくさんいる」と荒れていたこともありました。
彼にとっては姉の「障害」よりも、自分への注目を奪う相手という概念が姉に対してあった。
成長と共に「障害」という概念を理解し始め、今は納得してきている部分もあれど、この映画に出てくる「きょうだい児の心境」が理解できる部分があるのだろうなと。
うちは「両親の全てを取られる」まではいかないけれど、娘優先を彼に「話して理解してもらう」ことは、彼の成長の中で増えてきていますから。
ウチはわたしが「息子に甘い」ことは衆知ってのがありますが、その原点として、ヨソ様から「あそこんちは甘いから」と言われる程度を維持して、彼にとっては「とんとん」かな、ってとこはあるなあとも思う。
もちろん、先を考えない「甘やかし」はしませんが。

「すっげ~~~~~~~~~~~、おもしろかった」の直後に、彼はこうも言いました。
「おかあさん、泣いたでしょ」
そう何度も言った。

これは多分、ドラマの中で主人公の友達である障害を持った子どもが死ぬシーンがあったからだな、と思った。

息子は幼稚園の年長児の時に、ずっと同じクラスだった友達を亡くしています。
たった6歳にして、友人の葬儀というものを経験している。
意味がつかみきれない彼に「死」というものを話しながら、わたしがその話になるとべーべーとよく泣くということを彼は知っているわけです。
べーべーと泣く割には、その子の話を何年も何年もやめない。
「あの子のことを忘れないで欲しい。
 あの子が生きていたことを知っている人が忘れていってしまったら、あの子は本当に死んでしまう」と。

この映画の中でも言ってました。
生きている時に友達だった子の中で「生き続ける」ということを。
それを観ながら、彼の思考は「母」に結びつき、それゆえの「おかあさん、泣いたでしょ」ってことかなあと思った。
で、彼はそのシーンを見ながら「おかあさんが泣く」と思ったのだろうと。

最初は「ん?」とかやり過ごしてましたが、あんまり「泣いたでしょう」とウルサいので、「泣いたよ」と答えました。

ホントは泣いてないんだけどね。
だって、この障害児を描くシーン、観る人に対してのサービスのようなトコ、感じちゃってたから。
だって、コレに出てくる障害を持つ「友達」の子、わかりやすいんだもん、笑顔と喜ぶ声が。
なんか、「観てる人が美談と思うように」って感じが、ちょっと匂ってしまったので。
養護学校が出てきて、いろんな子の「映像」が出てくる割には、そのうちの「たった一人」だけが登場人物で、周囲の子どもが関わるのも、その「たった一人」だけだし。
しかも、髪に花をつけた女の子だしね。
「色の無い」、「ただの風景」として出てきた男の子たちが、ちょっと気になってしまったわたしなのでした。

結局のとこ、息子は「すっげ~~~~~~~~~~~、おもしろかった」と「おかあさん、泣いたでしょ」しか言ってくれません。
この辺が、まあ、男の子の成長ではあるのだろうけど、ちょっとつまらん。
でも、こうした成長が見える時期でなければ逆に「すっげ~~~~~~~~~~~、おもしろかった」ってのは出なかったかもしれないので、まあよしとしますわ。

初めての妊娠

2005年02月10日 | たったひとつのたからもの
わたしの最初の「妊娠」ですが。
妊娠のとても初期の時に、「誤診」を受けました。
稽留流産、つまり「お腹の中で胎児はすでに死亡している」と宣告。
稽留流産の「処置」としての掻爬の期日も決まっていました。
13年前のちょうど今頃です、あのとき掻爬していたとすれば。

この稽留流産と掻爬の医師からの説明が、非常に失礼で、テキトーで、実に惨めで情けない思いをさせられたんですよね。
当時住んでいた地元では大きな総合病院で、人気のある産婦人科でお産も多かった。
その辺に住んでいる人で、そこの病院で生んだという人も多かったし、診察もとても混んでいました。
小児科も常に混雑しているような病院だったのですが。

それで、もっと丁寧に、良心的な「掻爬」を受けるつもりで、他の病院に行った。
まあ、そういう「確実な意志」よりも、「もうあの病院はイヤ!」ってとこの方が強かったなと。
とにかく泣きまくってましたから。
自分が「動く棺桶」であるという事実にも。
非人間的な対応をされたことにも。
泣きまくってたし、精神的にもおかしくなってました。
職場も、慶弔休暇の扱いをする判断をし始めていました。

そうかと言っても、放置するわけにもいかないので、当時信頼していた近所の内科医に出身大学の大学病院を紹介していただきました。
文字通り、「泣きついて」。
とにかく、完全な医者不信に陥っていたと思う。
正確な妊娠週数は忘れましたが、宣告が二ヶ月の終わりで、別の病院に行ったのが3ヶ月に入っていたと思う。

パンツ脱いで内診代に上がって、両足開いて。
すでに決定している掻爬の前の診察ということで、耐えてました、この内診、とても。

開いた両足の向こうから、はっきりと聞こえてきたことがあった。

「赤ちゃん生きてますよ。だいじょうぶですよ。」

つつーっと涙が後から後から出てきた。
内診代に寝ているもんだから、後から後から出てくる涙は、全て真横に流れて耳に入る。
(この辺が、現実というものが持つ滑稽さも感じるんですけどね)

それからの妊娠の経過は、とにかく全て順調。
さらにまた「事件」が起きていくなんてことは、想像もしていませんでした。

娘が生まれてから、ダウン症の告知だの、先天性の心臓病の宣告だの、早期の手術の必要性だの、重症の肺炎だの、死の危険だの、
まー、医者からいろんなこと聞かされる日々が続くんですが。

でも妊娠当初の「死んでます」「生きてました」の展開のインパクトに勝てるものではなかったですね。
それと「信頼できる医師」のそばにいたかどうかということもとても大きい。

「ダウン症と告知を受けて泣く人」を、ずっと支援し続けてきているのにもかかわらず、恥ずかしいことにわたし自身は「ダウン症」という「事実」には、一度も泣いてないんですよね。
やっぱり、生きていることには勝てないな、と思うな。
ウチ、「一度死んだ子」なのよね。

「平等」

2005年02月05日 | たったひとつのたからもの
ドラマ「たったひとつのたからもの」は、実際にダウン症の子を出演させたことが話題になりましたが、ダウン症の子を「俳優」として使うことは、けして初めてではありません。

10年ほど前に、NHK教育テレビの道徳のドラマで、ダウン症の子が出演したことがありました。
こやぎの会(現日本ダウン症協会)の会報で、放映を知ったのが、見たきっかけだったと思います。

団地に住む、姉と弟。
姉は、このドラマの「小学生のあるクラス」の児童で、弟はダウン症。
弟がラジコンカーで遊びたがっている。
姉の同級生の男の子(団地の子)がラジコンカーで遊んでいる場所に、ラジコンカーを持っていき、仲間にいれてもらいたがる。
姉の同級生の男の子たちは、このダウン症の子が来ると「行こうぜ」と行ってしまう。

ダウン症の男の子は、いっしょに遊ぶ友達がいない。
姉は、ひとりでラジコンカーを使って遊ぶ弟のそばにいてやることの繰り返しの日々。

男の子たちの中の一人が言う。
「○○君は、僕たちと遊びたいんだと思う、仲間に入れてやろうぜ」
これに対して、他の子が言う。
「なんでだよ。××にも弟がいるし、△△にも弟がいる。
 ソイツらもめんどくさいから仲間に入れてないじゃないか。
 なんでアイツの弟だけ、仲間に入れてやんなきゃなんないんだよ。
 それが平等ってモンだろ? 平等。」

仲間に入れてやろうと提案した男の子は、この「平等」という言葉に、何かが違うと思う。
それがどういうことかわからないまま、この男の子は、一人で、「姉」といっしょに、このダウン症の男の子と遊んでやるようになる。

「平等だろ?平等」と言った男の子が、信号のそばで、ある光景を見かける。
信号のある交差点で、おばあさんが青になって渡ろうとするのだけれど、渡りかけて戻ってきてしまう。
それを何度も繰り返している。
この男の子はおばあさんに声をかけられる。
「この信号を一緒に渡ってもらえないか。
 わたしの足では、青の間にどうしても渡りきれない。
 一緒に渡ってもらえれば、途中で赤になっても渡れると思うから。」
男の子は、おばあさんをかばいながら、一緒に信号を横断する。


うろ覚えですが、大筋はこんなところだったと思います。

キーワードは「平等」。
この「全ての人に平等」というのは、ある種の人々にはハンディとなることがある。
ハンディを支援されることで、この、ある種の人々の「平等」は、やっと成立する。
「ハンディキャップ」「支援」「平等」というキーワードをつなげていくという意味では、非常によくできていると、とても印象に残りました。

ここで、ダウン症の男の子が「出演」したこと。
これは、何故?という感じは、少し残りました。
ダウン症の子=「遊ぶ友達がいない」というのは、いささか短絡的かなあと。
そうした疑問と、ダウン症の子=「遊ぶ友達がいない」と例に出されることで、傷ついた親がいたかもしれないなあとも思います。
遊ぶ友達がいるダウン症の子は、現実には少なからず存在しますから。
まあ、「身近に障害児という存在はいるんだよ」という例示と、「実際に知的障害を持つ子を出演させる」という意味では、ダウン症が一番使いやすかったからかもしれませんが。

うちの娘は、小学生のときは、遊ぶ友達というのは存在していました。
高学年になっていくと、同級生と「いっしょに遊ぶ」ことはかなりきつくなってはいきましたが、中学生になった現在でも、地域の公園に行けば、娘に声をかけて「いっしょに遊ぶ」小学生たちに出会うことは少なくありません。

ただ、これは、娘が通う小学校の交流教育が実に豊かで、小学校の中で娘と、娘の呼び名を知らない子は皆無に近かったことも影響しているかもしれません。
この「交流教育」が、このドラマで言う「平等に対しての支援」なのかもしれません。

以前、全盲の方のドキュメントを見たことがあります。
盲学校ではなく、普通の学校に進んだ「彼」。
高校の最後の運動会で、「彼」の友人達が考えます。
「『彼』を思いっきり走らせてやりたい。」
友人達は、「彼」に伴走して走ることを決めます。
伴走する人間が、走る「彼」に向かって、声をかけながら走ることで、彼に「安全圏」を示すというやり方です。
この声かけの言葉は「彼」の名前でした。
「彼」を呼び続ける声に守られて、「彼」は生まれて初めて全力疾走します。
他の同級生たちと同じコース、同じ距離を。

「支援されて」成立する「平等」には、宝が潜んでいるように思います。

みにくいアヒルの子

2005年01月28日 | たったひとつのたからもの
生まれて来たときに。
周囲と違う容貌。
周囲と違う能力。
孤立する命。

アンデルセンの「みにくいアヒルの子」はやがて白鳥になり、白鳥たちといっしょに大空へ飛び立つ。
大空に向かって飛び立つときに、「みにくいアヒルの子」はアヒルたちの中で育った「自分」をどう思うんだろう。
「みにくいアヒルの子」は、アヒルたちの前で「大空を羽ばたいて見せる」ことよりも、本当はもっと欲しいことがあったんじゃないだろうか。

その「欲しいこと」とは。
生まれてきたときに、周囲と違う部分を持った「自分」を、そのままに受け入れてもらうこと。
もし、それがかなったとしたら。
白鳥が大空へ飛び立ったときに、それを見送る「アヒルたち」の表情は、全く違うものになるだろうに。

一羽の「みにくいアヒルの子」が大空に飛び立つ。
その経験を知ったアヒルたちの中に、再度、「みにくいアヒルの子」が紛れ込んだらどうなんだろう。
最初から、「みにくいアヒルの子」が「大空に飛び立つ白鳥」だと知っていたら、その態度はどんなものになるんだろう。
二羽目の「みにくいアヒルの子」は、「将来あなたは大空を飛ぶことができるのだ」と聞かされるよりも、本当はもっと欲しいことがあるんじゃないだろうか。

二羽目の「みにくいアヒルの子」が「望むもの」とは。
生まれてきたときに、周囲と違う部分を持った「自分」を、そのままに受け入れてもらうこと。

21番染色体が2つが当たり前の人間たちの中に、時々まぎれこむ21番染色体が3つの子。
わたしのところに娘としてやってきた、大切な命。
あなたの全てを、そのままに。

「知的障害」というもの

2005年01月15日 | たったひとつのたからもの
先日、娘の通う養護学校に用事があって行ったときのこと。
高等部の廊下に、書き初めがたくさん貼ってありました。
階段を上がって正面だったので、自然と目に入ってきたものです。

いろいろな言葉が書かれていました。
正月らしい言葉もありましたし、好きな言葉を書いたものもありました。
その中で、一段と印象に残ったものがありました。

非常に力強い文字で、

「あんまん」

と書いてありました。

理屈ではなく、ゾクゾクっとするほど「いいなあ」と思うのは、こういう時です。
この文字を書くときのこの方の脳裏はどんなものだったのか、のぞきたくなる。
近づきたくてたまらなくなるのだけれど、どこかきっぱりと、
「わからないヤツは入ってくるな」みたいな感じを持ってしまってみたりもします。
何か、こう、強烈な片思いのような気持ちになるのは、こんな時です。

さて、うちの知的障害児13歳♀は、今日はプラスチックのバットを背中に入れて、家の中を走り回っています。
走りながら、時々立ち止まり、決意に充ちた表情で、時々バットを背中から抜いて振り下ろしてみたりします。
振ったら、後ろに飛びます。
時々、クローゼットの扉を開けて、したり顔でうなづいてみたりしています。

要するに、彼女は「冒険」をしているのです。
黙々と、真剣な表情で。
彼女の視界には、息子がやっているドラクエの画面の中の世界が広がっています。

その様子は、おかしくてたまらないのですが、実に細かい部分も吸収しているのがよくわかる。
イメージを無限に広げられるという意味で、まさに「名優」です。

「障害」という事実を受け入れるということ

2005年01月13日 | たったひとつのたからもの
「あなたの赤ちゃんはダウン症です」
こう言われてから歩む道は、親によって本当に人それぞれだと思う。
合併症により命の危険があるときは、「命先行」になって、障害に関しての衝撃が後回しになることも多い。
後回しになっているうちに、親子の関係の結びつきが強化されて、「事実を乗り越えられる親」になっていることも多い。
医療との行き来で忙しく、その忙しい日々をどうにかこなしているうちに、「事実を乗り越えられる親」にいつの間にかなっていたというケースも少なくない。
幸運にも、合併症というものの問題が少なかった子どもの両親の方が、精神的にきつい時間を送るという部分もある。

「自分が育てることで障害を軽くしてみせる」と情熱に燃える親もいる。
いろいろな努力をすること、し過ぎることの弊害自体もあるのだけれど、それでもそうやって「自分はこんな風に育てたい」という強固な意志で立ち向かっているうちに「障害を乗り越えられる親」になっている場合もある。
また、療育という世界の感覚に違和感を持ち、その違和感の正体を自分の中でさがしていくうちに「障害を乗り越えられる親」になっていることもある。

よく使われる言葉は「わたしは立ち直りました」とか、「立ち直りが早いかどうか」ということだと思う。
まあ、人の心や不安なんてものは、そんなに線引いて「ここまでが衝撃、ここからが立ち直り」なんて言えるものではなく、それなりに引きずりつつ進むものなのではないかとも思うのだけれど。

いろいろな人がいる中で、事実の受け入れというか、「ダウン症です」という告知後の価値観の建設というか、そういうことが長期にわたってできない人もいる。
妊娠期間の終了と共に始まった「事実」に対しての不安が、どうしても消しきれない。
運命というものに対しての「被害者」のような気持ちを、どうしても持ち続けてしまうのだと思う。
それは誰にも責めることはできないし、その人がその人の生きてきた人生から生まれた価値観の中で、必要に応じて少しずつ価値観の修正を加えながら、その人自身が少しずつ少しずつ、何かをつかんでいくことを望むことくらいしか、実は他人にはできることではない。
精神的にそばに付き添い、吐き出される「不安」に対しての「耳」になり、その人の「今」を肯定できるような部分を探す。
好機を見逃さずにつかんで、適切な情報をゆるやかに渡す。
その人に対しての否定は、その人自身が充分に行っているからこその「苦しさ」だと思えば、掘り起こす気にはなれない。

個人差の中で、本当に長い時間がかかる人がいる。
人によっての「必要な時間」の個人差は、子どもの発達の個人差か、またはそれ以上かもしれないとも思う。
それは、人間的優劣ではなく、個人差なのだとわたしは思いたい。
同じ障害を持った子どもの親でも、その人がその立場に立つまでの人生は全て人それぞれで、その中で、「障害との出会い」のたった数ヶ月から数年くらいで、人間の価値が決められるはずもないと思う。
人間というものは、紆余曲折しながらも、意識的無意識的関わらず「前に進みたいと思っている」ということを信じなければならないとも思う。

「不安」や「障害に対しての否定的な感情」を聞き続けると、ともすれば本人の「否定的な感情」に飲み込まれそうにもなる。
「否定的な感情」は、イコールでいえば、自分のところにいる我が子の障害に対しての「否定の姿勢」でもある。
こうした視線が、相手の意図にかかわらず我が子にも向けられていることを感じても、それでも耐えなければ、苦しむ相手には精神的に付き添えない。

関わる相手によって、大なり小なりとエネルギーに差はあるけれども、「なんでこんなに自分はこのことにつき合い続けるんだろう」という理由は、やっぱり「命への祝福」だと思う。
染色体異常の妊娠は、たいがいは胎児よりずっと前の胎芽の状態で流れていく運命。
それが立派にお腹の中で育ち続け、立派にこの世に「命」として誕生してきた結果、その子はそこにいる。

親の不安の「元」になっている、障害をもつ子ども。
がんばれよ、と思う。
アンタのパパやママも、がんばってる。
だからもうちょっと、もうちょっとだけ待っててくれよ、と思う。

だいじょうぶ。
今日、不安に苦しむあなたのパパやママも、きっと素直に笑ってる日が来るから。
そのことを信じましょうね。
信じ続けましょうね。

続:Googleでの検索順位

2004年12月30日 | たったひとつのたからもの
Googleでの「たったひとつのたからもの」というワード検索で、コチラの記事が、また、トップページに落ち着いています。
ドラマ放映からずいぶんたちましたが、DVD発売が決まったようで、また、このワードでの検索が増える可能性も出てきたようです。

検索エンジンのシステムとはいえ非常に残念なのが、長いことこの検索でトップページに表示されていたあるサイトが、表示自体から消えてしまったことです。
個人が持つ「ドラマの感想文」の大群が、このサイトを押しのけてしまったことは、とても残念です。
そのサイトとはWEBリング * たったひとつのたからもの *です。

検索で出てくる順位としては、ドラマ、書籍、明治安田生命CMのオフィシャルサイトがまず出てくるのは妥当ですし、その順位自体が変わろうとも、これがまず検索として上がるのは不動でしょうし、動いて欲しくないと思う。
そして、現在、その次に来ているのが以前、こちらでも紹介した静岡教育サークル/シリウス「たったひとつのたからもの 人の幸せは命の長さではない」
これも高順位は妥当。というより、個人的な意見として、この位置を動いて欲しくないと思います。

個人的な意見として、ですが、高順位に現れて欲しいと思うものが、こころがしあわせになるプログラム「たったひとつのたからもの」です。
自分のところがリンクされているからということではなく、このブログ自体が非常に内容豊かなものであると思われるのがその理由です。

高順位に現れるもので、大量トラックバックを送ったものも出てきます。
非常に失礼な言い方ですが、「この程度の内容でよくこれだけのトラックバックが打てるものだ」とも思います。
まあ、システムがある以上それも自由なのですが、その行動に対してこんな感想を持たれてしまうことも結果としては仕方ないことではないのかな、とも思います。
(勝手ながら、わたしは削除させていただきました)

わたしはコチラの記事で、14件のブログのリンクを貼り、トラックバックを送りました。
自分としては、初めての、たくさんのトラックバックで、非常に緊張しました。
ひとつひとつの記事にコメントを入れるのではなく、トラックバックを入れることで、お気持ちのある方と会話ができたら、という思いでした。
素直に読ませていただいたものもありますし、ふむふむと思うものもありましたし、「ん???」と感じるものもありました。
「ん???」と感じたところに対しては、そこで反論してどうというよりは、トラックバックを送ることで、まず「出会いたかった」です。
その上で、もしも対話をすることができたなら、相手を傷つけずに伝えることができたら、と思っていました。
しかし、この方とは結局対話ができず、今日確認したら、トラックバックを送った記事自体が、ネット上から消えていました。
非常に残念です。
伝えることができたら、と思っていたのは、この方の文章の中の「ダウン症イコール健康に深刻な問題がある」ととられかねない記載の部分に対して、「深刻な合併症の無いダウン症の子どもたちには、普通の子どもと変わらないくらい健康な子も多い」ということだったのですけどね。

2005年の年賀状

2004年12月27日 | たったひとつのたからもの
今年は「娘用」年賀デザインを用意しました。
「娘用」と言っても、娘が書くわけではなく、娘に関する人間関係の方々にお送りする分の専用デザインを作ったということで。
差出人名は娘で、付け足しのようにわたしの名前を添えた「娘用年賀状」です。
娘の「元気いっぱい」の写真と、学校祭に展示された娘の作品の写真をちりばめてみました。
写真に写る色彩を微妙に合わせて、
ふっふっふ、我ながら、いい出来に仕上がりました。

「死にそうだった子どもが生きて育つ写真は何よりの喜び」
とおっしゃってくださった、入院時にお世話になった医師の方々。
乳幼児期の療育でよくしてくださった専門家の方々、
保育園時代に、入園児、在園児にとてもよくしてくださった当時の園長や保育士の方々。
小学校時代にお世話になった先生方。
そして、娘がいなければ知り合わなかっただろう人間関係の数々。
「娘用」のデザイン分は、けっこうな「売れ行き」です。
今年度の入学で、また、人間関係も増え、
住所録に新規で加えなければいけない方々もいらっしゃるのですが、
先日、思いもよらず突発的にお世話になった、
そう、こちらの記事でも書きました高校の校長先生にも出そうかな、などと思っております。
ご迷惑かしら。
いやいや、縁は異なもの、
(そうそう、紛れ込んできた子はこんな子だった)と思っていただければ幸いかな、と。

さて、今年もあますところ、あと数日です。
(その割には、まだまだやること、山積み・・・)

生み出すもの、生まれ出るもの

2004年12月16日 | たったひとつのたからもの
ポプリです。
まあ、きれい。
いや、実はポプリが重要なのではなく、重要なのは「ポプリを入れている陶器」です。

うっふっふっふ。
この陶器、娘が通う養護学校の作業の時間に、「陶芸」として、娘が作って焼いたものです。
「作る」のは娘、それを「使って生かす」のはわたし。
まあ、きれい。まあ、ゴキゲン。
早速「使って生かす」結果の写真を撮り、この写真を「陶芸」の教科担任の先生に贈りました。
「作る」のは娘、そしてそれを「指導・支援」して、「生み出す」ことに加担しているのは先生。
「使って生かす」結果は、先生のものでもあるからね、と思って。

障害のある娘、障害の無い息子。
障害の無い息子が、こうした「作品」を作って持って帰ってきても、ここまで作品に対してわたしが「愛着を持つ」か。
正直なところ、持たないと、思う。
それは、娘の人生のひとつひとつが「支援」で成り立っているからかもしれない。
息子が「作品」を作っても、それは彼の人生の中の、通過の一つのように感じる。
でも、娘が作る「作品」は、関わる「支援」というものとのコラボレーションのようなものを感じるのですよね。

障害を持つ子を育てるというのは、「チームで関わる子育て」の連続かもしれない。
娘が焼いた「お皿」の数々は、お世話になった方で大事にしてくれそうな方に、少しずつお分けしたいと思っています。

Googleでの検索順位

2004年12月15日 | たったひとつのたからもの
不思議ですねえ、Googleという検索エンジンの順位。
ページからページへのリンクの回数が、ページの重要性と計算されるシステムだということですが。

「たったひとつのたからもの」というワードで検索して、Googleの検索で現れるのは、今日現在で7810件。
ある時期まで、「たったひとつのたからもの」というワードでの検索で、わたしのところの特定の記事がトップページに現れていました。
12月6日に、「部分表示」から「全文表示」に変更して数日後に、トップ200件の表示からも消えました。
これは「部分表示」と検索順位 という自記事でもふれたように、クリック一回分が減ったことで、ページからページへのリンク回数が半減したことが影響したと解釈していました。

それが、昨日見てみたら、また出てきているのですよ。
Googleでの順位なんぞ、毎日チェックしてるわけでもないので、はっきりといつからかはわからないのですが。
2ページ目のトップに出てくるという、「返り咲き」状態になっています。
「消えた」のは、見間違い?
いや、ちがいますよ。
こんなに簡単に影響するんだなあと思って、何度も確認しましたから。

記事限定のアクセス解析の結果は、非常に興味深いです。
安定したアクセス数をキープしていながら、コメント等の反応は皆無です。
ブログというより、ウェブサイトとしての動きをしているように思います。
半月の間に、10種類の大学、5種類の専門機関からのアクセスが記録されています。
もちろん、個人情報のひとつなので、大学名を出すことはできませんが、その大学たるや、そうそうたるものです。
国公立が、多い。
これがこの、「たったひとつのたからもの」というワードが投げかけるものの大きさなのでしょう。
このことを考えると、Googleの順位の「返り咲き」は、おおいに喜ぶべきものかもしれません。

実は本人は「喜ぶ」というより、かなり冷静な客観視という部分が大きいのですけれどね。
前記事で記載した文章を再び引用すれば、
この記事と、このカテゴリで書いた記事群と、そしてコメントをいただいた方と作り上げたものに関しては、検索の順位とは無関係にその内容には自信を持っていますし、持ち続けるだろうとも思っています」から。
そして、この記事群のアクセス数にかかわらず、この記事群で自分が得た充実感は、変わらずに消えないと思っています。

「部分表示」と検索順位

2004年12月10日 | たったひとつのたからもの
12月6日に、「部分表示」から「全文表示」に変更しました。
記事の全文を読むのに、クリック一回、無くなったということになります。
そして、たったこの3日後に、大きく変化がありました。

今までGoogleで「たったひとつのたからもの」と入れて、必ず一ページ目にぽんと現れていたこの記事が、多くのブログ記事の中に、完全に埋もれ、検索で表示させるのがとても困難になりました。
この記事につけたアクセス解析の数値を見ると、実際にこの記事を閲覧する人の数は、この3日間で大きな変化は出ていません。
ロボットエンジンによる検索サイト、たった一回のクリックの減少が、本当に大きく影響するのだなあと実感しました。
Googleの検索で探し出すのが難しくなった以上、今後はアクセス解析の数値も激減していくことでしょう。

では、「部分表示」を「全分表示」に再び戻すか。
これは考えていません。
このドラマと特別編の放送、そして高視聴率であったことからの話題性。
そうした「好機」にのって、やるべきことはやったという感覚が、今はあります。
一度転落した「検索上の順位」を、再びがむしゃらに上げようとすることは考えていないのです。

このドラマの感想に関して、「泣いた」という「報告」だけの記事ではなく、ここから考察しようということを考えたことが見受けられる充実した内容のブログ記事に、自分のところのリンクが貼られたものがいくつかある。
今はそれだけで充分に満足です。
検索で高位置に上がらずとも、もしも訪問者があったなら、そのことの方が、きっと縁があることなのではないかとも思いますし。
また、この記事と、このカテゴリで書いた記事群と、そしてコメントをいただいた方と作り上げたものに関しては、検索の順位とは無関係にその内容には自信を持っていますし、持ち続けるだろうとも思っています。

いつか再び、「好機」と考える機会が来たときには、テクニックとして「部分表示」に切り替えると思います。
これが「テクニック」としてわかったということでは、大きく収穫だったな、というのが実感です。

「朝の出会い」

2004年11月25日 | たったひとつのたからもの
今朝のこと。
通学中の娘が、駅の階段を下りていくときのこと。
階段を上る、ある男性が娘に向かって、
「やあ、おはよう」と。

男性は階段を上り、
階段の上の隅に隠れて、娘を見守るわたしを発見。
わたしを見、ふり返って娘を見、一言。
「毎日、がんばってるね、あの子」
「はい、ありがとう」とわたし。
そして、男性は改札へ。

わざわざ言わないけれど、思ったこと。
ありがとう。
今日だけではないのですね、出会っているのは。
「毎日」という言葉で、それがわかる。
娘、知らん顔して、ごめんなさいね。
それをそのままにしているわたしを、あなたはどう思うのかしら。
ダメなのよ、
まだ、あなたはあの子に「知ってる人」と認知されていない。
もう少し、「おはよう」を続けたときに、
認知するかどうかは、あの子が決めるでしょう。

ごめんなさいね、
あの子が自分自身で「知っている人」と認知しなければ、
わたしはあの子に、あなたにあいさつをして欲しくない。
なついて欲しくないのですよ、
だって、あなたは「知らない人」だから。
あの子は女の子なのですよ、そしてあなたは男の人。
あの子は女の子で、そして女性の体を持ち始めている。
あいさつしてくれる人全てに愛想よくしていたら、
わたしはあの子に、一人歩きをさせられない。
あっという間に、お腹が大きくなってしまうかもしれない。

あなたがあの子に関心を持って、あいさつしてくれるのは、
あの子が「ダウン症児」だと、
「知的障害児」だとわかるからかしら。
だから関心を持って、あいさつをしてくれるのだと思う。
でも、あの子にとっては、
あなたに関心を持つ理由が無い。

わたしはあの子の、その「無関心」を、
成長の証と、喜ぶのですよ。
幼児のときは、自分への「関心」を
素直に喜ぶだけで、
子どもらしく、笑みを浮かべてあいさつに応える、
それだけでよかった。
わたしはそれを、微笑みながら見ているだけで、
それだけでよかった。

でも、今は違う。
わたしはあの子を「大人」にしていかなければ。

「やあ、おはよう」
もしもあなたがそのおつもりなら、
あの子を朝、同じ場所で見かけたときに、
今と同じように、そう言ってやってください。
あの子にとって、「知らない男性」が、
「朝、見かける男性」として、
あの子自身が選ぶかどうか、
その判断を、あの子に任せてやってください。
危険ばかりの世の中だけれど、
あの子の「知らない人」を「知っている人」にしていく自由までもを、
奪いたいとは思っていない。

心配だけれど、
実はそんなに心配でも無い。
あの子が人を見る目があることは、
わたしがよく知っていると思っているから。

だから、
もしもあなたが今のままのさりげないあいさつを続けてくれれば
あの子があなたを、
「朝、見かける男性」として、きっと認知すると思うから。