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さて、今回の「批判や反論にどう対応するか」というテーマについて、非常に充実した内容のエントリーからのトラックバックをいただきました。はっきり言いまして、今回はリンク先を読んでいただければ、私の方から申し上げることはございません、というくらい本当に充実しています(多少、蛇足はありますが)。
今回は「ブログにおける議論のあり方についてのまとめ記事」風でお届けしたいと思います。ぜひぜひリンク先をじっくりお読みください。
ブログにおける議論(批判・反論)についての論考集
●議論における心理・心理状態に基づく分析
・《
考える脳髄プラスα - ブログにおける議論の促進と抑制の原理》……ネットでの議論において働く心理についての極めて詳細な論考。必読。
・《
他人の不幸は蜜の味:「批判や反論……オトナの対処法は?」正式出品作品》……日本人はなぜ議論が苦手か、そしてその乗り越え方。
●議論・ディベート術という視点からの分析
・《
不倒城: ブログと議論のエトセトラ》……ディベートの技術を踏まえて、悪口と批判の違い、議論下手の理由について。
●ブログというメディアの特性からの分析
・《
Pon》……ブログ特有の性質をもとに問題点を「ブログで扱う情報量の少なさ」「公開した文章に対する姿勢」「無意味なレッテル貼り」と分析
・《
その批判・反論はなぜ書かれたのか? :小林Scrap Book》……寄せられたネガティブな反応の3タイプ(正当な反論、自分の失敗への反応、相手が電波)と、それぞれに応じた対応法
●具体的な経験に基づくブログ上での対処法分析
・《
むだづかいにっき♂:批判や反論……オトナの対処法は?》……これまでの経験に基づく反論への対処法
・《
あれとかこれとか (Lefty):結構打たれ弱いからな…。》……同じく経験に基づく考え方
上記記事からのポイントまとめ
以上、非常に興味深い内容で、ブログやネットだけにとどまらず、一般的にどうすれば上手な議論ができるのか、ということも見えてくるように思いますので、じっくり読んでいただければと思います。
その中で、共通見解として見られた部分を、強調する意味も込めてここに一部引用してまとめてみたいと思います。
●議論はすべて決着がつけられるとは限らない
“実際には、『どちらの立場に立っても意見を述べることができ、ある程度、反論に堪える根拠を提示できる政治・経済・歴史解釈・倫理道徳などの問題』を巡って説得力・信憑性の大小を競い合っているものが多い”《
考える脳髄プラスα》
事実関係の真偽という白黒のつく話題もあることはありますが、世の中には議論で決着のつかないものは多いと思います。だから、「自分はこれが好き・嫌い」「こちらの方を選ぶ」という立場を鮮明にするのが限界で、それと違っていても「相手が間違っている」とは言えない議題が多いですよね。事実と意見(あるいは好き嫌い・選択)を分けて論じないと議論が紛糾します。私は豆乳が好きで納豆が嫌いなのですが、これが正しいとか間違っているとかいうのはまさに不毛でしかありません。
この点を発展させて考えると、「議論は勝ち負けではない」という結論に至ります。この点については、今回意見を寄せてくださった皆さんの共通認識のようですね。
●議論は勝ち負けを競うためにするのではない
“そのコメント(※議論にならなくなる批判コメント)の目的・意図は何かというと。「『お前はバカ』だということを認めさせる」「『お前の考えてることはおかしい』と認めさせる」このいずれか、というか両方です。”《
他人の不幸は蜜の味》
“批判というのは、相手に勝つか負けるかではない物だと思います。相手をこてんぱんに叩きのめすのではなく、時には相手の意見を取り入れながら、互いに成長するためのものであるはず”《
むだづかいにっき♂》
“とりあえず気をつけているのは「言い負かそうとしない」ことくらいでしょうか?
「妥協点を見つける」ことと同様に、「双方が譲れない点を確認する」というのが
私は議論の目的だと思ってます”《
あれとかこれとか(Lefty)》
“「相手を打ち負かしてやろう」という意識が心のどこかにある為に、「ブログ」という立地を利用して、まず「弱点」から探してしまっているのではないかと考えられるのである。これはおそらく「議論下手」の重要な要件だ”《
不倒城》
“「私とあなたの考えていることは、こう違う」ということをまずわからせなければいけない。それが「バカ」とか「おかしい」ではなくて、単に「違う」だけだということを、わかってもらわないといけない”《
他人の不幸は蜜の味》
このあたり、本当にそうだと思います。私も、自分の言いたいこととずれたことについて一生懸命答えろ答えろと言われるので、それは無視していたら「ほら、答えられない。逃げた。お前が間違っている。素直に認めろ」と言われたこともありますね。
●具体的な対応法
1:何らかの意見、提言に対する反対意見があった
1のケースに限ってオトナな対処法を考えれば、個別に返事を書くことはせず、批判や反論の論旨をまとめて、簡単な内容ならまとめてコメントで返すか、新たに記事を書いてまとめて答えるのがスマートでしょう。《小林Scrap Book》
これは私もよくやる方法です。コメント欄では些末な部分についての反応にとどめ、きちんとまとまった形で新たに記事を書くことが多くなっています。それは、コメント欄でのやりとりはどうしても本題・趣旨からずれたところでの細かな指摘が増えるような気がするため、ある程度まとまりのある文章で正確に理解してもらいたいと思うからです。
●蛇足:意見への批判と人格批判
今回寄せていただいた内容に少しだけ補足するとすれば、
「自分の意見を否定されると、自分の人格すべてを否定されたように感じてしまう」
という人が案外多いのではないかという気もしています。
ある人の考えていることについて批判することと、その人そのものを批判することは、本来はまるで別のことのはずです。しかし、それが混同され、意見と意見の対立ではなく、人と人との対立としてとらえられるところから、不幸で不毛な議論が始まることも多いように思います。そして、陣営が生まれ、レッテルが生まれる。
あと、もう一つ、経験的に。
「荒らしは放置」というのは基本原則に近いものがありますが、逆に、粘着・荒らしのような人に対しても友達のように親しげに話しかけていくと、お互いに打ち解けてしまうということもあります。ネット上の文字だけだと冷たく感じることもあります。悪意もなかったのに、ちょっと表現がまずかったために真意が伝わらなかったという場合だってあるわけです。また、本当に悪意をもって書いていたとしても、実はかまってほしかったとか、寂しかったという人もいますね。
「北風と太陽」路線もありえるということを補足しておきます。
それではまた明日。