S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

「たったひとつのたからもの」:障害児が一人で歩く光景

2004年10月30日 | たったひとつのたからもの
「たったひとつのたからもの」
高視聴率を記録したようですが。

ブログ内で山ほどあるこのドラマの感想、
なかなか読み切れません。
限られた時間の中で、コツコツ読んでいます。

TBをいただいたお揃いの思い出♪「たったひとつのたからもの」に飛び、
TB表記に並んでいたところに飛びました。
以下、thinking,singing「たったひとつのたからもの」を読んで思うのですが。

この方の感想には、
ドラマの中の主人公がひとりで信号のある交差点を渡るシーンに関しての記載がありました。
ああ、印象に残ったんだな、と思った。

あのドラマの中で、あのシーンがあったこと、これはとても貴重なことだと思った。
いろいろな経験を積ませながら、
少しずつ少しずつ、本人の「生活力」を上げていく上で、
慣れた道の一人歩きを完成させていくことは、
そのこと自体の獲得に加えて、
本人に自信を持たせていくという上で大きなこと。
それを「見せて」いるという意味で、大きいと思った。

娘が小学校に通う上で、
入学からしばらくは学校まで送迎をしていました。
それから、少しずつ、行き帰りの道で、「途中まで」のポイントを作り、
本人に気づかれずに陰から見守る時間を経て、
本人だけの行動に結びつけていました。
そうやって、頑張っている親は多い。
隠れる場所は、よそのお宅の玄関先の電信柱だったり、
駐車場の車の陰だったり、
見ようによっては、思いっきり「不審者」になります。
学校に連絡が行くこともあります。
「お宅の障害児学級の子どもが親無しで歩いていた、
 危険ではないのか」と。
もちろん、こうした行動は、常に担任と相談しつつ進めることでもあり、
学校側はきちんと説明をしてくれていたようです。

事故に遭う危険という問題もあります。
充分にその場の能力を確認した上で、親の手をはなし、陰から見守る。
間近でばかり見てられませんから、事故に遭う危険もあるでしょう。
それでも、例えば、こういう場合、
どちらに保護者への非難が集中するでしょうか。

「普通の子が友達とふざけながら道路を横断して事故に遭う」
「ダウン症の子が安全確認をしながら渡り、
 スピードを上げて走ってきた車の行動に瞬時に対応できず事故に遭う」


少しずつ少しずつ、慎重に進めながらも、
こうした事故に遭う可能性はいつでもあると思う。
その場合に、
「こういう子を一人で歩かせたから事故に遭うのだ」
と運転者側に言われる可能性を、いつもどこか覚悟しているのが現実です。

娘は今、電車を乗りかえ、養護学校の中学部に通っています。
家の近くに来るスクールバスを使うという選択もありましたが、
社会経験と、本人に自信をつけさせる目的で電車通学を選びました。
一人で歩き、定期券を使い、電車に乗って行動する。
たくさんの人たちの目にふれながら。

「たったひとつのたからもの」の放送の翌日、
駅の柱の陰で、電車に乗っていく娘を見守りながら、
(昨日、テレビであの番組を見た人は、
 こうやって大きくなっていくのだなあと思ってくれるのだろうか)
そんなことを思っていました。

*写真は、登校中の「隠し撮り」です。

トラックバック
thinking,singing「たったひとつのたからもの」

「たったひとつのたからもの」:感想

2004年10月27日 | たったひとつのたからもの
「たったひとつのたからもの」放送ということで、
ブログというのは、ナマで個人の反応を見られるという
貴重な媒体だなあと実感しました。
なにしろアップが早いですから。

さて、gooブログの新サービス「トレンドランキング」
今回、大活用させていただきました。
時事ネタに近いとこで出てきてますから、この番組。
今日中に、もう少し増えるのかな。

ドラマの感想としては、
全体としては、好感、かな、と。
「どっぷり泣きたい」人には、やや物足りなかったかな、
と、思えるようなさらっとした作りになっていました。
いいですか?ここで泣かせますよ~~的な演出を
前面に出していなかったということに対しての好感です。
明治安田生命CMで使われた小田和正の曲も
使われ方が最小限で、これも好感。
(いや、曲はいいんですが、曲の使い方というところで)。
このドラマの大きなテーマである「短くてもイキイキと生きた命」
という意味では、
ダウン症の子どもの好演に勝るものナシ、という感じでした。
要所要所でダウン症児・者を使った演出に敬意です。

このドラマの中で、
先天性心疾患を持ったダウン症児の親としての自分が見て、
共通点のある経験ももちろんあるわけで、
出てくるシーンに、
ああ、あるある、も、もちろんあるんですが、

あ、それ、ないない
(手を振って、言う感じ)

ってのが、いくつか出てくる。
コレに対して、
「まあ、短時間で見せるためにはしょうがない、か、ねえ」
という妥協点を感じる。
「見せるためのものだから、理解を容易にするためには
 仕方がないか」と、そう思う。

代表的なのが、
両親が、ダウン症、そして心疾患の告知を受けて
衝撃を受けているシーンで、
ダウン症の赤ん坊がきゃっきゃと笑う。
「ほら、あの子、笑ってるわ」というシーン。

あ、それ、ないない

生後一ヶ月くらいで、きゃっきゃなんて笑ってたら、
誰も苦労しませんって。

あ、それ、ないない

子どもの状態にもよりますが、
たいがいのダウン症の赤ん坊は、
生後一ヶ月は「昏睡状態」に近い。
よく眠る、おとなしい、手がかからない赤ん坊、
泣き声もか細く、ミルクを飲むだけでも、
たいがいくたびれきって眠ってしまいます。
夜中に大きな声で泣く元気がある子はあまりいない。
しかも、重度の心疾患で、肺高血圧症の状態ならあり得ません。
だからこそ、苦労する。
手がかからずに、こんこんと眠り続ける赤ん坊、
母親の頭から消えない「ダウン症」という言葉。
手がかからないからこそ、頭はそれでいっぱいになる。
反応が乏しい赤ん坊を抱え、
だからこそ、特に生後半年くらいの間は、母親にとって、
精神的にとても厳しい時期になることが多いです。

衝撃を受ける両親、
「あ、この子、笑ってるわ」

あり得ない!
そんなに簡単にそんな反応が見られるんだったら、誰も苦労しない!

でも、「ドラマ」としては、わかりやすいんでしょう、この展開。
はい、目をつぶりましょう。

と、いう感じがしました。
似たようなところは随所にあった。
でも、主役の男の子を含め、
様々なシーンで好演を見せていたダウン症児・者の姿が
いきいきと映されること、
そのことはとても大きかったと思う。

ただし、
さて、身近な現実、というときに、
困った落とし物という部分を感じたところもいくつかありました。
例えば、最も大きなところでは
この両親の「否定期」が短いこと。
障害の受容に対してかかる時間は、全くの個人差があり、
早いからいい、遅いから悪い、と一概には言えない。
一般に、命の危険がある子の方が、命中心になり、
否定期が短くなる場合もある。
このドラマを見た人が、身近にいる、または出会うダウン症児の親、
特に「否定期が長め」の人に対して非難の目を向けないこと、
ドラマの頑張りを、安易に求めないことを祈ります。
なにしろこの作品は、
親が衝撃を受けるところ、障害の受容に向かう経過で、
かなりの経過、かなりの時間を吹っ飛ばして作ってありますから。
そして、最も小さなところで言えば、
このドラマで出てくる、先輩ママが使っている
ダウン症児に対しての「ダウンちゃん」という呼称。
コレはダウン症児の親の中でも、意見が分かれるものですが、
わたしはこの呼称、「嫌い派」です。
ただ、好んで使う派は多いので、
「嫌い派」は、黙ってそれに甘んじる傾向はありますが。
このドラマで、「先輩ママが使っていた」からといって、
安易に使って欲しい呼称とは思えない。

それでも、この話題作が、一般社会の小さなシーンに
生かされていくことを望みたいと思う。
ダウン症だけではなく、障害を持った子どもはどこにでも生まれる。
生後すぐに命が危ぶまれる子どもはどこにでも生まれる。
そのことを身近に感じる人が増えてくれたら、
とも思います。

最後に、このドラマの最大の感想は、
明治安田生命のCMで使われた
「父親が息子を抱きしめる」一枚の写真に勝てるものではない
ということでした。
あの写真は、全てを物語るのにふさわしい、すばらしい写真だと思います。
ただし、あの写真を発端にして広げることで、
いきいきとした「秋雪くん役」を演じた子どもが
人々の脳裏に焼き付いたことを喜ばしく思っています。


*トラックバック*
1.関連記事
gooブログ スタッフブログ「トレンドランキング等機能追加のお知らせ」
自記事「たったひとつのたからもの」

2.前記事にトラックバックをいただいたところ
OUTER HEAVEN 「10月26日 特別視」
レッツ エンジョイ オサレライフ!「生まれてきた子供がもし・・・」

3.「gooブログ・トレンドランキング」や「ブログ検索」より
 「泣いた」以外の感想が記載されているところを基準に抽出。
・お揃いの思い出♪「たったひとつのたからもの」
・世の中は不思議なことだらけ「たったひとつのたからもの」
・+腐るか実るか石榴「たったひとつのたからもの」
・♪映画日記♪「たったひとつのたからもの」
・ichiの備忘録「ドラマ「たったひとつのたからもの」
・ 心に残る走馬灯「たったひとつのたからもの」
・ cizzz's daily life「たったひとつのたからもの」

*10/28 追加TB
・美トイレ推奨します「たったひとつのたからもの」
・ちんたら日記「『たったひとつのたからもの』を見た」
・あっきーはうす「たったひとつのたからもの」
・ねこまんま「 母は強しって言うけれど…」

皆様の記事を全て、とても興味深く読ませていただきました。
ありがとうございました。
簡単な自己紹介ですが、
「生後すぐに命の危険にさらされたことがあり、
 生後3ヶ月で手術経験を持つ、現13歳のダウン症児の母」です。
手術の内容は、心室中核欠損症、動脈管開存症、気管支狭窄処置、でした。


*追記*
検索でこのページから入られた方、どうぞこちらにもお進み下さい。


「たったひとつのたからもの」:ドラマを見る前に

2004年10月26日 | たったひとつのたからもの
今晩、「たったひとつのたからもの」を見ようと思います。

わたしは本来、演出意図が匂う「半ドキュメンタリー」は
あまり好きではありません。
そして、「感動」を最初から意図して狙ったドラマも
あまり好きではありません。

障害者もので「ダウン症」を扱ったものは、
たいがい、最初から「愛」と「感動」を仕込んであります。
「感動のスイッチ」が用意されているというような感じです。
そのことも、あまり好きではありません。

ダウン症であるうちの娘は、
この、周囲の「感動のスイッチ」を知っています。
運動会の徒競走は、
自分だけ別の注目を受け、自分だけに再度テープが用意され、
自分だけ特別の拍手を受けることに慣れっこになっていました。
小学校の高学年の頃から、やっと、
「自分の力で走る」ことを主目的にし始めました。
普通の子なら、当たり前の主目的です。

演出意図の匂う「半ドキュメンタリー」や、こうしたドラマには
「愛」と「感動」の起承転結が仕込まれているようで、
見た人は、「結」で終わってしまうような気がすることも
あまり好きではない理由です。
「障害児」や「障害」を取り巻く周囲にとって、
「結」で終わりということはありません。
こうした「結」に酔いしれる人、
「五体不満足」等を熱心に読む人、
そういう人が、
そういう人の実際に身近にいる障害児・者の理解者でいるとは
限りません。

「感動」で、障害児・者に対して「頑張り」というものが、
暗に押し付けられていくようなことも、あまり好きではありません。
がんばらない障害者や、ナマケモノの障害者がいたっていいと
思います。
人間には「がんばらない自由」があって、
そして「がんばる自由」があるはずです。

ドラマで取り上げられている「ひとつの命」を否定する気は
さらさらありません。
子役として出演する子どもたちにも、応援を送りたいと思います。
全て、それとは別の次元でのことです。

以上の理由で、いつもはこうした番組に関しては
「知らん顔」を決め込むのですが、
今回は、ビデオ撮ります。
昨日、10歳の息子と話しました。

「あなたが生まれる前に、あなたの両親が経験したこと、
 このドラマを見れば、
 ただ、両親に聞かせられるよりも、わかりやすいかもしれない。
 明日見る? それとももう少し大きくなってからにする?」

「明日見る」と、彼は答えました。

4年前に、6歳で亡くなった、息子の友達。
この子も心疾患を持っていました。
このドラマを見ると、
その子のことも、きっとよくわかるだろうと言いました。
息子はわたしの話を聞きながら、
目を赤くして、すっと涙をこぼしました。
彼が生まれて初めて出た「告別式」から4年、
息子にとっても、「死」という意味がよくわかってきたようです。
生後すぐに、死の瀬戸際に落とされたことのある姉、
姉の胸にある、大きな手術痕、
このことをまた、
きちんと理解できる年齢になってきたのかもしれません。


*追記
ダウン症児が出てくるドラマでは、
以前NHKで放送されていた、
「コーキーとともに」(原題「Life Goes On」)
が秀逸でした。
再放送しないかな、と思います。
アレは何度も放映して欲しいと思います。
内容は「ダウン症の子どもがいる家庭のホームドラマ」です。

庭木4

2004年10月26日 | つぶやき
枇杷です。
植えてません。
食べた後の種、投げただけです。
4年経過か5年経過か、忘れました。
今、花が咲いています。
来年には、初めての実がなりそうです。

迷惑メールに関する記事の総括

2004年10月19日 | 迷惑メール対策のお勉強
8月に入ってすぐくらいから、
妙なメールが入り始めました。
未知の女性からのもので、文面は以下の通りです。

件名「メールもらったので返信します」
私のパソコンに件名も本文も書いていないメールが来たので
とりあえず返信してみました。
私は 女性で渡辺と申します。間違いだったらごめんなさい


これは、今となっては、あまりにも有名な
「渡辺春香メール」の受信の始まりでした。
このメールに対して、好意的な返信を行うと、
それから長い、彼女の「人生相談様ストーリー」が開始され、
最終的には出会い系サイトの登録に持っていくというものです。
全く同文で使われる名前には、「渡辺春香」の他に、
「山本茅乃」という人物が出現していることも、
今となっては、有名な話になりました。

わたしが「渡辺春香」を受信したのは
このメールが大量発信された初期だったようで、
この「渡辺春香」の第一通目を受信したときは、
はっきり言って、この相手に対して、
あまり疑いというものを持ちませんでした。
ただ、これだけの短文で、安易に返信をしてもと思いつつ、
そこまで疑うのも、ネット社会の「防衛」に、
人への信頼感が毒されているのではないかとさえ思いもしました。

とりあえず、そのメールを
「後で返信を入れよう」と思っているメールを入れるフォルダに突っこみ、
時間が経過していく間に
「返信もしていないのに、
 こちらが返信をしたことが前提の不思議なストーリー」

が連打で始まっていきました。

おや?と思い始めたのは、やっとここからです。
検索にかけようと思いつくのにも、少し時間がかかりました。
そのくらい、この展開に唖然としていたと言えると思います。

そしてやっと「渡辺春香」で検索すると、数件の情報が出てきました。
8月頭時点では、まだ検索でも数件で、
その大半が、「返信をしてしまった」というものでした。
そして、全く同文の「山本茅乃」が、
わたしの使用するアドレス宛に送信され始めました。

この頃は、まだまだ、検索では情報が少なかった。
そして、情報提供と自分の考察のために、
このブログを開設していった展開です。

不思議な女性からのメールは、
その内容も徐々に多様化しつつ、増え続けていきました。
そのひとつひとつを列挙しつつ、
それと併行して考察を重ねていったのが、
「迷惑メールに対してのお勉強」というカテゴリーです。

8月、「渡辺春香」メール大量発信の開始、
この頃から、出会い系サイトの広告は
爆発的に量が増えていったような気がします。
人の善意を引き出して、途中からスケベ心を引き出す。
そうした、「善意をスタートに開始する」悪質なものは
直接的な「出会い系サイト広告」に変わっていったようです。

自分が受信した迷惑メールの情報というものは、
ネット上に「晒して終わる」ことは、主目的にするべきではないと思います。
その対応、そして個人の受ける迷惑の「その先」を考えた対策、
そうした方向に、受信した本人自身が向かうかどうか。
そのことこそが、大切なのではないかというのが、
わたしの一連の経験の結論です。
今でももちろん、迷惑メールが入り込んできますが、
今では常に、
迷惑メール撲滅私的調査会
というサイトを指針にしています。
また、このブログを開設して、
いろいろな方に、考察することを助けていただいたと感謝しています。

「晒すこと」だけを主目的にするような個人のページが増えてきた現在、
わたし自身は、一連の迷惑メールに関して
自分に結論が出たということで、
「晒すこと」、その傾向をあおる一つになる可能性のある記事は
ここで、全て、下げることにしました。
迷惑メールの情報を検索するために、
わたし個人は、ヘッダ解析で出てくる情報を検索にかけるという方法を取っていたので、
そうした情報も表示させていましたが、
個人情報の漏洩という意味で、
どんな風に、誰に影響がいくかわからないという危険性を
再考する必要性も感じました。
そこで、表示を残したこの種の記事から、
該当する部分を全て削除しました。

インターネットというものは、
小さな発端から
誰かにとっての大きな加害者になるかもしれないという、
そうした危険に富んでいる部分があると思います。
そのことに対しての感性というものが、
いつも必要とされているのかもしれません。

えっけんさん「スパム晒しの是非」にトラックバックです。

WEB素材配布サイトから見えること

2004年10月17日 | インターネットと子どもたち
この実にかわいらしいハロウィンのイラストは、
"LITTLE HOUSE"というサイトの素材です。

素材を配布しているサイトは、ほとんどのところにおいて、
使用規定というものが、
かなりのスペースを割いて記述されています。
これは、著作権を無視した素材の悪用が絶えないという
現実からなのだと思います。

さて、この"LITTLE HOUSE"というサイトですが。
こちらは使用規定の記述の中で、

「小学生のみなさまとその保護者の方へおしらせ」

というページが用意されています。
(残念なことに、ちょっとこのページの入り口がわかりにくい)

私がいただいた「ホームページへの感想メール」で、
最年少の方は小学3年生です。
そのためこのページは小学生のお子さま向けに作りました。

(本文から引用)

小学生にネット上で配布される素材の使用に関してのルールを
直接子どもが読める形で教える、
子どもとインターネットの現状はここまで来ているのだという
現実がここにはあるような気がします。

子どもとインターネットという関わりの中で、
様々なルールやマナー等の問題があるのだと思いますが、
インターネットと関わる以前に、
家庭の中で、
どのくらい「ありがとう」の心が育てられている子どもなのか、
そのことが、いろいろな局面で、
キーになっているような気がします。
この「素材使用に関しての記述」も、
「使う素材の作成者にありがとうの気持ちを持つ」
ということが、素直に理解できる子どもなら、
問題なく理解できることではないかと思うからです。

また、インターネットは、
人との関わりということが常に出てきますし、
見えない相手に対しても、
人を大切に思うという気持ちが自然に持てるかどうか、
そういうことがいろいろな局面の中で、
重要な働きをするような気がします。

問われているのは、機械ではなく、
インターネット自体でもなく、
人間が育つ原点のあり方かもしれないと。
そこが薄い人は、大人であっても、
インターネット上で、トラブルを起こすことがあるでしょうし、
そこが充実して育っている人間は、
トラブルに際しても、
きっと乗り越える力を持っていくのではないかとも
思うのです。

「長文、すみません」

2004年10月17日 | ○○さんにトラックバック!
HPの掲示板や、ブログのコメント欄といった、
投稿の場においての「長文」の扱いに関しては、
自分の管理する場と、他者が管理する場と、
違ってくる部分があると思います。

HPの掲示板でも、ブログのコメント欄でも、
それは、その管理人の「家」と、わたしは考えます。
家の応接間で誰と話していても、
それは「二人だけ」ということではなく、
第三者の目にふれるものです。
管理者の投稿、管理者のレスポンスは、
その家の「色」のひとつでもある。

だから、自分の「家」の場合は、
自分のレスポンスに関しては、
常にその場での「自分のコンテンツのひとつなのだ」と、
わたしはずっと意識してきました。
両者の会話であって、実は両者だけの会話では、無い。
直接レスポンスをする相手に不快感を与えても失敗なんだろうし、
そのレスポンスを閲覧する人に不快感を与えても失敗なんだろうと。
これが見えた場合は、早めにあやまるしかないだろうなと。
ただ、「家」のポリシーに沿った結果の場合は、
いたしかたないと割り切るしかないこともある。

人の「家」に訪問する場合、
管理者と訪問者の「会話」を閲覧するだけで終わることは
よくあります。
その管理者のレスポンスは、閲覧する場合においても
その場で会話してる人間とだけの会話だとは思っていません。
自分が登場しなくても、
すでに書かれていることで、
「自分の思いの代弁」と感じるケースもあるだろうと思う。
「そうそう」と思えば、
それで、参加しないで終わるというケースもあるはずです。
それでも、形として出ている会話は、
それなりの興味を持って読むことも多い。
「訪問」というのは、けして「参加」だけではなく、
むしろ「閲覧」の方が数は多いものだと思いますし。

他者の「家」で、長文を残す場合、
その「家」の主が、
「自分の意に沿わないことを長々と書かれた」と思うかどうかは
その「家の主」ではないと、実はわからない。
また、「その家の主」を見るために、閲覧している人が
「コイツ迷惑だな」と思ってるかどうかも、
表面上ではわかりません。

「長い」と、家の管理者が思った場合、
「長いよ」と相手に言えるかどうかは、
両者の関係というものが関わってくる。
ただ、その両者の関係というのは、
両者において、意識の誤差が出てくるのはよくあること。
管理者の口を手でふさぎ、管理者が言いたいことが言えない状態で、
訪問者が「人の家で長々と歌う」ということも、
またはその逆も、ケースとしては存在するわけで。

ネット上で「いい人」ばかりが目立つのも、
相手に対して迷惑を感じたときに、
「それをはっきりと口に出すのは難しい」、
ということも関わってると思います。
ネット上でこじれた場合というのは、修復が大変です。
修復回避は、相手に対しての好意という場合もありますが、
イコール好意ではないこともある。
耳に優しいコメントでも、
どこか相手の口をふさいだのではないかと、
考えた方がいいケースもある。
また、はっきりと口に出す人に対して、
そこに悪意を安易に感じることも、
それは軽率な判断だったり、時期尚早だったりすることも
ネット上では多いと思う。

最後は、「見えない相手」に対しての信頼を持つかどうか、
そういうことが関わってくるのかもしれない。
自分としては、基本的なとこで、
相手に対しての信頼は持ちたいと思う。
そうでなければ、ネット上の出会いと会話というのは
難しいよね、ってとこもありますしね。

人の「家」に訪問して、
長い文を残す場合に
「長文ごめんなさい」と言うこと、
これは、わたしは「アリ」です。
少なくとも、わたしの場合においては
「ごめんなさい」は、
管理者と、その「家」の見えない訪問者の両者に対して、
「ごめんなさい」と言っているつもりです。
「ごめんなさい」を言わなくてはいけない線なのかどうかは
管理者でなくては、本当のところはわからない。
だから、とにもかくにも、
相手に対して謙虚な気持ちはあるのだと、
もしも意に沿わなかったら、申し訳ない、と。
そんな気持ちで「長文ごめんなさい」と言うのは、
自分の中ではありますね。

また一般的に、
長文傾向のある人の「家」では、長文は問題なく許可され、
長文を避ける人の「家」では、長文には配慮が必要ということは
あるかもしれないと思います。

えっけんさん「こんなコメント、ちょっとビミョー」
トラックバックです。
ちなみに、えっけんさんのところで
「長文すいません」と言うのは、
彼のところに訪問しながら、彼の要素が見えていない、
そんな意味合いが入ってくるような気がして、
逆に失礼かな、と思うケースでもあります。

「プロフィールです」:№1

2004年10月15日 | 時々プロフ
堅い頭と柔らかい頭を併せ持つ女「S嬢」です。
「S嬢」ですが、鞭やロウソクは関係ありません。

家庭内においては、
愛妻家の夫と、マザコンの息子に甘やかされて
いい気になっている部分があります。
小学生の息子に「無駄づかいするな」と言いながら、
母のアクセサリーを買わせる程度には「女王様」です。
でも、鞭やロウソクは関係ありません。

「女王様」は、かなり個人主義です。
集団が決める価値観に、あまり影響されません。
これが遺伝子によるものなのかどうなのかわかりませんが、
娘がそれを受けついだのが、見ていてよくわかり、
おもしろくてしょうがありません。
彼女とそうしたことに関しての会話ができたら
どんなにおもしろかっただろうとは思いますが、
知的障害があれば、そりゃ仕方がありません。
でも、自尊心をまっすぐに持つということには、
知的能力は関係無いのだと、教えられたことは大きいです。

「女王様」は、好きな男の前では、
「女の子」でいるのが大好きです。
「しょうがないなあ」と言われることを、とても好みます。

「女の子」は、実は「ニワトリ」です。
三歩歩くと、脳味噌から消えることがたくさんあります。
カギやハンコや財布や腕時計は、常に目の前から「消えます」。
「しょうがないなあ」と言いながら、
夫も息子も、ちゃんとその「消えたもの」を探し出すので助かります。

2000年の3月からインターネット接続です。
ISDNのダイヤルアップ回線に始まり、
その年の9月から、ケーブル回線で常時接続の環境です。

子どもの時から持っている個性のひとつに
「不確かなことは調べる」という姿勢がありまして。
特に、人から聞いた話に関しては、
そこに混ざった、その人の主観をまず取り除くために、
客観的な資料を欲しがるのが、特性といえば特性です。
インターネットの接続により、
いちいち分厚い本を開くことがなくなって
非常に便利に使っています。
また、人との会話の中で出る話に、
「ソレ、その話の出所はドコ?」などとはなかなか聞けませんが、
そうした話に出てくるちょっとした言葉でワード検索などして、
自分で勝手に裏付けが取れる等ということもできる。
わたしにとっては、ヒジョーにありがたいインターネットです。
ちなみに、インターネットでも、
さすがに個人のローカルなウワサ話の出所は出てきませんが、
そうした類の話は、右から左にぬける耳と脳味噌の持ち主です。

ただし、「言葉」に関しては、
インターネットの検索だけではやはり足りず、
辞書は常備です。
お気に入りの辞書は
国語辞典はもちろん「しんかいさん」、
そして「角川類語新辞典」です。

しかし、こうした辞書においても、
全く歯が立たないのが、インターネット社会で生まれる「新語」です。
誰か、早く、「インターネット新語辞典」を作って欲しい。
もちろん、例文満載は必須です。

つまりは、新語にスムーズについていけないほど、
「堅い頭」の持ち主です。

入力は、ブラインドタッチです。
コメント入力で「やわらかい」ものは、
大半のケースで、「しゃべりながら」打っています。
「ねえねえ」だの、「~なの」だの、「~よね」だの、
「きゃ~~」だのという類のものが表示されるときは、
ほぼ、まちがいなく、口に出して言っています。

*画像はアビステーションのシステム利用で作成したものです。
長い髪と、足を組んだ態度デカめの座り方は
本人と共通です。

インターネットと「音楽」

2004年10月14日 | 音楽
わたしの生活は「音楽三昧」です。

台所の隅では、常にコチラが鳴り響いております。
外出時には、ぱこっと、CDプレイヤー部分を取り出してポータブルになるスグレモノです。
洗濯物をそこから干したりたたんだりという家事を主にする部屋には、
安手のCDデッキがおいてあり、
そこにいるときには常に稼働しています。
リビングでは、18年も前に買った山水のステレオがいまだに生きており、
(いや、カセット、CDはすでに死亡。
 生きてるのはアンプ、チューナー、イコライザー、スピーカー)
MP3やCDが聞けるDVDプレイヤーが接続してあります。
車にはオートチェンジャーを仕込んであります。

こんな生活、実は全て、
インターネットの扉を開けたことから始まりました。

それまではねえ、
ひたすら、「おかあさんといっしょ」「ポンキッキ」系音楽にまみれて暮らしてました。
娘はダウン症、ダウン症は音楽好き、
ということで、小さい時からこの手の音楽さえかけていれば、彼女はゴキゲン。
普通の子に比べて、高価なおもちゃをさっぱり欲しがらない彼女のために
親や祖父母が買ったCDはてんこ盛りに。

「おかあさんといっしょ」「ポンキッキ」系も、
けっこういい曲、あるんですよね。
好きは好き、だったな。

そして、インターネットに接続するのが日常の毎日が始まります。
ネットで知り合った友人と会話をする中で、
古い曲を集めたCDを焼いていただいたことがありました。

それを聞き、

ぱんっ!

と、音をたてたように、目覚めました、わたしは。
大きく息を吸って、子どもを生む前の自分を取り戻していくような思いがした。
まさに、「自分との出会い」「自分自身との再会」の象徴だったんですよね、
再会した、過去自分が聞いていた音楽が。
(いろいろあったけど、一番涙モンだったのは、ジム・クロウチでした。)

子連れ関係なく飛び回れるインターネットを駆け回ってたことも
この「自分自身との再会」という実感に拍車をかけたと思う。
これが4年前の冬、かな。

それからは、もう、「行きます」「行きます」状態。
「過去」を求めて、中古のCDはあさるわ、品揃えのいいレンタル店を回るわ、
ヤフーのオークションにどっぷりつかるわ。
(古いのは普通には売ってないんですよね、もう。。。)
目指すは、’70年代から’80年代のモノですね。

中古CDのワゴンの下の方から、ピンクフロイドの「狂気」を見つけたときは、
驚喜して、大騒ぎでした。
200円という価格とその扱いに、
「こんな名盤に何をする~~~」と思ったけれど、
200円は素直にありがたかった。

そして、次に、’90年代のものにも手をつけ始めました。
育児と、障害児関連、福祉関連の活動とお勉強に、
どっぷりとはまっていた時期で、
わたしはこの時期の音楽を知らない、知りたい。
そうした欲が、ふつふつと湧いてきたというか。

娘が生まれたのが’91年、息子が生まれたのが’94年。
なかなか育たない上の子と、3歳ちがいの姉弟は、
まさに双子状態で、そうした時期は長かったし、
そんな状態なのに、
わたしは障害児関連、福祉関連の講演会・勉強会に日参し、
放送大学の熱心な学生でもありました。
(障害児の親といっても、
 乳幼児期にそんなことやってる人、はっきり言って、いません。
 知識的野次馬根性の強い、ハマり型です)

そして現在、
「音楽」にPC大活用です。
手持ちのCDも、中古で買ったCDも、レンタルで借りたCDも、
全てMP3に変換かけて、外付けHDDに放り込んでいます。
家の中にはMP3プレイヤーが2台、ポータブルもMP3プレイヤーなのと、
一枚のCDに11枚ほどのアルバムを入れて焼けること、
必要に応じて再度変換をかけて音楽CDが焼けること、
等がその理由です。
(ただいま、MP3だけで16ギガ)

へーと思ったのが、娘が高中正義とBOOWYが好きだったこと。
今はおさまりましたが、
一時は車の中でBOOWYの「ビート・エモーション」をかけないと怒ってました。
「もうコレ飽きたよ~~~~」と、母が叫んでもおかまいなし。
ろくに日本語しゃべれないくせに、しかもまともな発音もできないくせに、
氷室京介の変な英語の歌詞を歌う、変な子になってました。

最近は、車ではディスコミュージックのオムニバスが鳴り響き、
これまた、ろくに日本語しゃべれない娘が、
この歌詞を覚えて口ずさみ、体でリズムを刻むという、
実に変な光景になっています。
息子は息子で、一時期、中古で買ったダンレボに異常にはまり、
小学生のくせに達人級となり、
ダンレボに出てくるディスコミュージック大好き野郎になり、
スーパーのお菓子売り場で、流れる有線にステップ踏んでたりする
妙な子になりました。

いいじゃないの、しあわせならば。

娘は、知的障害者中心の大人のバンドに参加するらしいです。
月に一度、スタジオで練習してます。
娘に追い出されるので、わたしはスタジオには入れません。
つい半年前まで小学生だったチビが、大人に混じってエラそうな顔して
なにやら、もっともらしく、
時には気まぐれにサボりながら、なんかやってるらしいです。
たのもしいこと。

*コレを打ってる現在のBGMはB'Zであります*

*追記*
わたしは娘の言語能力に関して、
よく「ろくすっぽ日本語がしゃべれない」という言い方をするのですが、
「ハーフなの?」と真面目に聞かれたことがあります。
違いますからね?
あくまでも、「知的障害による言語能力の低さ」ということですからね?
よろしくです。

gooブログのアクセスランキング

2004年10月13日 | インターネット雑記
10/12(火) 846pv 89位

これがgooブログのカウントした、
わたしのところの昨日の数字です。

はあ?という感じです。
なんせ、編集画面に表示される
「過去4週間の閲覧数」というのが以下の通りですから、
昨日の異常さというのは突出しています。

10/03~10/09 1403pv
09/26~10/02 1038pv
09/19~09/25 1097pv


昨日は、更新をしました。
二つのgooブログを行き来していました。
TBが3つ、つきました。
でも、昨日頻繁に行き来した二つのgooブログよりはるかに数字が多いこと、
「異常」としか、言いようが無い。

数字自体を大雑把に言えば、
更新が無ければ100から150
更新があれば200から300。
それが「日常」のペースです。
ちょっとした非日常的な動きがあったときに
400以上ということもありましたが、
それはあくまでも「非日常」という状況で、
その理由自体も、薄々、認識ができるものでした。
昨日がもしも、その「非日常」だとしても、
行き来した二つのブログの数字を見れば、
こちらだけ800を超えることなど、あり得ないと思うのが自然だと思う。
もしも、もしも過去ログをいくつも開いた人がいたとしても、
そうした方が、複数名いらっしゃらなければ出ない数字ですし、
そうした方が一日に何人もいるはずがないとも思います。

考えたくはないことだけれども
gooのカウント数を計算するシステムに対して、
意図的に操作した方がいらっしゃるのか。
その意図とは何なのか。

もしもどなたかの作為的な行為が少しでも入っているものならば、
充分、驚きました。
目的は達成されたと思います。
一つの経験として、受け取らさせていただきます。

「二重カウント防止」策の導入をというお願いを込めて、
gooスタッフブログアクセスランキングについての最新記事にTBです。

インターネットで「続いて」いくもの

2004年10月11日 | ○○さんにトラックバック!
先日、2年近く前に自分の管理する掲示板に入れた投稿に対して、
メールが来ました。
レンタル掲示板ではなく、サーバーにCGIを置いている形だからこそ、
出てくることだとは思ったのですが。

内容は、*他愛もないことなんですよね。
本当に他愛もないこと。
ただ、その、ちょっとした他愛もないことの話の中の「情報」が
その方にとっては何年も持っていた「謎」が「やっと解けた」
ということだったのだそうです。

この方、検索でいらしたのだそうですが。
わたし自身も、検索というものをよくかけるのですが、
何年も前の日記サイトに出くわしたりします。
そして、欲しかった情報などを手に入れつつ、
サイト主自体も忘れかけているページだろうなとも思います。
それでも、ウェブ上に、こうしたものは生き続けてるんだなあとも思うのです。

検索で引っかかるブログといえば、
多分、何年も、誰かの検索で現れてくるだろうし、
生き続けていて欲しいと思うのが、
「80s洋楽クラブ」「人にはそれぞれ事情がある」だな、と。
音楽と、そして、管理人の「今」というのがよいなあと思うし、
そこに書かれたことで「生まれて生き始めた」ブログの中の「主人公」は、
生んだ本人がそこから変化していっても、
インターネット上に生き続けるのだろうなあと思います。
また「π氏の雑記」のPC系コンテンツの、コメントを加えて豊かにふくらむ記事群も、
やはり一過性のものではなく、生き続けるだろうなあと思う。

ブログに現在進行形の要素が強いならば、
「迷い」の「今」という要素もある。
この観点で好きなのが、『斬(ざん)』と、「今日の幸せ」ですね。
思考に起承転結というものがあるならば、
急いで「結」に持ってっちゃ、もったいないとさえ思うところがある。
コメントやコメントレスは、
そこで展開される世界を充実させるものであって欲しいと思ったり。

上記にあげたところは全て、
「今、コメント欄に参加しないと意味が無い」的なとこが
薄いところばかりだなあと思います。
即コメントは、場をふくらませるものであって、
もしもそれが無かったとしても、充分「一人で立っていること」ができるところというか。
対して「常連の即レスに価値」、というような内容のものばかりのところは、
大きなお世話だとは思いますが、
「いったいいつまで続くだろ」ってのは思います。


『斬(ざん)』何でだろうか? にTBです。
(というか、souryuuseiさんとの対話の続き物のような・・・)

*文中の「他愛もないこと」というのは、
ジュン・スカイウォーカーズの歌『Let's Go ヒバリーヒルズ!』の歌詞の中で
「Books J」、「狭山」という固有名詞に並んで出てくる
「ロングジョンシルバー」という固有名詞の意味という話です。
『Let's Go ヒバリーヒルズ!』という歌は、東京郊外の小さな町のご当地ソングで
これ、全て、西武池袋線の「ひばりが丘」という駅の駅前にある店の名前で、
「ロングジョンシルバー」はずいぶん前に無くなっている店舗のこと。
わたしは結婚後の一時期、この町に住んだことがあるので、
彼らが解散しても、この歌はとても好きなのでした。