S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

ダウン症児のご両親へ

2005年05月31日 | 「障害」に関わること
「ダウン症児の親」と、一口に言っても、その思考や個性は本当に様々だと思う。
その上で。
子どもの年齢、時代によって、親の思考傾向や感覚、育てる価値観から就学先選択の価値観。
また入手する情報に関して、どんな衝撃に強いか弱いかさえ変わる。
もちろん個人差は大きいのだけれど。
以下、乱暴に大きく分けてしまえば。
1.新生児~生後半年から生後2年
 (告知から始まる乳児期)
 (おおよその独歩開始または独歩に関しての片鱗のある時期)
 (おおよその発語開始または言語理解能力の発現期)
2.生後2年~就園
 (おおよその独歩開始または独歩に関しての片鱗のある時期)
 (おおよその発語開始または言語理解能力の発現期)
3.初めての集団参加~就学準備
4.就学-低学年期
5.中学年期
6.高学年期~小学校卒業以降の進路準備期
6~7の間.第二次性徴と思春期の開始
7.13~18歳まで
 (様々な進学先での生活。思春期と、進路に関しての準備期)
8.学校卒業後~成人期
発達に関しては、合併症の問題が関わってこなければ、おおよそ2歳~3歳過ぎに独歩は開始、充実していくのだけれど、個人差がとても大きいのが「言語能力」の問題。
こうした子どもの発達の状況と、子どもの時期とで、親の個性や価値観、不安というものは大きく左右される。
どの時期にどんな不安を持ち、またどの時期にいる相手にどういう配慮を持った言い方をするか、そうした「対応」も、それぞれの「親」に対してポイントが異なる。

ここで出てくる問題があって。

ネット上で展開される個人HP、およびブログの類というものは、たいがいにおいて「1」の時期から「4」か「5」の時期が多いと思う。
また、親の会活動というものを既存の会や自主グループに参加するのではなく、立ち上げて積極的に展開する親も、この年齢の時期が多い。
(立ち上がるエネルギーを持つ人と、不安にさいなまれた消極的な生活を送る人との差が大きい時期でもある。)

で。
ここで出てくる問題というのは。
その、ネット上で多い年齢層より「上の時期」にいる人間の、発言するスタンスというか。
この、おおよそ「5」から上の年齢層に関しては、「小さい子の親に刺激的な情報をナマで入れたくない」という思考も生まれるわけで。
「5」から上の年齢層に関しては、「5」までの経験により、障害を現実的にとらえ、日常的な視点としてとらえる生活というのが前提での「思考」というものがあるわけで。
ところが、その経験による思考がまだまだ熟成できていないとみる、「5」以前の親に、個人に対する配慮無しに情報が入ってしまうということをどう考えるか、と。

こういうことは、いわゆる「親の会活動」では、配慮やセーブができるのだけれど、ネット上で出される情報をナマで閲覧されることには、どうも危険が伴うかもしれない、という危惧もあるわけです。

HPにおいては、どんな小さい子の親が閲覧しても、まあなんとかなるように作ったという部分があります。
ダウン症児の親のHPなんてモンは、たいがいにおいて、ダウン症児の親、もしくはなんらかの障害のある子の親くらいしか閲覧しませんから。

しかし、ブログはねえ。
もともと、道楽だし。
「ダウン症児の親」というのは、わたし個人にもともと「付随してくるもの」のひとつであるわけで。
自分が思考すれば、自分が生活を語れば、当然出て来るものという位置づけなわけで。
まあ、いわゆる、小さい子の親に配慮無く「ナマ」になるわけで。
そして、小さい子の親に配慮無く「ナマ」な思考というものも、自分を持ちたいわけで。

な~んていうことをね、日常ぽつぽつと思ってはいたわけです。
「たったひとつのたからもの」関連記事をあげたときは、小さい子の親にURLを教えたといういきさつがあったので、わたしとしては、できるだけそうした配慮を持ちたいという意識はあったのですが。

まあ、あのブームが終わってしまえば、わたしは「個人のブログ」として、おもしろがりたいわけです。
さあて、その矛盾点をどーすっかなあ~、などと思ったりもしつつ。

と、いうことで、結論として「宣言」出すことにしました。
コレ、言わなきゃ、どうにもわたしは落ち着かないんですね、要するに。
ダウン症児の親御さんで、特に「小さい子」の親御さんが閲覧された場合。
とにかく「?」と思ったことは、コメントでもいいし、ブックマークに入れてあるメールフォームでもいいので、「?」と思ったとお声をかけていただきたい。
「お子さんの年齢時期」、その「お声をかけていただく内容の個性」に応じたフォロー、入れます。
「?」と思ったら、黙って下を向かず、お声をかけていただきたい。
よろしくです

今日の一句

2005年05月28日 | つぶやき
今日は娘の養護学校と、息子の小学校の運動会。
わたしは小学校の運動会の方に出席しまして、まあ、久しぶりにたくさんの方と顔を合わせたり、お話ししたりもしました。
娘の学年の保護者、息子の学年の保護者、そして学校のPTA活動で知り合った方々。
地域の子ども会関係で知り合った方々。

「娘が障害児」
ということは、相手の記憶に印象的に残る。
目立つ子なもんだから、娘とわたしを記憶している方はとても多い。
普通は「子どもの学年の保護者」って言ったって、せいぜい同じクラスになったことがある人くらいだろう。
ところがこっちは、「交流級」なんてものがあって、その「交流級」も、交流教育が効果があるようにするために、いろいろな子どもと接しられるように、クラス替えの度に「新しく知り合える子どもが増えるように」という配慮もされている。
「交流級の懇談会」は、挨拶のみで失礼することも多々あったので、向こうはこっちを記憶するだろうが、こっちは「挨拶程度」じゃ全員まではわからんよ。

PTAだって、ただでさえ少ない障害児学級の人数からクラス役員を毎年選出してるものだから、結局何回も役員をやることになる。
こっちは同じ顔、しかも「記憶されやすい環境」で、しかし相手は「多数」なわけで。
つい、うっかりと「長」のつく立場も、経験しちゃったし。

息子の学年だって、「姉が障害児学級に行ってま~す。交流教育で皆様のお子さんもおつきあいがあると思います、よろしく~。」なんていう挨拶をしょっちゅうしてた。
入学後、そしてクラス替えがあったときとか。
相手は記憶しやすい、こんな挨拶、続けてたら。
しかし、こっちは全員までは覚えきれんよ。

オマケに地域の子ども会関連は、おととし会長、やっちゃったし。

と、いうことで。
相手の顔を見た瞬間に、顔に記憶があることははっきりとわかっても、名前やどこで知り合ったどこの人か、すぐに記憶がつながることが困難なほど、相手が多い。
要するに、相手の数が多すぎて、記憶がついていかなくなることが出てくる。
「こんにちは」と言われれば、瞬間、その人とのつながりを思い出せなくても、反射的に「笑顔であいさつ」が出てしまう。
どこで失礼ぶっこいても困るので、顔に記憶がある人には、とにかく挨拶することも習慣になる。
町で「記憶のある顔」と出会って、反射的に「笑顔で挨拶」してすれちがって。
それから記憶をたどれば「よく行くお店の店員さん」なんてことがあるのもご愛敬というか。
そこで「挨拶してしまった」ことで、そのお店の方が娘に「気軽に話しかけてくれる」ようになるのも、いわば「ケガの功名」。

そんな「環境」が前提の上での、今日のこと。

「こんにちは~」と言われ、「こんにちは~」とにっこりと返す、小学校の校庭で。

あ・・・。
今のあの人って・・・。
わたし、ハラワタ煮えくりかえるほど、頭に来てた人だった。。。
次回、顔合わせても、きっちりと「怒ってるんですよ」と意思表示、したかったのに。。。
わ、わ、わ、忘れてた。。。

って、今、わたし、言っちゃいませんでした?
にっこりと「こんにちは~」って。

ううううう、
チャラになってしまった。。。
いや、チャラにしてしまった。。。
あんな「友好的な挨拶」をしてしまったら、チャラにするしかないではないですか、自分。。。
チャラにしなきゃ、偽善者になってしまう。。。
ええい、忘れたろ。
水に、じゃじゃ~~っと、流したろ。

と、いうことで、今日の一句。

習慣が、墓穴を掘って、人格者。

コメントレスの入力

2005年05月27日 | インターネット雑記
わたしはコメントレス、長文が多いです。
相手の言葉の引用も、レス時によくやります。

さて、コメントレスの場合ですが。
gooブログのコメント入力フォームの四角部分の大きさは、書いたものを見直すのがわたしにとってはかなり不便。
なんというか、小さすぎるというか。

それでですね、コメントレス時に、ある「テク」を使います。
それは、メール画面です。

コメント投稿が入ると、メールで全文の通知が届きます。
そのメールを「返信」状態にする。
念のために、返信アドレスは最初に消しておきます、うっかりgooに返信してしまうと困るのでね。
そしてそのメール画面上から、コメントレスの入力をするのです。
引用部分は「>」も、入っていますし。

途中で切り上げるときは、そのまま「下書きフォルダ」に入れます。
全文入れて、オッケーと思ったら、コメント入力フォームにコピペ。
また、ちょっと時間おくと、自分の考え・感覚や表現が変わりそうな気がするときも、いったん「下書きフォルダ」へ入れます。
その場合は、その後、「声に出して」読んでみて、修正したり完成としたりします。
この「声に出して」読んでみることって、わたしはけっこうやるんですよね。
不自然なとこは、すぐ、わかる。

gooブログのコメント通知メール、大活用パターンですね。
でも、こんなこと「便利だ」と思うほど、長文レスの人って、そうそういないんだろうけどね。

王様の耳はロバの耳

2005年05月26日 | つぶやき
「言っちゃいけないことを、言ってみたい」
「言っても仕方のないことを、言ってみたい」

こういう「欲」って、ありません?
しちゃいけないってこと、したくなる、というか。
したってしょうがないことを、したくなる、というか。

同意求めてどーすんだ、
と言われても困るのだけど。

つい、「道楽」をひとつ。
いや、ホント、単なる「道楽」。

はてな利用 「S:今日の一言

初めてのトラックバック

2005年05月25日 | インターネット雑記
これは、初めてトラックバックを打ってみようと思うあなたへのお手紙です。

まず、トラックバックというものを理解するために、こちらを見てみましょう。
はじめてのウェブログ:「3分でわかるトラックバック」
簡単にトラックバックを理解できたでしょうか。
そうしたら、次に、こちらを見てみましょう。
【絵文録ことのは】「トラックバック・ポリシーを作ろう。ルールやマナーに悩む人のための作成ガイド」
ここで全てを理解できなくてもかまいません。
ここでは、「これだけの文章になるくらい、トラックバックに関しては、いろいろな人の価値観が動き、トラブルの元にもなっている」ということが理解できれば充分です。
なんかトラックバックって、ヤバそうな機能だな。
いえいえ、そんなことはありません。
トラックバックとは、あるブログのひとつの記事の内容と別のブログの記事の内容がつながることで、「その先」へ発展していくという、可能性をたくさん持った、ブログにとってとても大きな機能です。
あなたがトラックバックという機能を使ってみようと思ったときに、理解しているべきことは、実はたったひとつです。
あなたのトラックバックしようとする記事が、あなたと、送信する先のブログの管理者と、送信するブログの閲覧者が、「記事と記事とのつながりが理解できるものである」こと。
あなたがこのことを、送られる相手側に立って考えることができたら、それでだいじょうぶです。
あなたの記事の文中に、トラックバックを送信する先の記事のリンクがあると、あなたがつながりを考えたということが相手にもわかりやすくなります。

そして、念のために、以下のことをやってみることをおすすめします。
1.トラックバックを打とうする記事と同じカテゴリの過去記事を2~3読んでみること
2.そのブログに管理者のプロフページがある場合は、閲覧してみること
3.そのブログに表示されている、今までに送られたトラックバックを閲覧してみること
4.ブログ内に「トラックバックポリシー」に関しての表記やリンクがないか確認すること
これは「相手を知ろうとする気持ち」と、考えてください。
トラックバックによって、あなたとつながる相手との出会いを大切にしてください。

さて、トラックバックを打つ相手側の記事に、あらかじめコメントを入れておいた方がいいのでしょうか。
これは、人によってずいぶん考え方の違いがあるようです。
このことをあなたはどう考えますか?
そのあなたの持つ考えが、あなたが持つ「トラックバックポリシー」の始まりです。
「あらかじめコメントでの挨拶が欲しい」と、強く思われる方のブログは、そのことがたいがい上記の4つで推測ができるはずです。
そのときは、その方の考えに従おうとすることも、またひとつの考え方です。

どんな種類のトラックバックが、うれしくない、または迷惑と感じられるのか。
これはあなたがあなたのブログの更新を続けていけば、きっとわかるはずです。
「されたらイヤなことはしない」、これが人間関係の原則なのではないかと思います。

トラックバックを打つと、相手のブログから自分のブログがリンクされることで、自分のブログのアクセス数が増えることがあります。
知っておくべきことは、アクセスの数は、あなたの行為を認める数とイコールではないということです。
アクセス数に気をとられて、つながる先に人間が存在することを忘れたら、それはそのまま、あなたへのマイナスの評価につながっていきます。
そのことは、あなたにとってのブログの魅力を半減していくことにつながっていくことも、心のすみに置いておいていただけたらと思います。

それでは、トラックバックで、いい出会いができますように。

「障害児のきょうだい児」の恋愛と結婚

2005年05月24日 | 「障害」に関わること
娘がまだ赤ちゃんだった頃に、当時住んでいた地域でのダウン症児の親の会で、先輩のお話を聞く勉強会がありました。
別の地域に居住される、もう、成人された方のおかあさまをお呼びしたのですが。
このときのお話の中で、印象に残るお話がありまして。
障害児の「きょうだい」にあたる長男には、中三のときにきちんと話をした。
あなたの結婚には、姉のことが影響するハンディがあるだろう。
だから、きちんと恋愛できる人間になること、結婚を早めに意識すること、と。
質疑応答の時間に、この話が出ました。
こちらの親の会を中心に回してきた主だったメンバーの方は、まだ小学生の親という立場の頃だったのですが。
「ダウン症のきょうだいがいることで結婚に難癖つけられる相手との結婚は、所詮、きょうだい児の結婚にとってもいいことにはならないんだから、それはそれでいいではないですか」
こうした傾向のことが中心だったと思う。
そのときの講師になった方いわく、「それは理想論だ」と。
現実的に結婚は相手とのことだけでなく、家も関係してくる。
それを乗り越えるだけの「恋愛する力」が、きょうだい児にも必要なのではないか、と。

今ひとつ、納得できない表情をしている人が多い中で、なんかすごく納得したんですよね、わたしは。
まずひとつは、「結婚時のハンディ」ということ。
仮定として、わたしに障害をもつ子どもがいなかったとして、そしてたとえばわたしに弟と妹がいたとしたら。
弟が「障害児のきょうだい児」と結婚したいと言ったら、いかにそのことがハンディになったとしても、「よしオマエが決めたんだから、オマエの人生がんばれ」というだろうなと。
しかし、妹が「障害児のきょうだい児」と結婚したいと言ったら、反対とは言わずとも、「再考を」とは言うだろうなと。
「家」というものは、諸雑事が全て「女」にかかってくる。
結婚することで、成人した「障害のある義きょうだい」に関しての諸雑事は、全てあなたに直接ふりかかってくる可能性は高い。
そのことを冷静に判断して、相手のきょうだいを自分のきょうだいとして、本当に覚悟して受け入れられるのかと。
で、「ああ、確かにハンディはあるなあ」と思った。

それともうひとつ。
所属する親の会の「先輩たち」から口々に出てきた、以下のこと。
「ダウン症のきょうだいがいることで結婚に難癖つけられる相手との結婚は、所詮、きょうだい児の結婚にとってもいいことにはならないんだから、それはそれでいいではないですか」
その発言自体に「んんん???」と、わたし自身はかなり疑問だった。
当時は口には出しませんでしたが。

あのさ。
世の中にはさ。
誰が見ても微笑ましいような恋愛があふれているわけでもないわけです。
どう考えたって、性格的に問題があって、意地悪だったり、イヤなヤツだったりする人間に「惚れちゃいました」ってケースはそこらじゅうにあるわけです。
(まあ、あの相手じゃ苦労もするわな)
と思ったって、極論を言えば、本人が惚れてりゃいいわけです。
周囲に賛成られるか反対されるかということを超えて、「恋愛の自由」というものがあるわけです。
周囲が「ありゃりゃ」と思う相手であったとしても、その相手を選択する自由と責任は、本人にあるわけです。
そうした「自由」が、障害児のきょうだい児ということだけで、間接的に結果的に「親から制限される」ことって、違うんじゃないかと。

極論、なんですけどね。
わたしは、障害児のきょうだい児であるわたしの息子には、障害および障害児・者に対して、差別的侮蔑的視点を持った女性とだって恋愛する権利がある、と思っています。
そのことが彼の人生にどう影響していくかは、まったくもって、彼の問題なわけです。
そこに「親」という立場をもって、堂々と当たり前に、しかも本人のしあわせを確定するように「踏み込む」ことは、違うんではないか、と思うわけです。
恋愛は、まず、当事者のものであるべきだし、その関係の可能性や将来像も、当事者のものであるべきです。
わたしが息子に対してできることは、息子がどんな恋愛を選んだとしても、その恋愛で出てくる問題に対して解決する力を育てる源になる、「人を大事に思う力」と「自尊心」を育てることを意識することだけです。

まあ、今のところ、優しい子に育っておりますのでね、息子。
まあ、なんとかなるんではないかな、と。

先日、笑っちゃうことがありまして。
息子、オノレの手のひらを見つめて、何か、考え事をしているようにぼーっとしていまして。
「どうしたの?」と聞くと、イトコから手相を見てもらったと。
「結婚できない」と言われたと言うんですね。
「おかあさん、運命は決まっているの?」と、手のひらを見ながら、言う。
母、黙って、下を向く。
(その深刻な表情に、爆笑こきそうな勢いを、必死にこらえてました)

息子、叫ぶ。
「結婚できないなんて、人生最悪じゃないか!」
(この年で、結婚観かよ・・・・、もう呼吸困難になりそう。。。)

呼吸を整えて、彼に言いました。
「だいじょうぶよ。
 あなたは人を大事に好きになることができる力をたくさん持っているから。
 だから何も心配しなくて、だいじょうぶ。
 あなたはとても相手を大切に好きになることができる大人になるし
 あなたを好きになる女の人は絶対にあらわれるから。」
(それがかーちゃんの、アンタに対しての育児の目標なんだよ)

安堵した表情で、こっそり教えてくれました。
名前は言えないが、好きな子がいるんだそうです。
学校に行くのが、楽しいそうです。

うっくっくっく、たまらん。
(息子、ネタにしてゴメン)

「パレアナ」を呼ぼう

2005年05月23日 | つぶやき
今週の土曜日は、二人の子どもの運動会で、翌週の月曜日は二人とも運動会の代休。
そして水曜日は娘が通う養護学校の創立記念日でお休み、木曜日は横浜開港記念日で二人とも学校がお休み。
金曜日は息子が通う小学校の創立記念日で学校がお休み。
飛び休だけれども、このお休みばかりの週に、TDLでも行ってこようかとも思っております。
この時期は「神奈川県民感謝デー」で、割引優待があるしね。

ああ、よかった。
来週、わたしが忙しくなくて。
ヤツらに充分、時間を使ってやれるわ。
もしも、わたしが自分の用事等で留守番の週だったら、かわいそうだったわ。
ああ、よかった。
気候もよくて。

いや、実はね、
今日の「収穫」で面接に行った先から、今日、封書が届きましてね。
封筒、手にした途端にわかっちゃったんですよ、厚みでね。
履歴書の返送でした。
まあ、わたしの条件、ちょっと悪かったんでね、予想はついてたんだけど。
やっぱり、「いらないよ」と言われるのは、凹みますわね。
それなりに面接だけでも収穫があったわけだし、ご縁はつなげていきたいと思うけど。
でも、行きたかったな。

こんなときには、ちょっと「パレアナ」に来てもらわなきゃ。

「少女パレアナ」を、知っていますか?
パレアナの「being glad game」を知っていますか?

「少女パレアナ」
「少女パレアナ」を紹介する個人サイト

原作の「being glad game」はアニメ作品(愛少女ポリアンナ物語)では「よかったさがし」、翻訳書では「喜びのゲーム」となっています。
立ちはだかる現実に対して、「being glad game」と「負け惜しみ」との違いは、自分に与えられた状況の中でどれだけ得られるものをポジティブに喜べるかということ。

採用の通知が来たら、6月の第一週どうしようと、真面目に気にはなっていたんですよね。
面接でお話を聞きながら、応募数が多く難しそうだと思い、このことを口に出来なかった自分がいました。
6月からの勤務で、最初の週に、しょっぱなから「休ませていただきたい」は、さすがに言えないだろうなと。
6月オープン時に予想する「大変さ」はおっしゃってましたのでね。
毎年、いろんな形で使うこの平日休みばかりの週に、ずっと留守番をガキ共に言うのは、かなり気が重かった。
今回の「ご縁」は、自分のやり方次第で、充分つなげていかれるご縁だろうと思う。
それはもう、わたし次第で、どうにでもやれる。

だから、やっぱり、よかったんでしょう。

今日は、爪のケアをして、きれいにマニキュアを塗っております。
ていねいにケアした指先を見ながら、にこにことゴキゲンです。
パン屋さんの製造や販売に関わるならば、指先はきれいに清潔にが当然で、マニキュアを塗った自分の指先など、眺められる生活ではなかったろうと思う。

ねえ、パレアナ。
わたし、来週は、有意義に過ごそうと思うわ。
今、わたしの爪はとてもきれいよ。
よかったのよね、きっと。

パレアナが微笑む。
パレアナが、堂々と言うだろう。

「ええ、もちろんよ。
 爪をきれいに塗るのに、それができるっていうしあわせも感じられるわ。
 このことがなかったら、ただ爪を塗るだけで、塗った爪がうれしいって思わなかったかもしれないわ。
 来週のことも、誰にもあやまらなくてよくなったわ。
 きっと、来週はとてもステキな週になるはずよ!」

美しき誤解

2005年05月22日 | インターネット雑記
まず、リンク。
ネット上での親近感 (complex fractionCOLUMNより)

このサイトでの「結論」は、以下の通りなのですが(以下引用)。
好きなサイトの管理人さんに親近感を抱く事が有るのは、そのサイトが『友愛』の構成要素の一部を満たしている為。但し、好きなサイトだからと言って『友愛』の構成要素を必ず満たすとは限らないので、親近感が湧かない場合も有る。
その上で「親近感を抱いた場合」のこと。
この「親近感」を抱いた場合に、人が陥りやすいのが「美しき誤解」かな、と。

このリンク先に言葉を借りれば、特定のサイトに「自分が自然に納得出来る言及が多い。」ことを感じると、それは「類似性の認知……「自分もそう思っていた」など、同一環境下に於ける感情の一致を認める事。」という、友愛を構成する一つの要素を持つことになる。

ただし、忘れがちなのは、「同一環境下に於ける感情の一致」という部分の「同一環境下」ということなのではないかと思う。

思考するときに、その背景となる環境は、誰もが一致するわけではない。
一致に近いことを想定できる条件下、というケースの方が多いのではないかと思う。
しかし、時として生まれるのが「美しき誤解」。
他の条件下でも、一致もしくは一致に近いものを持つに違いないと、相手に対して思いこむことが発生するのではないかと。

ネット上では、自分の思考や心を語るということで、相手の内面性にふれる機会がある。
だからといって、その相手に対してのイメージの生成を急ぎすぎることは、危険にもつながっていくのではないかと。
急いで相手のイメージを勝手に作り上げていくことは、その後、また勝手に「裏切られた」と思うことが起きる可能性を作り出してしまうことでもある。

ネット上で、親近感を抱く相手を「見つける」のは楽しい。
しかし相手に親近感を抱くことが、時期尚早であったり過度であったりする場合は、その後のトラブルの芽を、ゆっくりと生成し始めていくきっかけにもなること。
そうした「諸刃の剣」というものも、忘れたくないと思う。

*ちょっと前に、「縞瑪瑙の夢の国で劫初を想う」の縞瑪瑙さんに「読破」を宣言されまして。
その更新にわたしの過去記事のリンクが出現されるものが続々と出てきているわけですが。
この更新の内容に、この方が思考する「距離」というものがあり、そのことを安心して、また緊張しながら閲覧させていただいている今日この頃です。

「ありがとう」が呼ぶ展開

2005年05月21日 | つぶやき
先日「個人情報」という記事をあげまして。

問い合わせをした二社から、お返事が来ました。
要するに、登録を希望した方がメールアドレスを入力するところでまちがえて入れたのだろうと。
それがたまたま、わたしのアドレスと一致したのだろうと。
販社の方からは、丁寧なお詫びをいただき、またヤフーからは、二重登録はできない仕様になっているので、今後同様のことがあったら、今回のようにメールの送信先にお問い合わせくださいとのことでした。

そんなに入力ミスが見事に一致するものかなあ、とちょっとした疑問はあれど。
丁寧な回答を送信くださった二社に、
「回答ありがとうございました」と、簡単に送っておきました。
まあ、「返信見たよ、ありがとう」という確認を送るという主旨というか。

そうしたら、ヤフーから、すぐに返信が来ました。
「お客様よりわざわざお返事をいただき、大変うれしく思います」という内容で。

なんかね、いいな、と思った。
こういう、サービスを介したやり取りで、「人間」が見えるということが。
コピペの使い回しの定型文を貼り合わせたような文章も多い中で、「人が送っている」という感じが見えることに、なんか、こう感激しましたね。

「ありがとう」って思う気持ちって、時々、魔法のように人と人をつなげるのだなと、あらためて思ったのでした。

受容と共感

2005年05月20日 | つぶやき
NHKの朝の連ドラの「ファイト」。
今日の回のこと。
簡単なあらすじは以下の通りなのですが。
友人とのトラブルで高校に行けなくなったヒロイン。
このトラブルはもともとは、父親が自分の正義を通したことが原因なために、そのトラブルと不登校の理由が両親に言えない。
言うことは、父親を傷つけることになる、と。
不登校を続ける娘に対してその理由がわからないことにいらだつ両親に何も言わず、「友達」である競走馬のいる厩舎に通うヒロイン。
そして、母親は、厩舎で厩務員の、馬に話しかける言葉に気づきを持つ。
厩務員は、馬に、「オマエは気が立っているのだな」とゆっくりと話しかける。
「理由がわかるのか」と問う母親に、「理由はわからないが、気持ちはわかる」と答える。
母親は、家に帰り、娘に対して、ただ「つらかったね」と言葉をかける。
そうそうそうそうそう、
そうだ、そうだ、と強く思う。
「つらい」と嘆く人の前でしてしまうまちがいは、まず理由を聞いて、そのつらさを「検証」しようとすること。
ちがう。
それは、後。
「つらい」と嘆く人の前で、まずやるべきことは、
「ああ、あなたはつらいのね」と、その感情を共有することだと思う。
まず理由を検証されても、その理由は、その当事者と聞き手とでは、微妙に価値観が異なる。
つらさを背負う人は、たいがいにおいて、自分を責めている。
それを口にしたところで、まず最初に、理由と事情を検証されるのでは、心もかたくなになる。
その理由と事情の前で、裁かれるような感覚さえ、持ってしまう危険がある。
必要なことは、「ああ、あなたはつらいのだね」と、つらさを感じる本人を、本人の気持ち自身を、本人自身を、まず、そのままの姿で受けとめることだと思う。
受けとめてくれる人間がいるかいないかで、つらさはさらに、大きな孤独感をプラスすることが関わっていってしまう。
受けとめてくれる人間の存在を感じるとき、人は、自ら、そのつらさに向かい合って、解決という扉を見つけ開いていく強さを持つことができる。
そのときに、まず「ああ、あなたはつらかったのね」という立場を持った人間は、裁く相手でも検証する分析者でもなく、「つらさを共に解決しようとする協力者」になることができる。

つらさを抱えてる人間に最も必要なのは、「つらさを共に解決しようとする協力者」なのだと思う。

個人情報

2005年05月19日 | インターネット雑記
今朝未明、昨日の深夜ですが。
摩訶不思議なメールを受信しておりました。
受信したのはヤフーのフリーメール。
あるPC関連のネット販売にID登録が完了したというもの。
聞いたこともないフルネームが、宛名として記されていました。
ヘッダ情報見ても、送信先に偽装は見当たらない。
送られてきた会社を検索すると、IT関連ニュースで「ネット販売を始めた会社」として紹介されていました。
販売される機器のメーカーは、大手です。

ふうむ。
この会社とヤフー宛てに、「なんでこんなメールが来るのかわからん」と、丁寧に送っておきました。
気になるのは、宛先として記されている、聞いたこともないフルネームですね。
まったくのでっちあげなら、この販売会社、何をやってるのかということになりますし。
とりあえず、急遽、ヤフーのパスワードを変更しました。

さて、ニュース。
学級連絡網様変わり、個人情報漏れ不安→一斉メールも

個人情報、保護ですが。
このニュースに出てくる、「小学校の連絡網をメールで配信」というもの。
状況として、理解できる。
学校からよくお便りが出るのですが。
「役所を装った業者からの、クラスの児童の連絡先を聞き出す電話には、絶対に答えないでください」というもの。
これ、うちにも二度ほど、かかってきているんですよね。
地元の区役所のなんとか課だと。
人の良さそうな声と話し方で、「自分のミスで数人のデータがなくなっちゃって」。
「教えていただけるとありがたいんですが。。。」(ぽりぽり・・・という感じで)
「○○君とか××さんとかがわかればいいんですが」
と具体的な固有名詞をあげる。
「学校に電話します」と言ったら、ぶちっと切られました。
翌日、校長に聞くと、それは教育関連がらみの業者だと。
「答えてはいないでしょうね」と、確認されました。
多いんだそうです、この手の電話。
かかってくる家庭は、低学年が多いらしく。
うちは、2年生のときと3年生のときにかかってきました。
今後、営業活動に回す名簿作りってことなんでしょうか。

そんなことがあったので、このニュース。
かなり、ふむふむ。
「PTAが民間の情報配信会社と契約し」、という内容なので、連絡網のメール送信でアドレス漏れということも防げるんだろうなとも思ったり。
今後、こういう「民間の情報配信会社」のビジネスは、広がっていくかもしれませんね。

ちなみに娘の通った、そして今息子が通っている小学校は、平成12年度から緊急連絡網には住所は記載されていません。

今日の「収穫」

2005年05月17日 | つぶやき
今日は、パートの面接に行ってきました。
新聞の折り込み広告に、その求人を見つけたのは日曜日。
月曜日の朝一番で、電話を入れました。
・・・ずっと話し中。

リダイヤルのトライを何度か重ね、20分くらいたってから、やっと電話がつながりました。
「明日の10時15分に、写真貼付履歴書を持って面接に来てください」とのこと。

求人は、社会福祉法人の地域作業所のパート職員。
知的障害者の働く「パン屋さん」です。

履歴書は、「学歴」「職歴」をちゃちゃっとすませ、「親としての活動歴」を簡単に明記しました。
あまりびっしり書くと、それはそれでわざとらしいし、書かないのは「損」だ。
「志望動機」には、「知的障害児の『親』」「娘の在籍校」「娘の知的障害のレベル」と、「娘の将来を考えて、職員として働くことで勉強をさせていただきたい」と。
はっきり言って、通り一遍の「施設見学」より、有意義だと思った。

さて、面接。
さっと簡単に様子を見ただけですが、知的障害者にとってすばらしい職場でした。
建物も、新築しただけのことは、ある。
運営の理想や目標も、高い。
面接する責任者である女性二名がいきいきときれいで、魅力的だった。

「わたし、『親』なんです」
これだけで「知的障害者の親」と通じるのは、さすが「業界」。
「志望動機」は、この一言で、ある意味、充分なわけで。

しかし、4人募集で、20人応募だそうで。
時給、けして高くないんですけどね。
交通費も、全額出ません。
その中で「土曜勤務できる人優先」の枠から、自分は漏れる。
どうなるかはわかりませんが。

それでも、「そこで顔を売ってくる」ことは、面接だけでも達成できる目的でありました。
「今回、ご縁が無くても、『親』として見学には来させていただきたいと思っていますし、数年後、娘や仲間の子どもたちがお世話になるかもしれません。
 よろしくお願いします。」
と、頭を下げてまいりました。
この社会福祉法人、パン屋だけでなく他の福祉的就労部門もあるし、グループホームもいくつか経営している。
これはでかい。

去年、中学に入学した娘ですが、学校卒業まで5年を切った。
成人まで、あと7年を切った。
仲間内の子どもたちも、続々とその後に続く。
視界に入れるのは、次の目標です。
この地域での知的障害者が働く場の「有力者」には、今までに別の形ですでに2名ほど「顔を売って」あるわけで。
欲しいなあ、ここの「職歴」と、思うわけです。
娘がどんな進路を選択したとしても、仲間内の子どもたちのこともあるし、自分の積む経験は有意義に使える可能性は充分にある。
不採用、来ても、まあ、「顔つなぎ」してきただけでよしとするか。
忘れられないように、ちょこちょこ「顔売り」のために、パン買いに行っちゃお。

しかし、ちょっと驚いたのは、この面接で居合わせた応募の方々。
パート募集枠なんで、まあ、主婦層なんですが。
いわゆる「オバチャン」じゃない、きれいな「奥さん」ばっかりだった。
ちょこっとお話しした方にお聞きしたところ、ここの商品は、おいしくて有名なんだそうだ。
わたしは「近隣地域」ではあるけれど、徒歩圏自転車圏よりちょっと遠いので、知らなかった。
なるほど。
焼き菓子、自家製パン、そういったものを焼くのが好きな主婦層かもしれないと思った。
そして、面接で聞いたところ、「採用されなくてもボランティア募集は無いか」との質問が来たと。

知的障害者の作る「商品」。
一昔前は、「それなり」だったと思う。
娘が2~3歳の頃だったか、知的障害者の焼き菓子、パンという「商品」を作る発想が生まれ始めた。
食べるものを作って、地域に商品として出す。
これは知的障害者にとって、「買う人」が見え、「商品価値」がわかりやすい。
そして消費者にとっては、「おいしい」商品が増えたわけで。
「知的障害者の作る焼き菓子&パン」イコール「おいしい魅力ある商品」という構図が定着していることを改めて感じたというか。
その辺も、求人応募の人数の多さに反映しているんでしょうね。
ウチの徒歩圏の公的施設で売っている「知的障害者の地域作業所製パン」も、焼き上げて数時間のうちに完売という「人気商品」だしね。
その辺をあらためて実感したのも、今回の「収穫」でした。

帰宅後、ダウン症の赤ちゃんのママからお電話。
「お話しすると、元気になるんです」と。
そうよ、元気で行こうね!

二人のわが子と、その個性

2005年05月16日 | 「障害」に関わること
先日、「障害者のきょうだい」という記事を上げまして。
この記事上でリンクさせた「障害児の”きょうだい”のつぶやき」というブログの閲覧を続けております。

先日、このブログの「ガラスの小物」という記事に、コメントを入れました。

いや実はね、このコメントを入れながら、なんだか泣けて泣けてという状態で。
まあ、思い出し泣きというか、小さなフラッシュバック状態というか。

わたしは幼少から、「言いたいことは即、口に出して言える」タイプの子どもだったのですが。
姉がそうではなかった。
自分が言えない、でもそのそばで妹は簡単に口に出して無邪気に表現する。
このことで、姉は余計につらい思いをしたかもしれないと、思う。
まあ、その感情的なとばっちりも来ていたことは来ていたのですが、そばにいた身としては、とてもよくわかるわけで。
姉が本当に言いたかったこと、言えなかったこと、というものが。

それが影響しているのか、どうなのか。
どうも、わたしは、言いたいことを言えず、黙ってうつむくタイプの子どもに、弱い。
言えるなら、苦労はしない。
でも、その苦労の持っていき先が、わからない。
そういうシチュエーションには、ものすごいスピードで、同化してしまうんですよね。
言える子というのは、自分がそうだったからわかるのだけれど、失敗でもなんでも、動くことで形になって戻ってくるもので学習していける。
でも、言えない子どもというのは、自分の中でその苦労が展開されていく。
あっちに頭ぶつけ、こっちに迷いながら。

「障害児のきょうだい」という立場にいるウチの息子。
内向的・外向的というカテゴリ分けでいけば、外向的の方に類するかもしれない。
でも、自分の思いを話すというのは、苦手な方だと思う。
この子は、言葉の発達がとても遅く、一歳半検診では発語が見られず、三歳児検診では「言葉の遅れ」で引っかかった。
年少での幼稚園入園時に、「自分の名前をフルネームで言える」なんてことすら、できなかった。
三歳児検診で、言葉の遅れでひっかかったときに、療育機関を勧められたりもしたのだけれど、わたしの意志でお断りをした。
「わたしはもう、知的障害児の子育てはわかっています。
 この子の言語の発達は、ゆっくりではあるけれど、きちんと発達のカーブは見られています。
 今、臨床や療育を早急に考えなければならないレベルではないと判断していますし、豊かな生活の中で解決できるものと思っています。」
と、生意気にお断りしたわけです。
もともと、このときに住んでいた自治体の療育機関が、わたしとあまり意見が合わず、療育が必要な娘には集団指導は受けさせず運動機能の個別リハだけを選び、生活の場は保育園を選択していたということもありました。
よく、言葉の遅れがある子は「その後、劇的な伸びを示し、普通の状態に追いつく」だの、「学習障害の可能性がある」だの言われていますが、息子は、結局、そのどちらでもありませんでした。
本人なりに、ゆっくりとゆっくりと、言語の発達は上昇。
幼稚園や、小学校の低学年時は、周囲の言語能力に比べて、「言いたいことを言葉で話す」ことに歴然とした「差」がありました。

集団の中で、この状態は、「苦労」する。
幼稚園の面談でも、一年生の面談でも言われました。
「集団の中で困ったときに黙ってしまわないで、口で言えるように家庭でも言ってください」

はっはっは。
笑止。
そんなことは、本人が一番、わかってます。
できれば苦労しないと、本人が一番、わかってるはずです。
それを苦労して、苦労して、本人がどうやってそのスキルを獲得していくか。
わたしができることは、「口で言え」と追いつめることではなく、そのスキルを獲得していくために絶対に必要な「自尊心」を身につけることを手伝ってやることだけです、とね。
そんなことを、まあ、答えてきたのですが。

という背景があり、思いを言葉にのせるという能力に、ハンディがある。
その上で、他の子どもよりも、「障害児のきょうだい」ということで、普通の子どもも言葉にのせるのが困難なような「経験」も、それなりに積んでいるわけです。
持っている精神世界と、アウトプットしていく能力とに、非常にアンバランスがある。
持って生まれた個性として、徹底して争い事を好まないというものもある。
争うよりも、忍耐を選ぶ。

知的障害をもつ娘は、言語能力なんていうものは、全然低いわけで。
ところがコイツの方は、そのことにけして、うつむかない。
言語なんてもの以外に、アタシはこれだけ発信しているではないかと、常に堂々としている。
コイツの前では、わかんない方がダメなんだという気すらしてくる「大物」というか。
これは全く持って、「障害」ではなく「個性」だと思う。
そのせいでかなんでか、娘はどんな集団に入れてもトラブルは発生せず、常に人の中心で威張っており、他者に対しての細やかな神経すら発信する。
たいがいにおいて、いつの間にか、人はコレにやられてしまい、威張ってるくせに本当に人によく好かれる。
争い事を好まないという「個性」はコイツも同じなのだけれど、コイツの場合は「忍耐」とはちょっと違う。
「流す」か、別の展開を持たせる行動を発信する。
この「生きる力」としての能力は、時々「見事なモンだ」と、感嘆すら持つところさえある。

話は戻りますが。
わたしはもともと、自分が子どもを親として持つ前から
「どうも、わたしは、言いたいことを言えず、黙ってうつむくタイプの子どもに、弱い」
偶然にも?、わたしの第二子は、これに該当していたわけです。
第一子の「障害」に関しては、「障害に対しての支援」という選択肢がある。
そして、これは、母だけではなくてもいい要素が多大にあるわけで。

しかし、第二子の息子の方は、娘に比べてこの辺の「生きる力」が弱い。
普通の、障害の無い知的能力で人生やっていこうとする方が、立ち向かうべき問題の複雑さが年々上昇するわけで。
大方の予想を裏切り、「心配は常に、知的障害の無い方の子」という図式になっていくわけです。

その上でねえ。
ガラスの小物」という記事に入れたコメントのように、彼は「知的障害をもつ娘を育てる母」を、心情的に助けてくれたりもするわけです。
母、たまりませんわ。

願わくば、「障害児のきょうだい児」という彼の持つ要素が、人間的な成長にとっての財産になっていくカードとして、本人自身が使えるようになることを。
なんてことを思ったりするのでした。

*関連記事
映画「ハッピーバースデー 命かがやく瞬間」
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障害児の”きょうだい”のつぶやき「ガラスの小物

うふふ

2005年05月14日 | インターネット雑記
閲覧したブログにコメントを残すか残さないか。
まあ、これは人によっていろいろあると思うし、ケースもいろいろあると思う。
でも、コメントが少ないイコールおもしろくないということでもないと思う。
実際、わたしはコメントを残すときは、「おい、長文で迷惑だぞ」と思われる可能性が高い迷惑なコメンテーターだったりするけれど、ロム専も多い。

と、理屈っぽい前置きだけれど、こんなのは主旨でもなんでもなくて。
ただ、夢中で読んでるブログをひとつ出したいだけの話で。
見つけたきっかけは、ありがたいことに被リンクです。
わたしはこの方のセンスに、やられてしまっています。
なんかこう、人に教えたくてたまらん気持ちになっております。
元来、つるむという行動が苦手なワタクシですが、このブログに関しては、おもしろいとおっしゃる同士が欲しい気持ちになっております。
だって、おもしろいんだもの。
そのおもしろさは、生活にも影響が。
今日は、ガキ共が何をやっても何を言っても、やたらにハイテンションでウケているワタクシです。

ん?
と思われた方は、まずコチラへ。
ココで興味を持たれた方は、是非閲覧にいらしてみてください。
ワリとキリギリス日記

すでに有名?
それは失礼しました。

ちなみにわたしの「読破」は、現在去年の秋まで来ています。
まだまだ先(過去?)がある。
楽しみは少しずつにしようか、一気にいこうか思案中。