13歳の知的障害児である娘の「自力通学」に関しては、こちらの記事を参照ということで。
二度のアクシデントの経験を経て、二度目のアクシデント後の「指導」を本人がきちんと理解できたことが確認できる状態になり、年度終了を前に「完成」と判断できる状態になったかな、と思っています。
今は娘の登校に関しての「尾行」作業から解放されていますが、春休みを中にして、また新年度に一定期間、確認のための「尾行」を開始する予定です。
Googleで「自力通学」と入れて検索すると、こんなページが出てきます。
これは沖縄県立八重山養護学校のHPの中の「職員必携」というコンテンツの中のページです。
この「自力通学についての条件」の中の、「2 自力通学に対して意識のある児童生徒 」「5 下記の(1)から(9)ができる児童生徒 」とについては、単に「できる、できない」ではなく、ここを目指してどう育てるか、ということなのではないかと思います。
自力通学を考える年齢になってから着手することではなく、数年がかりでここを目指していくことが大切だと思うのです。
知的障害児の自力通学に必要な力は、知的能力よりも生活能力についての方が重要になります。
この「生活能力」に関しては、幼児期からの積み重ねの部分がとても大きい。
生活の中で「チャンスを与える」ことで積み重ねた力が、大人として身につけるべき能力を考えるときに、重要なレディネスになっていくのだと思います。
さて、この「自力通学についての条件」に記されていることに関して、わたしが「幼児期から積み上げた」と認識するものに関しての具体的なことですが。
*本人の自主性を育てる
・「全部やってやる」から、「ここからは自分でやる」機会をとても小さなステップから作り、徐々に増やす。
・生活の中のいろいろなシチュエーションで、自分で判断するタイミングという「間」を作り、本人の「見通しを立てて行動する」という力を育てる。
・集団に預けるときに、「いってらっしゃい」と、「この時点から親と離れる」という区切りを意識した言葉かけとわかりやすいサインを作り、それを同じ形で積み重ね、定着させる。
(意識として、「親」から「保育者・教師」の元に、「自分から行く」という意識を生ませ、育てる)
・本人の自主的な行動に関して、「行動の理由の存在の認識と理解」という感覚を保護者が持つことを意識し、安易に否定的な態度を取らないように気をつける。
*「移動」の経験に関して
・幼児期から家の周囲の「散歩」を習慣的に行う。
このことで、基点になる場所と現在地との「位置感覚」を養い、「車を避ける」「信号のある交差点や無い交差点を横断する」「飛び出さない」等の経験を長期に渡って積み重ねていく。
・日常的に連れていく場所に関して、ひとつの目的地に「行って帰って」ということがわかりやすい行動を習慣の中に入れていく。
・自家用車での移動に頼らずに、公共の交通機関を使うことを日常的に行う。
これらの「移動のための生活能力」を育てることは、自尊心や自信を育てることにもつながると思うし、そうであって欲しいとわたしは思う。
知的障害というものを持っていても、あなたの命には価値がある。
自尊心や自信を育てることで、このことこそが、わたしが娘に伝えたかったことでもあるのです。
生活能力を積み重ねても、本人の知的能力としての「限界」はあります。
これを「機会を持つことの不可能」という思考・判断・結論につなげていくか、「支援の工夫で埋められる可能性」を模索していくことにつなげていくか。
これが支援する人間に問われていることかなと思います。
娘はこの「自力通学についての条件」の(9)と(10)に関して、現在不可能です。
これを現在はP-doco?miniという機器で補っていて、さらに位置確認の正確性を求めるためにココセコムの併用を検討中です。
しかし、この「機器による他者からの位置検索」ではなく、迷子時や不意なトラブルに関して「本人の意志で解決に向かう行動を取る」ことが「機器使用の工夫」によってできないか、そうした新しい道を、現在模索中です。
二度のアクシデントの経験を経て、二度目のアクシデント後の「指導」を本人がきちんと理解できたことが確認できる状態になり、年度終了を前に「完成」と判断できる状態になったかな、と思っています。
今は娘の登校に関しての「尾行」作業から解放されていますが、春休みを中にして、また新年度に一定期間、確認のための「尾行」を開始する予定です。
Googleで「自力通学」と入れて検索すると、こんなページが出てきます。
これは沖縄県立八重山養護学校のHPの中の「職員必携」というコンテンツの中のページです。
この「自力通学についての条件」の中の、「2 自力通学に対して意識のある児童生徒 」「5 下記の(1)から(9)ができる児童生徒 」とについては、単に「できる、できない」ではなく、ここを目指してどう育てるか、ということなのではないかと思います。
自力通学を考える年齢になってから着手することではなく、数年がかりでここを目指していくことが大切だと思うのです。
知的障害児の自力通学に必要な力は、知的能力よりも生活能力についての方が重要になります。
この「生活能力」に関しては、幼児期からの積み重ねの部分がとても大きい。
生活の中で「チャンスを与える」ことで積み重ねた力が、大人として身につけるべき能力を考えるときに、重要なレディネスになっていくのだと思います。
さて、この「自力通学についての条件」に記されていることに関して、わたしが「幼児期から積み上げた」と認識するものに関しての具体的なことですが。
*本人の自主性を育てる
・「全部やってやる」から、「ここからは自分でやる」機会をとても小さなステップから作り、徐々に増やす。
・生活の中のいろいろなシチュエーションで、自分で判断するタイミングという「間」を作り、本人の「見通しを立てて行動する」という力を育てる。
・集団に預けるときに、「いってらっしゃい」と、「この時点から親と離れる」という区切りを意識した言葉かけとわかりやすいサインを作り、それを同じ形で積み重ね、定着させる。
(意識として、「親」から「保育者・教師」の元に、「自分から行く」という意識を生ませ、育てる)
・本人の自主的な行動に関して、「行動の理由の存在の認識と理解」という感覚を保護者が持つことを意識し、安易に否定的な態度を取らないように気をつける。
*「移動」の経験に関して
・幼児期から家の周囲の「散歩」を習慣的に行う。
このことで、基点になる場所と現在地との「位置感覚」を養い、「車を避ける」「信号のある交差点や無い交差点を横断する」「飛び出さない」等の経験を長期に渡って積み重ねていく。
・日常的に連れていく場所に関して、ひとつの目的地に「行って帰って」ということがわかりやすい行動を習慣の中に入れていく。
・自家用車での移動に頼らずに、公共の交通機関を使うことを日常的に行う。
これらの「移動のための生活能力」を育てることは、自尊心や自信を育てることにもつながると思うし、そうであって欲しいとわたしは思う。
知的障害というものを持っていても、あなたの命には価値がある。
自尊心や自信を育てることで、このことこそが、わたしが娘に伝えたかったことでもあるのです。
生活能力を積み重ねても、本人の知的能力としての「限界」はあります。
これを「機会を持つことの不可能」という思考・判断・結論につなげていくか、「支援の工夫で埋められる可能性」を模索していくことにつなげていくか。
これが支援する人間に問われていることかなと思います。
娘はこの「自力通学についての条件」の(9)と(10)に関して、現在不可能です。
これを現在はP-doco?miniという機器で補っていて、さらに位置確認の正確性を求めるためにココセコムの併用を検討中です。
しかし、この「機器による他者からの位置検索」ではなく、迷子時や不意なトラブルに関して「本人の意志で解決に向かう行動を取る」ことが「機器使用の工夫」によってできないか、そうした新しい道を、現在模索中です。
私も高学年までには自力通学させたいと思っています。
幸いなことに今通っている保育園の途中に小学校があるのでこの2年間はおもに自転車で通学路を通ってきました。
この一年は徒歩で通園と思っています。
目的のところにいくのは本当にすばやいですがいざ歩かせてみるとふらふらしていて歩くことの大切さを実感しています。
大きくなるのにはいろいろなことを積み上げていかなくてはならないんですね~。
よし、とても勉強になりました。
ありがとうございました。
あと、「ジューに向き合えるまで」のカテゴリー褒めていただいて嬉しかったです。えへへ(照)
自転車も使ったけど、徒歩もよくやってました。
保育園の玄関前くらいから、いっしょに歩かず、本人に「行かせ」たりね。
わたしが後から入るって感じで。
あと、土日の休日に、保育園のお散歩コースに行くんです。
それで、娘に「案内」させる。
本人がこの「案内させようとしてる」ってことを飲み込むと、よく案内してくれてましたねえ。
こんなことは知ってるかもしれないし、ダウン症の親が自閉症の子のことを言うのも変なんだけど。
自閉のお子さんは、通る道の写真、撮っておいてあげるといいですよ。
不安という神経を安心させる「目で見る材料」をたくさん用意しておいてあげるってことで。
そのコースにある、本人にとっての「刺激材料」ってのが出てくる場合もありますから、先に「写真」で見通しを立てる力を強くしておくってとこもありますし。
その道を通る前に写真見せて、行動の見通しをたてる力を育てる、とかね。
今はデジカメで便利になってますよね。
娘が小さい頃は、もっぱら、ポラロイドでしたねえ。
デジカメ、小学校のとき、大活躍してましたよ。
土日を過ごすときに、ちょっとしたスナップを撮っておくんですわ。
それで連絡帳に貼って、月曜日に持たせる。
簡単な説明を添えてね。
そうすると、「過去の話」が担任と成立するんですよね。
コレ、すごく大きかったですね。
*PS
「ジューに向き合えるまで」のカテゴリー
人にすすめるのって、初めてじゃないっすよ。
たったひとつの関連のときも、そんなことコメントに入れなかったっけと思う。
別口でも、すすめてますねえ。
素直、なんですよね、とても。
あと、そうそう、お母様がいい。
これもあるなあ。
実のお母様がああいう風にスタートの支援者になるって、実はなかなか無いですよ。
祖父母の方が、受け入れ、難しいのが普通かなあ、と思うのでね。
今日はいい天気なので早速行ってとってきたいと思います。
歩く時は「おすい(汚水)」って書いてある道にたくさんあるマンホールをを踏んであるくこだわりが最近でてきてこまっています。
これも撮って来て×しとこっかな~。
過去の写真のことも大変参考になりました。
最近やっと写真を見るようになってきたのでいろいろやってみたいと思います。
S嬢さんちのちぃちゃんのお話を聞いていると毎日の生活の一つ一つの積み重ねがいかに大切かを改めて感じます。
日に日に大きくなっていきますもんね。
生きていく基礎というものを毎日の生活の中でしっかり教えていかないとと思っています。
いろいろありがとうございました。
「ジューに向き合えるまで」のことですが
>たったひとつの関連のときも、そんなことコメントに入れなかったっけと思う
そうなんです。コメントいただきました。
でもあまりにびっくりしましてなんてコメントしたらいいのかわからずタイミングをのがしてしまいまして。あらためてここでと。
母はとても大切な一番の私達の支援者です。
私がジューを初めて児童相談所に連れていった日に母の所にいきました。
「そう」と一言だけいって何もいいませんでした。
後で覚えたばかりのメールで
「さすがのお母さんも今日だけは参りました。今日はお母さんもあなたと同じようになくけど明日からはにっこり笑顔でいたいと思います」と。
母はジューも娘である私のことも心配しなければならないので辛かったと思います。
今は長生きして几帳面なジューに何でもしてもらって暮らすんだと張り切っています。
長くなって、しかも自分のことばっかりですいません。ありがとうございました。
これも撮って来て×しとこっかな~。
「うすい(雨水)」はどうですか?
区別してこだわり、持ってますか?
いや、単に興味です。
判別してこだわり持ってるとしたら、すごいなあと思って。
それと「撮ってきて×」。
これ、デジカメだと加工して×入れられるからいいなあってすぐ思ったんですが。
でも、そうすると、風景の中に「×」が実際に無いか、探してしまうかな、と。
そうしたら、写真見せて、子どもの目の前で「ばつ」と言って、写真のその部分にバッテンをマジックなり、シールなりで入れていく方がいいのかなと。
もし、この「目の前で写真にバッテンを入れていく」というルール性がはっきりわかったら、ものすごくたくさんのことに応用かけていけますよね。
わくわく。
とね、
「相手の世界にどう入り込むかってテクをさがす」
ってことに「はまる」って、わたしとても大事なことだと思うんですよ。
生活や日常の中で、他人が自分の子をどう見てるかってことが、そんなに気にならなくなります。
だって、頭の中、興味持ってることに忙しくって、それどころじゃないもん。
だから「真面目に考える」ってより、「知恵の輪遊び」みたいなモンととらえるのがいいと思う。
そうすると、自分の作った「システム」の試行に効果性が見られなくても、また短期間で結果が見られなくても、そんなに失望しないんですよ。
なんたって、「遊び」だから。
で、忘れた頃に「効果」が見える。
ガッツポーズ、ですね。
「ジューに向き合えるまで」
コレ、友人の自閉の子の親にも「見て見て」言ったことがあるんですよ。
「コメント欄に知ってる人がいた」って言ってましたよ。
世界って、けっこう、狭いよねえ。
区別してこだわり、持ってますか?
いや、単に興味です。
判別してこだわり持ってるとしたら、すごいなあと思って。
うすい(雨水)はこの辺では見かけたことはありません。あるのかな~?
汚水は私今まで気が付かなかっただけでみちにたくさんあるんですよね。
ただ道に茶色いものがあるので踏んでみたいんだと思います。
判別してのこだわりは
この前は駐車場でいなくなったと思ったら駐車場からでようとしている車の前にたってしきりに何かをさわっているんですよ。
前についている会社のマーク。
MAZUDAのマークにこだわりがあることが判明しました。
だんないわく「あんまり走ってないからよかった」と。
>もし、この「目の前で写真にバッテンを入れていく」というルール性がはっきりわかったら、ものすごくたくさんのことに応用かけていけますよね。
自閉症の子をもつと世の中×マークしたいものだらけです。
ひとつクリアしてもまた新たにやってくれますもん。
いつか笑話にしたいもんです。
「遊び」か~う~んこれはいいかも。
わ~じゃ~一生楽しめますね。
忘れたころの「効果」も刺激的で呆けることもなく過ごせそうです!!
長くなりそうですが書いちゃお。
私がジューの診断を受けた時どうしていいのかわからず自閉症協会の支部長をやっている方に電話したんです。
いろいろな話を長い時間真剣に聞いてくれて最後に
「私はこの子の母親で本当によかったと思っていますよ。」
その声はとっても美しく凛々しくって母としての自信にあふれていたんでね。
私のあんなふうになりたいとずっとおもってきたんですがこの前S嬢さんとちぃちゃんの声を聞かせてもらったときにS嬢さんの声がまた、私に同じ思いを感じさせてくれました。
2ヶ月にわたるもので、弁当持って現場実習が3回義務づけられていて、レポート提出もある本格的なモンだったのだけどね。
参加者は25~6名だったかな。
「親」はわたし1人で、後は事業所の代表や職員だった。
ヘルパーやってる人がどんどん聞いてきましたよ。
「自閉の子のこういう行動はどうしたらいいんだ?」って。
職員同士でも、話し合いの中心になるそうだ。
歩いてて、いつもいつも同じ自販機で立ち止まり、そこを動かない、とか、そう、マンホールってのもあった。
「わからないことはたくさんあるし、現場を見てなくて、本人を知らないので無責任なことは何も言えないけれど、とにかく『不安をたくさん持ってる人達』というのは理解して欲しい。『不安』を強制的になくさせるようなことは避けて欲しい。『安心』を築けるような工夫を考えて欲しい。」
と答えました。
マツダのマーク。
コレ、どうしましょうかねえ。
こだわりを消すことはできないし、こだわりのネタを取り上げることはできないだろうから、逆に、このネタに関して「飽和状態」にして、実際の車に1人で向かうことを制御できるかもしれないと、思う。
試行錯誤ネタですねえ。
電車に関してのこだわりがある子だと、遠くから見るってのがまあ普通になるから、1人で動く車の前に出るってようなことは起きないので安全なんだろうなあと改めて思いました。
「取り上げる」のではなく、「こだわりの気持ちを満足させる別の切り口を考える」ってのが、多分ヒントなんではないかと、わたしは思うのですが。
このあたりは、もう少し大きなお子さんのご両親がきっと工夫された経験をたくさんお持ちかもしれませんね。
と、さっきから、マツダ解決策に関して、頭が「はまって」いるわたしです。
そう考えると、マンホールも「ばってん」ではなく、別の解決策があるんではないか。。。
などと、やっぱりこっちも「はまって」ます。
相手に向かう強烈な片思いに関しての「アプローチ」みたいなモンなんでしょうね。
アップした「対話」のMP3。
わはは、そう来たか、と、かなりテレました。
うふふのふ。