小学校の通学路は、教員も大人もいない。時々、子どもたちの「無法地帯」になる。
わたしは娘が入学してから数年、朝、学校まで一緒に登校していた。最初はいっしょに、そして徐々に見守り、尾行と変えていったのだけれど、いろいろな形でわたしは「朝の通学路」にいた。
子どもたちの社会、経験で学習していくこと。そういう観点で通学路に存在する「大人」として、あえて口を出さなかったことも多い。
女の子は、1人いじめをする。もうこれは子どもの発達の中で起きるということなのかもしれない。3人になれば2-1になり、4人になれば3-1になる。これはある意味、もうどうしようもないことなのかもしれない。そこで何か言っても、これをやる子、これを仕掛ける子は、「大人」のいないところで必ずやる。
「お友だちを待ってるの」とずっとずっとひとつの場所に居続ける子、「もうこんな時間だよ、遅刻するよ」と声をかける。「でも待ってなきゃ」。
「誰を待ってるの?」「○○ちゃんと○○ちゃんと○○ちゃん」
ああ、3-1か、と思う。多分、いやかなり高い可能性で、この子はまかれた、のだと思う。すでに子どもの流れは途絶え、この子も走っていかなきゃ多分遅刻するだろう。
「わたしが○○ちゃんのおうちの方を通って帰る、会ったらあなたが先に行ったと必ず伝えてあげる、だからもう行きなさい」
「ありがとう、先に行くからゴメンねって言ってね」と明るく答えて走っていくこの子の後ろ姿を見ながら、なんとも言えない気分になる。もちろん、この日、わたしはこの「待っている3人の子」と出会うことは無かった。
口を出したケース、女の子の集団が、1人の目の前でにやにやと、その子だけがわからない合図を送る、仲間で送り合う。陰湿だなあと思う。この集団がわたしを「友達」と認識して、その合図をわたしに教える。笑いながら、「仲間の認識」を楽しみながら。
こら。ここで介入。「誰とでも仲良くなんてきれいごとは言わない、誰が誰を好きで誰が誰を嫌いだろうが、わたしはいっこうにかまわない。ただ、集団で陰湿なことはやるな。」と言う。
返ってきた答になんだかうなだれるような思い。「だってあの子は一人っ子で我が儘だってママが言ったもん」。おいママ、なんとかしてくれよ、まったく。
口を出したケース、男の子がひとり道路のまん中でうずくまり、3人が蹴る。「何やってんの」
最初はジャンケンで負けた子をぶつ、というところから出発して、だんだんエスカレートしたらしい。見物する子どもたちが取り囲む。こら、黙って見てるんじゃないよ、これはプライドの問題として度を超えてる。
とりあえず、場を崩す。「だいじょうぶ?」(体じゃないよ、心はだいじょうぶ?) 親に報告すれば子どもに問いただして、再度この子のプライドが傷つくかもしれないと思って、黙る。数日後、一言だけ聞く。「あの子は最近、どう? 変わったこと、ない?」
母親が泣く。通学中のあの子の姿であなたには感づかれていたのか、と。実は下の子が大きなケガをした。心配で気持ちが乱れて、何度も上の子につらく当たった。そのことをゆっくり聞く。これは母親を助けなければ、あの子も多分助けられない。一通り話を聞いてから「しばらくあの子を大事に見てやってほしい」と伝える。本当の展開を教えたのは数年後、この子の許可を得てから。
笑いながら、殴る蹴るの「寸止め」。非常に陰湿。殴ってもいない、蹴ってもいない、「寸止め」。ぎりぎりの「寸止め」。小手先で獲物をもてあそぶかのような行為が続けられる。心はずたずただろうと思う。体の大きい、集団で目立ちそうな男の子、おどおどとやられっぱなしの男の子。
このとき、わたしはこの「暴力に達しない悪意という暴力」をふるっていた男の子に言う「あなたは悪い」。発した言葉は一言だけ。でもわたしはこのとき、この子の胸ぐらをつかみあげてしまった。わたしともうほとんど変わらないような身長の6年生の男の子。
このタイミングで「獲物」は逃げた。わたしはこの日から数週間、電話に脅える。親からの電話。わたしは「暴力」を胸ぐらをつかみあげるという「暴力」で抑えた。子どもの「暴力」、寸止めで言い方によっては「行っていない暴力」と言える暴力。そしてわたしは「小学生の胸ぐらをつかみあげた」。怖かったのは親からの苦情。親は子どもの言い分をなんでも聞く生き物だから。結局、電話は鳴らなかった。
通学路上の子どもの危険を再三言われ、学校から何度も「1人で帰らないように」と子どもたちに伝えられる。
それでも1人で帰る子というのは多分存在するだろうと思う。1人で帰る展開になる子は、けして1人で帰りたいわけじゃないのにね。
わたしは娘が入学してから数年、朝、学校まで一緒に登校していた。最初はいっしょに、そして徐々に見守り、尾行と変えていったのだけれど、いろいろな形でわたしは「朝の通学路」にいた。
子どもたちの社会、経験で学習していくこと。そういう観点で通学路に存在する「大人」として、あえて口を出さなかったことも多い。
女の子は、1人いじめをする。もうこれは子どもの発達の中で起きるということなのかもしれない。3人になれば2-1になり、4人になれば3-1になる。これはある意味、もうどうしようもないことなのかもしれない。そこで何か言っても、これをやる子、これを仕掛ける子は、「大人」のいないところで必ずやる。
「お友だちを待ってるの」とずっとずっとひとつの場所に居続ける子、「もうこんな時間だよ、遅刻するよ」と声をかける。「でも待ってなきゃ」。
「誰を待ってるの?」「○○ちゃんと○○ちゃんと○○ちゃん」
ああ、3-1か、と思う。多分、いやかなり高い可能性で、この子はまかれた、のだと思う。すでに子どもの流れは途絶え、この子も走っていかなきゃ多分遅刻するだろう。
「わたしが○○ちゃんのおうちの方を通って帰る、会ったらあなたが先に行ったと必ず伝えてあげる、だからもう行きなさい」
「ありがとう、先に行くからゴメンねって言ってね」と明るく答えて走っていくこの子の後ろ姿を見ながら、なんとも言えない気分になる。もちろん、この日、わたしはこの「待っている3人の子」と出会うことは無かった。
口を出したケース、女の子の集団が、1人の目の前でにやにやと、その子だけがわからない合図を送る、仲間で送り合う。陰湿だなあと思う。この集団がわたしを「友達」と認識して、その合図をわたしに教える。笑いながら、「仲間の認識」を楽しみながら。
こら。ここで介入。「誰とでも仲良くなんてきれいごとは言わない、誰が誰を好きで誰が誰を嫌いだろうが、わたしはいっこうにかまわない。ただ、集団で陰湿なことはやるな。」と言う。
返ってきた答になんだかうなだれるような思い。「だってあの子は一人っ子で我が儘だってママが言ったもん」。おいママ、なんとかしてくれよ、まったく。
口を出したケース、男の子がひとり道路のまん中でうずくまり、3人が蹴る。「何やってんの」
最初はジャンケンで負けた子をぶつ、というところから出発して、だんだんエスカレートしたらしい。見物する子どもたちが取り囲む。こら、黙って見てるんじゃないよ、これはプライドの問題として度を超えてる。
とりあえず、場を崩す。「だいじょうぶ?」(体じゃないよ、心はだいじょうぶ?) 親に報告すれば子どもに問いただして、再度この子のプライドが傷つくかもしれないと思って、黙る。数日後、一言だけ聞く。「あの子は最近、どう? 変わったこと、ない?」
母親が泣く。通学中のあの子の姿であなたには感づかれていたのか、と。実は下の子が大きなケガをした。心配で気持ちが乱れて、何度も上の子につらく当たった。そのことをゆっくり聞く。これは母親を助けなければ、あの子も多分助けられない。一通り話を聞いてから「しばらくあの子を大事に見てやってほしい」と伝える。本当の展開を教えたのは数年後、この子の許可を得てから。
笑いながら、殴る蹴るの「寸止め」。非常に陰湿。殴ってもいない、蹴ってもいない、「寸止め」。ぎりぎりの「寸止め」。小手先で獲物をもてあそぶかのような行為が続けられる。心はずたずただろうと思う。体の大きい、集団で目立ちそうな男の子、おどおどとやられっぱなしの男の子。
このとき、わたしはこの「暴力に達しない悪意という暴力」をふるっていた男の子に言う「あなたは悪い」。発した言葉は一言だけ。でもわたしはこのとき、この子の胸ぐらをつかみあげてしまった。わたしともうほとんど変わらないような身長の6年生の男の子。
このタイミングで「獲物」は逃げた。わたしはこの日から数週間、電話に脅える。親からの電話。わたしは「暴力」を胸ぐらをつかみあげるという「暴力」で抑えた。子どもの「暴力」、寸止めで言い方によっては「行っていない暴力」と言える暴力。そしてわたしは「小学生の胸ぐらをつかみあげた」。怖かったのは親からの苦情。親は子どもの言い分をなんでも聞く生き物だから。結局、電話は鳴らなかった。
通学路上の子どもの危険を再三言われ、学校から何度も「1人で帰らないように」と子どもたちに伝えられる。
それでも1人で帰る子というのは多分存在するだろうと思う。1人で帰る展開になる子は、けして1人で帰りたいわけじゃないのにね。