S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

通学路

2006年01月20日 | つぶやき
 小学校の通学路は、教員も大人もいない。時々、子どもたちの「無法地帯」になる。

 わたしは娘が入学してから数年、朝、学校まで一緒に登校していた。最初はいっしょに、そして徐々に見守り、尾行と変えていったのだけれど、いろいろな形でわたしは「朝の通学路」にいた。

 子どもたちの社会、経験で学習していくこと。そういう観点で通学路に存在する「大人」として、あえて口を出さなかったことも多い。

 女の子は、1人いじめをする。もうこれは子どもの発達の中で起きるということなのかもしれない。3人になれば2-1になり、4人になれば3-1になる。これはある意味、もうどうしようもないことなのかもしれない。そこで何か言っても、これをやる子、これを仕掛ける子は、「大人」のいないところで必ずやる。

 「お友だちを待ってるの」とずっとずっとひとつの場所に居続ける子、「もうこんな時間だよ、遅刻するよ」と声をかける。「でも待ってなきゃ」。
 「誰を待ってるの?」「○○ちゃんと○○ちゃんと○○ちゃん」
 ああ、3-1か、と思う。多分、いやかなり高い可能性で、この子はまかれた、のだと思う。すでに子どもの流れは途絶え、この子も走っていかなきゃ多分遅刻するだろう。
 「わたしが○○ちゃんのおうちの方を通って帰る、会ったらあなたが先に行ったと必ず伝えてあげる、だからもう行きなさい」
 「ありがとう、先に行くからゴメンねって言ってね」と明るく答えて走っていくこの子の後ろ姿を見ながら、なんとも言えない気分になる。もちろん、この日、わたしはこの「待っている3人の子」と出会うことは無かった。

 口を出したケース、女の子の集団が、1人の目の前でにやにやと、その子だけがわからない合図を送る、仲間で送り合う。陰湿だなあと思う。この集団がわたしを「友達」と認識して、その合図をわたしに教える。笑いながら、「仲間の認識」を楽しみながら。
こら。ここで介入。「誰とでも仲良くなんてきれいごとは言わない、誰が誰を好きで誰が誰を嫌いだろうが、わたしはいっこうにかまわない。ただ、集団で陰湿なことはやるな。」と言う。
返ってきた答になんだかうなだれるような思い。「だってあの子は一人っ子で我が儘だってママが言ったもん」。おいママ、なんとかしてくれよ、まったく。

 口を出したケース、男の子がひとり道路のまん中でうずくまり、3人が蹴る。「何やってんの」
 最初はジャンケンで負けた子をぶつ、というところから出発して、だんだんエスカレートしたらしい。見物する子どもたちが取り囲む。こら、黙って見てるんじゃないよ、これはプライドの問題として度を超えてる。
 とりあえず、場を崩す。「だいじょうぶ?」(体じゃないよ、心はだいじょうぶ?) 親に報告すれば子どもに問いただして、再度この子のプライドが傷つくかもしれないと思って、黙る。数日後、一言だけ聞く。「あの子は最近、どう? 変わったこと、ない?」
 母親が泣く。通学中のあの子の姿であなたには感づかれていたのか、と。実は下の子が大きなケガをした。心配で気持ちが乱れて、何度も上の子につらく当たった。そのことをゆっくり聞く。これは母親を助けなければ、あの子も多分助けられない。一通り話を聞いてから「しばらくあの子を大事に見てやってほしい」と伝える。本当の展開を教えたのは数年後、この子の許可を得てから。

 笑いながら、殴る蹴るの「寸止め」。非常に陰湿。殴ってもいない、蹴ってもいない、「寸止め」。ぎりぎりの「寸止め」。小手先で獲物をもてあそぶかのような行為が続けられる。心はずたずただろうと思う。体の大きい、集団で目立ちそうな男の子、おどおどとやられっぱなしの男の子。
このとき、わたしはこの「暴力に達しない悪意という暴力」をふるっていた男の子に言う「あなたは悪い」。発した言葉は一言だけ。でもわたしはこのとき、この子の胸ぐらをつかみあげてしまった。わたしともうほとんど変わらないような身長の6年生の男の子。
このタイミングで「獲物」は逃げた。わたしはこの日から数週間、電話に脅える。親からの電話。わたしは「暴力」を胸ぐらをつかみあげるという「暴力」で抑えた。子どもの「暴力」、寸止めで言い方によっては「行っていない暴力」と言える暴力。そしてわたしは「小学生の胸ぐらをつかみあげた」。怖かったのは親からの苦情。親は子どもの言い分をなんでも聞く生き物だから。結局、電話は鳴らなかった。

 通学路上の子どもの危険を再三言われ、学校から何度も「1人で帰らないように」と子どもたちに伝えられる。
それでも1人で帰る子というのは多分存在するだろうと思う。1人で帰る展開になる子は、けして1人で帰りたいわけじゃないのにね。

賞賛

2006年01月17日 | つぶやき
教職員による給食注入実施決定/atelier F.F. ゆうくんちの日常
 日常的に医療的ケアが必要な子どもたちというものがいる。この医療ケアは養育者に関しては、医療従事者じゃなくても認められる。しかし学校の場に関しては、教職員がやるのはダメという自治体は多い。給食注入以前に気管切開をしている子どもが肢体不自由養護学校に通学する(通学籍をもつ)ということも、自治体によってはひどく難しい。
 医療ケアを行うときには、養育者が学校に行って、その医療ケアを行う必要がある。←簡単にいっちゃえばこんなことだけれど、それは養育者の体調不良時には「親ガメこければみなこけた」状態になるということであり、子どもは学校を欠席することを余儀なくされる。そして子どもが学校で「社会生活」を行うという精神的な成長の場に常に親がうろうろすることというのは、障害の有無に関わらず、子どもの成長にとって、けしてほめられたことではない。
 「教職員による給食注入実施決定」、これはこの壁に穴をあけ、道を開いていくこと。ここに行き着くのは、簡単なことじゃない。簡単なことじゃないなんて簡単な言葉で語ることさえ罪なんじゃないかっていうくらい、簡単なことじゃない。
 よくやった、よく道を開いた、と思う、リエ、エラい!
 あなたが歩いた道は、きっと誰かの力になる。

「女性自身」を読んでください!/モラルハラスメント・ブログ
 これはもう、本文参照で用は足りる。
 あの精神的な地獄の日々、揺り返される泥沼からよく這い上がったと、いつもいつも、何度も何度もそう思う。そしてあなたの記していく軌跡は、誰かの目覚めと勇気につながっていく。
 まっち~、エラい!
 
 だから何? いや大声で賞賛したくて。

ショート・アイズ

2006年01月15日 | つぶやき
 2005年08月20日にアップした「宇宙遊星間旅行」に入れられたねこどしさんのコメント。
大人になってふと思い出し探してましたが廃刊との事。しつこく古本屋を探し、おととしネットを通して見つけなんと2万で購入しました。
 そうそう、こうやって、探し続けたものに出会えるチャンスを拾えるのがネットというものであるよなあ、と。

 過去、自分の中で未完成になっている思考の元になっているもの、そんなものを解決させるためにネットを利用することがある。その中で、ネットでも見つからない、非常に残念なものがわたしにはある。

 1982年に文学座で上演された「ショート・アイズ」という作品がある。わたしはこの作品のゲネプロ、つまり上演前の通し稽古を見学する機会を当日突然に得て、前情報全く無しに観劇。非常に強く印象に残ったのだけれど、テーマや、その演出においてどこに主眼を置いたものだったのか、全く覚えていない。観劇後、そのポスターを見ながら、強く残った余韻に呆然としていた記憶のみが残っている。

 ずっと長いことそのままになっていたのだけれど、ネットを利用するようになって、この終わらない感想を完結させたいという欲が出る。

 でも見つからない。本も出版されていない。このときの上演の感想や解説をしてくれる個人サイトも無い。

 見つかったもので、めぼしいものはコレだけ。 ミゲル”マイキー”ピニェイロ”を知ってますか

 以下、本文から引用。
「ショート・アイズ」とは、児童暴行犯を指す隠語で、プエルトリカンやアフリカン・アメリカンばかりの刑務所に白人の「ショート・アイズ」が収監されるというドラマだ。
 柄の悪い悪質な犯罪者ばかりが収監されている刑務所。そこに白人の気弱そうな囚人が収監される。その囚人の犯した犯罪については、他の囚人たちに隠されている。
 やがて、この白人の犯罪を、他の囚人たちが知ることになる。この犯罪がわかった時点で、他の囚人たちは瞬間沈黙し、憎々しげに吐き捨てるように呟く。「ショート・アイズ」「ショート・アイズ」「ショート・アイズ」…。
 児童に対しての性的暴行犯は「ショート・アイズ」と呼ばれ、もっとも軽蔑され、憎まれる存在だと、そんな意味合いだったと思う。この白人はこの日から、他の囚人たちから数々の暴力と暴行を受け、殺されるのだったか自殺するのだったかという形で、ぼろぼろの状態で死ぬのがラストだった。
 この白人が、自分を忌み嫌いながらも、自分の犯罪を語るシーンがあった。そのシーンの視点が誰よりであったのか、記憶が定かじゃない。ストーリーの展開もよく覚えていない。たった1人の白人という、人種差別が関係していたのかということもよく覚えていない。ただ、わたしの記憶に強烈に残ったのが、他の囚人たちが新参者の白人を「児童に対しての性的犯罪者」と知った時点の反応と、その憎み方だった。全て囚人で、いわゆる世間的に正しい人間など1人もいない。しかしその中でも、憎むべき罪として、法律を超えて人間の価値観で裁かれる存在と出てきた「ショート・アイズ」。

 映画として上演されたというこの「ショート・アイズ」、日本では公開されなかったようだ。日本では、この文学座の上演後、本多劇場にて公演されているらしい。

 これ以外の情報が手に入らない状況で、わたしは誰かの「ショート・アイズ」公演のレビューが読みたい。この作品についてもっと知りたい。とりあえず、検索であまりにも少ないこの「ショート・アイズ」に関しての、個人が出せる情報のひとつとして、拙いなりに出しておこうと思う。

更新

2006年01月14日 | インターネット雑記
 アクセス数というもの、自分が残すものに対しての反響というもの、これに対してわたしは「漠然とした数」はいらない。自分が残したものの向こうに「人間」が感じられればそれでいい。
 
 自分が残すものを通して、人と対話する、相手を知る。自分が許容できるその数には限界があり、その限界を超える数はわたしには難しい。

 ただの「数」から、記憶に残る「人間」が浮き出る。わたしにはその方が意味が大きい。

 わたしは自分の前にある「箱」から、「箱」の向こうへ発信する。人間に向かって発信する。日々、「箱」に向かって「チャンス」を発信する。

 閲覧できる状態にある限り、わたしの残したものは発信を続ける。そしてそれを願いながら、これからも発信し続けるのだと思う。

ブログ閲覧時の「部分表示と全文表示」

2006年01月11日 | インターネット雑記
 読み手としての感覚で言うと、部分表示が中心になっているブログは、わたしはあまり好きではありません。理由は閲覧がめんどくさいから。ひとつの記事だけを読む場合にはそれでいいんです、ただしその記事から興味を惹かれてトップに行って、並んだ記事が全て部分表示の場合、あくまでもわたしは、ですが、次の記事を読む気が減少します。
 
 部分表示はいちいち記事を開けて読まなきゃならない。ブログ自体か軽いとこならいいのですが、ぎっしりと画像だの情報だの詰まったブログや、背景に画像を使ったブログはその、記事を開くときにいちいち開く時間を待たされる。また、待たされるというほどの時間がかからなくても、メニューだのなんだのといちいち表示されていく動きがなんというか「目にうるさい」。特にアク解の忍者ツールを使っている場合、ちらちらと画面の端で動きながら出てくる小さな手裏剣がいちいち出てくることがまた「目にうるさい」。開いた記事に対しては、そうした持たされる感覚分の期待をしますから、あまり満足できなかった場合、全文表示のブログを閲覧したときよりも、勝手ながら不満度は上がります。そしてそうしたストレスを数回持たされた経験のストレス感は、実に勝手ながら、次に全記事部分表示のブログと出会ったときにスライドされてもいきます。
全記事部分表示を選択しているブログに関しては、わたしは、こうしたストレス感を軽減させるために、カテゴリの充実と、検索窓の設定を是非、と思います。

 例外は、すでに巡回リストに入っているブログ、RSSリーダーで全文が読めるブログです。
 すでに巡回リストに入っているブログは、部分表示だけでその全文表示を開くかどうかの「心理的敷居」は低くなっていますし、巡回リストに入れただけの「信頼感」は持っています。また巡回リストに入っているブログの場合は、過去記事をいくつかまとめて読むということもなく、部分表示を開くという回数が一度だけなので、たいした手間とも思わず、日常の「そこのブログではそう」的な解釈のひとつとして定着。ただし、自分が出会った以前の過去記事を読もうという気になったときに、「いちいち部分表示を開いて読まなきゃならない」という心理的な圧迫感を持つ要素はあります。わたしは過去記事に関しては、全文表示が中心のところの方がよく開く機会が多いです。
RSSリーダーで全文が読めるブログの場合は、本文だけが全文表示されますので、メニュー画面や背景画像の表示速度などが全く関係なく全文を開くことができます。ただし、過去記事に興味を持ったときに、RSS取得以前のリーダーでは読めない記事に関しては、上記と同様です。

 わたしはgooを開いた時点で、ブログというものはこういうものかと、たいして考えもせずに全記事部分表示を選んでいました。その後、全記事全文表示に変更。ひとつひとつの記事を開く回数分のページビュー数を失い、ページビュー数は一時的にがくっと落ちましたが、その後、またじわじわと上がり始めました。これは、該当記事以外のページを開く回数、つまり「ついでに過去記事を開いていく」アクセスが増えていったことを表していると解釈していますが真偽のほどはわかりません。尚、ピックアップ記事をトップにあげたのは、その後です。

 gooは全記事部分表示か全記事全文表示か、の二者択一しかできません。しかし他のサービスでは記事によって部分表示か全文表示か選ぶことができるものがあります。こうしたところに関しての部分表示は、部分表示にしたことに関しての「書き手の意志」を推測しながら開くということがあり、それはそれで楽しいです。

*追記:興味深かったので、リンク
 ・ページの見易さと書き手の意図/やっぱり本が好き
 ・■[ネット]ブログ閲覧時の「部分表示と全文表示」 [S嬢のPC日記]/明日は明日の風が吹く

過去記事紹介:1

2006年01月08日 | ブログ紹介
 ずいぶん前から、ピックアップ記事を整理しようと思いつつ、放置しております。
そのときは一生懸命考えて記事上げしてるんだけれど、読み返すとぐちゃぐちゃと余計なことが多いような気がする。
ブログというものは現在進行形の媒体なのですねえ、なんてのが感想。
とりあえず、候補としての過去記事紹介、「障害」系。

「ぼくのお姉さん」
「障害」という事実を受け入れるということ
みにくいアヒルの子

更新と整理

2006年01月03日 | インターネット雑記
 昨年(とあえて言ってみる)、ひろりんさんの「こんなのでいいのかな…」から、トラックバックをいただきました。
ブログに更新を続ける情報性のあるものに対して、その有効な活用の仕方に関してご意見を、という内容のものだったと思います。整理して記事上げしてからトラックバックにてお返ししようと思っている間に、該当記事が削除によりなくなってしまいました。
リアクションが無いことに対してのご配慮だったのではないかと思います、気を使わせてしまったようでごめんなさい。

 更新を続けていく中で出てくることとして、304 Not Modifiedの「更新するということ」で語られる要素は避けられないことだと思います。
そのことに対して、どういう対策を持っていくか。それはそのブログにより行動は変わると思う。
304 Not Modifiedの「目次カテゴリ」のように、一覧を作ってしまうのも一つですし、わたしのところのようにピックアップをトップ記事に常に置くという方法もある。またむだづかいにっきのように、ピックアップ記事をメニューに入れていくというやり方もあると思います。

 その上で、ひろりんさんのところのような、一つのソフトに対して探求するという情報性の高い記事群に関しては、ブログで少しずつ記事上げした後に、まとめとして、FAKのKTAさんが作っている「携帯レビュー」のようなサイトを作ってブログにリンクさせるというやり方もあると思います。ブログで更新した場合、このサイトも随時更新、という形になるでしょうか。
ブログの他にサイトを持つという形になりますが、検索で訪問する情報性に関してのリクエストが高い閲覧者にとっては、こちらの方がわかりやすいのは明確かな、とも思います。

 以上、例示としてあげたところは、全て、ブログを開いたことで出会わせていただいたところです。ブログという媒体は、情報と、人と、出会うチャンスが大きい媒体であると認識。
この媒体を、今年も有効活用していこうと思っています、ということで、本年もよろしくお願いいたしますで閉める2006年最初の更新。