「
僕の歩く道」を毎週観ていて思い出すのは「
レインマン」。
ということで、先日のTSUTAYAの半額日に、「レインマン」を借りる。
公開当時観ていて、ずいぶん久しぶりに再見。
「レインマン」を借りるときに、ふと思い立って「
ギルバート・グレイプ」も借りる。
借りた動機は、ディカプリオの知的障害児役を観たかったから。
「レインマン」と「ギルバート・グレイプ」。これは両者共に、障害児のきょうだい児が主人公。
「レインマン」は自閉症の特性である行動障害に対する嫌悪から始まって、愛情の場面が後から来る。
「ギルバート・グレイプ」は、知的障害のある弟に対して冒頭の紹介部のナレーションで「時々嫌気が」と出てくるが、愛情の場面でつないでいき、後半で衝動的な怒りが来る。
「レインマン」は、弟が、最初は存在さえ知らなかった兄と旅をすることになり、兄を知り、いっしょに暮らしたがるが、その思いを断念させられる。
「ギルバート・グレイプ」は、兄は、父が自殺をし長男は家を出てしまったという状況の中で、その肩に常に知的障害をもつ弟を背負い、弟から離れる選択肢を持っていない。最後のシーンでも「We can go anywhere.」と言う。その主語は一人称では語られない。
両者に共通しているのは、きょうだいが知的障害をもつ兄や弟に向かい合うときに、親がそのきょうだいを助ける立場にいない、ということ。
知的障害児のきょうだい児としては、その相手役との恋愛面からだけ見れば、両者共にいわゆる「シンデレラストーリー」。
きょうだい児がきょうだいのもつ知的障害に対しての、混乱、嫌悪、ため息等のマイナスな心情、また衝動的行動をとっても、その恋人は受け入れる。恋の相手にも、知的障害をもつきょうだいに対しても。そしてそのことは、主人公を助けていく。
通常はこんなシンデレラストーリーだけではないと思う。
ダスティン・ホフマンの自閉症役の演技に関しては、語るに及ばず。
初見は自閉症と診断名がつく障害児・者に身近で出会ったことが無い時代。無い時代だからこそ、素直にダスティン・ホフマンが創り出す世界にはまる。
ギルバート・グレイプは、障害というものに出会ってから観た、ということになる。
ディカプリオの知的障害児役には、もう、脱帽。
天才子役だったというエピソードには強くうなづくが、全ての動きの細部に表現としての緻密な計算があり、天才である前に努力家なのだとも思う。
ただ、その努力すべきポイントに気づく、構築する、形にしていくセンスという意味では、やはり天才なんだろうとも思う。
知的障害児をドラマに出すというと、すぐにピュアだの感動だのってことに結びつけていくという短絡的な思考のものは数多くあるとは思うけれど、ギルバート・グレイプに登場する知的障害児は、狡くて汚くて自分勝手。
「わかって欲しいこと」がいつまでたってもわからない。わかろうとしないことも含めて。
そのことを感じてしまうことにマヒしていくか、気長に気長にわかってもらえる日を待つか。
今日蒔いた種の実が結ばれるのが一年後か十年後かそれよりもっと後なのかわからない。
そういうことがあるということ。それが知的障害児の生の姿でもあると思う。
その生の姿と接しながら、様々な感情を織り交ぜて、葛藤し、そのことに左右されても、その根底の「愛情」が導き出される。
それが知的障害児の家族の生の姿でもあると思う。
「レインマン」は、兄を見つけた話ではあるが、その障害に対して起こる衝動的思いは、障害自体たとえば自閉症特性に関しての無知から来るかんしゃくのようなものであり、障害というものを知った上での葛藤の方が、ずっとやっかいだと思う。
*「ギルバート・グレイプ」:2007年2月6日まで、ヤフー動画にて無料で視聴できます。
http://streaming.yahoo.co.jp/p/t/00154/v00584/