S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

See you again.

2005年12月22日 | ○○さんにトラックバック!
 「障害者の“きょうだい”のつぶやき」が、閉鎖です。さようならの挨拶をする「冬眠」を読み、万感の思い。

 このブログ、メニューのトラックバック欄にずらずら~っとわたしのところから入れたトラックバック記事の記載が並ぶ。触発という要素、大きかったですね。
そのまっすぐな視点で書かれた文章は、表に出ない形での触発も生まれたと思う。あなたの知らないあなたのファンは、たくさん存在するとわたしは思うわ。

 触発ということ以上に、コメント欄で、トラックバック送受信で、楽しかったですよ、やり取りは。たくさん話さなくても共感を覚えるということも多かったと思う。
冬眠」という形で入れたさようならの挨拶に、どう反応しようか数日悩み、トラックバックという形を取ります。

 一時期、存在していてくれてありがとう。さようなら。お元気でね。
とは言っても、ブログが消えても、完全にさようならをする気はさらさら無いのですわ。まだまだ当分、わたしはここにいるわ。また会いにきてください。
いつか飯でも食おうね。

「伝える力」を身につけたい

2005年10月14日 | ○○さんにトラックバック!
ブログは文章力を上げるとは限らない/304 Not Modified

文章力ってなに?
作文というものが上手か下手かってこと?
ブログにおいて「伝えたいことが伝わるように文章にする力」は、いわゆる「作文が上手か下手か」は影響するかもしれないが、必ずしもそれは絶対ではないと思う。
構成だの表現だの下手くそだって、「伝わるものが伝わって記憶に残る」というものが、ブログには存在する。
文章として書かれたものがうまいか下手か、なんてことは、ブログ上で個人が何かを出していく上で、「読み手」としてのわたしはそんなにポイントにはしていない。
説明文、意見文がわかりやすくなることに越したことはないけれど、「これが言いたい」ということの存在自体には、わたしにとってはあまり影響しない。
読み手にも、その文章が記載された思考を読みとる力だって必要とされるわけだし、この読みとる力というものは読み手側の感性も大きく影響するとも思う。
「書き手」としては、自分の思考を文章に表現していくことで、その思考を明確化していく要素がある。
そこに必要とされるものは、文章自体のうまい下手ではなく、明確化することに向き合う姿勢だと思う。

またここであげられている「2ch語」に関しては、以下に同意。
ブログは文章力を上げるとは限らない(304 Not Modified)
 2ch語は「言葉にならない感情」という切り札を容易に「キター」等の言葉にしてしまい適当な言葉を探さなくなる。何でもかんでも「ヤバい」と表現するのと同じ。フォントいじりはバラエティー番組の字幕と同じ。
2ch語は基本的に「共通経験を有することが必要な仲間言語」。
使用しない側の人間にとっては意味不明、使用する人間がその特徴をいかに述べようとも、使用することによって読み手を限定するものであることには変わりない。顔文字も同様の要素がある。
使用言語は思考にも影響する要素があり、使用者を限定する言語に基づいて思考したものに関して「一般」に公開する場合には、翻訳/意訳する意識が求められる。
<まとめ>
 ブログは文章力を上げるためのツールではありません。
 しかし、ブログで文章力を上げることもできると思います。

以下、上記にそってまとめ。

ブログは作文能力を上げるためのツールではありません。
しかし、ブログで更新を続けていくことにより、伝えたいことを伝えたい相手に伝える工夫をする思考を意識することを身につけたり、また伝える力を熟達させる可能性を持つことはできると思います。


*トラックバック:ブログは文章力を上げるとは限らない/304 Not Modified

公開された場に思考を刻む

2005年10月13日 | ○○さんにトラックバック!
ねえねえ、聞いて。
伝えたいことがあるの。
あなたに。
そして誰かはわからないけれど、わたしが伝えたいことを感じてくださるどなたかに。
ひとつのボタンを一度押すと、わたしの思いは公開される。

何のために。
わたしはわたしのために話し、わたしのために今日のわたしを記録に残す。
明日のわたしに伝えるために。
今日のわたしはここにいるわ。
明日のわたしはどんなだろう。

頭のなかの思いを言葉にして放出する。
わたしはわたしの頭の中から出てきた言葉を眺める。
それは明日のわたしに向かっていく種でもあり、芽でもあり。
言葉にして放出する行為は、その種や芽に対しての、最初の肥料かもしれない。
公開は、適度な緊張感と、その先に向かうためのチャンスをもたらしていく。

あなたの言葉を眺める。
あなたの声を聞く。
あなたの思いに思いを馳せる。

今日のあなたを覚えておこう。
明日のあなたはどんなだろう。

そこから巡った思い。/徒然こそだて日記 にトラックバック

Ad.Y&Wさんにお返事

2005年10月09日 | ○○さんにトラックバック!
インターネット上で、ひとつの文章と出会う。
「見た」だけで終わるものもあるし、「思い」や「疑問」を喚起するものもある。
喚起してもそこで終わるものもあるし、そのことに対して、またインターネット上でなんらかの形で出していく場合もあると思う。

非常に興味深いブログを発見です。
こんな世界のはしっこで・・・
こちらの管理者が管理されるはてなブックマーク「せかたん定点観測所(建設予定地)」でブックマークされたものに関して、抽出してその感想を書かれた文章が掲載されています。

こちらの最新記事、
一方的な「想い」で「交流」できるだろうか?

「交流」(S嬢のPC日記さま)
という出だしに、「はいはい」と、こう、お手紙を読むような感じで読ませていただきました。
使う言葉が意味するもの、このことでわたしは「疑問」をお渡ししたのでしょう。
もちろん「交流」ではないからといってそれに価値や意味がないというわけではない。
それに意味や価値を見出すのは人それぞれだろう。

要約すると『「交流」以外にも価値や意味はあるだろうけど、「伝わらない交流」は「交流」とは呼べない』って事。

回答、しっかり受け取りました。
お返事としては、ここで取り上げられた「交流」という記事の最後の一行を書き換えてお渡しします。
でも、見える結果だけを短絡的に意識し過ぎて、それを追い求めようとしてしまうのは、何か違うんではないかと思う最近です。
「内に秘めた想い」の発生や蓄積が、どんな形で現れていくのか。
そのことに無理はしたくないと思う。
でも全てはこの「内に秘めた想い」の発生が原点ですよね。
そのことをわたしは、大事にしたい。

感想として持たれたものを、形として出していってくださってありがとう。
さかのぼって、いろいろな文章に対して感じられたことも読ませていただきました。
おや、もうひとつ、自分の書いたものがここにあった、などと「」について書かれたものも読ませていただきました。
これに関しては、恋愛関連に話が及んでいる部分がありますので、こちらのアドレスをお渡ししたい。
高樹 洸 名言集:男だもの(その参)のトップに出てくる「書」とそれに関しての文章。
全くの嘘でない場合に限って、「ツッコミ」で答えてやるのも、愛ですわ、愛。
間髪入れずに答えて欲しいというものに答えてやるという「行動」は、答えてやるというより応えてやるということであって、それはその「行動」ということ自体が、この手の質問に対しては、そうそう「嘘」とも言えますまい。

以上、一方的な「想い」で「交流」できるだろうか?/こんな世界のはしっこで・・・ にトラックバックです。

『俺はまだいける確認』

2005年08月17日 | ○○さんにトラックバック!
まめなはうす、あ、いやちがった まなめはうす からおもしろいブログ発見です。
2005-08-15 (Mon) 20:46更新分
コメント付きで引用。
★独身でいるか結婚するか
http://d.hatena.ne.jp/rima2005/20050814/1124052417
(情報元:塀までひとっとび!)
ははは、おもいっきり満足しちゃってます orz
この 塀までひとっとび! 、該当記事を読みつつ、周囲を観察。
メニューのカテゴリ名がなんとも「そそられ」ます。
え?どこにって、そりゃ、「内緒」でしょう。
ん?なになに?って、釣られるのが普通? じゃない?

そして見つけたコレ。
■[内緒]奥さんの奥さんによる奥さんのための『俺はまだいける確認』

うんうんうんうん、
わかる、わかる、わかる、わかる。
ダンナのために、と書いてあるが、子どものためにってのもアリです。
子どもの友達ってのに、「ママ比べ」がヒソカに発生しているのを時々感じるのは「内緒」です。
そして何より自分のためにも『俺はまだいける』感覚は必要かもしれない。
背筋をきれいに張っているために。
背筋どよんとさせると、たちまち全体がどよんとした印象になります。
こうなると、つっかけをどたどたと引きずるのが日常になり、履きたいチャンスにヒールが履けなくなります。

ただし、『俺はまだいける確認』の『確認』がもしも、ど~~しても他者から取れない場合の「安易な秘策」がアリます。
これは都内近郊の方に対して提示できる秘策ですが、都内近郊以外の方は類似する環境をさがしてみるといいかもしれぬ。
これはある時刻にある場所を歩くことです。
まるで「群がるイタリア男」の前を歩くようです
ある時刻、ある場所とは。。。

夕刻のアメ横、特に生鮮食料品店の前
おねえさん、おねえさん、マグロ安いよ。
おねえさん、おねえさん、コレ、買ってかない?
おねえさんなら、コレ全部で千円でいっちゃうよ?
デカい子ども連れてようがなんだろうが、当然のように「おねえさん」です。
ふむ。
『俺はまだいける』・・・。
(刺身等のナマモノが並ぶ店の前を6時過ぎに歩くのがオススメです、必死に口説いてくれます

塀までひとっとび!■[内緒]奥さんの奥さんによる奥さんのための『俺はまだいける確認』 にトラックバック。

わたしはあなたを忘れない

2005年07月30日 | ○○さんにトラックバック!
テレビの特番等で、「あの人は今」とか、過去の音楽史とか出てきますが。
そういうものに出てこないものでも、時代を彩るものってあったよね。

と、My☆Room「宝物☆」を読みながら思い出しました。

以下、ついてこられない若造、いやお若い方には申し訳ないですが、暴走します。

わたしはジャニーズ系には全く興味を示さない方でした。
しかし、『JJS(ジャニーズ・ジュニア・スペシャル)』は、おおおおお、と言いたくなるくらい懐かしい。
でも、なぜかジャニーズの歴史には出ない彼等。
なんでだー!!?
激しく同意。
当然、出てきてよくないですか?
アイドル商戦として、失敗してたんですか? 彼らは。
メンバーの「としちゃん」が、その後アイドルとしてジャニーズ事務所が出した「田原俊彦」の「としちゃん」と呼び名がかぶったからですか?

アイドルというものは、時代が人間をおもちゃにするものかもしれない。
アイドルらしい明るい笑顔に人は飽き足らなくなるのか、アイドル量産時代に「不幸を売りにした」、いや「させられた」人がいた。
「伝説」ともてはやされている山口百恵だって、内縁関係の子ども、非嫡出子の立場をずいぶんネタにされたものだった。
正妻が乗り込んできて文句を言ったという場にいたという彼女の生育歴の話は、ずいぶんと明星だの平凡だのといった芸能誌にゴシップではなく、ストーリーとして掲載された記憶がある。
「まるやま~、花街~、かあさんの~」と、「丸山花街母の街」という歌を歌ったのか歌わされたのかの「芸者の子」の三善英史もしかり。
そしてジャニーズ事務所といえば、孤児院育ちを売りにさせられた「かわいそうな星めぐり~」と、歌ったのか歌わされたのかの豊川誕。
豊川誕に関しては、特に検索で見つけたこの文章など読みながら、その哀愁を思う。
同じ時代に「よろしく哀愁」という郷ひろみの歌があったけれど、体育座りで冷えた視線で撮られる写真で「哀愁」を売りにさせられた当時の豊川誕の本当の哀愁なんてものは、ただ時代におもちゃにされただけだったんだろうかと思う。

そんなことを思いつつ、My☆Room「宝物☆」のような文章を読むのは、わたしはやっぱりかなりうれしい。
ジャニーズの歴史に出てこようが出てこまいが、彼らは確実に「時代にいた」し、ファンであることを忘れずにいる人が存在するのはなんかうれしい。
ファンというほどでもなかったけれど、わたしは「としちゃん」が好きでしたよ。
あの、なんか、ジャニーズ系というにはちょっと大人の顔を持った彼が出てくると、妙に視線がはずせないような、そんな感じでテレビ見てたなあと。

自分にとっての「時代の思い出」を彩る、存在した彼ら全てに感謝をこめて。
そして思い出を続々とよみがえらせてくれたMy☆Room「宝物☆」に感謝を込めてトラックバックです。

個人ニュースサイトとブログの関係

2005年07月13日 | ○○さんにトラックバック!
まずリンク。
304 Not Modified「ニュースサイトがブログを殺す」

以下、この記事に関して考察。
太字部分が引用部分です。

ニュースサイトはブログを殺すか。

殺すニュースサイトもあるでしょう。
殺されるブログもあるでしょう。

ニュースサイトからの被リンクは、一時的なアクセス数を増やします。
それは「影響」であって、「評価」ではない。
「評価」につながる出会いを、もしかしたら作るかもしれないきっかけに過ぎません。
被リンクは、「ヲチャー」を増やします。
その弊害も、あるでしょう。

殺すニュースサイトになるか。
それはニュースサイトの管理者のあり方で左右されることでしょう。
なぜその記事をピックアップしたか。
この理由が常に自分の中で明確である管理者は、「殺すニュースサイト」の管理者にはならないのではないだろうかと、わたしは思う。
自らクリップした記事に対して、揶揄するようなコメントをつける管理者は、クリップすることで起きる影響力の方に気持ちが惹かれるのかもしれません。
チョイスすることで、連鎖的に、そうした揶揄するコメントをつけるニュースサイトに情報が流れていく可能性もある。
でもね、それを気にしていたら、何も行動ができなくなってしまう。
大事なことは、なぜ自分がニュースサイトの管理者であることを選んだか、その初心に立ち戻ること、忘れないことなんではないかと思う。

殺されるブログになるか。
これは被リンク後の管理者自身のあり方で左右されることでしょう。
興味をもたれたものを、すぐに「評価」だと思い込み、ニュースサイトの影響力に足下をすくわれては長続きはしない。
そうした他者に踊らされること、それは管理者自身の問題なんではないかと思う。
こうした「影響」を、チョイスするニュースサイトの管理者が防ごうと思ったら、被リンク側がその記事をチョイスされた理由がわかりやすいコメントを付け続けることなんではないかと思う。

自らの経験としては、ニュースサイトの中で情報が伝わっていって、揶揄するコメントをつけるニュースサイトに被リンクでアドレスが出たこともある。
批判ということではない、揶揄するコメントを見て、正直いい気はしないです。
でも、この不快感も、最初にリンクしたニュースサイトの動機と良心を感じられているならば、充分耐えられることなわけです、わたしはね。

ひとつの思考、ひとつの思いというものが、全ての人に理解されるわけではない。
結局はそこに戻るのではないかな、と思う。

ブログは記事だけ奪われる。

いいえ、記事のみのピックアップが可能だということです。
ひとつのブログの中の全ての文章が誰にでも価値があるわけではないです。
でも、その中のひとつが誰かにとって、ピックアップが有効ならば、わたしは記事だけを提供します。
記事のみの独立した存在という構成がブログのシステムならば、そのシステムを利用するということは、記事だけの被リンクを受け入れるということでしょう。

ニュースサイトは、記事のみが評価対象だが
ニュースサイトの管理人は、ブログを評価対象とすることがある。
自分のサイトで取り上げるために。
そんな人をアナタはどう受け止める。


まなめはうすで「行動」として、すでにこの思考で動いていたこと、わたしは気づいていました。
6月から、誰かのクリッピングからの波及ではなく、ブログから直接ピックアップしたときに「情報元」の項にリンクタグを付けてブログ名を記載するようになりましたよね。
閲覧者は一度や二度の閲覧では、気がつかないことかもしれない。
ピックアップされた記事アドレスしか見てないかもしれない。
でも、閲覧者の印象に残りやすいコメントを付ける努力を続ければ、必ずこのことに気づく人は増えるでしょう。

そのときに、
「ニュースサイトがブログを殺す」のではなく、
「ニュースサイトがブログを育てる」という可能性がきっと見えてくるはずです。

7月10日にアップした 「個人HP」と「個人のブログ」 という記事ですが。
まなめはうす:2005-07-10 (Sun) 20:56 にピックアップされてから、数々のニュースサイトを巡り巡っているようで。
なんというか、やってみたかったことの「序章」でしかなかったことがここまで被リンク対象になるものかと、本人「へ?」というのが正直な感想でありまして。
このニュースサイトの影響力をご覧になりたければ、特に影響の強かった今日、gooのアクセスランキングに行ってみれば一目瞭然の状態です。
これは被リンクというより被リンク群であり、その影響は「3日」ではなく、多分一日限りの「大津波」でしょう。

その上で、こんなサイトがありました。
Target capture
このサイトの(05/7/12)のところにある、わたしの記事の紹介の仕方とそのコメント文。
このコメントを書いてくださった方に感謝しつつ、このコメントが生まれる発端になったのは、波及の出発点のまなめはうすです。

以上、304 Not Modified「ニュースサイトがブログを殺す」にトラックバックです。

実はですね、「コンテンツに力のある個人サイト」:個人ニュースサイト版として、まなめはうすをターゲットに草稿中。
まったく、
とんだ寄り道だわ。
「情報元にブログ名」のネタも先に出しちゃったし。。。

個人がブログを持つということ

2005年07月04日 | ○○さんにトラックバック!
個人がブログを持つということは、インターネット上において、現在進行形の自分の「基地」を持つことのような気がします。
自分の現在、現在の思考、そうした場を基準とする地点というか。
他者のブログに反応したときに、では自分はどう考えるかということを進めていくのに、思考としても、その意見表明としても、「基地」を持っている利点は効果的に作用すると思うのです。
誰に聞いてもらうわけではない意見と思う部分はあっても、その思考の履歴が残っていくことは、自分の明日にも確実に役に立つだろうと。
さらに、自分の姿勢次第では「生きるということを能動的にとらえる」というツールにも使えるのだなと、以下の文章を読んで思いました。

◆自分と語り、自分に正直であり、人前で自分の考えを表現しよう。
◆ユーモアを忘れないようにしよう。
◆意思を育て行動を起こすためのツールとして知識を蓄えよう。
◆社会の一員として、社会の仕組みを理解しよう。

ってな目標を年度当初に掲げ、そのための頭の交通整理をしたりするためのステップとしてブログを始めてみて、早くも半年以上が経つ。

五感をフルに使って生きていないとブログにも何も書けないってことがよくわかった。

宝探しの旅「ブログのお掃除」
ブログには、そのひとつひとつの記事にコメント欄とトラックバック機能という、コミュニケーションのためのツールが用意されています。
この部分をどう利用・活用していくか、ということもある。
このとらえ方や利用・活用の仕方というものは個人差が大きいとは思うのですが、わたしは 304 Not Modified「ブログに必要なのはコンテンツか?それともコミュニケーションか?」 に、その答のひとつを見出すような気がします。
ここで言われているのは、ブログというものは「自分」というコンテンツありきのものであるということ。
そして、コンテンツはコンテンツであり、
コンテンツ同士でコミュニケーションもとることができ、
コミュニケーションさえコンテンツになるのです。

304 Not Modified「ブログに必要なのはコンテンツか?それともコミュニケーションか?」
ツールというものは、生かす使い方をするときに、その真価を発揮します。
生かす使い方の最終目的は、アクセス数の多い少ないではない、とわたしは思います。
アクセス数というものは、モチベーションのひとつになることはあっても、目的ではない。
目的というものは、人それぞれに違いはあるのだろうと思いますが、わたしは 304 Not Modified「私が自分のサイトを持つ理由。」 にヒントが見い出せるのではないかと思います。

以上、更新が途絶えていたブログに再び向かい合っているとおっしゃるsariさんにエールを込めて、宝探しの旅「ブログのお掃除」 にトラックバックです。

日常と「障害」という言葉と

2005年06月30日 | ○○さんにトラックバック!
昨日、ブログ巡回をしておりまして、「おや」と思うことがあった。
ココ、なんですが。
はい、ここのコメント欄に出てくる「障害」という言葉のニュアンスのズレ、というか。
コメント欄に残してきたとおり、わたしにとっては、おおいなる考察ネタになりました。

この OUTER HEAVEN というブログの管理者の男の子は、彼が大学入った年の秋、まだ18の頃からの「ネット友」です。
2000年の秋、からですね。
継続的に交流のある「ネット友」なのは実に単純な理由。
年齢超えて好きなモノに関しての共通点が多々あったことや、文字で出す思考の傾向が「会話を成立させ」、おもしろかったから。
そんなこんなでこの数年間、彼は成り行き上という感じで、わたしとその周囲の「障害」という話題にからむネタに関して、日常的に閲覧という形でつきあわされてきた。
別に彼が「障害」ネタに関して関わってきたわけではなく、全然別種の話題に関して「交流」してただけで、彼にとっては「居間のテレビで障害ネタの番組が日常的に流れている」という感じだったんではないかと思う。
種々の障害をもつ子の母親同士の障害に関しての「ぶつくさ」や「乗り越える作業」等、まあ、いろんな話題があったな、と。
象徴的なワードとして「出産祝いの靴=悲しみグッズ」なんてのもあった。
ごく当たり前に贈られた靴なんだろうが、歩行が望めない障害や、足指の奇形なんていうことが出産には起こりえるわけで、「そんなことあるはずが無い」と信じ込まれた象徴のような「出産祝いに靴」ということが、エラく「痛い」ということを乗り越えなきゃいけない場合がある、と。
そんなことが「居間のテレビで日常的に交わされている場」に、彼は「いた」わけです。
お遊びのチャットに呼び出されて、そんな「かーちゃんたち」と、純粋に「しゃべって遊んだ」こともあった。

そんな経緯を前提として、再度ココのコメント欄。
この場において、「障害」という言葉が、相手に対して失礼なものと感じられたのだと認識し、彼が一生懸命伝えようとしているというのがわかるのだけれど。
あははと笑ってしまうほど、フォローとして機能しているかどうか、アヤシイ。

わたしはこのコメント欄において 「誤解を招くかもしれないけれど、コレって「メロンじゃなくてミカンかもしれない」に近い感覚で使ったんではないかと思うのだけれど 」とおいてきましたが、どうもコレもちょっと違う。
要は「エスパーではなく、人間ってことじゃないか」というようなことで「障害」という言葉を使ったのではないかと思う。
彼いわくの、全然フォローになっていない「なんかの処理機能の誤作動」というのは、彼にとっては「人間って時々そういうことってあるよね」という認識になっているんだなあと思ったのですよね。
共感覚という感覚に関心はあるけれど、特別視した失礼さを持っているわけではないということだったと思う。

彼自身、その生育歴の中でペルテス病の罹患歴があり、状態として「障害者」の時期はあったわけで。
告知の時点で「障害児です」という言い方を乱暴に使う医師に本人及び家族は傷つけられ、そして専門医の「障害者じゃない、治癒する」という言葉に助けられたという経歴もある。
つまり、「障害」という言葉の毒も、知っていたはずというか。

人間というものが、どんな集団、どんな社会の中で「生活」というものをやっていくか。
ここで、言葉に関しての認識すら変化する。
「差別」というものを怖れるな。
「偏見は無知から始まる恐怖」であり、その怖れは、日常的な「知」で変化していく。
ひとつの言葉を「差別用語」だのなんだのと「判定」していくよりも、その「差別用語」の対象となる人間がこつこつと普通に日常を暮らすこと。
そのことは大きな意味があるのではないかと、「全然フォローになっていないフォローをやってる姿」から感じたのでありました。

ははは、しかし、おかしかった、「全然フォローになっていないフォローをやってる姿」。
と、結局、いじくって遊んでいるわたしでした。。。
アンタの誠意というものが、ちゃんと相手に伝わるといいねえと思いつつ、願いつつ、
以上、OUTER HEAVEN 「共感覚」 にトラックバック。

*参考情報
 情報考学 Passion For The Future「共感覚者の驚くべき日常―形を味わう人、色を聴く人」

スパム・トラックバックにささやかな抵抗

2005年06月15日 | ○○さんにトラックバック!
「スパム・トラックバックにささやかな抵抗」大作戦。
いや、「大」でもなんでもないんですが。
ここでいう「スパム・トラックバック」の定義ですが。
1.な~んにも関係ない、ただの宣伝
2.「特定ワード」以外、何の関係も無い、ただのアクセス稼ぎ
「1」に関しては、ポストに放り込まれるDM、突然かかってくる宣伝電話。
そんなモノと同じで、営業に「どんなことでもやる」タイプなので、右から左にポイ。
実際、この手のトラックバックでアフィリエイトがからんでいるケースもありますし、商品販売が目的というケースもよくあります。
問題は「2」のパターン。
コレ、やってる人は「イヤなら削除すれば?」と思ってるのでしょうが、実際被害はあります。

[受信側の迷惑]
 閲覧に行って、何でしょうコレは?と「読むための時間」と「削除の判断をさせられる時間」を、ケースによっては半ば暴力的に奪われる。
[検索時の迷惑]
 こういうのに限って、大量に送ったブログからの「リンク数」で、検索エンジンに長期で上位に「鎮座まします」。
結果的に、検索エンジンの上位から、「情報性の優れたもの」「質の高いもの」を下位に押しやることにもなり、迷惑。

そう、個人の「自己満足」が、不特定多数の迷惑に発展していくのですよね。
そして、ポイポイと削除を重ねても、「いつでもどこでも誰にでも」発信していますね、この類は。
そういうものをもらった人が、トラックバックとはそういうモンだと「学習」して、また、せっせとこの手のトラックバックが万延していく?

おいおいおい、とばかりに、今回トラックバックをいただいた ぽんすブログの「酔狂でええぢゃないか」 では【トラバの価値を取り戻そう】と、こんなことを提唱されています。
a.自ブログに着いたトラバ記事を選別し、面白いモノだけ残す。
b.トラバを打つ際は、相手と自分の記事内容をよく吟味する。
c.無闇やたらとトラバ送信しない。(必要最小限に留める。)
ふむふむ、と思いつつ。
でもね、と、わたしは思う。
こうした「ルールの提唱」のようなものよりも、実はもっと効果的なのは「おもしろいトラックバックが増えていくこと」なんではないかと思う。
百回何かを言うよりも、一回の「魅力的なモデル行動」の力というものの効果は大きいのではないかと、わたしは思うのです。
実際、迷惑だ迷惑だと言いつつも、わたしがトラックバックを受信した総数の中で、迷惑と感じて削除した数の方が、絶対的に少ないわけです。
そのことにわたしは、希望を持っていたい。

トラックバックには、ざっと考えて、わたしは以下のパターンがあるように思います。

そうそう、そうだよトラックバック
 読んだものに触発されて、同意とそれ以上に自分はこう思うよ、という内容のトラックバック
そうそう、でもねトラックバック
 読んだものに対して、別の見方からの見解を示すトラックバック
異論反論トラックバック
 読んだものに対して、反対意見を示すトラックバック
そこからその先トラックバック
 読んだものに対して、発展した思考・見解を示すトラックバック
コメントするには長すぎるモントラックバック
 感想が長くなりそうで、記事上げした方がいいなあというもの
オトモダチ集まれトラックバック
 参加型の企画性の強いもの

トラックバックに興味がありつつ未体験という方は、是非このパターンのどれかでチャレンジしてみていただきたい。
あなたのチャレンジは、トラックバック機能というものを表す財産の一つになっていきます。
スパム・トラックバックでなければね。

そして、「共通ワードオンリー、それ以外に何の関係もないトラックバック」を防ぐというか避けるために、実はわたしはこんな「自衛」をささやかに考えていたりするのでした。

検索ワード大量トラックバック送信の「網」に引っかからないために
ブログの記事上げには、「ブームになるキーワード」のようなものがあります。
それを意識的に、はずします。
話題自体を扱わないことに加え、旬のネタを扱うときには「内容として何を指すのかはわかるが、その時期に代表的になるようなワードを避ける」という姑息なテクを使ったこともあります。
また、扱いはするが意識的に時期をはずすということもあります。
時期をはずす、遅らせるということは、ネタが古くなるように思われるかもしれませんが、他のブログの閲覧でのロムラーとしての感想は、こうした類のモノは、少しはずした時期に出てくるものの方が、質が高いものに出会えるような気がします。
例外は「プレイやん」。
これは「名称」ですのでどうにもはずせなかったし、ゲットではしゃいでいたので時期もずらしませんでした。
しかし検索ワードトラックバックは一件もありませんでした。
こうした機器関連は、他のブログを見ていても思うのですが、大量トラックバックの検索ワードの対象には、どうもなっていないような気もします。
対して、どにかく検索ワード大量トラックバックの対象になりやすいのがドラマ・映画の類のように思います。
「たったひとつのたからもの」記事には、今でも「だからなんですか?」トラックバックが続いています。
なんとかの動くなんとかという映画は、わたしはとてもおもしろく観たので、その感想とあの映画に出てくる「女というもの」なんぞ、考えてみたかったのですが、検索ワードトラックバックの餌食になることがはっきりしていたので、記事上げ自体をやめてしまいました。
これは温存ネタということで、頭の隅に放置してある次第です。
そのうちに、絶対に「検索ワード大量トラックバック」の対象にならなさそうな映画レビューを書いた「映画カテゴリ」なんぞを作ってみたいです。

*トラックバック
 ぽんすブログの「酔狂でええぢゃないか」

コメント・ログ

2005年06月14日 | ○○さんにトラックバック!
先日トラックバックをいただいた『斬(ざん)』TBはコメントに置き換えることが出来るのか?
ここでコメント欄がおもしろいことになってしまいました。
わたしはマイルールがたくさんあろうと、トラックバック派。
ただし、コメント欄を選択という人がいても可、とも思う。
と、コメント欄に入れたのですが、
その後のコメントにて、こんな記述が。
「コメントではもったいない」コメントをする人の代表はS嬢さんなんですよね
いや、まあ、なんといいますか。
ぽりぽり。。。

これ、おっしゃった方、そして同意された二名の方。
それぞれに、「ああ、多分アレのこと言ってない?」などと、思い当たることがすぐに出てくる自分。
トラックバック派、とか言っちゃって、自分。
要するに「そのときによって派」ではないですか、自分。

とりあえず、思い当たるものに関して、記録としてリンク。
『斬(ざん)』「『あけおめ記事を考える。 』に思う」
  むだづかいにっき♂「あけおめ記事を考える。」から引用)

『斬(ざん)』「話す中心」と「聞く中心」に思う

むだづかいにっき♂「(仮題)トラックバックのマイルール 」

むだづかいにっき♂「あけおめ記事を考える。」

むだづかいにっき♂「しつこくあけおめ記事を考える」

むだづかいにっき♂「スタレビっていいよね。」

あれとかこれとか (Lefty)「唇に水ぶくれが…口内炎?」

ちがうかな。
いや、コレかな、と。

ちなみにこの中の むだづかいにっき♂「(仮題)トラックバックのマイルール 」 のコメントに関しては、形を変えて 初めてのトラックバック という記事アップにつながっていったんですけどね。

えっと、
どこぞでコメント欄をアラしてる状態を発見された方、どうぞお目こぼしをお願いいたします。。。

以上、コメント欄で「笑って誤魔化し逃げ」してきた『斬(ざん)』「TBはコメントに置き換えることが出来るのか?」 にトラックバックです。

トラックバック機能で成立する「会話」

2005年06月11日 | ○○さんにトラックバック!
☆ 今日の幸せ ☆ のpersempreさんから この記事 に送信いただいたトラックバック記事「 weblogとは?」。

ここでトラックバックの機能を生かした使い方として、こんな風に述べられているのですが。
以下、引用ではなく、この記事からわたしがとらえた主旨を要約で。
ネット上で、「いいな」と思うものを見つける。
今までだったら、PCの「お気に入り」にでも入れて、それで終わり。
でも、ブログだと、その「いいな」と思うものをリンクして記事上げし、「いいな」と思った理由やそれで自分が考えたことを文章にできる。
そうやって、「いいな」と思った対象、自分が「いいな」と思ったこと、そして考えることを、自分のブログに「記録」として残していける。
そしてそのことを相手に知らせる「トラックバック」。
ええ、本当に、こういう使い方ってのは、ブログの良さを生かすなあと思いますね。

そしてping送信によってトラックバック送信を通知された側の方は、自分が上げた記事というものが誰にどんな風に残っていくかということを知ることができる。
そのことをまた、自分の記事にリンクし、どう思ったかという感想を加えて、残していくことができたりするんですよね、ブログ。
トラックバックって、豊かな会話というものにつなげていくことができる、有能なツールだと、わたしは思います。

トラックバックの利点のもうひとつに、適度な距離感というものも、わたしはあると思う。
コメント欄で、直接相手に言う、という場合に、自分が言いたいことを全部言ってしまったら、クドかったり、相手にとってしんどかったり、ということもあると思うんですよね。
そういうときに、トラックバック機能を使う。
この選択を取ったときに、送信される相手は、適度な距離感を持って、そのことを知ることができるというか。
その適度な距離感が生む冷静さのようなものが、会話の発展を助けることがあると思う。
また、そういう解釈と発展において、申し訳ないけれどご遠慮したいと言う場合は、トラックバックの削除という「自由」もある。

掲示板というものを管理したことのある人は、誰でも経験したことがあるんではないかと思うことがあって。
それは、不本意な投稿があったときに、(う~んコレは不本意)と思っても、場が荒れることを避けるために、曖昧な「いい人レス」を出さなければならなくなること。
勘違いちゃんに、寄生されてしまう場合もある。
もちろん、最初からばさっと行くという管理者もいると思うけれど、ここは穏便にと、曖昧に流すことを選択する人は多いと思う。
同じようなことでも、これがブログのトラックバック機能を使われて行われている発言だと、その距離感によって守られる冷静さというものもあるんではないかと、わたしは思ったりするんですよね。

いろいろな人がいると思うけれど、わたし個人は、このトラックバック機能というものがあるために、ものすごく精神的な自由さというようなものを味わっている感じがする。
訪問した先に対して、得るものがある、影響を受けた、思考の発展を感じたと思うときに、「トラックバック機能を利用した『こんにちは』ができること」。
そしていただいたトラックバック記事に対して、トラックバック機能を用いた「会話」に発展させられる可能性を持っていること。
不本意と感じるトラックバック受信に、削除という選択が許されているということ。
自分が、自分で思う自分があるべき場所に立ち、そのことを揺るがす揺るがされることなく、昨日まで見知らぬ人と「発展的に」出会っていくことができる。
ネット上に存在するという自分自身に、精神の自由が保障されているような、そんな爽快感があるんですわ。

最後にpersempreさんが投げかけられた、記事中のそこのブログ管理者でない人のコメントに関して、引用してふれるというトラックバックに関して。
わたしはアリだと思いますよ。
ただ、その記事が存在するブログの管理者が、そのコメントに対してどう思っているかということは関係していくと思いますが。
ブログの管理者がそのコメントに関して、複雑な心理にあったら、場合によっては迷惑かもしれないとも思います。
今回のケースに関しては、わたしとpersempreさん、そしてわたしと今回のブログの管理者であるsouryuuseiさん、persempreさんとsouryuuseiさん。
そのどの関係性をみても、基本的な信頼関係が結ばれていると思いますので、自信を持って問題なしと返答できます。
そしてこの、結ばれているとわたしが思う信頼関係というものを支えているのは、各々のコメント欄への参加ということももちろんあると思いますが、「トラックバックによる会話というものを経てきた相手同士」という「歴史」は大きいと思いますね。

以上、☆ 今日の幸せ ☆「weblogとは?」 にトラックバックです。
「お返しトラックバック」という言葉があるのなら、これがわたしの定義する「お返しトラックバック」です。

男と外見

2005年06月06日 | ○○さんにトラックバック!
あいつみたいな顔に生まれりゃ
きっと楽しい人生のはずなんて
考えたりした
いい男には勝てないなんて
いいわけだよね ああ     (シャ乱Q「いいわけ」)


そうです、いいわけです。
お顔が良かろうがなんだろうが、フラれるときはフラれます。

でもね、超初心者向けの恋愛論さん、
「付き合いたい人になる」のこの部分、わたしは異論なんですけど。
最近は男も女もルックスが大事なんて
言われているけれど、実感としては皆
外見をそれほど重視していない。
それほど、は、重視してないと思いますよ。
でもね、外見って大事ですよ。

先日、異性の友人と食事をしたんですが。
彼、かっこよかったんですよね。
いわゆる、持って生まれた容姿はキムタクじゃないです。
髪の毛薄くなってきたってのも、言ってました。
でも、この彼、黒のカジュアルのジャケットが、とてもよく似合ってた。
きっちりと着ていたというより、無造作なシワがついた状態で、よく着てるんだろうなという感じでしっくりと似合う。
そういうのって、かっこいいですよね。

カシミアのロングのコートが似合う男ってのがいるんですが。
この方は、こんな高価なコートを着こなすには、まだ若いわけです。
でも彼がこのコートを着てると、かっこいいですね。
長身に、とてもよく似合う。
この人も、キムタクじゃないです。
どっちかというと、容姿にコンプレックス持ってる方ですね。
でも、本人がきちんとポリシー持って着るもの選んでる。
かっこいいですよ。

そうそう、そう言えば。
去年、ダウン症の家族イベントでバーベキューやったときに。
人んちの亭主と、お互い機種変したばっかりの携帯自慢してて。
そのついでに携帯で写真撮りっこなどして遊んでたんですが。
この日の、ここんちのご亭主、鮮やかな黄色のポロがとてもよく似合ってましたね。
かっこよかったですよ。
自分が撮った写真も、おふざけで撮った割には、いい写真だったと思う。
まだ赤ん坊の我が子のために、一生懸命素直に情報収集してることもまた、彼はかっこよかったですね。

それとね。
以前、大手新聞社の第一線で社会部の記者って方とお会いしたときに。
濃いカラーのワイシャツを着ていらして、それがとってもかっこよかった。
もちろん、そのかっこよさを支えてるのは、彼の仕事に対しての前向きな姿だと思う。
影響受けて、翌日わたしは夫のワイシャツを数枚、新調したのでした。

自分の好きなもの、自分の姿勢、自分のやりたいこと、自分の仕事、自分が大事にしようと思うこと。
そういうのに一本筋の入ってる男って、やっぱり外見に出ますよ。
こういう服が好き、こういう色が好きって、そういうのがはっきりしてくることにもつながっていくだろうし、そうすると自ずと外見にも出ますよね。
ニョーボが服買うのは当たり前って場合だって、ニョーボに大事にされてりゃ、変なカッコはしてませんよ、やっぱり。
鏡ばっかり見て、外見ばっかり考えてる男は論外ですが。
でも、なんというか、外側から、というか、そういうことって、中身にも影響していきますよ。
そして、中身が充実してる男ってのは、やっぱり外見にも出ますよ。
だから外見で判断されるってのは、一理あるわけです。
要は「うそっこの飾りだけの外見か」ってのを見ぬく目ってことなんですけどね。

キムタクって、世の中の女性には人気があるようですが、わたしは好みじゃないんです。
好みじゃないんですけどね。
でも彼の人気と、その継続はわかる。

いつだったか、テレビ見てて。
(あら、この男、いい男なんだわ)って思ったときがあって。
過去をからかうような、昔の映像を本人に見せるって趣向だったんですが。
デビュー当時の映像で、自分の好きな女の話、してたんですよね。
「『コンサートとかやっちゃってんでしょ?』って言って、ちっともオレの思いをわかってくれない」と、口とがらせて駄々こねてました。
カメラに向かって「オレ、マジです」って、宣言してました。
そうそう、この人、デビュー当時、「好きな女性がいる」って、そういや堂々と言ってたんですよね。
こうやって、堂々と自分の恋が語れる男ってのも、かっこいいですよ。
こういうとこがあるから、彼はずっとラブロマンスのドラマ、やっていけてるんだなって思った。
恋のなんたるかってのを、ちゃんと知ってる男ってのは、かっこいいですよね。
彼の人気って、こういうとこにも関連してないか、ってのも思う。
ああいう男だから、自分が口説かれるような「同化」して、ドラマを楽しんでる女性っていっぱいいるんじゃないかと思う。
それは外見だけじゃないですよ。
彼だって、持って生まれた容姿だけで食えてるわけじゃないですよ。
持って生まれた容姿ってのを、生かせる中身ってのがあるからこその、継続した人気だと思いますよね。
そして彼は、商品として自分の容姿を維持しなければならない努力がある。
要するに大事なのは
キムタクになることではない、
ということだ。
それはそうなんだけど。
でもキムタクを甘く見ちゃいけないよ、と、わたしは思う。
持って生まれた容姿だけで自分を判断しちゃいけないし、判断される必要も無い。
でも判断されてしまわれるとしたら、それは結局、容姿だけのことじゃないんじゃないかと。
容姿含めて持って生まれた自分というものに負けてしまうことかなとも思う。
それよりも女性は自分を
一番大切にしてくれる人を欲しがっている。
それはそうなんだけど。
でも、どんなに大事にしてくれたって、本人に魅力がなければ「いい人なんだけど」で、横から悪いのにかっさらわれる危険なんて、山ほどありますよ。
「悪いの」ってのは、自分の生かし方よく知ってるのが多いですしね。

もちろんね、「外見より中身」なんだけれど。
でも、自分の中身のなんたるかってのを自分で見つけられないときは、外見の努力から入るのもアリだとわたしは思いますよ。
そうやって、自分に似合うもの似合わないもの見つけながら、中身も育っていくってことたくさんありますしね。
それは、女の方が、山ほど経験してる実感かもしれないですね。
たかが化粧かもしれないけれど。
でも化粧のうまい女に、自分を生かす方法を知っている女は多い。
そして誰もが、最初から化粧がうまいわけじゃないと思う。
自分に似合わない色、おかしな形の眉毛。
そんな失敗を繰り返しながら、自分を、自分の外見を生かす化粧を見つけていってるんだと思う。
そうやって育ててるのは、化粧のテクだけなんかじゃない女はたくさんいる。
外見というものに対しての偏見のようなものに自ら自分をおとしいれてしまっては、出会うものにも出会えなくなるんじゃないかとも思う。
「つき合いたい人になる」可能性っていうのは、外見という範疇から逃げることではないと思う。
自分のルックスに自信が無ければ、自分にしか出せない総合的なルックスってことを考えれば、人間は育つ。
育つ人間、育つ可能性を持った人間は魅力的で、「つき合いたい人」という範疇に充分入るはずだとわたしは思う。

以上、超初心者向けの恋愛論のktfourさんにお約束した、初コメント記念のTBを「付き合いたい人になる」に送ります。

わたしがブログを持つ理由

2005年04月18日 | ○○さんにトラックバック!
ブログを開設して、更新を続け、8ヶ月が過ぎました。
わたしがブログを持つ理由というものが、だんだんはっきりとしてきたように思います。

わたしがブログを持ち、更新を続ける理由というのは、
チャンスをつかみ、生かすためです。

オノレにとってのチャンス、これは思考のチャンスです。
思考を公開し、発言していくことで自分の思考が明確になります。
また、上げた内容に関してコメント欄で意見や感想を入れてくださる方との会話の中で、より明確になっていくことが実感としてあります。

そしてまた、他者の思考を聞くチャンスでもあります。
他者の思考を、自ブログのコメント欄にいただいた文章で聞かせていただくこともあります。
他のブログを読み、そこで持つ感想から、自分の思考をふり返ってみたりします。
ただ読むだけと、自分の思考を表現した後で読むことと、かなりの違いがあるとも思われます。

加えて、他者との関係で思考を発展させていくチャンスも生まれます。
これはブログに備わった「トラックバック」という手段が有効に機能します。

どのチャンスも、自分のブログを持っているからこそ、つかむことができるチャンスです。
こうしたチャンスは、既知の特定の仲間との交流よりも、不特定多数が閲覧できる状況においての方が多種多様に広がります。

最近、「SNS」という言葉がよく聞かれるようになりましたが、わたしはこれがよくわかりませんでした。
わたしの人間関係に、紹介してくださる方が存在していないこともその理由の一つです。
IT用語辞典e-wordsで調べたりなんぞ、します。
検索で、サービスのいくつかの概要を調べたりなんぞ、します。
その上で、わたし個人は「ブログとSNSは別物」と判断しています。
SNSでは自分が公開する思考に関して、最初から読み手もしくは読み手の層を限定してしまうことで、わたしが考える「ブログを持つことで得るチャンス」というものの幅が狭くなるように感じるからです。
また、限定された読み手もしくは読み手の層に向かって公開することは、特定の「配慮」を持つことを要求されますから、「ブログの持つ自由な思考の公開のチャンス」というところからは遠くなるような気もします。

「ブログとSNSは別物」という判断の上で、SNSにはその機能を生かす使い方があるだろうとも思います。
わたしは現在、ヤフーグループを利用したメーリングリストに複数参加しています。
その一つがこちらです。
このメーリングリストのように、実名や個人情報を公開することで生かす方法が、SNSには存在しているように思います。
SNSのひとつであるグリーのキーワード検索画面を利用して調べてみますと、「ダウン症」に関してのコミュニティはまだ存在していないようです。
しかし、「障害」と入れて検索して出てくるコミュニティの概要を見る限り、生かされた使い方をしているように思います。

わたしが出した結論としては、ブログとSNSは、使う人間の目的と、推測される発展の展望により選択されるもので、それがあってはじめて比較対象になるような気がするというものです。

SNSに関して調べ、思考するということ。
わたしにとってのこのことのきっかけは、むだづかいにっき「ブログがSNS化すると」 からトラックバックをいただいたことです。
このことも、わたしがブログを持つことで得たチャンスのひとつであると思われます。
また、ここでいただいたチャンスから、さらにもう一つの思考に関してのチャンスもいただきました。

それは、むだづかいにっき「ブログがSNS化すると」に紹介された村井説人の日記「ブログを運営していて感じること」を読んだことがきっかけです。
こちらでは、実名を公開してブログを展開していくことの可能性に関して述べられています。
わたしのブログは、見る人が見れば簡単に実名が発覚するものです。
実名を公開することと同じ覚悟で作っているものでもあります。
ただ、実際にわたしが実名を公開した場合、不特定多数の閲覧者からの反応は現在よりも制限が出るのではないかと思われます。
ブログという世界の中では、匿名性、もしくはゆるやかな匿名性に守られながら発言している人の存在というものがあるからです。
そうした方々が、実名を公開するブログの前で、関係のアンバランス、アンフェアを感じられてしまうマイナスの可能性というものも存在するのではないか。
実際の個人情報がゆるやかな匿名という状態で出されているからこそ、拾える反応もあるのではないか。
そんなことも、わたしが考える「ブログを持つことで得るチャンス」に影響していくのではないかと思っています。

*トラックバック
むだづかいにっき「ブログがSNS化すると」
村井説人の日記「ブログを運営していて感じること」

初めての告白

2005年04月15日 | ○○さんにトラックバック!
小学校に上がったばかりの頃だったと思う。
幼稚園の頃から行き来をしていた、すぐ近所の男の子の家に遊びに行っていた。
その日に、その男の子に見せたくて、叔父が買ってくれたかわいらしいノートを、無理やりスカートのポケットに突っこんだことを、なんだか妙に記憶している。
そんなもの、男の子に見せたって、別におもしろくもなんともないんだけれど、多分、自分が喜んでいることを知って欲しかったのかもしれない。

その子と二人で遊んでいるときに、その子の母親が少しの時間、用足しのために外出した。
そのときに。
その男の子が、わたしを正面からまともに見据えて言った。
「ボクはSちゃんが好きなんだ」って。

いや、好きだから一緒に遊んでるんですけどね。
でも、このとき、わたしは全身に緊張が走った。
ちがう、言ってるのは、そういう「好き」じゃない。

なんだか体を固くして、呆然としていると、彼はさらに言った。
「Sちゃんもボクのこと、好き?」

密室の中、NOが言えない緊張感を感じながら、わたしは黙ってうなづいた。

「じゃあ、キスして」

全身に恐怖と緊張感が走り、そうしなければならないような強迫観念の中、わたしは彼の頬に唇を押しつけた。

満足したように彼が微笑んだときに、玄関の音がして、母親が帰ってきた。

・・・助かった。

と、本当にそのとき、そう思った。
息を吹き返したような気持ちで、わたしは彼に言った。

「ねえ、外で遊ぼう」

多分、あのときが、生まれて初めて「男って怖い」と思った経験かもしれない。
彼がどうのってことではなく、わたしは「密室に男と二人だけでいるときに起きる可能性のあること」を知ったのだと思う。
それから二年ほどの間に、彼は遠くへ引っ越して行った。

他愛も無いことだったんだろうと思う。
彼の記憶には、きっと残っていない程度のことなんだろうと思う。

結婚してその地を離れ、その町もずいぶん雰囲気が変わった。
彼の住んでいたアパートも、取り壊されて住宅になった。
でも。
今でも、そこを通るたびに、わたしはちょっと身を固くする。

*トラックバック
40年前そして10年後 「初めての友達」
友人のブログです。
ふっふっふ、こんなこと始めたか、という思いで、トラックバック、あげます(笑)。