S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

「感動ドラマ」に仕込まれる「犠牲」

2005年08月31日 | つぶやき
「小さな運転士 最後の夢」
このワード検索でこの記事に訪れる方が多い。
これは予想していたことではあったのだけれど、意外だったのは「押し寄せる共通ワードのみのトラックバック」が無いこと。
半ば覚悟し、どう対処するかなど考えていたのだけれど、「たったひとつのたからもの」のときのような「大量トラックバック」の餌食にはならなかった。
ドラマの話題性の違いなのか、去年の秋とはトラックバックの扱い方に変化があるのか。

さて、この記事に受信したトラックバック、24時間テレビスペシャルドラマ「小さな運転士 最後の夢」 (atelier F.F.)
この記事には、このドラマの、ドラマをドラマとして成立させるために犠牲にされたものが書かれている。
ドラマをドラマとして成立させるために犠牲にされるもの。
そのことが存在していることを、この手のドラマを見るときに、わたしはすでに「了承」して観るという意識ができてしまったのだなあと。
そんなことを今回のドラマを観ながら思っていた。
「ツッコミどころがあっても、主旨が流れていれば目をつぶる」という姿勢の定着化、というか。
自分があげたこの記事には、意識してそれを省いた。
その理由は、当事者ではない、という意識が働いたからだという部分もある。
自分が言いたいことと、「ドラマをドラマとして成立させるために犠牲にされるもの」という、主旨の二本立てにしたくなかったこともある。
でもこのトラックバックを受信して、「やっぱりなあ」というのが、なんというか、実感だった。
ドラマを観ながら、(彼女が観たら各所で口をへの字にするだろな)ってのは、実は思ってた。

拡張型心筋症。
このドラマの主人公の疾患であるこれは、主人公の母親のもつ疾患でもある。
医療的支援を必要とする出産は、世の中には山ほどあるわけで。
そうした人が存在し、そうした人に対しての「周囲の人間」は存在する。
こうした方々が「あれぇ」と思った部分があっただろうなという中で、トラックバック記事でもふれられているが「最大の?」は以下の部分。

心疾患を持つことで出産の危険を言われる中で、出産を選んだ女性。
予定より早く陣痛が起き、自家用車は無く、タクシーはつかまらない。
ドラマの中の「母親」は「救急車を呼ぼうという父親」に「救急車は使っちゃいけない」と制止して、陣痛中に電車に乗って病院に向かう。
「主人公の子どもを生むときに江ノ電に乗って病院に行った」というエピソードは、これで成立する。

「主人公の子どもを生むときに江ノ電に乗って病院に行った」
これ、そんなに大事なこと、なんですか?
これを出すときに、「救急車を使っちゃいけないんだ」という記憶をドラマを観た人に残させる危険って、考えないんですか?
そうした緊急時に危険な目に遭わなくてはいけないのは、自分の体をわきまえずに無理な出産を希望した人の「自業自得」と取る人を生み出す可能性というものを考えないんですか?

別に「都合の悪い事実を隠せ」と言っているわけではない。
でも、当事者、もしくは当事者に近い人間、出産に関わる医療従事者の方々が、果たしてどこまでこの「エピソード」を「事実」と信じるか、かなり疑問です。
また「実話を題材にしたフィクションです」というテロップを見ても、視聴者はどこがその「フィクション」なのか、判断する材料を持ちません。
事実、なんでしょうかねえ。
事実だとしたら、なぜ、「救急車を使わなかったことを叱責する人間」が、医療従事者として登場しないのでしょうかねえ。

人の命というものを題材に扱う「感動ドラマ」には、感動を盛り上げるための犠牲が、演出として入る。

これが、ドラマを観る人の「共通認識」として、常識化される必要というものがあるかもしれない。
そんな共通認識を持たせなくても、充分「感動ドラマ」は作れると思うんですけどねえ。
残念です。

息子とピアノ

2005年08月30日 | つぶやき
娘と息子と、ピアノを習っています。
何年くらいになるんだろ、6年くらいかなあ。

習わせるきっかけになったのは、近所に知的障害児の生徒さんをたくさん持つ先生がいる、と聞いたこと。
近所にあるというのは、これは「縁」だろうな、と。
知的障害児の奇蹟の演奏者なんていう「話題性」を持つこともない程度の「習熟度」ではあるけれど、娘は非常に楽しんでいる。
すごいなと思ったのは、娘にきちんと楽譜を読むことを教えていったこと。
でかいサイズに書き写された楽譜の音符を読みながら、娘は稚拙にピアノを弾く。

息子は、はっきり言って「ついで」です。
本人が「不公平感」を持たないように習わせることにしました。
最初はやはり「ちぃちゃんばっかり」にならないことに満足していたのですが、すぐにネを上げました。
「やめたい」と。
練習嫌い、そしてお稽古のときもうまくいかないとヒスを起こして泣くことも多かったです。
本人がわかって選んだお稽古事ではなかったのにもかかわらず、わたしはやめさせませんでした。
なんでか~っつうとね、この先生が、わたしとは違う「育て方」をする人だったからです。
わたしは「本人の意志尊重タイプ」で、「がんばることはアンタが決めろ」タイプです。
急がずにゆっくり見守るとも言えるが、甘い、とも言う。
この先生は「指導者型」です、本人を泣かせても、追い込む。
人間、「育つ」というときに、いろんなタイプの人に「まみれる」必要があると、わたしは思っています。
これは、娘が障害をもつということで、その支援として早くから「チームで子育てをしてきた」ことに対してのメリットの実感でもあります。
この先生には、「育てるということに協力してくれ」と依頼し、ピアノの習熟に関してはわたしは「知らん顔」で、定期的にこの先生と過ごす時間に金を出し続けてきたわけです。
幸いなことに、「やめたい意志」はありますが、「行きたくない」は言わない。

練習嫌いですから、ちっとも練習などせず、熟達もしません。
先生の言うには、ちっとも熟達はしないが、すごいなあと思うところがあると。
「優しい音を出して」というと、すぐに「優しい音」を出す、と。
「こんな感じで降る雨のような音」というと、すぐに言った通りのニュアンスの音を出す、と。
これでピアノが好きで練習好きの子だったら、すごいのにね、ってのが結局のとこなんですが、それでいいんではないかというのが、この子を「育ててきた」先生とわたしの実感でもあります。

「なんでやめてはいけないんだ」
なんてことを言われたりもするんですが。
最初に答えたのは、この「育てる」ということに対しての「母の考え」です。
次に言ったのは、「楽譜が読める」ということの、今後に対してのメリットです。
音楽というものを自分が主体的に「楽しみ」としてとらえるようになったときに、楽譜が読めることや、音楽の音をとらえるというときに、そのことが豊かさを与えるメリットになっていくんだよ、と。
ピアノ以外の楽器を、自分が選んで自分の意志で「やりたくなる」かもしれないしね、と。

「楽器を何かやりたくなるって、なんで?」と聞くので、「女の子にモテたいから楽器始めたって人だって、たくさんいるよ」と言うと、「そんなこと言うのはおかあさんくらいしかいない」と本気にしません。
え?そうお?

この子に合うレッスンを、ということで、現在、一般的な練習曲や教科書をすすめていくのではなく、「好きな曲を選ばせて完成させていく」という形態を取ることになりました。
本人、ピアノの先生とのやり取りを、ずいぶん前から母には「秘密」にするようになっているのですが、「好きな曲」で選んだのは「ドラゴンクエスト」だそうです。
こういうレッスンって、うらやましいと思うんだけどね。

それでも、本人「やめたい意志」は変わらないようで。
「次の発表会が終わったらやめていいよ」と言ったことを覚えていて、レッスン時間に先生に、そう言ったそうです。
そしたら、あはは、「ダメだ」と言われたそうです。
「んじゃ、先生と相談して決めてね」と、無責任な母です。
育ててきた同士であるこの先生を、わたしは信頼していますので。

なんてのが、最近の動向であったわけで。
母、PCいじっていると、ふと聞こえてくるじゃあ~りませんか。
アイツ、自分の意志で「練習」してますわ。
しかも、ドラゴンクエストではなく、なんだか実に「練習曲」っぽいヤツを。
おほほほほ、何考えてるんだ?と思いつつ、おもしろいです。

あ、自宅にピアノ、あるんですけどね。
わたしが実家から持ってきたものです。
本来、姉が所有すべきピアノですが、姉はオーストラリア在住なので。
ピアノはアップライトですが、調律士の「わかりやすい説明」によると、
「購入当時、一般的に売れていたタイプを車で言えばサニーやカローラだとするならば、これはクラウンというような位置にある」ものだそうです。
姉とわたしは、その昔、「近所の先生」について習っていまして。
姉は先生が「自分ではもったいない素質の持ち主」と判断し、別の先生についたこともあったのですが、「ピアニストにするための厳しい指導」を姉が怖がり、またうちの親もそうした周囲の対応に「ぴんとこない」状態だったようで、結局「厳しい指導」は2~3ヶ月もなかったような。
そんな姉の「ついで」で習っていたわたしは、バイエル程度しか弾けず、現在はそれすらもアヤシいです。

息子、息子。
母だって、そんなモンさ。

ドラマ「小さな運転士 最後の夢」

2005年08月28日 | つぶやき
日本テレビの24時間テレビの中のドラマ、「小さな運転士 最後の夢」を観ました。
24時間テレビを観る、というと、まあいろんな解釈だの意味だの出てくるのですが、それはまあおいといて、わたしはこのドラマを「観た」ということ。
先天性の心疾患を持つ男の子の短い人生というのが、このドラマの大筋でした。
息子がね、「全部観てから寝る」というので、珍しく11時半近くまで起きていました。

拡張型心筋症。
これがこのドラマの男の子の疾患名です。
「心臓移植」という手段はあるのになぜそうした話が出てこないのだろうと、ドラマを見ながらずっと思っていました。
心臓移植、海外での医療を利用ということが必要、という大変なことになるのですが。
「腎臓の状態が悪く、移植の適応外である」
ドラマの中でそう父親が語り、なんというか、わたしはがっくりと肩を落とす。

心室中核欠損症。動脈管開存症。
これが娘が持って生まれた心疾患でした。
どちらも先天性の心疾患の中で、妙な言い方をすればポピュラーなもので、根治手術が可能な疾患です。
娘の場合は、状態が悪く、最初は「2歳を過ぎたら手術」という説明だったものが、「2歳前に」「1歳になったら」「1歳まで待てない」「生後半年頃にやらなくてはならないかもしれない」「早急に」と変わっていき、すでにたてられている外科病棟の手術スケジュールに「緊急に割り込む」形で生後三ヶ月に手術が行われました。
術前の状態は、重症の肺炎に罹患、常時人工呼吸器を使用、悪化する状態を改善させるための輸血等、手術前に必要な検査中に心停止があるかもしれないというものでした。
術後も経過は悪く、ICUを一ヶ月出ることができませんでした。
大人のサイズのベッドに、小さな小さな3キロに満たない体がオムツだけの状態で横たわり、人工呼吸器に呼吸を手伝われながら、両手両足に管がつながれ、心臓の状態を見るモニターが規則的に音を立てる。
大人のサイズのベッドが必要だったのは、体につなぐ各種の管の位置固定のためだったのです。
それを窓から見守るだけの面会が、1ヶ月近くあったわけです。

窓の中を見るために「立つ」常連や、外科病棟に面会に通う人とは、自然話すようになります。
小児病院でしたから、その全てが「親」です。
わたしはここで、いろいろな人から声をかけられ、会話を重ねながら、それまで知らなかった現実というものを知っていきます。
「手術できるの? いいわね」
「手術は何回必要なの? 一回なの? いいわね」
病院の生活しか知らない子ども、学会で発表される最新の治療にチャレンジしていくという形で命を維持している子ども、根治手術の可能性が無く状態に対処していく治療しか受けられない子ども。
そんな現在進行形の「生きる」と、わたしは出会っていくような気がしました。
この時の入院、そしてその後の検査入院で出会った子どもたちの中で、「現在も生きているはず」という実感を持てない子どもはたくさん存在する。

ファロー四徴症、極型。
これが息子が幼稚園生活の3年弱を共に過ごした友達の疾患名です。
息子の幼稚園の入園式に出席したときに、一目で気づいてしまいました。
(ああ、あの子は心臓が悪い)
幼稚園生活を元気に送れる日々もたくさんありましたが、入院治療や数回の手術を重ね、根治手術が治療スケジュールに入っていました。
根治手術のときに渡そうとわたしはコツコツと小さな鶴を折っていましたが、その鶴は千羽になることを待たずに状態は悪化し、千羽に満たない鶴は葬儀の祭壇を飾りました。
葬儀の棺、飾られる祭壇を見て当時6歳だった息子が言いました。
「○○くん、白雪姫みたいだね」
「そうね、白雪姫みたいだね。
 でもね、
 白雪姫は王子様がキスをすると目がさめるよね。
 ○○くんは、もう誰がキスをしても起き上がることはないんだよ」
これが、息子が「死」を言葉というもので知った「説明」でした。
王子様は来ない、王子様はいない。
息子は棺が乗った霊柩車を追いかけようとして、葬儀場の職員に止められました。

ドラマを見ながら、息子が心疾患について聞く。
状態の対処の治療や、状態の説明をしてやる。
「手術」という治療法の存在を知っている息子が「手術はできないのか」と聞く。
「できないのだ」と答える。
いつまで生きられるのか、死というものが近い将来に「ある」ということがわかっている「命」がある。
そのことを、娘が心疾患の治療を受けるまで、わたしは全く知らなかったというに等しいと思う。
友人の死を知っているこの子は、このドラマを見ながらどんな風にそのことを理解するのだろうかとふと思う。

何らかの先天性の心疾患を持って生まれる子の割合は、100人から150人に1人程度と言われています。
経過観察だけで健康を手に入れていく子どももいる。
根治手術を受ける子どももいる。
命を永らえる治療に支えられながら、その限界まで生きていく子どももいる。
全ての子どもにしあわせを、と思う。

ドラマの感想としては、「読み聞かせのボランティア」という人物に重要な役割を与えていたことに好評価。
入院治療が長い子どもに必要な存在だと思うけれど、そうした活動をする人支える人は、「病棟で生きる子どもたち」の数に比べてあまりにも少ない。
不満としては、主人公が進学した「高校」の説明がもう少し欲しかったこと。
入学式に出席する映像で「養護学校」という文字が映る。
「病弱養護学校」というものの存在を、もう少し語って欲しかったかな、とちょっと思う。

*参考リンク*
都立病弱養護学校の高等部をつくる会
同サイトコンテンツ:もっと病弱養護を知ってもらいたい運動

金魚、飼ってます

2005年08月27日 | つぶやき
先週の週末、隣町のお祭りに行きました。
自治会や、子ども会、マンションの子ども会、野球チーム等、地域の方々や保護者たちによる出店が並ぶ、地域主催の「盆踊り」。
娘は「オールで踊り」、息子は出店を楽しんで駆け回ります。
そこに「金魚すくい」がありました。

おいおいおい。
金魚すくいって、さ、生き物なわけだよ。
飼わなきゃならなくなるんだよ。
その辺、実行委員に「親」が多い中で、阻止できなかったんだなあ、とちょっと思ったり。

3年ほど前、平塚の七夕祭りに行ったときに、息子が金魚すくいをやりたがりまして。
ううむ、それは飼わなきゃならんのだよ、と二の足を踏んだのですが、「甘い親」であるわたしは簡単に降参。
帰りにペットショップに寄って、水槽から水槽に入れる石やら草やら、ぼこぼこと空気入れるヤツやら、一式を購入、金魚を2匹、飼い始めました。
しかし、かなり金かけていい状態にしたにも関わらず、2匹の命は10日ほどで終わってしまいました。
2匹は父親に支援されながら息子本人が庭に埋め、また「飼いたい」と言い出す日のために、全てを丁寧にしまいました。
せっかく用意した水槽なので、「他の金魚を買ってくるか?」と聞いたのですが、答は「NO」ということで。

そして先週の「隣町のお祭りの金魚すくい」。
(ああ、金魚すくいの出店があるなあ)と思っていたのですが。
友達といっしょに出店を歩き回って、わたしたちの元にきた息子の手には「2匹の金魚が入った袋」がありました。

げ。
また飼うのかい。

この瞬間の「げ」という表情に、息子「ゴメンね、金魚すくい、やる前にいいかどうか聞かなくて」。
事前に聞こうが聞くまいが、多分結果はいっしょだったろ、と。
「うまくすくえなかったんだけど、金魚余ってるから2匹やるって、お店のオジサンがくれたんだ」と。
ああ、うれしかったのね、そうかいそうかい、いいよいいよ。
ただね、この日は徒歩圏だったので、おかあさんすっかり飲んだくれてて、その日のうちに「金魚飼いグッズの全て」を出してやるのは無理なのだよ。
(一式ていねいに、どこにしまったか忘れた)

幸いなことにカルキ抜きの薬と餌は、すぐに出せた(目につくところに出しっぱなしだったとも言う)。
水槽ではなく、パレックスのガラスのパウンドケーキ型に入れてやった。
(一週間生きてたら、全部出してやろう)

はい、今日で一週間になろうとしてるんですわ、その日から。
元気です、2匹。
大事に飼っている息子に「名前つけたら?」と聞くと、「名前つけると死ぬからイヤだ」と返答。
「水槽やらなにやら出そうか?」と聞くと、「あれに入れると死ぬからイヤだ」と返答。

名無しの赤いの2匹と、まだまだ一緒に暮らすようです。
今度はもう少し、生きていて欲しいです。

好きな「失恋ソング」×5

2005年08月26日 | 音楽
THE THURAI / 爆風スランプ
決定版!!爆風スランプ大全集
歌詞はコチラ
神様だってこんな夜にはまさか泣かずにいられないんだろう
くっそー、チキショー、バカヤローという感じのガンガンとした歌い方、吠えるような悲しみ。
(しかしうたまっぷ、致命的な入力ミス。「恋」が「窓」になってます…)

勝手にしやがれ / featuring 稲葉浩志(original:沢田研二)
THE HIT PARADE
歌詞はコチラ
夜というのに派手なレコードかけて朝までふざけようワンマンショーで
黙って泣くばっかりが悲しみじゃないんだぜ。

悪女 / 中島みゆき
大吟醸
歌詞はコチラ
自分の悲しみとの対峙、自分の悲しみは自分で決着をつける意志。
そのためには「演技」だって、厭わない。

別れましょう私から消えましょうあなたから / 大黒摩季
ベスト オブ ベスト~ALL Singles Collection
歌詞はコチラ
私だけどうしようもない 心だけ泣きやまない」でも「マイナスだらけの未来はいらない
明日の自分を必死で守る。

愛してる 愛してた / DREAMS COME TRUE
magic
歌詞はコチラ
愛してる、愛してた。
でも、電話にはもう出ない。
記憶のひとつひとつを抱きしめて、でも、「ひとり」を迎えていく。


好きな曲というのはたくさんある。
聞いていていいなと思う曲はたくさんある。
でも「好きな失恋ソング」としてピックアップしていくと、あらあら不思議、どんどん消去されていく。
結果、自分の中でしっくりするものが残っていく。
わたしが選んだ5曲を見て判明することは、結局のとこ「危機に遭遇したときの自分のあり方」だと思う。
簡単には認められない「現実」が「事実」で、それが変わらないことならば。
どうやったって変わらないことなら、自分、変えなきゃしょうがないじゃん。
「自分、変える」ってどうするの?
「明日の自分」に向かっていくのさ!

さてこの記事、
むだづかいにっき「好きな失恋ソング×5」に触発されて記事上げ。
ここであげられている「大滝詠一:恋するカレン」。
おや、おかしいぞ、「永遠の名盤」大滝詠一の「A LONG VACATION」ならば、わたしは「さらばシベリア鉄道」を推しちゃうね。
「太田裕美:木綿のハンカチーフ」、コレは「男がこうであって欲しい女の子」の幻想のイメージだと思うわたしはちょっとひねてるんだろうか。
なんというかこの曲、「男に媚びる涙の流し方」ってのを感じてしまうのだ、わたしは。
ストーリーとしては「よくできている」んだけどね、果たして「現実の女」がコレ、「失恋ソング」として共感できるんだろうか、と、ちょっと疑問。

ということで、たかが「ひとつのテーマで5つ選曲」するだけで、そして他者があげたリストを見ながら「自然に思う」内容だけで、人間の個性というものは「露見」するモンなんでしょうと、オノレを見ながら実感したのでした。

夏休みにTDL

2005年08月25日 | つぶやき
昨日は東京ディズニーランドに行ってきました。

東京ディズニーランドの開園は’83年の4月。
その少し前、当時つきあっていた彼氏は演劇やテレビの舞台設営のバイトをやっていて、そこの事務所から行っていた仕事がありました。なんでも舞台関係ではなく「工事現場に行く土方のようなバイト」だと。集団でバスに乗り、葛西からまだ先の千葉に行って、なんだかロボットがたくさんいる現場なんだと。
そして言ったのが「S、S、千葉にさ、ディズニーランドができるんだぞ」。
「はあ? ディズニーランドぉ? 千葉に?」と、わたし。
「うっそお~~、なんかの勘違いじゃないの?」とまるで本気にしていないわたし。
当時はディズニーランドといえば、アメリカツァーで行くものというのが「常識」でした。
彼が「作っていた」のはit' a small world。「気味が悪い」と言っていました。「かたかたかたかたと無数のロボットが音をたてて動く、気味が悪い、化け物屋敷のようだ」と。

さて開園。
有り体にいえば、「パパのぉ~、お仕事の関係でぇ~、もらったのぉ~」という「タダ券」でした。この「バイトで関わった彼氏」を誘って行ったという展開で、彼は初めて「ロボットがカタカタ動く完成品」をそこで見たわけです。
豊島園だのよみうりランドだのというところを「遊園地」と認識していたわたしたちは「夢とおとぎの世界」というコンセプトを全然理解していませんでした。絶叫マシンが「売り物」の遊園地ばかり見ていたわたしたちにとって、「ふにゃふにゃとした乗り物しかないこの新しい遊園地」がよくわかっていませんでした。
当時はこれが当たり前だったのですが、チケットは「BIG10」。入園料とチケットがセットになったもので、現在のような「パスポート制」ではなく、ひとつひとつのアトラクションにチケットの枚数というものがありました。これで「余ったチケット」を利用するために入った「魅惑のチキルーム」。
「カタカタカタカタと動く無数のロボットがいる部屋に閉じこめられた恐怖感」はすごかったです。
コンセプトに関して「ああ、こういうものなのか」とわかり始めたきっかけはジャングル・クルーズの「船長の語り」とカヌーの「参加型アトラクション」、そしてホーンテッドマンションで「当時の最新技術で演出される世界の凄さ」でした。

この一回で、すっかり行った気になり、そこで終わっていました。
オープン当時に「行った」人たちの感想もわたしと似たようなものだったようで、「夢とおとぎの世界」と言うよりは「出銭ーランド」という言い方がよく使われたように記憶しています。飲食物の持ちこみは禁止で今のように「ファーストフード」は無く、レストランが基本でとにかく高い。チケット制でもあったし「入った途端にやたらに銭が出ていく」ということで。

このときの彼氏とのつき合いも終わり、わたしの環境や人間関係も変化していったのですが、周囲から「ディズニーランドに行こう」というお誘いが増えるようになりました。
「行ったことのある」わたしのレクチャーは、入ったらまず、現在はすでになくなっているmeet the worldに案内すること。ここは大勢でがさっと入れるために待ち時間が無い。無数のロボットと映像によって語られる「日本の歴史を知る」というアトラクションの内容の質の高さと、それを支えるために無数のロボットと映像で「見せる」技術の凄さが満喫できる。そしてそうした技術が支えるテーマパークという主旨が簡単にわかるアトラクションだったからです。そしてそこのすぐ前にあるハンバーガーレストランがパーク内で一番「妥当な価格で食事が取れる所」だったという理由もありました。
そうやって、いろいろな人と行くうちに、わたしは段々と「夢とおとぎの世界」というコンセプトを理解していくようになりました。

アトラクションだけではなく、レビューやショー、パレードを楽しむ。
この要素が加わったのは、友人の「彼氏」がきっかけでした。友人の「彼氏」はアメリカ人。TDLのダンサーとして契約し来日していました。これが’88年から’89年くらいだったかな。
この頃は、チケットとして「BIG10」はまだ存在していたものの「¥4,000のパスポートチケット」が主流になり始め、よく使っていました。でもこの頃は平日はまだガラガラで、平日の午後に行けばパレードは楽に満喫できるし、当時主流で土日には1~2時間待ちのスペースマウンテンの「連続乗り」に待ち時間ゼロ状態でした。まるで公園の滑り台のごとく、よく乗ったなあと思います。スペースマウンテンが好きかどうかということよりも、チケット制が残る状態で「これが一番高かった」ので、「定額制によるお得感」を満喫したかったという、実に小市民的理由でした。

20年以上の歴史を持つようになったTDL。現在の感想は、「リピーターが作っていった世界」というものです。提示された「夢とおとぎの世界」というコンセプトは、それを楽しむ人たちによって、どんどん拍車をかけられていったような気がします。販売されている「ミッキーの耳カチューシャ関連」に代表されるような「そこでしか生きないアイテム」群の大量の販売数。ディズニーキャラを様々な形で身につけて歩く人たちによる「TDL内の世界の演出効果」。
残念に思うのは、混雑により誘発されていると思う「サービスの質の低下」です。開園当時のサービスの質は、今とは比較にならないくらい「高かった」と思います。これはもう仕方がないんでしょう、混雑はもう、比較にならないくらい「レベルが違う」のが現実だと思うので。
それにディズニーシーができて混雑が緩和されてから、少し改善されたと思います。なんせ、ゴミ箱付近がきれいになった。数年前は汚らしかったですから。
開園後数年くらいはちょっとしたゴミが道にひとつでも発生しようものなら瞬く間にどこからともなくホウキとちりとりをもった「笑顔の青年」が現れ、リズミカルな動作で「ゴミを消す」。そのこと自体もまるでひとつの「小さなショー」のようでした。
障害者に対する支援も、サービスの質の低下のひとつであるように思います。以前あった障害者支援策で消えたものもありますし、昨日見た光景も、残念なものだった。
ゲストアシスタンスカードという「障害をもつという理由で受けられる支援を依頼できるカード」の提示をして、「待ち時間を行列に並ばずに待つ」という支援を利用した車椅子の子どもがスタッフに促されてアリスのティーパーティーに乗ろうとしていたのですが、入場の案内をしてそこで「やりっ放し」。その車椅子の子どもを押しのけて入場する人たちの波でなかなか入場できずにいました。
そばにいたわたしが人の波を止めて入場を誘導したのですが、スタッフはこれに全く気づかず。
また、人気のバズライトイヤーでは誘導のタイミングの不備で娘の行動ペースにとって「危険な走り乗り」をさせられ、娘のためにゲストアシスタンスカードを使えばよかったかなと、やや後悔させられました。しかし昨日のタイミングの不備は幼児連れでも充分危険ですが、混雑にあおられるスタッフにその自覚は無かったようです。

なんだかんだ言いつつも、わたし自身もリピーターであり続けている一番の理由は、まあ、「遠くないので行きやすいから」ということだと思います。
今年は昨日で2回目。
1回目は学校の平日休みの日に「神奈川県民感謝デー」という地域限定割引チケットが出るのでそれを利用という、まあこれも小市民的理由。
2回目の昨日は\5,500という正規の価格のチケットではなく、\4,950の団体割引です。地域の子ども会の「夏のバス旅行」で、子ども会の財源からの補助もあり、交通費込みで¥3,000という金額です。
ショーやレビューが大好きな娘はTDLがとても好きですが、キャラものは欲しがらない。
幼児期は「密室でカタカタ動くロボット」や、着ぐるみをとても怖がった息子、「あんな混んだとこ行きたくない」と言う時期は長かったのですが、今は「ミッキーの耳のついた帽子」とランド内で使用するポップコーンのバケツを愛用です。
ショー好きの二人なので、パレードを最前列で見るための「一時間待ち」が平気です。
息子はもう恥ずかしがってパレードの「ダンス参加」はしませんが、娘は昨日も楽しそうにキャストと共に踊っていました。

カテゴリを「つぶやき」にするか「音楽」にするかちょっと迷った

2005年08月23日 | 音楽
某所コメント欄でまた言われてしまいました。
「そのネタ、記事にしたら?」

いや、なんというか、「話しながら出てくるネタ」というものがあるわけで。
では、「それをまとめて文章に」っていうと、なんかちょっと違っちゃう感じがするというか。
「記事にする」というと、どこか「起承転結」を考えてしまう自分というものもありまして。
と、ぐだぐだと言ってみる。
で、今日は、ぐだぐだと「起承転結」なんぞを考えないで、「音楽」をネタにどたどた打ち。

わたしはBUMP OF CHICKENが好き。
なんで好きかっていうと、というのを説明する「言葉」というもの、これまた人んちのコメント欄に残していたりするので、そこに飛んで、人んちの「ブログ内検索窓」なんていうものを利用する、まあ便利。
あった、あった。
わたしがBUMP OF CHICKENが好きなのは、もちろん「歌の世界」。
自己実現に対しての欲求不満のギザギザした感じと、女性に対して包容する視点。
あとは「声」かな。
OUTER HEAVEN「2月3日 覇王の卵を食べてみる」コメント欄
BUMPの新曲の「プラネタリウム」は好きです。この曲、「うたまっぷ」で現在アクセスランキングトップを飾っておりますので、この歌の世界が好きな人は多いのでしょう。
しかし、ふと思うのですが。この歌詞の中の行動、対象となっている女性が歌詞の主人公に「全く興味を持てない」場合、この歌詞の世界の行動を知ったら、ストレートに「キモっ!」となる可能性は高いかもしれないと思う。そして「手作りプラネタリウムに存在しない星を作って名前をつける」男というのは、実際には存在する可能性はとても低い。なんというか「やらないことをやっちゃう」ことで、歌詞の背景にある感情をどどーっと広げ、その感情を載せられた音楽の世界に人は没頭するのかもしれないと思う。

むだづかいにっきの「スタレビっていいよね。」は、わたしは好きなエントリーのひとつで、先日二つのブログにこのエントリーのURLをおいてきたのですが。
うちひとつが宝探しの旅「今年の宵山は佐藤竹善ライブ」
このコメント欄でsariさんが「どうしても残る疑問が、『木蘭のつぼみが ひらくのを見るたびに あふれ出す涙は 夢のあとさき』というくだりで、『男が茫然と涙を流すのか?』という点です。」
「まちなかで人目はばからず涙を流す男、見たことがないんです。」とおっしゃっている。しかし特筆すべきはむだづかいにっきの「スタレビっていいよね。」のコメント欄の中で「木蘭の涙は男だ」と言っている「男」が、そのことにふれていないことなんですよね。
この曲の「主人公」は男か女かってことよりも、この曲を聴いた「男」が「この世界の主は男だ」と思うこと。それは実際には「まちなかで人目はばからず涙を流す男」はそうそう見られるモンじゃないが、「まちなかで人目はばからず涙を流す」という心境を「理解する男」というのは存在するんだろと思うこと。そしてそうやっては「泣けない」男が、「そうやって泣く」この歌の世界の男に「やらないことをやってくれることでわかる感情」ってのがあるのではないかということ。(「木蘭の涙」)

「男性」というものを考えるに、というところで、自分の過去記事のコメント欄から拾ってきたいものがあったのだけど。
わ~ん、どうやっても、それがどこに入れたか見つからない。記事内容から「発展した話題」になるときは要注意ですね、あとで「掘れなく」なる。
発端はぽんすブログですすめられた「婦人公論」の6月22日号。大槻ケンヂ×みうらじゅんの対談がメイン話題でぽんすブログで話していたのだけれど、わたしはこの雑誌のこの号の渡辺淳一の文章にいたく反応した。そのことを言って、朴念仁さんに相手にしてもらったのが、自分とこのどこかの記事のコメント欄に入ってるはずなのだが見つからない。
要するに「男性は別れた女性の『性的な感触』に未練を残す」ということが渡辺淳一によって語られていて、そのことが「男性が主人公のラブソング」に大きく思い当たることがあったということ。そしてその具体的な曲名なんぞを、このブログのどこかの記事のコメント欄に記載してあるはずなのだけれどさがしきれなかった。
と、思ったら、あったあった。なんだコメントはメール通知をさせているのでこういうときはOEで「メッセージ検索」をすればいいのだった。「スパム・トラックバックにささやかな抵抗」のコメント欄だった。って、記事内容と全然違うし、この記事ではわたしのこのコメント自体が「スパム」かもしれない。
*シャ乱Q「ズルい女」の「最後もう一度抱きたいよ」
関係が壊れた状態で、というのは女性には考えられないのではないかと。これは誌上本文の女性の意見の通りですね。そしてこの歌詞の意味が、今回、どんぴしゃでわかったような気がしたという感じ。
女性にとって、相手に未練がある場合での「最後もう一度」は、大黒摩季「別れましょう私から消えましょうあなたから」の「冗談じゃない同情のsex」ということになってしまう。
*中西保志「最後の雨」の歌詞上での未練の表現は、確かに肉体的な記憶に結びついているものが多いこと。
*平井堅「why」の、相手に対して肉体的な反応を感じられなくなると、もう関係の復活の希望が見えなくなるのだな、という部分。この「why」の女性が相手に未練がある場合は、相手が肉体的な反応を自分に持たなくなっても、まだ努力すればなんとかなると、精神的な関係のところでなんとかなれば、という思考が捨てきれないのではないかと、そういうケースが女性にはあり得るのではないかと思うこと。
ざっと出てくるのはこんな感じ。
でも、そういう視点で聞き直すと、もっとごろごろと納得するものが出てくるのだろうなあというのが感想です。
女性が「未練」のイメージで出てくるのは、関係が上り調子の頃、つまり相手が自分に対して「追いかけモード」であった状態の全般のような気がするんですよね。肉体・精神関わらず「欲しがられる」こと、それを失ったことに対する未練のような。肉体を「未練」のイメージに持ってくるのは、「欲しがられなくなった」ことを強烈に再確認してしまうようで、逆に避けるかもしれないなあと。
『性的な感触』といえば、最近わたしは米倉利紀にはまっていて、彼の過去のアルバムをたどりながら、彼の歌を聴きながら「彼に口説かれて」非常にご満悦になっている。「yone’s BODY & SOUL II 」というアルバムの「like, love, need..... 」なんてのは、その最たるもので「好きだから」というフレーズをぼそっと歌う歌い方や「この腕で抱かせて」というフレーズに盛り上がったりしてる。
俗に「歌うレディス・コミック」を言われる平井堅ではどうしても盛り上がれなかったわたしだけれど、米倉では「いける」というのはやっぱり好みかもしれない。平井堅の「息混じりの声で歌うラブソング」がどうしても「生理的にダメ」だったのだけれど、米倉の「ラブソングのべたっとした歌い方」を嫌う人もいるだろうなあと思う。

まあ、いやらしい。
「木蘭の涙」や「プラネタリウム」に戻って、精神性のせつなさをちょっと感じてこなきゃ。
でもBUMP OF CHICKENの「embrace」の「腕の中へおいで」ってフレーズも、なんというか感触の記憶を体現させて好きなんですけどね。
いやちがう、「embrace」で本当に好きなのは「この目が視力をなくしても」に続くとこだった。

以上、起承転結無しのべたべた打ちをしてみたぞ23日。
(この最終行は、黒板ぽのパクり)

誰かに手渡していくURL

2005年08月22日 | インターネット雑記
人力検索サイト「はてな」にこんな質問。
おすすめのブログあるいはテキストサイトを教えてください。
条件として、アンテナ登録数が50以下のまだあまり有名ではないものをお願いします。テーマがはっきりしていて読みやすく、マニアうけしそうな内容が理想です。

おもしろいですねえ、はてな。
こういう質問もあるんですねえ。

と、のんきにかまえる余裕は実は無い。
紹介、されてました。
http://blog.goo.ne.jp/satomies/d/20050811
S嬢のPC日記:2005年8月11日
常に「生と死」や「命の尊さ」についてかかれているような気がします。
このサイトを拝見するたびに、個々の魂の輝きを偏見で決め付けてはいけないと実感させられてしまうのです…。」』
すごいなあ、
こんな風な印象に見えるんだなあ、と。
すごいなあ、
こんな風な印象に見えると、そういう風に人に紹介してもらうのって、ありがたいなあ、と。

ちょっと過去のことになるんですが、こんなものもありまして。
[教えて!goo] ダウン症に関する本
ダウン症という障害について説明している本やダウン症児の教育や子育てに関する本をご存じの方がありましたら,教えて下さい。

回答:ダウン症に関する書籍はたくさんあると思いますがこのサイトで紹介されているものはどうでしょう?
参考URL:http://blog.goo.ne.jp/satomies/e/153065b5178166...
すごいなあ。
過去記事を「情報」として、役立ててくださる方がいるんだなあ、と。
この「教えてgoo」の投稿、6月なんですが、いまだにこのurlからくるアクセス、ちょこちょこと、途絶えないんですよね。

わたしもこんな風に、自分が見つけたブログやサイトをいい形で紹介したいなあと、
どなたかにいい形で受け取ってもらえたらうれしいなあと、
今日もふむふむといろいろな方の文章を読んだりするのでした。

ゲーム機ウォッチング

2005年08月21日 | つぶやき
昨日は娘は「障害をもつ中高生余暇支援事業」参加の日。
ということで、息子を連れてお出かけ。
行き先はポケモンフェスタ

娘もポケモン、好きなんですが。
でもね、もう行ったのよ、このイベント開催初日の日に東京ビッグサイトへ。
ま~だ行きたいんだそうで、うちの息子。

去年は横浜会場に行っただけだったんですが、すごい混雑で。
今年は開催初日の東京ビッグサイト、すいてた。
あ~らこんなもんよね、って思ったら、昨日の横浜会場、メチャ混みでした。

DSを持っていると、会場でダウンロードできるゲームというものがあって。
ポケモン釣り大会DS
昨日はこれに加えて、2005年10月20日(木)に発売のニンテンドーDS対応ソフト「ポケモントローゼ」の体験版もダウンロード可能。

会場には子どもを連れた人も多いんですが、中高生や大人もいる。
そしてあっちでもこっちでも、ゲーム機を出して操作している。
子ども連れの方が、DS所持率高いような気がしました。
さすがクリスマスにぶっつけた発売だったな、と思うような感じ。
中高生や大人組では、DSではなく、SPでもなく、アドバンス機を使っていた人もけっこういたことに「へー」。
子ども群は、「SP以上」が大半なんですよね。
アドバンスとSPは、同じソフトが使えるので、アドバンス機持ってればそれでいいんですが、
 ・ゲーム画面にライトがつく(目が悪くなるのを防ぐ?)
 ・充電が可能(乾電池の購入費がいらなくなる?)
ってな理由があって、子どもの「欲しい」以上に親が買い替えを考えたって、そういう例もよくあるんですが。
大人は「アドバンスでいいじゃん」組ってのがけっこういたんだなあと。
でもアドバンス機って、すぐに乾電池を入れるところのフタのツメがバカになるというか、ちゃんとはまらなくなるんですよね。
ウチの子もそうだし、子どもの友達もたいがいそうだったんだけど、乾電池を入れるところのフタの部分にポケモンのシール貼って取れないように押さえてた。
フタ、取りっぱなしの子もけっこういたような。
でも大人はちゃんと使えてるのねと、フタの部分が「普通」になってる状態を横目で見つつ、思ったりしました。

使用機は、DSもいるが、やっぱりSP使用者が多い。
このSP、発売以来、いろいろなカラーが出続けている。
会場では、いろいろな人の手に、この「カラーバリエーション」の実物が見られまして。
やはり、ピカチューエディション(黄色でピカチューの顔がついてる)や、アチャモエディション(オレンジ色)が目立ってた。
普通に買えるカラーバリエーションというのは、任天堂のHPではコチラの6色。
そしてそれ以外にもたくさんのカラーが発売されています。
(参考:『ウィキペディア(Wikipedia)』ゲームボーイアドバンスSPの「カラーバリエーション」)

ちなみにうちの息子のは「トイザらスオリジナルカラー『スターライトゴールド』」。
うちの息子の、とはいいますが、現在ほぼ「わたしの」で、プレイやん使用でかなりのヘビーユーザーとなっておりまして。
最初、プレイやん発売のニュースを聞いたときには、DS購入で「あいてる」SP大活用だわ、なんてのがあったんだけど。
最近、「借り物」でプレイやんを使ってることが、なんというかヒジョーに、おもしろくない。
ホンネを言えば、わたしは、パールピンク機が欲しい
消費が消費を呼ぶって、こういうことなのね、と、
昨日の会場で、キョロキョロと、他人のSPのカラーを眺めつつ、実感したのでした。

しかし、一番びっくりしたのが、幼児二人連れの4人家族が「全員違う色」のDSを1人一個ずつ持っていたこと。
金持ちというかなんというか、すごい一家だ、と思った。

宇宙遊星間旅行

2005年08月20日 | 書籍紹介
復刊ドットコムというサイトをご存知でしょうか。
「絶版、品切れ」のため、手に入らなかった書籍を投票により復刊させよう、というサイトです。
わたしは投票を入れるために登録しています。

この復刊ドットコムからメールが来ました。
『上野紀子』 復刊特集ページの案内です。

この中に、わたしが復刊リクエストを出しているものがあります。
それが宇宙遊星間旅行です。
この本が、1981年の初版本のみで絶版になったのは、日本の文化のひとつの損失ではないかとさえ思っています。

初版本のみで絶版になったのは、おそらく絵本でありながら「大人向け」の要素が強いことと、絵本でありながら高価であることではないかと思っています。

この絵本のすばらしいところですが。

1.芸術性の高い「絵」
絵本というより、「画集」です。
ネタバレといえばネタバレなのですが「花が咲く土星」の絵は圧巻です。

2.ストーリー性の高さ
主人公のチコは斜視であることを気に病み、そのことを人に見せないようにするためにいつも望遠鏡をのぞいていました。
ある日、望遠鏡はチコの目に張り付き、離れようとせず、チコに次々と光景を見せていきます。
そしてチコは、ある「星」と出会います。
「星」はチコに大切なことを教え、そして宇宙のひとつの法則と共に去っていきます。
「星」が最期にチコに伝えた一言は「見うしなわないように」というものでした。

3.「星」が伝える言葉の「哲学性」
「星」はチコに、「光速より速いもの」という存在を教えます。
光速より速いものとは、誰もが持っている力です。
それは「思考速」というもの。
星 :思考速というのは知ることではなく 思いをめぐらす速さのことです。想像する力 これは光速でも追いつくことができません。
チコ:思うことに速さがあるの?
星 :あります。たとえば 太陽の光があなたの眼にはいるまでに何分か かかります。でもあなたが太陽と思い浮かべるのに一秒もかからないでしょう。
(本文より引用)
4.ページの合間に解説がさりげなくおかれている
本文中で出てくる語句に関して、科学的な説明が記載されています。

ああ。
本文引用しても、全然ダメだ。
全然、伝わらない、伝えきれない。
わたしの「解釈」を入れたくないばっかりに、よくわからん説明になってないか?
だって、だ~って、この本は、
「読む人が感じる本」なんだもの、変な解説は入れられない。
でも、でも、これじゃ伝わらないじゃないか。
この本が絶版のままって、絶対に、日本の文化の一つの損失なんだってば。
見せたい人、読ませたい人はたくさんいるのに、
でも、そう簡単に貸したくないんだもの、「指紋つくとヤ!」だから。。。
用紙が黒いんですよ、それでもって「汚れがつく」のが「ヤ!」って感じなんですよ、「画集」なんだから。
だって、一冊しか持ってないんだもの。
もう買えないんだもの。

『上野紀子』 復刊特集ページ の 「宇宙遊星間旅行」 に、あなたの一票を。。。
もしも復刊された暁には、わたしは「秘蔵の一冊」に加えて、もう一冊買うつもりです。

皮膚科受診

2005年08月19日 | つぶやき
娘の日焼けした腕の皮が、ぼろぼろっとむけてきました。
はい、13歳ダウン症児、知的障害「重度」と判定されている愛娘の腕です。
娘、これをさして
「おいしゃさん、おいしゃさん」と言い張る。
つまり「異常」だから、「医者に連れて行け」と。
んなもん、日焼けなんだよ、と思う。

皮膚科に行きました。
医師に頼みました。
日焼けして皮がむけている腕を、丁寧に診察しているフリをしてやって欲しい、と。
医師、こころよく、ほいほいと。
軽く、油分のクリームを塗ってやってくれました。

実は皮膚科受診の本題は別。
なんと、水虫、足に。
足の指の間で、表面から見えず、わたしは全然気づかなかった。
水虫なんて、実は生まれてこのかた、わたしは見たことがなかった。

こういうとき、「母」として、気づいてやれなかったことに落ち込みますわねえ。
「訴え」というものがない、なんて言い訳にもなりゃしない、と。
かゆがってるとか、そんなのも、ちっとも気づかなかった。
というか、特にかゆがってもいなかったし。

その昔、娘が1歳だか2歳になる前だかのこと。
運動機能のためのリハビリの個人指導で、リハの先生が足を確認しながら声を上げた。

「なんだこりゃ。
 ひどいしもやけじゃないか。
 気づかなかったのか。」

足の裏から指にかけて、妙に赤みが強いというか、黄色っぽいというか、そんな感じ。
それって、しもやけだったの?
実はわたし、しもやけって、言葉しか知らなかった。
こういうモンだったんですか。

「訴え」というものがない、なんて言い訳にもなりゃしない、と。
かゆがってるとか、そんなのも、ちっとも気づかなかった。
というか、特にかゆがってもいなかったし。

そんな10年以上も前のことを思い出す。
今度は水虫かい。。。

幸いなことに、今日の皮膚科の医師は、
「気づかなかったのか」という一言を出さなかった。

そうだよ。
気づかなかったんだよ。

「母親」ってやってると、そういう「気づかなかったのか」って一言の経験、少なからず、誰でもあると思う。
知的障害ってのがあれば、それは乳幼児期だけでは終わらない。
気づかないことだって、あるんだよ。
診察ってときに、「昨日」がどうだってことよりも、どう治療するかって、そういう話が欲しい。
気づかないようにしていよう、なんて思ってないんだよ。
でも、気づかなかったってこと、あるんだよ。
と、思う。

本人は、足なんてそっちのけで、腕を「診察」してもらったことに大きく満足。
8月19日。
そんな一日。

「はてなブックマーク」に思う

2005年08月18日 | インターネット雑記
以下が、わたしのブログから「はてなブックマーク」でピックアップされたものの一覧です。

http://blog.goo.ne.jp/satomies の人気エントリー

肯定・否定、入り混ざったピックアップだと思うのですが、このピックアップの一覧を見て思うことは、わたしのブログに限って言えば「ピックアップの視点が一定している傾向があるかな」ということです。
ニュースサイトにピックアップされる傾向の高い記事というものが存在するように、はてなブックマークでピックアップされる傾向の高い記事というものが、どうやら存在するようにも思います。

プライベートとして、ユーザー名が公開されていない方のピックアップも多いです。
これは多分、同じ人のいくつかのブックマークが表示されているということかな、と思われます。
ピックアップの傾向として、1人ないし2人によるものではないかというのが、わたしの認識です。
このパターンは、「自分のブックマークを他者に見せる」ということではなく、自分のためのブックマーク一覧を作るためにピックアップされているのではないかと推測されます。
そして、わたし自身の「好み」というのは、こちらに類する方の方と、近いかもしれない。
単純に言ってしまえば、ピックアップのユーザー数の「数」自体よりも、「宛名の無い手紙」の一票が、わたしにはうれしかったりします。
最近では「8月12日」の一票も、わたしにはうれしかったですね。これは一軒家@メモ帳でも被リンク(てとさん、ありがと)。
だから、わたしが今後、はてなのブックマーカーになったとしても、多分、自分だけの「一票」になるものをこつこつと積み上げていくものになるような気がします。

それが、わたしの、わたしのブログに限って言えばの「はてなブックマーク」というものに対しての感想です。

『俺はまだいける確認』

2005年08月17日 | ○○さんにトラックバック!
まめなはうす、あ、いやちがった まなめはうす からおもしろいブログ発見です。
2005-08-15 (Mon) 20:46更新分
コメント付きで引用。
★独身でいるか結婚するか
http://d.hatena.ne.jp/rima2005/20050814/1124052417
(情報元:塀までひとっとび!)
ははは、おもいっきり満足しちゃってます orz
この 塀までひとっとび! 、該当記事を読みつつ、周囲を観察。
メニューのカテゴリ名がなんとも「そそられ」ます。
え?どこにって、そりゃ、「内緒」でしょう。
ん?なになに?って、釣られるのが普通? じゃない?

そして見つけたコレ。
■[内緒]奥さんの奥さんによる奥さんのための『俺はまだいける確認』

うんうんうんうん、
わかる、わかる、わかる、わかる。
ダンナのために、と書いてあるが、子どものためにってのもアリです。
子どもの友達ってのに、「ママ比べ」がヒソカに発生しているのを時々感じるのは「内緒」です。
そして何より自分のためにも『俺はまだいける』感覚は必要かもしれない。
背筋をきれいに張っているために。
背筋どよんとさせると、たちまち全体がどよんとした印象になります。
こうなると、つっかけをどたどたと引きずるのが日常になり、履きたいチャンスにヒールが履けなくなります。

ただし、『俺はまだいける確認』の『確認』がもしも、ど~~しても他者から取れない場合の「安易な秘策」がアリます。
これは都内近郊の方に対して提示できる秘策ですが、都内近郊以外の方は類似する環境をさがしてみるといいかもしれぬ。
これはある時刻にある場所を歩くことです。
まるで「群がるイタリア男」の前を歩くようです
ある時刻、ある場所とは。。。

夕刻のアメ横、特に生鮮食料品店の前
おねえさん、おねえさん、マグロ安いよ。
おねえさん、おねえさん、コレ、買ってかない?
おねえさんなら、コレ全部で千円でいっちゃうよ?
デカい子ども連れてようがなんだろうが、当然のように「おねえさん」です。
ふむ。
『俺はまだいける』・・・。
(刺身等のナマモノが並ぶ店の前を6時過ぎに歩くのがオススメです、必死に口説いてくれます

塀までひとっとび!■[内緒]奥さんの奥さんによる奥さんのための『俺はまだいける確認』 にトラックバック。

一枚の写真

2005年08月17日 | インターネット雑記
「わ~い」と思ったこと、
そして、いかにも「ネタになる」と思ったこと、
人は何日、これを「口に出す」ことを我慢できるのでしょうか。

と、いう一例。
わたしは一週間だったようです。

一週間前、ある方からメールをいただきました。
このブログに載せた写真を、あるイベントのHPに使っていいだろうかと。
「ど~ぞ、ど~ぞ、お使いくださいませ、
 ブログからのダウンロードではなく、元ファイルを添付しますね」と、お返事。

たうら大道芸
出演者紹介というコンテンツの中の「一枚」です。

出会うということ

2005年08月16日 | インターネット雑記
ブログを始めていろいろな人と出会っているけれど。
ネットを始めて、Gaiaxに登録して、そこでもいろいろな人と出会った。
障害児の母親という、出会うきっかけが明確な人もいたけれど、実生活では絶対に出会えなかっただろう大事な人間関係も生まれたと思う。
特に大きかったのは、この3人。
40年前そして10年後
学習塾のサカイ
OUTER HEAVEN
特に下二人は、その生活の変化が大きく、その変化をずっと見てきたという感慨もあるなあと。
1人は出会った頃は「24歳の車好きの男の子」だったのが、今は「30を目前にした経営者」になってる。
1人は出会った頃は「18歳の大学一年生」だったのが、今は「先を迷う悩み多き23歳」になってる。
奇遇なことに、この二人は同じ誕生日でもある。

最近おなじみになってきたまなめさん、
まなめはうすで1月にピックアップした「既卒の就活」というOUTER HEAVENの中の一記事。
この記事に、わたしが長文のコメントを入れているってこと、知ってる?って思う。
まなめはうすでは、赤文字つけてこの記事を推薦するコメントを入れていたけど、それでも日々膨大なニュースを記録していけば、過去ログは風と共に記憶から消え去るのかしら。

OUTER HEAVEN8月15日 完成? で「夏休み特別企画まとめ」がアップ。
都内のあっちの方から都心を抜けて多摩川超えて神奈川に入り、箱根の山を登る、自転車で。
その内容の大半は、彼を知らなくてはおもしろくないかもしれないけれど、クライマックスは山を下りるところだと思う。
上ったからこそ、行動したからこそ、見える瞬間というものがあると思う。
こうして「思考と行動の記録」が残る。
閲覧者のためだけでなく、もちろん自分のために。
そして、その自分のための「思考と行動の記録」にこうして立ち会えること、それもまたインターネットの楽しみだと思う。