「小さな運転士 最後の夢」
このワード検索でこの記事に訪れる方が多い。
これは予想していたことではあったのだけれど、意外だったのは「押し寄せる共通ワードのみのトラックバック」が無いこと。
半ば覚悟し、どう対処するかなど考えていたのだけれど、「たったひとつのたからもの」のときのような「大量トラックバック」の餌食にはならなかった。
ドラマの話題性の違いなのか、去年の秋とはトラックバックの扱い方に変化があるのか。
さて、この記事に受信したトラックバック、24時間テレビスペシャルドラマ「小さな運転士 最後の夢」 (atelier F.F.)
この記事には、このドラマの、ドラマをドラマとして成立させるために犠牲にされたものが書かれている。
ドラマをドラマとして成立させるために犠牲にされるもの。
そのことが存在していることを、この手のドラマを見るときに、わたしはすでに「了承」して観るという意識ができてしまったのだなあと。
そんなことを今回のドラマを観ながら思っていた。
「ツッコミどころがあっても、主旨が流れていれば目をつぶる」という姿勢の定着化、というか。
自分があげたこの記事には、意識してそれを省いた。
その理由は、当事者ではない、という意識が働いたからだという部分もある。
自分が言いたいことと、「ドラマをドラマとして成立させるために犠牲にされるもの」という、主旨の二本立てにしたくなかったこともある。
でもこのトラックバックを受信して、「やっぱりなあ」というのが、なんというか、実感だった。
ドラマを観ながら、(彼女が観たら各所で口をへの字にするだろな)ってのは、実は思ってた。
拡張型心筋症。
このドラマの主人公の疾患であるこれは、主人公の母親のもつ疾患でもある。
医療的支援を必要とする出産は、世の中には山ほどあるわけで。
そうした人が存在し、そうした人に対しての「周囲の人間」は存在する。
こうした方々が「あれぇ」と思った部分があっただろうなという中で、トラックバック記事でもふれられているが「最大の?」は以下の部分。
心疾患を持つことで出産の危険を言われる中で、出産を選んだ女性。
予定より早く陣痛が起き、自家用車は無く、タクシーはつかまらない。
ドラマの中の「母親」は「救急車を呼ぼうという父親」に「救急車は使っちゃいけない」と制止して、陣痛中に電車に乗って病院に向かう。
「主人公の子どもを生むときに江ノ電に乗って病院に行った」というエピソードは、これで成立する。
「主人公の子どもを生むときに江ノ電に乗って病院に行った」
これ、そんなに大事なこと、なんですか?
これを出すときに、「救急車を使っちゃいけないんだ」という記憶をドラマを観た人に残させる危険って、考えないんですか?
そうした緊急時に危険な目に遭わなくてはいけないのは、自分の体をわきまえずに無理な出産を希望した人の「自業自得」と取る人を生み出す可能性というものを考えないんですか?
別に「都合の悪い事実を隠せ」と言っているわけではない。
でも、当事者、もしくは当事者に近い人間、出産に関わる医療従事者の方々が、果たしてどこまでこの「エピソード」を「事実」と信じるか、かなり疑問です。
また「実話を題材にしたフィクションです」というテロップを見ても、視聴者はどこがその「フィクション」なのか、判断する材料を持ちません。
事実、なんでしょうかねえ。
事実だとしたら、なぜ、「救急車を使わなかったことを叱責する人間」が、医療従事者として登場しないのでしょうかねえ。
人の命というものを題材に扱う「感動ドラマ」には、感動を盛り上げるための犠牲が、演出として入る。
これが、ドラマを観る人の「共通認識」として、常識化される必要というものがあるかもしれない。
そんな共通認識を持たせなくても、充分「感動ドラマ」は作れると思うんですけどねえ。
残念です。
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これは予想していたことではあったのだけれど、意外だったのは「押し寄せる共通ワードのみのトラックバック」が無いこと。
半ば覚悟し、どう対処するかなど考えていたのだけれど、「たったひとつのたからもの」のときのような「大量トラックバック」の餌食にはならなかった。
ドラマの話題性の違いなのか、去年の秋とはトラックバックの扱い方に変化があるのか。
さて、この記事に受信したトラックバック、24時間テレビスペシャルドラマ「小さな運転士 最後の夢」 (atelier F.F.)
この記事には、このドラマの、ドラマをドラマとして成立させるために犠牲にされたものが書かれている。
ドラマをドラマとして成立させるために犠牲にされるもの。
そのことが存在していることを、この手のドラマを見るときに、わたしはすでに「了承」して観るという意識ができてしまったのだなあと。
そんなことを今回のドラマを観ながら思っていた。
「ツッコミどころがあっても、主旨が流れていれば目をつぶる」という姿勢の定着化、というか。
自分があげたこの記事には、意識してそれを省いた。
その理由は、当事者ではない、という意識が働いたからだという部分もある。
自分が言いたいことと、「ドラマをドラマとして成立させるために犠牲にされるもの」という、主旨の二本立てにしたくなかったこともある。
でもこのトラックバックを受信して、「やっぱりなあ」というのが、なんというか、実感だった。
ドラマを観ながら、(彼女が観たら各所で口をへの字にするだろな)ってのは、実は思ってた。
拡張型心筋症。
このドラマの主人公の疾患であるこれは、主人公の母親のもつ疾患でもある。
医療的支援を必要とする出産は、世の中には山ほどあるわけで。
そうした人が存在し、そうした人に対しての「周囲の人間」は存在する。
こうした方々が「あれぇ」と思った部分があっただろうなという中で、トラックバック記事でもふれられているが「最大の?」は以下の部分。
心疾患を持つことで出産の危険を言われる中で、出産を選んだ女性。
予定より早く陣痛が起き、自家用車は無く、タクシーはつかまらない。
ドラマの中の「母親」は「救急車を呼ぼうという父親」に「救急車は使っちゃいけない」と制止して、陣痛中に電車に乗って病院に向かう。
「主人公の子どもを生むときに江ノ電に乗って病院に行った」というエピソードは、これで成立する。
「主人公の子どもを生むときに江ノ電に乗って病院に行った」
これ、そんなに大事なこと、なんですか?
これを出すときに、「救急車を使っちゃいけないんだ」という記憶をドラマを観た人に残させる危険って、考えないんですか?
そうした緊急時に危険な目に遭わなくてはいけないのは、自分の体をわきまえずに無理な出産を希望した人の「自業自得」と取る人を生み出す可能性というものを考えないんですか?
別に「都合の悪い事実を隠せ」と言っているわけではない。
でも、当事者、もしくは当事者に近い人間、出産に関わる医療従事者の方々が、果たしてどこまでこの「エピソード」を「事実」と信じるか、かなり疑問です。
また「実話を題材にしたフィクションです」というテロップを見ても、視聴者はどこがその「フィクション」なのか、判断する材料を持ちません。
事実、なんでしょうかねえ。
事実だとしたら、なぜ、「救急車を使わなかったことを叱責する人間」が、医療従事者として登場しないのでしょうかねえ。
人の命というものを題材に扱う「感動ドラマ」には、感動を盛り上げるための犠牲が、演出として入る。
これが、ドラマを観る人の「共通認識」として、常識化される必要というものがあるかもしれない。
そんな共通認識を持たせなくても、充分「感動ドラマ」は作れると思うんですけどねえ。
残念です。