アドバンスの申し込みをして、アクセス解析で、検索ワードが上位20件のみ、わかるようになりました。
ここで、とても気になるのが「稽留流産」で検索していらっしゃる方です。
「稽留流産」「稽留流産 ○○」「稽留流産 ××」と、この単語のみの検索や、他の単語を合わせたものと、様々です。
毎日、違ったワードと組合わさって出てくるので、いろいろな方がこの単語を検索窓に入れられていらっしゃるのだと思います。
このブログでこの検索で出てくるのは、
この記事ですが、これでは不充分な上、誤解を招きかねないので「稽留流産」という記事を上げる必要性を感じました。
稽留流産とは、流産のひとつの形です。
その説明は、
こちらのサイトがわかりやすいと思われます。
また、個人のHPで
「ぷれぷれママの体質改善」というサイトの
「流産について」というコンテンツが、わかりやすい上に、暖かみがあります。
稽留流産の体験記として、このサイトの
「稽留流産の体験談」や、
亜季の気ままぶらり旅「稽留流産」が、参考になるのではないかと思われます。
「流産」は、「死」です。
稽留流産は、その兆候としての自覚症状が全くないまま、ある日「死の宣告」が下されます。
つまり、兆候として「死」を感じるのではなく、「死の宣告」により、意識として「死」を認知し、次の段階の判断を迫られるのが稽留流産です。
そして、手術を受けるか出血が始まるかの「死が事実になる」日まで、死が訪れることを予想もしていなかった時と、自分としてはどこか違いに実感できず、何か現実というものの渦に飲み込まれていくような、どこか騙されているような、「悪夢のような状態」にいるわけです。
「自分が生きた棺桶のように感じた」
「手術のその日を『別れの日』と思い、なかなか手術に踏み切れなかった」
こうした言い方を聞くことは少なくないです。
わたしの「稽留流産」の体験は、告知による体験に終わりましたが、この体験で感じた「事実に対しての衝撃」は実感として残っています。
周囲の対応として、避けるべきことは、周囲の「流産に関しての認識」を妊婦に押しつけないでもらいたいことです。
大切なことは、傷を負っている本人の気持ちに添うことを考えること、その上での「言動」であって欲しいということ。
どなたかの「流産に対しての考え方」をご拝聴するような余裕があるかどうかということなのですよね。
妊婦自身が「死」を認識しているときに、「次がある」という言い方も、人によっては大きく傷を残します。
それは妊娠継続中の「生」を無視されるということにもつながる部分でもあると思います。
さて、わたしのケースですが。
この記事にあげられた「稽留流産の誤診」は、異例のものだと思われます。
今、「稽留流産」を検索しても、医師のその判断は実に乱暴なものだったと思われます。
別の病院に行って、「誤診」を告げられたときに、「誤診である」と告げた直後に、「訴えても実害が無いので負けます」と言われました。
直後、です。
つまり、訴えるレベルの誤診であったと思われます。
しかし、実害が無い。
この場合の実害というのは、「生か死か」の二者択一しか無いので、わたしにとってはやはり喜ぶべきことと思います。
その実害が無かった命に対して、生まれてきてから「ダウン症である」という告知がされるわけですが。
告知をされた時期に、もちろん考えました、「あのとき誤診をそのまま受け入れていたら」と。
そのまま受け入れていたのなら、スケジュールの沿った手術が用意されていたわけですから、生まれてこなかった命。
そんなことを考えるのが、人間だと思います。
こんなことをちらりとも思いもしなかったと公言する人を、わたしは逆に斜めに見るとこ、ありますね。
でも、本当に思う。
この「命」、会えてよかった。
以下、記憶の中での経緯です。
1991年
最終月経:1/5
初診:2/9
妊娠の説明。
二週間後の再診を言われる。
再診:2/23
「稽留流産の可能性が高い」との説明を受ける。
説明の内容は、
「死んでますね」
「は?」
「だからお腹の中で死んでますよ、コレ。」
「・・・」
「今日、尿検査した数値で判断するから。
来週の月曜日に電話してください、結果言います。」
「あの、電話でなくて、来てもいいですか?」
「なんで? 別に来たかったら来てもいいけど、混んでるよ。」
これで終わりでした。
超音波の検診は、ありませんでした。
電話:2/25
医師に電話が取り次がれ、
「ああ、矢島さんね、やっぱりダメ、死んでますね」
「あの、わたし矢島じゃないです。」
「ああ、ごめんごめん、まちがえた、○○さんね。
ダメダメ、死んでます。
次の土曜日に、朝ご飯食べないで来てね。」
「それは、掻爬ということですか?」
「ああ、わかってんのね、じゃ、説明特にいらないね。
すぐ終わるから。」
「入院、しないんですか?」
「は? すぐ済むからしなくていいよ。
したかったら、してもいいけど。」
「・・・(絶句)。」
「じゃ、いいかな。」(ガチャン)
・・・どう思われます? この体験。
こんな男に殺されなくて、よかった。
次に行った大学病院では、経膣による超音波検診で心臓が動いていることを確認。
この確認により、「生きていますよ」ということにつながりました。
病院は、その地域では有名な総合病院で、出産数もとても多かったところです。
しかし、わたしのケースは「稽留流産」としては、本当に異例のケースだったと思います。
どんな疾病疾患でもそうですが、患者の権利として、聞きたいこと、聞くべきことはしっかりと聞く。
その質問に応える態度の見られない医師に当たった場合は、セカンドオピニオンを持つことが重要だと思います。
そのことを、わたしは娘の命を通して、教えられた気がします。