先日、「『自力通学』のために積み上げるもの」 という記事をあげ、コメント欄で「妖精が見える子供」のビッグママさんと会話。
それからわたしは、道を歩くときに「自閉症と呼ばれる子ども」の感覚をさがす行動になんだかとりつかれている。
周囲に存在する人の気配を可能な限り自分の意識から消し、自分の視界に入る「物」だけの世界に自分を投入する。
実感で思ったことは、世界というのは、なんと怖いものだろうということ。
視界に入る「物」だけの世界に自分を投入すると、ひとつひとつの「物」から自分に向かって入ってくる情報に溢れ、その情報量と刺激量の多さに、窒息しそうな気がする。
安心できるような「一定のもの」が少なすぎる。
コメント欄の会話で出てきた「マンホール」。
これひとつ取っても、地面に存在する「蓋」にはかなりの種類がある。
つけられているものが多い「行政のマーク」に安心したりする。
道の傍らに、鉢や花壇で花が咲いている。
この「花」を、「物質」ととらえると、これもまた、怖い。
植物自体の種類も様々で、色も様々で、当たり前なのだけれど、「同じもの」というものが無い。
なんとなく、「自閉症と呼ばれる子ども」の「こだわり」という意識や行動がわかるような気がする。
彼らがこだわるものとは、この不安感を増大させる感覚に対しての、「安心の杖」のようなものなのかもしれないと。
膨大に入ってくるこの刺激の中で、自分が決めたものに対して「安心」を見つけるのだろうと。
だから、「こだわり」を持つものを取り上げられようとするときに、あんなにも抵抗を示すのだろうと。
「いつもと違う行動」に対しての抵抗も、わかるような気がする。
道を歩きながら感じた膨大な刺激量の「恐怖」の中で、マンホールの蓋につけられた「行政のマーク」に安心する自分を感じながらそんなことを思った。
「同じ形」で変わらずについているそのマークに、安心感を得る自分。
これはなんというか、もう理屈ではないような気がする。
「こだわり」を持つ具体的な物や行動を、許容できにくい、そのことから危険が発生しかねないものがあるときには、「こだわり」をただ取り上げるのではなく、本人にとっての「安心できる代替品」を手渡していくことができないものだろうか。
その可能性をどうやって模索していくか。
これは「障害」がどうのということを超えて、「不安を感じる人を救う」ということなのかもしれないと思った。
だって、実際のとこ、わたしは言いようのない「恐怖」を感じたのだもの。
自分が当たり前だと思っている「感覚」。
その「感覚」に対しての意識を崩壊させるだけで、全然別の世界が見える。
知識や思考、理屈だけで「彼らの不安」を解釈しようとしていた自分の浅はかささえ感じたような気がした。
ごめんなさい、と、彼らに対して自分の浅はかさを謝罪したいような気持ちも見えてくる。
「人間」というものは、今まで自分が経験してきたという「幅」を超えて、もっともっと奧が深いものなのかもしれない。
それからわたしは、道を歩くときに「自閉症と呼ばれる子ども」の感覚をさがす行動になんだかとりつかれている。
周囲に存在する人の気配を可能な限り自分の意識から消し、自分の視界に入る「物」だけの世界に自分を投入する。
実感で思ったことは、世界というのは、なんと怖いものだろうということ。
視界に入る「物」だけの世界に自分を投入すると、ひとつひとつの「物」から自分に向かって入ってくる情報に溢れ、その情報量と刺激量の多さに、窒息しそうな気がする。
安心できるような「一定のもの」が少なすぎる。
コメント欄の会話で出てきた「マンホール」。
これひとつ取っても、地面に存在する「蓋」にはかなりの種類がある。
つけられているものが多い「行政のマーク」に安心したりする。
道の傍らに、鉢や花壇で花が咲いている。
この「花」を、「物質」ととらえると、これもまた、怖い。
植物自体の種類も様々で、色も様々で、当たり前なのだけれど、「同じもの」というものが無い。
なんとなく、「自閉症と呼ばれる子ども」の「こだわり」という意識や行動がわかるような気がする。
彼らがこだわるものとは、この不安感を増大させる感覚に対しての、「安心の杖」のようなものなのかもしれないと。
膨大に入ってくるこの刺激の中で、自分が決めたものに対して「安心」を見つけるのだろうと。
だから、「こだわり」を持つものを取り上げられようとするときに、あんなにも抵抗を示すのだろうと。
「いつもと違う行動」に対しての抵抗も、わかるような気がする。
道を歩きながら感じた膨大な刺激量の「恐怖」の中で、マンホールの蓋につけられた「行政のマーク」に安心する自分を感じながらそんなことを思った。
「同じ形」で変わらずについているそのマークに、安心感を得る自分。
これはなんというか、もう理屈ではないような気がする。
「こだわり」を持つ具体的な物や行動を、許容できにくい、そのことから危険が発生しかねないものがあるときには、「こだわり」をただ取り上げるのではなく、本人にとっての「安心できる代替品」を手渡していくことができないものだろうか。
その可能性をどうやって模索していくか。
これは「障害」がどうのということを超えて、「不安を感じる人を救う」ということなのかもしれないと思った。
だって、実際のとこ、わたしは言いようのない「恐怖」を感じたのだもの。
自分が当たり前だと思っている「感覚」。
その「感覚」に対しての意識を崩壊させるだけで、全然別の世界が見える。
知識や思考、理屈だけで「彼らの不安」を解釈しようとしていた自分の浅はかささえ感じたような気がした。
ごめんなさい、と、彼らに対して自分の浅はかさを謝罪したいような気持ちも見えてくる。
「人間」というものは、今まで自分が経験してきたという「幅」を超えて、もっともっと奧が深いものなのかもしれない。