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S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

ちょこっと感想

2006年07月15日 | インターネット雑記
 書くことと、伝えたいこと。
 書かれていることから、伝わってしまうこと。

 話題としては全然別種の以下の二つのブログのこの内容に、同様のものを感じたな、と思う
昨日のコメント欄の件です~/モラルハラスメント・ブログ  
*この頃思ってたこと/atelier F.F. ゆうくんちの日常
 伝えようとすること、書いておきたいと思うこと。
自分だけのメモではなく、公開した場に出していくからこそ、わかりやすいように前後の脈絡なんぞを記載する。
話題は全然違うけれど、その、記載する前後の脈絡部分に出てくる反応というものに、戸惑うこともあるだろうな、と思う。
 
 公開する場に出していけば、様々な反応に出会うだろうと思う。
その反応に耳を傾けつつ、そこから拾える視点を拾いつつ、自分自身に方向性が定まっていることに関して大事にして欲しいと思う。

「詳しくはWebで」

2006年03月20日 | インターネット雑記
 テレビCMにおいて、「詳しくはWebで」というものが増えている中で、「詳しくは」という部分で欲しいもの。
1.商品キャンペーン等の宛先や、商品キャンペーン参加に必要な台紙のダウンロード。
2.ウェブ上から、割引クーポンのダウンロード。
3.他メーカーの同様の商品と比較できるような詳細な商品情報。
1.に関しては、たいがい大手スーパーに必要なものはおいてあるのが普通なわけで。それを「取りに行かなくても」または「取ってくるのを忘れても」、簡単に情報を閲覧・取得できるとしたら、便利だという「特典」。
2.に関しては、閲覧することでさらに宣伝効果を与えるということの「対価」。
3.に関しては、例えば食品に関しての細かい情報等、調べたければ調べられるという「情報の公開」。
ハンバーガー屋のキャラについての情報だの、ストーリー性のあるCMの「続き」なんぞは、わたしは特に見たくはない。

 「詳しくはWebで」とうたうテレビCMが、インターネットを接続していない家庭に与える疎外感に関して。
新しい媒体が出現し、定着を始めたときに、その流れに乗り遅れるということは、企業にとってマイナスなわけで、乗り遅れるわけにはいかないのが資本主義社会だと思う。
新しい媒体の利用を「まだ手にしていない」層に対して配慮、という意味で「詳しくはwebで」ということを選択しないということは、時代の流れによっては「企業としての競争に乗り遅れるかもしれない」という要素を持つ。
ポイントは、こうした手法に対しての「参入の時期」だと思う。

 情報の受け手としての「不公平性」に関して。
テレビのカラー放送が始まった時代に、新聞のテレビ欄には番組名の後に「カラー」という文字が記載されるようになった。カラーテレビを所持している層には「必要な情報」で、所持していない層には「不必要な情報」。
カラー放送が始まった時代に、カラー放送を利用したCMを作るということは、白黒テレビを見ている層には「わからない広告」を見せる、ということで「疎外感を与える」ものなのか。そこに企業は配慮すべきだったのか。
答えは「NO」だと思う。

 「詳しくはWebで」という言葉が出てくるテレビCMは、まだ少ないけれど、今後はさらに増えていくんではないかと思う。
情報の受け手としてのわたしの「感想」は、媒体を有効に利用したものの出現に期待したい。

*関連リンク
「詳しくは Web で!」という差別/『斬(ざん)』
カラーテレビとリモコン/昭和の思い出 はすぴー倶楽部

トラックバックとリンク切れ

2006年03月11日 | インターネット雑記
 トラックバックを送信するときに、文中にトラックバック送信先のリンクを入れる。必要な場合においてトラックバック送信先の本文の引用も入れる。引用に関しては、部分を引き出すために、その主旨の誤読がされないように注意を払い、できれば閲覧者が閲覧者の目で送信先の本文も閲覧の意志を引き出せるような引用の仕方に注意を払う。

 しかし。
トラックバック送信先のブログが閉鎖され、ネット上からその存在が消滅してしまったら。

 この可能性を常に考えに入れるためには、閲覧者が引用先に飛ばなくても、大意が理解されるように作る必要が出てくる。それを考慮に入れたとしても、トラックバック送信先が存在しなくなったときに、意味が通らなくなるエントリというものも出てくるかもしれない。
ただ、ブログは気軽に始められる。気軽に始めた人は、気軽にやめるだろう。
 この「天竺堂通信」では、記事内にブログからのリンクを張ることはほとんどない。張るのは辞書サイト「Wikipedia」か、公共機関や企業系のサイトが多い。
 ブロガーの“持続力”を、正直、疑っているのだ。予告もなく突然消滅したブログを、私は少なからず知っている。いちいち期待や失望はしていられない。

 過去記事の中で、すでにいくつか、トラックバック送信先のブログが閉鎖され、リンク切れが発生しているものがある。これはもう、仕方がないとしか言いようがない。ブログに対してリンクし、トラックバックを送信するという内容のもの。これは「意味が通る」という点で、そのときにはわからない「期間限定品」という傾向を持つ。醒めた目で言ってしまえば、ブログのトラックバックというものはそういうものなのかもしれない。さんざんトラックバックに関して語ってきたこのブログでさえ、こうした文章がぽんと上がってしまうのだから。
んだども、来週からPCいじれそうにもないし、めんどーだから撤収しようかと。
そろそろここ閉めるか/むだづかいにっき♂
 個人の判断によるものとは思いつつ、その判断によっては、また過去記事のリンク切れが発生してしまう。しかしこれも、リンクする側の自己責任。リンク切れが嫌いです/天竺堂通信に書かれている判断をするのもひとつの選択。
 
 今後、トラックバックという機能を利用するときには、「リンク先が消滅してもいいような引用の仕方と本文内容」というものを考えていかなければならないかな、とも思う。これはブログという媒体に関してのトラックバックという機能のひとつの側面かもしれない。

自分が使う文字表記に関しての雑感

2006年03月01日 | インターネット雑記
 「障害・障碍・しょうがい」という、過去にあげた文章において、自分が選ぶ表記の仕方、なんてものとその簡単な理由なんぞをあげたのですが。

 その後、自分が使う文字表記について、感じたことをあれこれ。以下、箇条書きに。
 
1.「障害当事者」
 「障害者」に関しては、わたしは自分が過去、他者にあてたメールをつらつらと読むに、「障害当事者」という表記を使っていることに気づく。「障害当事者」、これに対する者は「障害支援者」となる。意が通じていて略せる場合は、そのまま「当事者」「支援者」となる。
 他には、「障害をもつ人」、「障害がある人」、などと表記することが多い。「知的障害者」に関しては、「~的」が「障害」にかかってきている感を勝手に持っているという感覚。「知的な障害をもつ人」という表現も使用。この傾向は「障害児」に関しても同様。
 「『障害者』という言葉を避ける」というよりは、そのときの自分の使う思考に基づいたり、そのときに主旨として持つことの意味に応じて「出てくる」というのが率直な感想。

2.「子ども」
 「子供」「子ども」と、表記に関しての説や感覚はいろいろアリ。
はてなダイアリー:子ども ■表記の問題について
えっ!「子供」って差別表現だったの!? / “差別用語”と呼ばないで
*「子供は」差別語?
 初めてこの問題にふれたのは、子どもが通う小学校の広報委員の仕事をやったとき。前年度の役員さんから「『子供』は不適切漢字であるので使用しないように」と申し送り。一同「えええ???」。しかし納得のいく説明は無し。多分、特に理解されないまま、申し送り事項であったと思われる。わたし自身は口ぽかん。 
 わたしが現在、表記として「子ども」を使用しているのは、自分自身を指す「私」を「わたし」と表記するのと同じ理由。ひらがなの柔らかい感じが好きだから。

3.「記事」
 ブログを始めて、当初はかなり気恥ずかしかった、自分がブログ上に更新する文章のひとつひとつを指す「記事」という言葉。
 そのうちに慣れてしまった。特に、過去の自分のあげた文章のことを指すのに「過去記事」という言葉はとても便利。
 しかし、最近、また急に、気恥ずかしさが復活。これはブログを使わない人からどう見えるのか、なんてことを感じてしまったため。
 「インターネットはつなぐがブログの閲覧は習慣として持たない」という人に、自分のブログアドレスを教えられない気恥ずかしさの一つに、自分が「記事」という言葉を多用しているということも小さく要素に入っていることに気づく。(いや、一番恥ずかしいのはブログ名なんだが…)。 
きじ 1 【記事】
(1)新聞・雑誌などに報道されている事柄。また、その文章。
(2)事実をありのままに書き記すこと。また、その文。
(3)「記事文」の略。 
 やはりこれが一般的な感覚だと思う。ブログを自分の媒体として持つ人に、ここでいう4番目の意味として「ブログに更新していくひとつひとつの文章を指す言葉」という「常識」があるんだろうと思う。
 ちなみにここであげた「辞書」を提供しているgooの「gooブログ」では、「ブログの使いかた」というページにおいて「ブログとは」や「基本的な使いかた」の説明でいきなり「記事」という言葉が使用されており、「記事」という言葉に特に説明は無い。「ブログ用語集」でも、特に記載無し。
 「見慣れない表記に、その意味を疑うより慣れろ」ということの一つの現れかな、とも思う。
 この、問答無用の「慣れ」のようなものに、少し距離をおいてみたいと今は考えているけれども、また感覚は変化するかもしれないというのが現在の心境。

「ブログ論」に関して

2006年02月23日 | インターネット雑記
 ブログ論というもの、ブログに関して書いてみる、ということなら、わたしもいくつかアップしてきた。何故書くか、それはブログという媒体を使っていたら、自ずと向かい合わなきゃいけないことが出てくる。そのことについて考察していくということはおもしろいからだ。

 ブログという媒体を使っていたら、トラックバックについて考えなきゃならなくなる。「送信」に関してもそうだけれど、突然入ってくるトラックバックに対してどう向き合うか、ということを考えなきゃならなくなること。これがブログという媒体を使っていれば自ずと起きてくることだからだと思う。

 興味深いもの、受信をありがたいと思うもの、これに関しては迷うこともない。ただ、「何故、これがこの記事に入るのか」という、発信者以外には理由がわからないトラックバックというものも入ってくるものだ。

 どう考えても、誰が見ても「スパム」というものだったら特に迷うこともなく削除すればいい。ただし、自分には関係ないと思えても、第三者が見て共通項を見出すものか、そのトラックバックは妥当であると思えるものか、こうした考察が必要になってくるほど、一度入ったものを削除するのは神経を使う。

 そんなときに知りたいのは、第三者の感覚だ。トラックバックというものをどういう風に位置づけているのか。そんな文章を読むと、その文章の中に共感と異論とを自分の中に見つけることができる。その見つけたものを材料に、自分にとっての価値観を見つけ、自分のところに入ったトラックバックに関して再度向かい合うことができる。指針ができれば対応は楽になる。

 そこで、そのまま「一件落着」にするか、そこで得た指針を書き残すか。書き残した場合、そこで「自分のブログ論」ができあがる。それをまた誰かが閲覧したときに、その人にとっての「ブログ論」が始まる。

 ブログという媒体を使わない人に「ブログ論閲覧フリーク」が存在するのか、それはわからない。ただ、ブログという媒体を使っている人には、誰かが書いた「ブログ論」は何かしら必要になってくるものだと思う。それはトラックバックという機能だけに限ったことではない。書きたい、書き残したい、書き残したものに反応が欲しい、読みやすいブログとは、読みやすいブログのデザインとは、など、あげていけばキリがない。そうしたことに対して出てくる思いや疑問に対して、「ブログ論」はある種の発見を与えてくれることは多いと思う。

 「ブログ論」を中心に書き続けている人の存在は、ある意味ありがたい。ひとつのテーマというのは書けば書くほど、その視野や質が向上していくのが自然だと思うからだ。この人のブログ論とあの人のブログ論とどちらの指針を選択するか。そんな選択が生まれていくほど材料が増えていくのも読み手にとってはありがたい。

 アクセス解析から見えるもの  では以下のように記載。
更新時点でやたらにアクセス数を稼ぐ「ブログ論」的なものは、日がたってしまえばほとんど入ってこないのはおもしろいといえばおもしろい。瞬発的な力、というものなんでしょう。わたしとしては「ブログ論を語る」というよりは、ブログという媒体にふれることに関しての「思いつき日記」のようなものなので、この現象に対しては特に異論無し。
 これは「ブログ論とはそんなもの」というよりは、「わたしの『思いつき日記』程度のものはそんなもの」という位置づけ。変な言い方だが、ブログという媒体を使っている人なら、ブログ論は誰でも書ける。ブログ論を書き続けている人のブログのブログ論は、思考に実績が伴っていき、ある意味「ブランド化」されていく。そうした人のブログ論の過去記事は、アクセス数が少なくなっても生き続けるものだとわたしは思う。鮮度の高い更新がされていくことは、その文章が、またブログという媒体を使うことで出てくる誰かの迷いに対応する機会が生まれていくことでもあると思う。
  
 ただ、ブログ論のアクセス数にだけモチベーションを持つのならば、それは危険だとも思う。書きたいことを書き、そこに自分を記し続けていくのは自分の発見につながる。アクセスが欲しい自分だけが見えていくのは少し虚しい。短いスパンでアクセス数が山になることだけを追い求めるのならば、自分にとって大切な「読まれない文章」の方が価値がある。後者は短いスパンで読まれなくても、書く意義があるものならば、検索によっていつか誰かに発見される。たった1人に発見されて、たった1人にその文章の存在意義を見出されること。このことはアクセス数に関わらない価値があるものだと、わたしは思う。わたし個人は、実は、こうした「短期では読まれないが、実は価値のあるもの」が好きだったりもするのだけれど。
 
 そうしたことを前提の上で、ブログ論を書きたい、という方には、どんどん書いていただきたいとわたしは思う。それはブログという媒体を使い始めたときに、「ブログ論」という文章が存在することがわたしはありがたいと思ったからであり、また今日明日、そのブログ論から発見が生まれる人が存在すると思うからだ。意義があるものが公開されることはネット上の財産になる。

 以上、ブログ論は読まれる?/Blog向上委員会 で投げかけられた疑問に対して、わたしが思ったわたしからの返答です。疑問に対しての返答としては多少とんちんかんかもしれないが、受け取っていただければ幸いと、トラックバック送信します。

「『駄文にゅうす』From Eさんインタビュー」の感想

2006年02月14日 | インターネット雑記
「面白いサイトが多過ぎる!」『駄文にゅうす』From Eさんインタビュー /【Parallels 2】

 駄文にゅうすをちょこちょこと閲覧にいくわたしは、とても楽しませていただきました、このインタビュー。
 以下、文中から引用。
From E:更新間隔が最短でも三日おきなのは、全ての人が毎日サイトを訪れるわけでも無い事と、紹介するなら少しでも長い方がその記事がより人目や検索エンジンに引っ掛かりやすくなるからです。
 ここ、ですね、わたしが駄文にゅうすを閲覧する上で、ここの長所、と位置づけているところは。他のニュースサイトは更新が早い。数日チェックしないと情報はどんどん過去に飛んでいく。過去ログを見ようかな、と思っても、思っているそばから更新されていく、という感じがする。リンクを見て、「ああ、これ後で読もうかなあ」とそのときリンク先に飛ばずに、数日経つと、ニュースサイト上のどこにリンクされていたかよくわからなくなる。ま、いっか、で終わることもある。
 駄文にゅうすは毎日更新ではないので、そうした閲覧のタイミングを「待ってて」くれる。またジャンル別に話題が分かれ、関連性のある話題に関してはまとめておいてくれる。この項目を「なんとなく」記憶していれば、後読みの意志がある場合、数日経っても、場合によっては一週間くらい経過していてもたいがい難なく探し出せる。
From E:記事をジャンル別に紹介しているのは、自分が後から目的の記事を探しやすくする為に。
 うーん、これはどうなんだろう、と思う。わたしがやり方がわからないのかなあ、と。駄文にゅうすで紹介されたものを読む。あとでなんとなく思い出して、ああ駄文にゅうすの過去ログにあったはずだ、と思う。この場合、2ヶ月くらい経過するとそれがもうどこだかわからなくなる。○月の××のジャンル、って感じに過去ログが検索できればいいなあと思う。駄文にゅうすで紹介されているジャンルの一部にしか興味がないって場合、他のジャンルを「かきわける」って作業になるからこうした「後読み」ってことにしてしまう場合、後が大変なんですよね。
まあ、これは閲覧した時点で、後読みなら後読みと、自分でURLを保存すべきってことなんでしょう。頼ってすみません。そしてわたしがやり方がわからないというお粗末な展開だったらごめんなさい。
From E:、駄文日記から駄文にゅうすへ移行しました。
 移行する前を知らないという前提のもとで、わたしはこの「分離」が楽しい閲覧をマニアックに呼んでいるところだと思う。少なくともわたしは、頻繁にってほどではないけれど、時々はっぴい!ぱらだいす!を読む、だっておもしろいから。何がおもしろいって、これだけのニュースを把握し、整理し、まとめ、ウェブ上に出していく「中の人」が、けっこう平和な日常に暮らしているって光景がおもしろいわけです。なんかね、こう、のたーっとして味があるわけだ。
 もちろん「日記」を人に読ませるってことで、「2005.7/19更新分」って要素はあるかもしれない。でも駄文にゅうすの「中の人」の場合は、駄文にゅうすがあるからこそ、「中の人」の、のたーっとした味が楽しいわけです。わたしの中で、ベスト1は今のところ「2005.7/1更新分」です。今後、またベスト1の位置づけは変わっていくかもしれません。まだ完読してないので。なんというか、のたーっと行きたい、この日記の読破は。
From E:晒しの場合を除いては、個人ニュースサイトに取り上げられることによって必ずしもプラス方向とは限らない色々と弊害も有るけど、少なくとも『最初にその記事を読んで面白いと思ってくれた誰かが居る』は実感できるかと。
 ウェブ上に出されていくものに関心を持ってピックアップしようという意志がある人が、自分が出したものをピックアップする。このことはわたしにとっては実に単純な喜びにつながる。自分が出したものが、自分が評価するニュースサイトの小さなコンテンツとして存在する。こういう要素もけっこううれしい。

 なんて感想を述べつつ、このインタビューを実施された個人ニュースサイトリンク集「Parallels 2」さんに感謝です。とてもおもしろかったです。楽しい企画のアップ、ありがとうございました。

アクセス解析から見えるもの

2006年02月09日 | インターネット雑記
 gooの編集画面を開き、アクセス解析を見る。gooのアクセス解析は日々の「閲覧数」「訪問者数」が時刻ごとに表示され、「ページごとアクセス数」「アクセス元URL」「検索ワード」「プラウザ」のそれぞれ上位20件が表示される。解析として欲しい機能はこれで充分、あえて言えば「プラウザ」はわたしにとってはたいして必要が無い。
 更新を滞らせているときに、「ページごとアクセス数」と「検索ワード」の存在の価値はけっこう大きい。過去記事となっているもので「生き続ける」ものが一目でわかる。

 この「上位20件」の中で、更新しようが更新を滞らせようが、常に入ってくるのが「V602SH」関連。すでに過去機種となっているこの携帯に関しての情報が欲しい人が日々、こんなにいることに驚かされる。まあ時間と共に必要の無くなっていく記事群の代表的なものだろうと思う。

 他に、常時入ってくるのは以下のもの。
「たったひとつのたからもの」:感想
「たったひとつのたからもの」:障害児が一人で歩く光景
宛名の無い手紙
 どれも「伝えたい」という主旨がわたしにとってははっきりしているものばかりなので、常時アクセスがあるのは光栄。

 常時、ではないが、時々、この「20件」に入ってくるものは、やはり「障害系」の記事が多い。更新時点でやたらにアクセス数を稼ぐ「ブログ論」的なものは、日がたってしまえばほとんど入ってこないのはおもしろいといえばおもしろい。瞬発的な力、というものなんでしょう。わたしとしては「ブログ論を語る」というよりは、ブログという媒体にふれることに関しての「思いつき日記」のようなものなので、この現象に対しては特に異論無し。

 ニュースサイトに取り上げられたものでアクセスされるものとして生き続けるのは「駄文にゅうす」に取り上げられたもの。このニュースサイトの過去ログをチェックする層の厚さのようなものを感じる現象。

 「ページごとアクセス数」、この欄にあがってくる過去記事を、時々再読。
知的に障害をもつ子を「育てる」ということ
 この記事は、毎日ではないが、かなり高い頻度でこの「上位20件」に上がる。
 これは「いい記事」です。なぜ「いい記事」と呼ぶか。それは毎年毎年、秋から暮れにかけて、そして5月の連休前後に、必ず誰かから持ち込まれる「相談」に、常に答え続けている内容だからです。
毎年毎年、聞く相手は変わる、それでもわたしの答え、意図する内容はずっと同じ。相手の個性、子どもの個性によって細かな内容は変わりますが、ずっと変わらない一貫した主旨がこの記事にはあります。
わたしにとって、大きな意味のある「いい記事」です。

更新

2006年01月14日 | インターネット雑記
 アクセス数というもの、自分が残すものに対しての反響というもの、これに対してわたしは「漠然とした数」はいらない。自分が残したものの向こうに「人間」が感じられればそれでいい。
 
 自分が残すものを通して、人と対話する、相手を知る。自分が許容できるその数には限界があり、その限界を超える数はわたしには難しい。

 ただの「数」から、記憶に残る「人間」が浮き出る。わたしにはその方が意味が大きい。

 わたしは自分の前にある「箱」から、「箱」の向こうへ発信する。人間に向かって発信する。日々、「箱」に向かって「チャンス」を発信する。

 閲覧できる状態にある限り、わたしの残したものは発信を続ける。そしてそれを願いながら、これからも発信し続けるのだと思う。

ブログ閲覧時の「部分表示と全文表示」

2006年01月11日 | インターネット雑記
 読み手としての感覚で言うと、部分表示が中心になっているブログは、わたしはあまり好きではありません。理由は閲覧がめんどくさいから。ひとつの記事だけを読む場合にはそれでいいんです、ただしその記事から興味を惹かれてトップに行って、並んだ記事が全て部分表示の場合、あくまでもわたしは、ですが、次の記事を読む気が減少します。
 
 部分表示はいちいち記事を開けて読まなきゃならない。ブログ自体か軽いとこならいいのですが、ぎっしりと画像だの情報だの詰まったブログや、背景に画像を使ったブログはその、記事を開くときにいちいち開く時間を待たされる。また、待たされるというほどの時間がかからなくても、メニューだのなんだのといちいち表示されていく動きがなんというか「目にうるさい」。特にアク解の忍者ツールを使っている場合、ちらちらと画面の端で動きながら出てくる小さな手裏剣がいちいち出てくることがまた「目にうるさい」。開いた記事に対しては、そうした持たされる感覚分の期待をしますから、あまり満足できなかった場合、全文表示のブログを閲覧したときよりも、勝手ながら不満度は上がります。そしてそうしたストレスを数回持たされた経験のストレス感は、実に勝手ながら、次に全記事部分表示のブログと出会ったときにスライドされてもいきます。
全記事部分表示を選択しているブログに関しては、わたしは、こうしたストレス感を軽減させるために、カテゴリの充実と、検索窓の設定を是非、と思います。

 例外は、すでに巡回リストに入っているブログ、RSSリーダーで全文が読めるブログです。
 すでに巡回リストに入っているブログは、部分表示だけでその全文表示を開くかどうかの「心理的敷居」は低くなっていますし、巡回リストに入れただけの「信頼感」は持っています。また巡回リストに入っているブログの場合は、過去記事をいくつかまとめて読むということもなく、部分表示を開くという回数が一度だけなので、たいした手間とも思わず、日常の「そこのブログではそう」的な解釈のひとつとして定着。ただし、自分が出会った以前の過去記事を読もうという気になったときに、「いちいち部分表示を開いて読まなきゃならない」という心理的な圧迫感を持つ要素はあります。わたしは過去記事に関しては、全文表示が中心のところの方がよく開く機会が多いです。
RSSリーダーで全文が読めるブログの場合は、本文だけが全文表示されますので、メニュー画面や背景画像の表示速度などが全く関係なく全文を開くことができます。ただし、過去記事に興味を持ったときに、RSS取得以前のリーダーでは読めない記事に関しては、上記と同様です。

 わたしはgooを開いた時点で、ブログというものはこういうものかと、たいして考えもせずに全記事部分表示を選んでいました。その後、全記事全文表示に変更。ひとつひとつの記事を開く回数分のページビュー数を失い、ページビュー数は一時的にがくっと落ちましたが、その後、またじわじわと上がり始めました。これは、該当記事以外のページを開く回数、つまり「ついでに過去記事を開いていく」アクセスが増えていったことを表していると解釈していますが真偽のほどはわかりません。尚、ピックアップ記事をトップにあげたのは、その後です。

 gooは全記事部分表示か全記事全文表示か、の二者択一しかできません。しかし他のサービスでは記事によって部分表示か全文表示か選ぶことができるものがあります。こうしたところに関しての部分表示は、部分表示にしたことに関しての「書き手の意志」を推測しながら開くということがあり、それはそれで楽しいです。

*追記:興味深かったので、リンク
 ・ページの見易さと書き手の意図/やっぱり本が好き
 ・■[ネット]ブログ閲覧時の「部分表示と全文表示」 [S嬢のPC日記]/明日は明日の風が吹く

更新と整理

2006年01月03日 | インターネット雑記
 昨年(とあえて言ってみる)、ひろりんさんの「こんなのでいいのかな…」から、トラックバックをいただきました。
ブログに更新を続ける情報性のあるものに対して、その有効な活用の仕方に関してご意見を、という内容のものだったと思います。整理して記事上げしてからトラックバックにてお返ししようと思っている間に、該当記事が削除によりなくなってしまいました。
リアクションが無いことに対してのご配慮だったのではないかと思います、気を使わせてしまったようでごめんなさい。

 更新を続けていく中で出てくることとして、304 Not Modifiedの「更新するということ」で語られる要素は避けられないことだと思います。
そのことに対して、どういう対策を持っていくか。それはそのブログにより行動は変わると思う。
304 Not Modifiedの「目次カテゴリ」のように、一覧を作ってしまうのも一つですし、わたしのところのようにピックアップをトップ記事に常に置くという方法もある。またむだづかいにっきのように、ピックアップ記事をメニューに入れていくというやり方もあると思います。

 その上で、ひろりんさんのところのような、一つのソフトに対して探求するという情報性の高い記事群に関しては、ブログで少しずつ記事上げした後に、まとめとして、FAKのKTAさんが作っている「携帯レビュー」のようなサイトを作ってブログにリンクさせるというやり方もあると思います。ブログで更新した場合、このサイトも随時更新、という形になるでしょうか。
ブログの他にサイトを持つという形になりますが、検索で訪問する情報性に関してのリクエストが高い閲覧者にとっては、こちらの方がわかりやすいのは明確かな、とも思います。

 以上、例示としてあげたところは、全て、ブログを開いたことで出会わせていただいたところです。ブログという媒体は、情報と、人と、出会うチャンスが大きい媒体であると認識。
この媒体を、今年も有効活用していこうと思っています、ということで、本年もよろしくお願いいたしますで閉める2006年最初の更新。

トラックバックにお返事

2005年11月11日 | インターネット雑記
 大胆な表現をちりばめた記事「無断リンク論争の余波」に、早々にトラックバック受信。
特に記載は無いのだけれど、文中からご本人と判断。
以下、そう判断させていただいた上で。

失敬な表現を書き連ねた記事に対しての、丁寧な対応に感謝。
 また、あのサイトだけはわからない背景も、理解。願わくば、インターネットという大海に出していく上で、この背景と主旨も書き連ねて欲しかったです、方法論に関しては別としても。
■[etc]それはもう2ヶ月も前に/quintia essentia
もう2ヶ月も前に、教育委員会のサイトにある問い合わせフォームから「そのような運用規定で運用できているんですか? 見直しをするべきではないですか?」という内容で問い合わせをしているのに返事無し、変化無し

 それならば、さらに「上へ」です。市に意見書という形を持っていく方法を、わたしなら取ります。該当の学校HPを丹念に閲覧、あれは無断リンクに関しての記載以外にも問題があります。ごめんなさい、わたしはこのことを、記事上げ後に気づきました。このことは閲覧されてお気づきだと思います。わたしがあの学校に子どもを通わせる保護者ならば、だからこそ、こういう形でのリンクはして欲しくなかったとも思いました。
こんな回答をする学校にネットリテラシーの教育をまかせていいんですか? という問題提起を併せてして欲しかった、というのが正直な感想。
 この考察を提言するのなら、そういう反応を引き出せるような記載というのも必要だったと思います。わたしは「おもしろがっているように」見受けられました。
 
 さて、行動です。
自治体に対しての行動は、「こうした方が」「これがおかしい」という「一市民の意見」に関しては、流される場合が多いです。流されないための行動は、具体的に提言が達成されている他の自治体の「実例」を持っていくことです。
「ここの自治体はこうである、これはこのことについて実現されている、しかしうちの自治体はどうなのか見解を疑う」
これをひとつの自治体の、複数の窓口に持ち込むことが、効果を持つ可能性が高いです。

 ご参考までに。
横浜市教育情報ネットワーク【Y・Y NET】

以上、■[etc]それはもう2ヶ月も前に/quintia essentiaに、トラックバックです。

「無断リンク論争」の余波

2005年11月11日 | インターネット雑記
 ネット上のあちこちで、今、「無断リンクは是か非か」論争が起きているようですが。

 ちょっと腹立ってます、ワタクシ。
◆W3C/br2xuY
無断リンクは是か非か
許可してください
メールで聞いた
 この 「メールで聞いた」 というものに、腹、立ててるわけです。

 あのね。学校って何をするとこか知ってる?
 公立の学校の職員は全て、税金で雇用しているって知ってる?
 無断リンクについて考えるのはいいよ。考察もいいよ。個人の自由。
 でもね、学校本来の業務とは違うことで、公立の学校職員の時間を使うってのは、税金の使われ方としてどうよ。

 いや、言い直すよ。
 学校本来の業務とは違うことで、公立の学校職員の時間を「奪う」ってのは、税金の使われ方としてどうよ。
 
 本当にリンクしたいうんぬんってことじゃなくて、「実験」に、義務教育の場である「公立の小中学校」を対象にするって、どうよ。

 無断リンクうんぬんの前に、その行動って、どうよ。

 わたしの知っている風景として、「学校にこのメールが届いたら」と考える。メールを開いた人間が校長に報告する。校長は教頭や教務主任等、管理職と相談する。メールを開いた人間は、同僚の教師とこの話をする。校長は教育委員会と話をする、管理職として自治体の職員と話をする。学校のサイトは自治体のサイトのコンテンツなのだし、校長は「中間管理職」だ。

 この全ての時間に関して、この迷惑行為って、どうよ。

 そしてPTAの主要な役員が集合する実行委員会でも、学校からの報告としてこのことが案件になるだろう。無報酬の多忙な人間の時間を、そんなことの報告を聞くために集まっているわけではない人間の時間を、そうやって「奪う」って、どうよ。
 そして集まった保護者たちは、この突然の「不可解なリンク依頼」が、子どもの安全を脅かすことにつながるものかどうか、警戒姿勢を持つだろう。
 わけわからん人間が次々に出現する中、突然の集団下校や、保護者送迎の必要性が出現、なんていうニュースは、しょっちゅう報道されているじゃないか。

 無断リンクうんぬんの前に、「愉快犯」ではないのか、あなたの行為は。

 学校は、児童・生徒の教育のために動いているもので、児童・生徒の存在がある以上、慎重になるのは当たり前のこと。
 その慎重さを逆手に取るって、どうよ。

 自治体の公式サイトが無断リンクに関してどういう見解を持つのか、そういう「研究」をしたいのなら、自治体に行って聞いてこい。

両輪として動く、二つのブログ

2005年11月01日 | インターネット雑記
gooブログ「S嬢のPC日記」と、はてなダイアリー「S:今日の一言」。

今まで複数のブログを動かしている人を見ると、正直「大変だなあ」程度の関心しかなかった。
その上で、はてなダイアリーを動かし始めたのは、単純に言ってしまえば「単なる気まぐれ」。
わたしは記事上げのときに、けっこうたくさんの「裏付け情報や関連情報のサイト」を閲覧したりして、またそれを好きでやっていることなのだけれど、それは全ては表に出さない。
そうした情報は、直接的にからむものばかりではなく、自分にとってのヒントとなるものでもあるので、全部出すと、逆に記事内容がわかりにくくもなると思う。だから表には全ては出さない。
その中で、そこまで調べたり、裏付けを求めたりと、そんなことをしなくていい、気軽に自分の「声」を出してしまう領域というものを作ってみたかったことが関係してると思う。

そんな中で、動き出させてみて、最近、この「はてなで別ブログ」ということの利点を発見しています。

わたしのはてなダイアリーの使い方として、最近定着してきているのが、「メイキングオブ新記事」的使い方。
出した結果としてのgooブログの新記事に関しての、メイキング的情報がはてなダイアリーに入る。
これは自分の記録を目的として残している使い方であるのだけれど、閲覧者から見たら「メイキングオブ新記事」になる。
閲覧者全てにここまで追いかけてきて欲しいと要求するような気持ちはさらさら無いが、「関心があれば閲覧可能」な状態。

そしてそのことが結果として出てくるのが、例えば、最近の記事で言えば、コレ。
はてなブックマーク > S嬢のPC日記:障害をもつ赤ん坊と「祖母」
はてなブックマークでピックアップされたときに、同じページに、その記事に対しての「メイキングオブ新記事」情報が自動的にリンクされる。

また、はてなブックマークでのピックアップにコメントが入った場合、「はてブコメントにレス」として、はてなダイアリーに新記事をたてる。
これはコメントをつけた相手に対して返答を渡す、というよりも、出されたコメントに対してレスをつけるという自分の行動を自由に展開させる場として機能していると思う。
渡されたコメントに対しての、自分にとっての「落としどころ」のようなものかもしれないとも思う。

この「メイキングオブ新記事」と、「はてなブックマークのコメントにレス」。
二つとも、gooブログ上で行ったら、ブログがぐちゃぐちゃになるようで、個人的な好みとして、ちょっと好かん。
解決どころとして、とても便利、gooブログとはてなダイアリーの「両輪」。

「チャンス」のプレゼントをありがとう

2005年10月21日 | インターネット雑記
個人ニュースサイトの有名どころのひとつである「駄文にゅうす」、その10月20日(木)更新分において、【コラム】のところに被リンクがありました。
「自分たち」以外の人間関係を成立させることができない子ども達 【S嬢のPC日記
これを見て、わたし以外に気づいた人は、はたしてどれくらい存在するんでしょう。
そう、ここで被リンクとなっている記事にタグとしてついているURLは記事URLではありませんでした、この記事を含むカテゴリアドレスでした。
ごめんなさい、公開の場で恥をかかせる気はないのだけれど、これは単純なミスだと思う。そしてその単純なミスで多分まちがいなく、わたしは「儲けた」ってとこなのだと思います、単なる被リンクより閲覧者に「寄り道」の窓が開いている展開。

被リンク記事を読み終わる頃、自然に目には「ジベル薔薇色枇糠疹」が飛びこんでくる流れになっています。
この流れにどのくらいの人が乗ってくださるかわからんが、「ジベル薔薇色枇糠疹」の名前の由来であるジベルさんも、自分の名がつく病名が多数の人の目にふれて、きっと喜んでいらっしゃることでしょう。
そして、もしかしたら「たべすぎ・ねっと (tabesugi.net) 」の紹介にもつながったかもと思うと、わたしはちょっとうれしい。この方の「ジベル薔薇色枇糠疹」話には、とても楽しませていただいたので。

以上、「駄文にゅうす」のE様感謝です、ありがとう。

娘の「ジベル薔薇色枇糠疹」は、派手な発疹の状態の割にはあっという間に完治。おしゃれにも精を出し、明日はコチラのイベントに行ってきます。

「個人ニュースサイト」にお手紙

2005年10月07日 | インターネット雑記
RinRin王国という個人ニュースサイト、以前にも被リンクあったと思うのですが、何が被リンク記事だったのか、忘れてしまいました。
もっともこちらの管理者である輪王さんは、もっと覚えてないことだと思います。

さて。
RinRin王国10月3日記事に被リンクがありました。
ご注意、ご注意」という記事のピックアップです。
最近、巧妙な言い方で個人情報を聞き出そうとする電話が子ども絡みで増えていている(S嬢のPC日記)
 昔から有る様な気もする。
 [関連] ベネッセのダイレクトメールは住民基本台帳を元にしていた
ここで出てくる輪王氏の「昔から有る様な気もする。」というコメント、そしてベネッセのリンクに、実はわたしは違和感を持った。
「勝手に調べる」っていうんじゃないんだよ、「あなたの隣の人の個人情報を教えてください」って言うんだよ、と。
平成3年生まれの娘が低学年時、つまり平成10年当時は無かったんですよ、こういう話。
平成6年生まれの息子が入学後、つまり平成13年以降、学校側として「新しいやり方」とキャッチし始めたのが、この「あなたのお子さんのクラスの○○さんの電話番号を教えてください」というもの。

ここ4~5年。
これは、子どもの年齢や時代から言って、わたしには「最近」になる。
ベネッセの幼児向けDMが始まったのが、確か娘が生まれて1年くらいしてからだと思う。
ふむ、これもわたしにとっては「昔」じゃない、そんなに遠くない「最近」だと思う。

ここでRinRin王国に戻り、プロフページに飛ぶ。
管理者の「最近」と「昔」というものが、どういう時期を指すのか確認に行ったわけです。
ふむふむ、多分、ズレがある。
それで、わたしの考える「昔」について西暦の年代で入れ、そして「えー、違うと思うよ?」と思った「第三者の個人情報を特定の個人から聞き出すのは昔からじゃないと思う」を入れた内容の記事上げをしたわけです。

これが輪王氏に届くか届かないか、と言えば、届かない可能性の方が高い。
でも、それはそれでよかったんです、納得したいのは自分だったから。

しかし、続けてRinRin王国10月5日記事に、このことを書いてみた、自分にとっての続き記事 「悪徳商法」の記憶をたどるが、被リンク。

やったね♪って思った。
いや被リンクが「やったね♪」ではない。
「個人ニュースサイトに返信」が届くという実感ですね。
記事というひとつのものを橋渡しにして、リンク・被リンクでひとつのつながりを持つ関係。
ニュースサイトという、たくさんの情報を手にする相手には、その中のたったひとつの記事の管理者の声は小さい小さいものかもしれない。
でも、「えー、ちょっと違うと思う」ということ、届くかな、と思えば、届くもんなんだなという実感に「やったね♪」。

まなめはうすのまなめ氏にも、以前「ニュースサイトに返信」は、やったことがありましたが。
ただ、こちらの方が「届くだろう」という実感があった。
それは彼がブログ持ちであったり、わたしは彼にトラックバックを入れていたり、そして彼が自分のサイト上でわたしに対して「つっついてくる」ようなことをやっていたので、その軌跡の中で、まあ届くだろう、と。

しかし、RinRin王国の輪王さんに対しては、ちょっとしたチャレンジでしたね。
チャレンジとして、自分が納得して記事上げを楽しめれば、それでよかった。
もしかしたら届くかもしれないと思ったのは、実はココ。
RinRin王国の表紙から飛べるプロフページにあった「本当に訪問者が知りたい20の質問の回答」の9番です。
「数でしか把握できない」、この「数」とはカウンタ。
そしてもうひとつ、アクセス解析がある。
記事中にリンク入れて、そこから何度か飛べば、アクセス解析で目立つかなと、ちょっと思ってました。
(いや実は、あざといことをするのができなくて、自分では自分が記載したアドレスから結局飛べませんでしたが)
でも、解析でひっかけてくれたかなあと思う。

個人ニュースサイトに返信。
コメントもTBも受け付けていなくても、やりようによっちゃできるのかもな、と。
だって、どんなに情報をたくさん掲載する、どんなにアクセス数の多いサイトでも、管理者は「個人」ですものね。

*追記 2005.10.8
RinRin王国10月7日記事にて「お返事」確認。
お返事、ありがとう。
そして関連記事のプラスも興味深かったです。
おつきあい、ありがとうございました。