S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

車椅子マークの駐車スペース

2006年03月26日 | 「障害」に関わること
 パラリンピック関連検索中に発見したもの。新聞社のニュース記事なので、リンク切れを予測して要約で紹介。
車椅子マーク:駐車場に健常者 苦情急増[MSN毎日インタラクティブ] より要約
・車につける「車椅子マーク」、本来必要の無い人が「障害者用駐車スペース」利用のための不正使用が増えている「疑惑」。
・日本で「車椅子マーク」の商標権を持つのは「障害者リハビリテーション協会」。
・車につける「車椅子マーク」は、複数の業者が製造し、昨年は約1万7000枚作られた。1枚数百円で、カー用品店などで売られていて、障害者手帳の提示等の購入資格の制限は無い。「必要であれば誰でも買える」。
・外見では有無が分かりにくい障害もあり、「見た目だけで不正と決めつけるのは危険」(リハビリテーション協会)。
・土曜の午後、スーパーで直撃。「足が痛い」「家族に外見で分からない障害がある」他、「(車椅子マークは)おしゃれで付けてます。ごめんなさーい」、「足の悪いおばあさんがいる。今は乗せてないけど」。

 不正使用うんぬんを言う時に、障害者用駐車スペースに関しては、その必要性の理解に対しての「説明」が必要なのではないか、と思う。

1.障害者用駐車スペースは、どうしてあんなに両側に広くスペースを空けてあるのか
2.障害者用駐車スペースの利用者とは
3.「駐車禁止除外指定車」で解決できないこと
4.「空いている」ときに、対象者以外の人間が使っていいのか
 
 以上のことに関しては、このサイトがわかりやすく説明してくれていると思うので、是非ご一読を、と思う。
駐車大問題 / 車椅子で彷徨えば

 以下、私見。

 「1.」に関して。
 車椅子使用者が運転者の場合は、車の横に車椅子一台分のスペースが必要だからであることが、一般的にどこまで理解されているのかいささか疑問。車椅子使用者が運転者の場合は、運転席のドアの横に車椅子分のスペースがなければ「その位置でドアを開けられない」し、「車に乗ることも車から降りることもできない」。そうしたスペースがとってない通常の駐車スペースは、隣に車が駐車してしまえば「車に乗ることも車から降りることもできない駐車スペース」になるわけであり、駐車スペースとして機能しない。

 「2.」に関して。
 これには、「優先順位」というものがあると思う。
1.障害者用駐車スペースが無くては駐車できない人。
2.単独でその場にいることが困難な障害者が同乗している車。
(単独で数分程度「いられる」障害者の場合は、安全な場所で障害者を車から降ろしてそこで待たせて車を駐車場に停めに行くことができるが、そうでない場合は「両脇スペースがなくてはならない人」という位置づけになる。)
3.「障害者用駐車スペース」利用により、ハンディキャップを軽減するパーセンテージが高い人。
 つまり「優遇」より「必要不可欠」が優先されるべきだと思う。

 「3.」に関して。
 車椅子使用者が運転者の場合は、障害者用駐車スペースで見られるように、運転席の横側に車椅子が横付けできるスペースが必要だということ。車から乗降するときにこれだけのスペースが必要だということは、車道で路駐した場合にも例外ではない。車道での路駐は、気をつけていないと「後ろから来る車に轢かれる」危険があるということ。駐車違反のキップを切られない、なんてことだけで解決できることではないと思う。

 「4.」に関して。
 ひとつの駐車場に一台かせいぜい二台程度しかない駐車スペースがふさがっていれば、それだけで「満車」ということ。
通常の駐車スペースを「利用できる」人は、利用しないで「本来利用する人のために空けておく」のは当然のことだとわたしは思う。
本当に必要な人、そこ以外に駐車できない人が来たときに、そのスペースが「空いている」ということは、「社会がウェルカム状態でいる」ということになり、「該当者以外の車両に占領されている状態」ということは、「社会が拒絶している状態」という意味づけになりかねないと思うのがその理由。

 駐車スペースとはちょっと話が飛ぶのですが。
建築設計を仕事とする夫が図面を引いて建てたのが、現在の自邸。バリアフリー住宅として設計され、車椅子使用での居住が可能になる計算で作られています。
家族には現在、車椅子使用者はいないのですが、この図面を見たときに思ったこと。
わたしを含め、家族に今後、どんな事故・事態が起きても、自宅が居住可能な状態であるということは、精神的な衝撃を軽減させるだろうということ。
「社会がウェルカム状態である」ということは、そういうことなんじゃないかな、と思う。

「詳しくはWebで」

2006年03月20日 | インターネット雑記
 テレビCMにおいて、「詳しくはWebで」というものが増えている中で、「詳しくは」という部分で欲しいもの。
1.商品キャンペーン等の宛先や、商品キャンペーン参加に必要な台紙のダウンロード。
2.ウェブ上から、割引クーポンのダウンロード。
3.他メーカーの同様の商品と比較できるような詳細な商品情報。
1.に関しては、たいがい大手スーパーに必要なものはおいてあるのが普通なわけで。それを「取りに行かなくても」または「取ってくるのを忘れても」、簡単に情報を閲覧・取得できるとしたら、便利だという「特典」。
2.に関しては、閲覧することでさらに宣伝効果を与えるということの「対価」。
3.に関しては、例えば食品に関しての細かい情報等、調べたければ調べられるという「情報の公開」。
ハンバーガー屋のキャラについての情報だの、ストーリー性のあるCMの「続き」なんぞは、わたしは特に見たくはない。

 「詳しくはWebで」とうたうテレビCMが、インターネットを接続していない家庭に与える疎外感に関して。
新しい媒体が出現し、定着を始めたときに、その流れに乗り遅れるということは、企業にとってマイナスなわけで、乗り遅れるわけにはいかないのが資本主義社会だと思う。
新しい媒体の利用を「まだ手にしていない」層に対して配慮、という意味で「詳しくはwebで」ということを選択しないということは、時代の流れによっては「企業としての競争に乗り遅れるかもしれない」という要素を持つ。
ポイントは、こうした手法に対しての「参入の時期」だと思う。

 情報の受け手としての「不公平性」に関して。
テレビのカラー放送が始まった時代に、新聞のテレビ欄には番組名の後に「カラー」という文字が記載されるようになった。カラーテレビを所持している層には「必要な情報」で、所持していない層には「不必要な情報」。
カラー放送が始まった時代に、カラー放送を利用したCMを作るということは、白黒テレビを見ている層には「わからない広告」を見せる、ということで「疎外感を与える」ものなのか。そこに企業は配慮すべきだったのか。
答えは「NO」だと思う。

 「詳しくはWebで」という言葉が出てくるテレビCMは、まだ少ないけれど、今後はさらに増えていくんではないかと思う。
情報の受け手としてのわたしの「感想」は、媒体を有効に利用したものの出現に期待したい。

*関連リンク
「詳しくは Web で!」という差別/『斬(ざん)』
カラーテレビとリモコン/昭和の思い出 はすぴー倶楽部

被食-捕食と、ファンタジー

2006年03月14日 | つぶやき
 『あらしのよるに』考/天竺堂通信を読んで、つらつらと思ったことを、多分まとまらないままに。
動物(擬人化されていても)であるガブとメイが、被食-捕食関係で悩むところが異様なのだ。動物は食餌に感情移入などしない。そんなことをするのは人間だけ。
 食物連鎖という自然法則を、友情という人間感情で乗り越えさせようとすることに、大きな無理がある。まさに“不自然”だ。
 手塚漫画の「ジャングル大帝」はここに行き詰まった要素があると、昔何かで読んだことがある。「マダガスカル」の宣伝を観ながら、(どうするんだろう、この要素)なんてのも思った。

 動物好きな友人がいた。動物をとても大事に思っていたのだけれど、彼女が生育歴の中で見るのは、彼女の生活圏の道路で、ぼろきれの雑巾のように、ただ轢き殺されて無惨に死んでいく動物たち。関東から車でちょこっと行ったような海のそばの観光地の近くに彼女が住む家はあり、都会から走ってくる車は動物を轢き、ふり返りもせず走り去る。走り去るものは忘れるだろう、でも残された死体を何度も何度も、何匹も何匹も抱く人間には消えない記憶は残り続ける。

 「人間なんて、そんなもんだ」と彼女はよく言ってた。食べもしないのに動物を殺す。着るものが無いわけじゃないのに皮を剥ぐために動物を殺し、たかがハンコを作るだけくらいの理由で象の顔だけを切り落として殺す。
 密猟者は顔だけを狙って、殺して捨てるんだよ、と彼女は言う。象牙のハンコ、精力剤にするためのサイの角、高く買うのはみんな日本なの、ヤダねえ、と彼女は言う。

 そうした「言論」だけで済ませる批判者、というのもいるだろうと思う。彼女と接していることに次の扉が見えるような気がしていたのは、出口が見えずに悩みながら、「言論」だけではない思考と行動に進もうとしていたからだと思う。

 「釣りがしたい」と言った。手で釣って魚を自分の手でさばくのだ、と。スーパーだの魚屋だの肉屋だのといったところに何かを任せて知らん顔をするのではなく、「殺して食うのだ」ということを知らなければならない、と。
「殺して食う」ということ。人間と他の生き物は「被食-捕食関係」で成り立っていることを、その手で殺して知らなければならない、と。
居酒屋で酒を飲みながら、食ってる焼き鳥をふと見つめ、「鳥をさばくことも覚えたいな」と言った。


 平成に入る前年だったか、わたしは成田で彼女を送る。彼女はタンザニアに旅立つ。野生生物管理大学に留学するために。「動物保護管の勉強をするのだ」と。

 手紙をやり取りする。ポストに入れた手紙はいつ届くのかわからない。彼女の手元に届く手紙は、たいがい、破られた封筒の切れ端がまとわりつき、やっと住所と宛名だけが見える状態という「ほぼ便箋だけ」だったそうだ。日本からのエアメールは「金目のものが入っていないか」と、公的機関のどこかで隠れて破られる。

 ずっと記憶に残る話。動物保護区の調査のためのキャンプ。国立公園の動物保護区は広い。キャンプを張りながら何日もかけて移動する。
 キャンプの出発時、数匹のヤギが一行に参加している。海外留学の淋しさもあって、彼女はそのヤギ一匹一匹に名前をつけ「遊んでもらっていた」んだそうだ。

でもね、Sちゃん。そのヤギはね、お弁当だったのよ。

 自ら歩いて連れて行かれる「食物」。殺して食べるために連れていく「食物」。「野生生物の調査」なんてもっともらしい理由が無くたって、それを当たり前の生活にしている人々は、世界にはたくさんいる。スーパーで買って、「殺す」ということに知らん顔をしているわたしは、轢き殺して走り去る都会から来た車のようなものだ。いいも悪いもない、それがわたしの「生活」。

 毎週、「どうぶつ奇想天外!」を見る。この番組は生態系の被食-捕食をきちんと見せる。この前の日曜は、カバがシマウマを食っていた。カバは草食動物? いや、「雑食」の仲間でもあるそうだ。ワニが殺したシマウマをカバが食う、亀が生きた魚を食う、カエルが生きたコオロギを食う。生き物を知る、ということはそういうことだ。

 「子どもに聞かせるお話」で、友情を語るのに被食-捕食を混入させる。そりゃ無理があるよ、根底から。言っちゃ悪いが暢気なもんだ、とも思う。子どもに対して何を誤魔化して何を伝えようっていうんだろう。フィクションの設定というものは、フィクションの中で真実を語るためのもので、現実を誤魔化すためのものじゃない。現実を誤魔化したファンタジーは、わたしは好きじゃない。

トラックバックとリンク切れ

2006年03月11日 | インターネット雑記
 トラックバックを送信するときに、文中にトラックバック送信先のリンクを入れる。必要な場合においてトラックバック送信先の本文の引用も入れる。引用に関しては、部分を引き出すために、その主旨の誤読がされないように注意を払い、できれば閲覧者が閲覧者の目で送信先の本文も閲覧の意志を引き出せるような引用の仕方に注意を払う。

 しかし。
トラックバック送信先のブログが閉鎖され、ネット上からその存在が消滅してしまったら。

 この可能性を常に考えに入れるためには、閲覧者が引用先に飛ばなくても、大意が理解されるように作る必要が出てくる。それを考慮に入れたとしても、トラックバック送信先が存在しなくなったときに、意味が通らなくなるエントリというものも出てくるかもしれない。
ただ、ブログは気軽に始められる。気軽に始めた人は、気軽にやめるだろう。
 この「天竺堂通信」では、記事内にブログからのリンクを張ることはほとんどない。張るのは辞書サイト「Wikipedia」か、公共機関や企業系のサイトが多い。
 ブロガーの“持続力”を、正直、疑っているのだ。予告もなく突然消滅したブログを、私は少なからず知っている。いちいち期待や失望はしていられない。

 過去記事の中で、すでにいくつか、トラックバック送信先のブログが閉鎖され、リンク切れが発生しているものがある。これはもう、仕方がないとしか言いようがない。ブログに対してリンクし、トラックバックを送信するという内容のもの。これは「意味が通る」という点で、そのときにはわからない「期間限定品」という傾向を持つ。醒めた目で言ってしまえば、ブログのトラックバックというものはそういうものなのかもしれない。さんざんトラックバックに関して語ってきたこのブログでさえ、こうした文章がぽんと上がってしまうのだから。
んだども、来週からPCいじれそうにもないし、めんどーだから撤収しようかと。
そろそろここ閉めるか/むだづかいにっき♂
 個人の判断によるものとは思いつつ、その判断によっては、また過去記事のリンク切れが発生してしまう。しかしこれも、リンクする側の自己責任。リンク切れが嫌いです/天竺堂通信に書かれている判断をするのもひとつの選択。
 
 今後、トラックバックという機能を利用するときには、「リンク先が消滅してもいいような引用の仕方と本文内容」というものを考えていかなければならないかな、とも思う。これはブログという媒体に関してのトラックバックという機能のひとつの側面かもしれない。

インターネット上に生き続ける「財産」

2006年03月07日 | おすすめ個人HP
 障害をもつ子の保護者の心理の研究としては、ドローターの仮説というものが有名です。この仮説、文章で見るよりもその図式というものがとてもわかりやすい。ネット上で、わたしはその図を紹介した下記のサイトをよく参考リンクとして出すことがあります。
 保護者の心理

 このサイトは「特別支援教育のおもちゃ箱」の資料室というところで「教育相談関係資料」としてあげられたコンテンツのひとつです。全てのコンテンツのトップページは「特別支援教育のおもちゃ箱」となっています。

 この「特別支援教育のおもちゃ箱」というサイトは、非常に充実した情報の宝庫となっています。これを作られた管理者の方には本当に頭が下がります。障害をもつ子どもの教育に関して調べるときに、Googleで検索をかけるよりも、まずここへという順路の方が欲しい情報にたどりつけることは少なくありません。

 このサイト、トップページの新規更新を表す画像がちらちらと動くコンテンツの「最終更新年月日」が平成16年9月で終わっています。つまりそこから更新はされていません。更新はされていないが、現時点でもネット上の「財産」として存在していると、わたしは認識しています。

 この「財産」を継続して存在させているのは、このページの作成者ご本人ではなく、ご家族です。
トップページ、そして資料室にも、同じ場所へ飛ぶリンクが貼ってあり、そこにその理由が明示されています。
 今後の方針について(17年1月5日)

 平成16年10月に亡くなられたこのサイトの管理者の功績は大きく、ご家族のご判断に感謝し、今後もこのサイトが生き続けることを願って、紹介ということをしておきます。

自分が使う文字表記に関しての雑感

2006年03月01日 | インターネット雑記
 「障害・障碍・しょうがい」という、過去にあげた文章において、自分が選ぶ表記の仕方、なんてものとその簡単な理由なんぞをあげたのですが。

 その後、自分が使う文字表記について、感じたことをあれこれ。以下、箇条書きに。
 
1.「障害当事者」
 「障害者」に関しては、わたしは自分が過去、他者にあてたメールをつらつらと読むに、「障害当事者」という表記を使っていることに気づく。「障害当事者」、これに対する者は「障害支援者」となる。意が通じていて略せる場合は、そのまま「当事者」「支援者」となる。
 他には、「障害をもつ人」、「障害がある人」、などと表記することが多い。「知的障害者」に関しては、「~的」が「障害」にかかってきている感を勝手に持っているという感覚。「知的な障害をもつ人」という表現も使用。この傾向は「障害児」に関しても同様。
 「『障害者』という言葉を避ける」というよりは、そのときの自分の使う思考に基づいたり、そのときに主旨として持つことの意味に応じて「出てくる」というのが率直な感想。

2.「子ども」
 「子供」「子ども」と、表記に関しての説や感覚はいろいろアリ。
はてなダイアリー:子ども ■表記の問題について
えっ!「子供」って差別表現だったの!? / “差別用語”と呼ばないで
*「子供は」差別語?
 初めてこの問題にふれたのは、子どもが通う小学校の広報委員の仕事をやったとき。前年度の役員さんから「『子供』は不適切漢字であるので使用しないように」と申し送り。一同「えええ???」。しかし納得のいく説明は無し。多分、特に理解されないまま、申し送り事項であったと思われる。わたし自身は口ぽかん。 
 わたしが現在、表記として「子ども」を使用しているのは、自分自身を指す「私」を「わたし」と表記するのと同じ理由。ひらがなの柔らかい感じが好きだから。

3.「記事」
 ブログを始めて、当初はかなり気恥ずかしかった、自分がブログ上に更新する文章のひとつひとつを指す「記事」という言葉。
 そのうちに慣れてしまった。特に、過去の自分のあげた文章のことを指すのに「過去記事」という言葉はとても便利。
 しかし、最近、また急に、気恥ずかしさが復活。これはブログを使わない人からどう見えるのか、なんてことを感じてしまったため。
 「インターネットはつなぐがブログの閲覧は習慣として持たない」という人に、自分のブログアドレスを教えられない気恥ずかしさの一つに、自分が「記事」という言葉を多用しているということも小さく要素に入っていることに気づく。(いや、一番恥ずかしいのはブログ名なんだが…)。 
きじ 1 【記事】
(1)新聞・雑誌などに報道されている事柄。また、その文章。
(2)事実をありのままに書き記すこと。また、その文。
(3)「記事文」の略。 
 やはりこれが一般的な感覚だと思う。ブログを自分の媒体として持つ人に、ここでいう4番目の意味として「ブログに更新していくひとつひとつの文章を指す言葉」という「常識」があるんだろうと思う。
 ちなみにここであげた「辞書」を提供しているgooの「gooブログ」では、「ブログの使いかた」というページにおいて「ブログとは」や「基本的な使いかた」の説明でいきなり「記事」という言葉が使用されており、「記事」という言葉に特に説明は無い。「ブログ用語集」でも、特に記載無し。
 「見慣れない表記に、その意味を疑うより慣れろ」ということの一つの現れかな、とも思う。
 この、問答無用の「慣れ」のようなものに、少し距離をおいてみたいと今は考えているけれども、また感覚は変化するかもしれないというのが現在の心境。