S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

ある朝の光景

2006年04月27日 | 「障害」に関わること
 自閉症、というものに関しての社会的理解というものの現実は、まだまだお粗末なものだと思う。こんなところで?と言いたいようなところでも、いまだに「自閉症になっちゃう」的発言があると、まだそこか…、なんていう気持ちにもなるというか。
 ○○すると自閉症になる的な発言というものは、自閉症児の親にとってはつらいものだろうな、と思う。

 先日、娘の通う養護学校に用事があり、朝の登校時刻に学校に行く。
娘はすでに登校している時刻で、わたしはひとり、最寄り駅から学校までの通学路を歩く。
その通学路の途中で一人の自閉症児に会う。
いや、もう高校生だから自閉症児、というより、自閉症者、になるのかな。

 娘より一学年上のこの男の子は、小学校の障害児学級で娘と共に5年を過ごした。
そして学区の中学の障害児学級に進学。この春、娘の通う養護学校の高等部に入学。
わたしと顔を会わせるのは3年ぶりくらいかな。
小学校は同じでも、この子の家とわたしの家は居住する場所が遠い。生活圏でも顔を合わせることは無かったな、と思う。

 「○○くん」と声をかける。3年もたちゃ、わたしのことなんぞ忘れているだろうなと思う。
わたしに声をかけられても彼は特に反応せず、顔をうつむきがちに、目を合わせることはない。
そばに人がいるなんぞということは、まるで気づいていないかのような感じで歩く。
それでもわたしは久しぶりに会えたのがうれしくて。「学校、楽しい?」なんぞと話しかける。

 顔をうつむきがちに、目を合わせることなく、彼はわたしに言う「○○さん、元気ですか」。
彼はわたしの名前を呼ぶ。「ちぃちゃんのおかあさん」ではない、わたしの名前。
 
 わたしは歓声をあげる、とてもうれしい。
続けて彼は「○○くん、元気ですか」と言う。これは娘の弟の名前。
わたしはうれしくて、「元気よ」と叫ぶ。

 自閉症、ってなに?と思う。
 自分の子どもと同じクラスにいた子ども、そのつき合い方もあるだろうけれど、たいがいは高校生の段階なら、クラスメートの母親なんぞと話なんかしたくないのが普通だと思う。
そうやって、意志をもって「人との接点を閉じる」ことなんていくらだってある。
「自閉症になっちゃう」なんて表現に使われる「閉じている」いう要素は、そっちの方が大きくないか、などと思う。

 彼は、彼の隣で飛び跳ねるようなテンションのわたしには目もくれず、黙々と歩く。
そして、そっと、歩きながらわたしの腕を取る。
ああ、うれしいなあ、と思う。わたしは彼の人間関係の記憶の中に生き続けていたんだなあと思う。
今年16になろうとしている男の子が、女の人の腕をとるというのは、教育上はやめさせなければいけないことだと思う。
本当は、そっとほどかなければならない手なんだろうと思う。
それでもわたしは反則技というかなんというか、校門まであと数メートルくらいは、こうやって歩いていたいなと思った。

*参考リンク:自閉症という問題

PTA役員というもの

2006年04月26日 | 「障害」に関わること
 一般的というか、学齢以上の子どもに縁が無い人にとっての「PTA役員」というと、あのテレビ番組がダメだとか、これが教育上よろしくないとか、妙なことをヒステリックに叫ぶ人たちという印象があるように思う。イメージ的にそんな感じ。
でも実際は、誰かがやらなくちゃならないことを「断れない人」なんてのが大半なんではないかと思う。

 PTA役員をやると、学校運営の様子がよくわかる、学年を超えた人間関係が開かれる。わたしはそれなりにメリットの多いものだと思う。
子どもを持つ前に持っていた「PTAという言葉から来るイメージ」というものも、実態とはちょっと違う。中小企業の経営者がみんな「禿げててスケベなシャチョーサン」じゃないのと同じこと。

 障害児の親をやっていこうと思ったら、このPTA役員というものはメリットが多い。
通常学級、障害児学級、養護学校、その就学先全てにおいて、みなそれなりにメリットのあるものだと思う。

 PTA役員になれば、さらにいわゆる「役付き」になれば、学校運営の様子というものがよくわかる。通常学級所属ならば、我が子だけの視点ではなく、学校運営、学級運営上に出てくる一面からくる我が子の障害という面、という視点を持つことができるし、障害児学級在籍なら、通常学級の保護者との接点を広げていける利点があるし、さらに加えて、他の保護者に対しての理解活動を進めるチャンスを持つこともできる。

 養護学校は生徒数が少ない。それでも通常の学校の学級と同じ数だけの役員選出を行わなければならない。まあ、養護学校に入れたら「すぐに役員をやらなきゃいけない順番が回ってくる」っていう俗説なんぞが出てくる背景は存在する。
それでもわたしは、養護学校を進学先とした場合に、PTA役員を担うというメリットは大きいと思う。

 地域の「障害児界」は、狭い。就学先、就労先、年齢が同じようなものだったら、必ずどこかで接点ができてくる。同じ学年、なんてことはたったの12年間だけのこと。実はその12年間の後の方がずっと長い。この12年のずっと後に出てくる問題なんてことが出現した場合、学年を超えた人間関係を持っている、もしくは持っていたということのメリットは大きいと思う。また学年を超えた人間関係は、視点を豊かに、視野を広く持つという素養を自分に育てる材料になる。
 特に小学校から養護学校に進学させた場合は、役員さんは小学生の親から高等部の親までで編成される。この時期に高等部の保護者と人間関係ができていくことで、先を見通した子育てに対しての情報を得られる。これは大きいと思う。

 新年度に入り、全国津々浦々、いろいろな場所で、新しい役員さん同士の「自己紹介」なんてものが行われているんじゃないかと思う。そしてわたしもその一人。
 知的障害児を持つ家庭は、その家庭ごとにストーリーがある。障害の傾向も違えば、対処法やその家庭環境という背景も異なる。そんなストーリーに出会っていくことも、とても興味深い。

存在する壁に対しての解決法と気持ちの持ち方

2006年04月14日 | 「障害」に関わること
 週刊モーニング不定期連載「走れ!チコ」に見る「存在する壁に対しての解決法と気持ちの持ち方」 
週刊モーニング№19掲載「走れ!チコ」作:戸川水城よりあらすじ
 2歳時に脳性麻痺になり、足に不自由をもつ少女チコ。現在小学校一年生。母親の付き添いにより学区の小学校の通常学級在籍。「とびっきりの笑顔がキュートな元気娘の物語」。
 車椅子を常時使用のチコ、今朝の登校はクラッチ(歩行補助杖)使用。クラッチ使用で体育の徒競走にも参加。「”トン””タタン”って足を出して、お馬さんの”パカラッパカラッ”みたいに『リズム』でね、うまくいくとすんごい楽しーの!!」
 校長と母親の面談。一年生の教室は一階だが、次年度二年生は二階の教室。階段に手すりはつけられるが昇降機やエレベーター設置は無理。消防法の問題ではなく、そうした処置により階段が狭くなって他児童の安全が確保できないため。
 この「現実」を前にして、クラッチでの歩行に意欲を見せるチコに、母親は(いずれはクラッチで自力で階段を上れないか)ともくろむ。
 始めたばかりのクラッチ歩行、チコは母親の目を盗み、学校の階段を上ることに単独で挑戦。挑戦中に下から駆け上がってきた児童と接触、児童二人を巻き込んで転倒。駆け上がってきた児童の母親から、チコの母親は「保護者の監督不行届」と糾弾を受け、校長からは「他児童の安全確保のため、学校でのクラッチの使用をしばらくやめてほしい」と言われる。
 号泣するチコ。母親はチコに号泣の「場」と「時間」を与え、タイミングを見はからって「大丈夫、大丈夫」をくり返す。
(「大丈夫、大丈夫」お母さんはいっつも大丈夫の大安売りだ:本文内チコの言葉より)。
 「世界の終わりみたいに泣いちゃって!」
 「大丈夫よ、校長先生は『しばらく』って言ってなかった?」
 だからいつかその『しばらく』が終わる時のために階段を上る特訓をしよう。
「世界は終わり」じゃない。かすかな可能性の発見に、うっふっふ、と、学校外で「クラッチによる階段の特訓」を始める母子、今日もチコは元気印。
 存在する「壁」に屈するのではなく、「壁」の存在は解決する工夫の始まり。問題はそのことを発見する意志と視点。泣くという行為を禁止しない優しさと、「だいじょうぶ」という言葉の大切さ。

 知的障害児の場合は、こうした「母子による会話で明日を見つける」ことは難しい。それでも共通の体験、共通の感情体験を持つ「仲間」との交流で、こうした意志と視点を見つけ出していくことは可能。
「仲間との出会い」は明日への力を育てることで、一人が超えた体験で得たものを、次に続くものに手渡していくことはとても重要なことだと思う。

知的障害と、支援と、友達と

2006年04月10日 | 「障害」に関わること
 知的障害児を障害の無い子どもの集団に入れること。このことを妙に理想化する向きというものがある。
 本当にそうだろうか、と思う。必要なことは「入れた後の支援」なのではないかと思う。「入れっぱなし」は多いのではないかと。

 わたしは小学校の6年間、ずっと、一人の知的障害児と同じクラスだった。クラス替えを2回、3種のクラスを経験する中で、6年間ずっと同じクラスだった4人の中の一人だった。
送り迎えをする子がいる、家に遊びに行く子がいる。それが「いい子」のような、暗黙の了解のような線がある。
善意の包囲網のような圧迫感。
わたしはその線に乗っかっていくのが、自分にとってどこか居心地が悪く、そうした「いい子」たちを、半ば斜めに見ていたような記憶がある。

 「共に学んだ」印象の大半は、放りっぱなしで同じことをさせ、それができるかどうかということではなく、「邪魔をしなければそこにいられる」という「大人の態度」だったように思う。
その態度を間接的に学び、学芸会だの運動会だのといった行事において、「邪魔をしたかしなかったか」程度の印象しか残っていない。

 お世話係の「いい子」たちも、そんな役回りにはいつか飽きていったように思う。
一人混ざる障害のある子に対して攻撃をしなければそれでいい。それは子どもが生んでいった態度ではなく、大人の態度に模倣したものだと思う。
わたしはいろいろな思いの中で、半ば斜めに見ながらも、思っていたことは、その子がこうした状態でこの集団にいてしあわせか、ということだった。
校長や、担任以外の教員、教員以外の職員、そうした「大人たち」にその子は声をかけられることは多かったけれど、「友達」というものはいなかったと思う。
いたのは「友達」ではなく、「大人の目にかなった親切な子どもたち」だった。

 わたしは娘を保育園に入れた。生活集団として、就学前の集団の場に、保育園を選んだ。加配の職員が一人つくという「支援付き参加」。
 障害児学級でスタートした小学生、「交流教育の」という支援をもって、「交流級」という制度で障害の無い子どもたちの集団に「支援付き参加」。
 「支援付き参加」は、子どもに善意を強要しない。子どもたちは必要な支援を見て学ぶ。

 「支援付き参加」をもってして娘に生まれた小学校での人間関係の中で、一番仲の良かった子は、自分と娘との関係に対して「大人」を信用していない。「大人」は自分たちの関係に余計な意味づけをすると解釈し、大人の都合でかけられる言葉の「嘘」を、いつか見ぬくようになった。
この子が娘に関わることに対して「善意」の存在を当然のように押しつけてくる大人には、斜めの冷たい視線を送る。大人達はこの視線にひるみ、口を閉じる。

 一緒に遊んでいるときに、何気なく「世話を焼く」光景がある。これは「世話をするために世話をする」のではなく、「一緒に遊べるための支援を行う」という方がしっくりくる。
支援をもって対等になる、ということを、この子は周囲から学んだのだろうと思う。
「障害児と遊んであげる」などという一般的なイメージから、最も遠いところにいるんじゃないだろうかという個性の子。

 年齢があがり、中学生になって一緒に遊ぶことは無くなったけれど、家にはこの子が作り出して娘に教えた「いっしょに遊べるための遊び」があふれている。
娘が学区の中学の障害児学級に参加する「居住地交流」の日、地域行事の数々、そんなときに必ずこの子は娘の前に現れ、娘の名を呼ぶ。
大人と子どものような身長差になった二人、この子が娘の名を呼び、娘は応える。
やっていることはそれだけ。その「それだけ」に、娘とこの子以外の人間が意味づけをする必要はどこにもない。
娘の応え方がおもしろい、あるときはちらっと見て生意気そうに微笑む、あるときは跳び上がって子犬のように応える、あるときはこの子が娘に教えたギャグで返す。
それを見てこの子はからからと笑う。ただそれだけのこと。

離任式

2006年04月06日 | つぶやき
 子どもを学校というものに入れて初めて知った行事「離任式」。
つまりその年度でその学校を離れる先生にさようならという式。

 年度が新しくなって離任した先生に、子どもの代表が花束贈呈と作文を読む、そして先生が挨拶。式が終わると先生は児童の列をゆっくりと回り別れを告げる。最後の列が有志参加の保護者。これが流れ。

 保護者の列で、花束だの記念品だのの贈呈がある。集団でまとめての有志と、個人と。
これがうちの学区の小学校の毎年の光景。だいたいどこも同じようなことを同じような段取りでやるんだろうか。
娘の養護学校の離任式も、流れはほぼ同様。違うのは「子どもの作文」が無いこと、離任する先生一人一人のスピーチが無いこと。
養護学校の職員の数はハンパじゃない。年度ごとに人の流れも多い。全員がスピーチをしたら、児童・生徒の間が持たない。

 初めてこの「離任式」というものに出たときの印象、保護者に人気のある先生とそうでない先生と、列の最終地点ではっきりと差が出ること。
保護者に人気のある先生は、抱えきれないほどの花束と紙袋を下げ、そうでない先生は「みんながもらえる花束」のみ。

 今日は娘の養護学校の離任式、「特別な支援が必要な子ども」の保護者と教員とは、普通の児童・生徒の保護者と教員よりも、やはりコミュニケートが濃い例は多いと思う。だからこそ、はっきりと目に見えて出ていた「抱えきれないほどの花束と記念品を持つ人」と、そうでない人と。
これって、ひとつの「評価」みたいなものなのかな、と思う。

 今日の離任式で、離任される方の代表としてスピーチされた先生の言葉が心に残る。
「町へ出ましょう、町で生きましょう」、保護者に向けて「町で生きられる子どもを育てましょう」。
養護学校ならではのスピーチ、様々な思いを込めてだろうと思う。
様々な思いをもって、この言葉を受け取る。

 明日は娘を行かせた、そして息子が通う小学校の離任式。
今日は集団での有志参加で一個用意、それとは別に個人で一個用意。
明日は個人で4個用意し、娘を連れて出席の予定。学校には「母校の離任式出席で遅刻します」と連絡済み。
思い出の多い先生の門出を、娘といっしょに花で飾りたい。
母校において、特別な支援を受けて教育された娘と共に、特別な感謝を込めて。

旅の同行

2006年04月03日 | つぶやき
 人の話を聴く。その話の根底に迷いがあればあるほど、それは「旅」に似ていくと思う。話すことで浮かび上がる景色、聴きながらその見えていく景色を共に眺める。
 共に眺める景色の中には、扉が存在していく。その扉に気づくのが本人であることもあるし、聴きながら扉の存在がかすかに見えるときもある。かすかに見えたときにそのことを伝える、扉を開くのは本人であって同行者ではない。扉を開くための資料情報提供は同行者にはできるが、扉を開くのは本人でなければならない。それは「旅」の主体だから。
 やがて一つの旅は終わる。一つの旅で見えていったことは、新たな旅を助けていく。見えていった景色は記憶として残っていく。

 また別の人の「旅」に関わる機会が出てくる。「旅の同行」の経験を重ねていくと、見えていくものがある。ああこれはあの「旅」のときに見えていった景色と、もしかしたら似ているのかもしれない。
 
 ただし、全ては「初めていく場所」としての「旅」なのだと思う。それでも別の「旅」の記憶は、訪れた経験として同行する自分を助ける。「見たことがある」という要素は共感を生み出す。新たな地での失敗を防ぐひとつのヒントにもなっていく。

 人間一人ができる「旅」など、実はたかがしれている。もちろん一人の人間の中での「旅」は、濃厚で深く、示唆に充ちていると思う。それでも人間たった一人ができる「旅」などは、実はたかがしれている。
 そんなときに、同行させていただいた「旅」の記憶は、自分にとって大きな経験となり、知識となり、ちっぽけな自分の「旅」さえも少なからず助けていく。
 ああ、あんな「旅」にも同行させてもらった、こんな景色もあのときあの人といっしょにあんな風に眺めた。そんなことを思うことは多い。

 「聴く」ということを仕事としている人の存在がある。大変だろうな、と思うのは、話し手との相性に関して、自分からは逃げられないだろうということ。
 その上で、「聴く」ということを仕事としている人に聴いてみたいと思うこと。「聴く」人間がこうあるべき、ということを超えて、「聴く」人間にどんな成長が生まれていくのかということ。素養、仕事としての「べき」を超えた、また問題の類型化の材料ということではない「与えられるもの」に関しての話を聴いてみたい。

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