先日、娘の養護学校で個人面談。
面談の最初にわたしが言う。「先生、あのこと、わたしやっぱり納得できません」
面談できちんと話し合いに持ち込みたいと思っていた。この面談で希望が理解されなければ、各方面にご意見うかがいを始めなきゃと思っていたこと。
担任が言う、「その件ですが」、緊張して次の言葉を待つ。
「学年会議で取り上げられました、翌日には学部会議で取り上げられました。」
「ってことは?」
「要望通りました」
やった~~~~!!!。
話し合いたかったこと、納得できなかったこと、というのは音楽の授業の中での一つのシーンに対して。
音楽の授業の中で踊ったりした後に「Cool Down」と称して、全員が寝た態勢を取ること。そのリラックスした中で、行う授業だということ。
わたしが大きく「NO」を出したのは、広いとは言えない音楽室の中で、男性教師や男子生徒の中で「寝た態勢」を取ること。
これは中三の女の子の保護者としては耐えられない、ということ。
男性教師は父親ではないし、男子生徒はきょうだいではない。社会という場において、男性がそばで寝た態勢を取っている中で寝た態勢を取るという経験、その景色の記憶ということが本人に刷り込まれるのは、今後の人生の中で性的被害に遭う可能性を高めるようなものだということ。
人間関係の中で、親しげにする男性にころんと横になられ、ころんと横になることを促され、そこで突然がばっと来られたら、もう逃げようもない。
知的障害を持った女の子がそんな態勢になることに対して違和感を持たなくなるような「経験の積み重ね」を、学校という場でなされることは、とても耐えられないということ。
会議の中で話し合われたこと、の報告を聞く。
障害の個性ということでそれが必要な生徒もいる、だからといって、全員でそうするということを違和感なく授業の中で展開させるということは、自分たちの感覚の麻痺なのではないか、という意見も出た、と。生徒の年齢をもっと考慮しなければならない、と。中2からも同様のことを考えなければという意見がすでに交わされていたということ。肢体不自由児の養護学校からの転任の場合、そうしたシーンは学校の中で多いので、違和感を持たなくなるということもあると思う、と。なるほど。
今後の授業の中では「座った態勢」という移行をさせていく、と。
実はコレ、一番最初に連絡帳を通して「おかしい、やめて欲しい」と言ったときに、音楽の教科担任から授業説明が返ってきた。これこれこういう授業でこういう意味がある、と。
それに対して返したのは、「授業の充実はその時間内。でも子どもに与えられる経験と記憶の影響をずっと背負っていかなきゃいけないのは家庭」。
学年会議、学部会議、ってとこにそうやって持ち込まれていって討議されるってのは、養護学校の強みだと思う。
障害児学級の場合は、下手したら保護者と担任との「主観の一騎打ち」になりかねない。
一騎打ちをやったとしても、その話し合いが物別れになったとしても、担任に授業内容変更の意志が無ければ、そのまま指導は続行される。解決は難しい。
学校という教育現場で得た経験の記憶というものの影響に対して、その子どもの人生の中で責任を取っていくのは保護者であるということ、そういう視点が教育者側にわたしは欲しいと思う。
娘が小学校に入ったばかりの頃、新聞の地域版にある訴訟の報道が小さく載る。障害児学級の「指導」において、裁判という場に持ち込まれた話。「いただきますを言わなきゃ給食を食べたらいけない」という指導。これを「給食を食べさせない虐待だ」と保護者が訴えたもの。
判決は保護者勝訴。「いただきますを言わなきゃ給食を食べたらいけない」という指導があっても、食を禁止すべきではなかったということ。教師側は「禁止したわけではない」としても、本人が支援なくあけられないパッケージを教師があけてやらなかったということは、禁止と判断できるというもの。
この報道、それが虐待かどうかということ以前に、やっぱり注目すべきことは、裁判という場に持ちこまれなきゃならなかったほど、教師と保護者のコミュニケートが取れていなかったということ。
どこで誰のどんな個性や主観が影響してコミュニケートに困難が生じたのか、それは全くわからない。
でも障害をもつ子の教育という上で、保護者と教師のコミュニケートってのは、やっぱりとても重要なことだと思う。
面談の最初にわたしが言う。「先生、あのこと、わたしやっぱり納得できません」
面談できちんと話し合いに持ち込みたいと思っていた。この面談で希望が理解されなければ、各方面にご意見うかがいを始めなきゃと思っていたこと。
担任が言う、「その件ですが」、緊張して次の言葉を待つ。
「学年会議で取り上げられました、翌日には学部会議で取り上げられました。」
「ってことは?」
「要望通りました」
やった~~~~!!!。
話し合いたかったこと、納得できなかったこと、というのは音楽の授業の中での一つのシーンに対して。
音楽の授業の中で踊ったりした後に「Cool Down」と称して、全員が寝た態勢を取ること。そのリラックスした中で、行う授業だということ。
わたしが大きく「NO」を出したのは、広いとは言えない音楽室の中で、男性教師や男子生徒の中で「寝た態勢」を取ること。
これは中三の女の子の保護者としては耐えられない、ということ。
男性教師は父親ではないし、男子生徒はきょうだいではない。社会という場において、男性がそばで寝た態勢を取っている中で寝た態勢を取るという経験、その景色の記憶ということが本人に刷り込まれるのは、今後の人生の中で性的被害に遭う可能性を高めるようなものだということ。
人間関係の中で、親しげにする男性にころんと横になられ、ころんと横になることを促され、そこで突然がばっと来られたら、もう逃げようもない。
知的障害を持った女の子がそんな態勢になることに対して違和感を持たなくなるような「経験の積み重ね」を、学校という場でなされることは、とても耐えられないということ。
会議の中で話し合われたこと、の報告を聞く。
障害の個性ということでそれが必要な生徒もいる、だからといって、全員でそうするということを違和感なく授業の中で展開させるということは、自分たちの感覚の麻痺なのではないか、という意見も出た、と。生徒の年齢をもっと考慮しなければならない、と。中2からも同様のことを考えなければという意見がすでに交わされていたということ。肢体不自由児の養護学校からの転任の場合、そうしたシーンは学校の中で多いので、違和感を持たなくなるということもあると思う、と。なるほど。
今後の授業の中では「座った態勢」という移行をさせていく、と。
実はコレ、一番最初に連絡帳を通して「おかしい、やめて欲しい」と言ったときに、音楽の教科担任から授業説明が返ってきた。これこれこういう授業でこういう意味がある、と。
それに対して返したのは、「授業の充実はその時間内。でも子どもに与えられる経験と記憶の影響をずっと背負っていかなきゃいけないのは家庭」。
学年会議、学部会議、ってとこにそうやって持ち込まれていって討議されるってのは、養護学校の強みだと思う。
障害児学級の場合は、下手したら保護者と担任との「主観の一騎打ち」になりかねない。
一騎打ちをやったとしても、その話し合いが物別れになったとしても、担任に授業内容変更の意志が無ければ、そのまま指導は続行される。解決は難しい。
学校という教育現場で得た経験の記憶というものの影響に対して、その子どもの人生の中で責任を取っていくのは保護者であるということ、そういう視点が教育者側にわたしは欲しいと思う。
娘が小学校に入ったばかりの頃、新聞の地域版にある訴訟の報道が小さく載る。障害児学級の「指導」において、裁判という場に持ち込まれた話。「いただきますを言わなきゃ給食を食べたらいけない」という指導。これを「給食を食べさせない虐待だ」と保護者が訴えたもの。
判決は保護者勝訴。「いただきますを言わなきゃ給食を食べたらいけない」という指導があっても、食を禁止すべきではなかったということ。教師側は「禁止したわけではない」としても、本人が支援なくあけられないパッケージを教師があけてやらなかったということは、禁止と判断できるというもの。
この報道、それが虐待かどうかということ以前に、やっぱり注目すべきことは、裁判という場に持ちこまれなきゃならなかったほど、教師と保護者のコミュニケートが取れていなかったということ。
どこで誰のどんな個性や主観が影響してコミュニケートに困難が生じたのか、それは全くわからない。
でも障害をもつ子の教育という上で、保護者と教師のコミュニケートってのは、やっぱりとても重要なことだと思う。