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1.差別用語
ひとつの用語を作っても、その用語が定着したときにその用語の周囲に差別がある場合、用語に差別的要素が加わっていく流れがあること。
精神薄弱という法律用語からスタートした我が家(平成三年に娘出生)と、知的障害という法律用語からスタートした方と、用語に関しての感覚の違いはあるのか。
*精神薄弱者福祉法
*これまでの用語変更事例(精神薄弱から知的障害へ)
精神薄弱という用語から知的障害への変更は、わたしは「精神」「薄弱」という用語の否定であるととらえる派。用語の変更で差別的認識を全て除外することはできず、差別的認識を解決するための用語変更は、結局いたちごっこになるのでは、と思うところアリ。知的障害という用語の差別的別称としては「ちしょう」「池沼」などがすでに存在。
自分の生育歴の中で、差別用語であった「かたわ」が「身体障害者」に変わった経緯があり、その後の世代には「身体障害者」を「しんちゃん」と呼ぶ差別用語が生まれている。
2.ノーマライゼーション
*ノーマライゼーション: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
この言葉は、施設入所が当然の選択であったという背景の中で、どうして普通の生活ができないのか、という知的障害児の親からの訴えが原点。
平成三年生まれの娘が乳児期は、障害児の親にとってもたいしてなじみのない用語だった。
この用語が定着していった背景としての、自分の個人的感覚としては、ハートビル法の登場とからみがあるという記憶。
*ハートビル法解説(ハートビル法:平成6年に制定された「高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律」略称)
*バリアフリー(アクセシブル)/ユニバーサルデザイン関連年表
これは「国際障害者の10年」との関連性。国際障害者年以前に出生の障害がある子どもと、国際障害者の10年の後に出生した障害のある子どもとでは、育児環境に大きな差があると認識した時期でもあったと思う。
つまり、建築物として具体的に「バリアフリー」を法令化して打ち出したことにより、「ハードからソフトへ」の流れが生まれ、ノーマライゼーションという言葉の定着に拍車をかけていったと思う。
3.ノーマライゼーションと教育
知的障害をもつ子の教育において、ノーマライゼーションという言葉をめぐっての論争が起きる。つまり、ノーマライゼーションイコール統合教育として、統合教育を推し進めようとする派と、それを否定する派。知的障害児に教科教育をという提唱をした草分け的存在の茂木俊彦氏が後者で、この関連の著書は多い。
*「茂木俊彦」「ノーマライゼーション」でのGoogle検索)
4.チャレンジド
「チャレンジド」という言葉で、わたしが同意を感じるのは以下の文章。
*チャレンジド考/天竺堂通信
どんな風にこの言葉を解説するか、とらえるか、ということをもってしても、がんばらなければならない人、という印象を持たせることに対してのマイナスの感覚を、わたしはこの言葉に感じるところがある。
障害というものが存在するときに、その障害を個人のものにせず、家族で集団で社会で越えようとすること。それがチャレンジなのではないかと思う。たとえば「ハートビル法」は社会的なチャレンジ。
その周囲という中で。家族のチャレンジのケアは必要であり、そこにも支援が必要だと思う。そして支援者のチャレンジのケアは?という観点も必要であり、またどこか忘れられていることのようにも思う。
*抱えている荷物を降ろすための呪文/かへる日記 (FRGFRG304)
ほいほい、追いかけましたぜ。以下、リンク集というか、自分にとってのまとめというか。
つれづれに/カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル
できれば、上記の記事の冒頭に書いてある、「【用語】障害者(2003年12月29日)」からの一連の記事を追いかけてほしい。長くなるけど(^^;
1.差別用語
ひとつの用語を作っても、その用語が定着したときにその用語の周囲に差別がある場合、用語に差別的要素が加わっていく流れがあること。
精神薄弱という法律用語からスタートした我が家(平成三年に娘出生)と、知的障害という法律用語からスタートした方と、用語に関しての感覚の違いはあるのか。
*精神薄弱者福祉法
*これまでの用語変更事例(精神薄弱から知的障害へ)
精神薄弱という用語から知的障害への変更は、わたしは「精神」「薄弱」という用語の否定であるととらえる派。用語の変更で差別的認識を全て除外することはできず、差別的認識を解決するための用語変更は、結局いたちごっこになるのでは、と思うところアリ。知的障害という用語の差別的別称としては「ちしょう」「池沼」などがすでに存在。
自分の生育歴の中で、差別用語であった「かたわ」が「身体障害者」に変わった経緯があり、その後の世代には「身体障害者」を「しんちゃん」と呼ぶ差別用語が生まれている。
2.ノーマライゼーション
*ノーマライゼーション: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
この言葉は、施設入所が当然の選択であったという背景の中で、どうして普通の生活ができないのか、という知的障害児の親からの訴えが原点。
平成三年生まれの娘が乳児期は、障害児の親にとってもたいしてなじみのない用語だった。
この用語が定着していった背景としての、自分の個人的感覚としては、ハートビル法の登場とからみがあるという記憶。
*ハートビル法解説(ハートビル法:平成6年に制定された「高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律」略称)
*バリアフリー(アクセシブル)/ユニバーサルデザイン関連年表
これは「国際障害者の10年」との関連性。国際障害者年以前に出生の障害がある子どもと、国際障害者の10年の後に出生した障害のある子どもとでは、育児環境に大きな差があると認識した時期でもあったと思う。
つまり、建築物として具体的に「バリアフリー」を法令化して打ち出したことにより、「ハードからソフトへ」の流れが生まれ、ノーマライゼーションという言葉の定着に拍車をかけていったと思う。
3.ノーマライゼーションと教育
知的障害をもつ子の教育において、ノーマライゼーションという言葉をめぐっての論争が起きる。つまり、ノーマライゼーションイコール統合教育として、統合教育を推し進めようとする派と、それを否定する派。知的障害児に教科教育をという提唱をした草分け的存在の茂木俊彦氏が後者で、この関連の著書は多い。
*「茂木俊彦」「ノーマライゼーション」でのGoogle検索)
4.チャレンジド
「チャレンジド」という言葉で、わたしが同意を感じるのは以下の文章。
*チャレンジド考/天竺堂通信
どんな風にこの言葉を解説するか、とらえるか、ということをもってしても、がんばらなければならない人、という印象を持たせることに対してのマイナスの感覚を、わたしはこの言葉に感じるところがある。
障害というものが存在するときに、その障害を個人のものにせず、家族で集団で社会で越えようとすること。それがチャレンジなのではないかと思う。たとえば「ハートビル法」は社会的なチャレンジ。
その周囲という中で。家族のチャレンジのケアは必要であり、そこにも支援が必要だと思う。そして支援者のチャレンジのケアは?という観点も必要であり、またどこか忘れられていることのようにも思う。
*抱えている荷物を降ろすための呪文/かへる日記 (FRGFRG304)