S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

用語もろもろリンク集

2007年03月26日 | 「障害」に関わること
 カイパパさんからトラックバック受信。

つれづれに/カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル
できれば、上記の記事の冒頭に書いてある、「【用語】障害者(2003年12月29日)」からの一連の記事を追いかけてほしい。長くなるけど(^^;
 ほいほい、追いかけましたぜ。以下、リンク集というか、自分にとってのまとめというか。

1.差別用語
 ひとつの用語を作っても、その用語が定着したときにその用語の周囲に差別がある場合、用語に差別的要素が加わっていく流れがあること。
 
 精神薄弱という法律用語からスタートした我が家(平成三年に娘出生)と、知的障害という法律用語からスタートした方と、用語に関しての感覚の違いはあるのか。
 *精神薄弱者福祉法
 *これまでの用語変更事例(精神薄弱から知的障害へ)

 精神薄弱という用語から知的障害への変更は、わたしは「精神」「薄弱」という用語の否定であるととらえる派。用語の変更で差別的認識を全て除外することはできず、差別的認識を解決するための用語変更は、結局いたちごっこになるのでは、と思うところアリ。知的障害という用語の差別的別称としては「ちしょう」「池沼」などがすでに存在。
 自分の生育歴の中で、差別用語であった「かたわ」が「身体障害者」に変わった経緯があり、その後の世代には「身体障害者」を「しんちゃん」と呼ぶ差別用語が生まれている。

2.ノーマライゼーション
 *ノーマライゼーション: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
 この言葉は、施設入所が当然の選択であったという背景の中で、どうして普通の生活ができないのか、という知的障害児の親からの訴えが原点。
 平成三年生まれの娘が乳児期は、障害児の親にとってもたいしてなじみのない用語だった。
 この用語が定着していった背景としての、自分の個人的感覚としては、ハートビル法の登場とからみがあるという記憶。
 *ハートビル法解説(ハートビル法:平成6年に制定された「高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律」略称)
 *バリアフリー(アクセシブル)/ユニバーサルデザイン関連年表
 これは「国際障害者の10年」との関連性。国際障害者年以前に出生の障害がある子どもと、国際障害者の10年の後に出生した障害のある子どもとでは、育児環境に大きな差があると認識した時期でもあったと思う。
 つまり、建築物として具体的に「バリアフリー」を法令化して打ち出したことにより、「ハードからソフトへ」の流れが生まれ、ノーマライゼーションという言葉の定着に拍車をかけていったと思う。

3.ノーマライゼーションと教育
 知的障害をもつ子の教育において、ノーマライゼーションという言葉をめぐっての論争が起きる。つまり、ノーマライゼーションイコール統合教育として、統合教育を推し進めようとする派と、それを否定する派。知的障害児に教科教育をという提唱をした草分け的存在の茂木俊彦氏が後者で、この関連の著書は多い。
 *「茂木俊彦」「ノーマライゼーション」でのGoogle検索)

4.チャレンジド
 「チャレンジド」という言葉で、わたしが同意を感じるのは以下の文章。
 *チャレンジド考/天竺堂通信
 
 どんな風にこの言葉を解説するか、とらえるか、ということをもってしても、がんばらなければならない人、という印象を持たせることに対してのマイナスの感覚を、わたしはこの言葉に感じるところがある。
 障害というものが存在するときに、その障害を個人のものにせず、家族で集団で社会で越えようとすること。それがチャレンジなのではないかと思う。たとえば「ハートビル法」は社会的なチャレンジ。

 その周囲という中で。家族のチャレンジのケアは必要であり、そこにも支援が必要だと思う。そして支援者のチャレンジのケアは?という観点も必要であり、またどこか忘れられていることのようにも思う。
 *抱えている荷物を降ろすための呪文/かへる日記 (FRGFRG304)

「しょうがい」に関しての表記もろもろ

2007年03月22日 | 「障害」に関わること
 まずリンク。タイトルであらわされる内容と、その背景になるようなものを「ぼくのお姉さん」という書籍の文章を例示して記述されている文章。そして「しょうがい」に対しての表記に何を選ぶかという話。
ぼくは「他者」につきまとういろんな意味としての「障害」を漂白してから、ぼくは初めてそこで他者に出会いたいんだ。/かへる日記 (FRGFRG304)
例えば、この本の「ワシントンポスト・マーチ」の障碍者の描写は小学生対象のことはいえ、正確でぼくはドキリとさせられました。
 そうなんですよね、この「ぼくのお姉さん」という書籍は自分の中にあるものをドキリとえぐってくる要素がつまっている。このドキリとさせられるものに関して、ngmkzさんはタイトルにあらわれる考えを出される。これはとても興味深いところだなあと思った。

 わたしは「しょうがい」を「障害」と表記する。つまりngmkzさんの言われる『「他者」につきまとういろんな意味としての「障害」を漂白』に関して、言葉に対しての感覚が違うのだと思う。多分にこれは、わたしが「障碍」という言葉と初めて出会ったときの印象が左右されているように思う。

 わたしが初めて「障碍」という表記に出会ったのは、ある団体の広報チラシで。それにあった「わたしたちは障碍という表記を使う」という意志表明は、わたしにとっては「害」を使うことに対しての否定的要素が強く感じるものだったという印象がある。つまり文字表記をもって、障害をどうとらえるかという踏み絵にされているような感覚とでも言えばいいのか、とも思う。その印象が、逆にわたしが『「他者」につきまとういろんな意味としての「障害」を漂白』として使えないところかもしれないと思う。

 さて、過去ログ。
障害・障碍・しょうがい (gooで)
障害・障碍・しょうがい (はてなで)
 ここから約一年が経過しているわけで。この一年でも、そしてわたしが初めて「障碍」という表記とその意志表明のようなものに出会ってから10年ちょっとの間でも、少しずつ「障碍」と表記される方は増えたようにも思う。それはそれぞれの意志表明なのだろうと思うし、その意志表明の中身こそが重要なのだとも思う。「障碍」という言葉と初めて出会ったときにわたしが感じた「押しつけ的感覚」がやわらぐ時が来たら、わたしも表記を変えるのかもしれない。

「僕の歩く道」最終回

2006年12月22日 | 「障害」に関わること
 書こうかどうしようかな~、と迷ってたけど、とりあえず自分のために忘れないうちに感想を書き留めておこうかな、と思う。

 「僕の歩く道」最終回、始まってすぐに(ああ…)と思った。なんというか、もう流れが読めちゃった、って感じで。

 主人公が動物園の中で鳥を見る、飛ばない鳥飛べる鳥、なんぞのことをちらっと言う。高く飛べる鳥として鳶のことが出てくる。要するにコレ、障害者自身の自己決定を語るための伏線だな、と。で、ロードレース中に見かけた鳶の姿を自分の目で確認に行くためにコースをはずれる主人公。鳶を見つける、飛ぶ鳶を眺める。そしてコースに戻ってゴールし、ゴール後に「グループホームに行く」と自分の口で告げる主人公。高く飛ぶ鳶がキーってことで。

 コースをはずれた主人公に対して「待ちましょう」という決断をした母親は、「グループホームに行く」という主人公に、「はい」と一言で応える。自己決定の重要性をわかっていながら…、って気持ちの母親とその決意というものをよく表した「はい」だと思った。これを一発で表現って感じの「はい」には、さすが長山藍子と思った。

 グループホームに関しては、最近数がどんどん増えていると思う。少なくともわたしの身近には増えている。入居したい人の数に見合うかどうかはわからないけれど。長野オリンピックのときに、パラリンピックに知的障害者が出場した。そのインタビューなんぞで「グループホームに住んでいる」という20代の若者ってのもいた、あの時点でね。ただ一般的にはまだまだ認知度は低いのではないかと思う。抵抗をもつ親も多いとも思う。わたし自身は、障害の程度に関しての支援度というものが関係してくることは前提の上で、障害があっても「親から離れたいと思う」という心の成長をもつことが「大人になる」ということであり、自分自身のこととしては、「親から離れたい」気持ちを元にする自己決定の芽をもつことが、いわゆる娘を育てる目標になっているところはあるなあとも思う。そのときが来たら淋しくてたまらないとは思うだろうけれど。

 で、最終回ですが。まあ、つまり、落ち着くとこに落ち着かせるために、って線が早くに見えてしまった感じがした。ってことで、どこかお話のまとめです的流れがどうしても見えてしまった。11回全ての中で、わたしは一番コレというのは、やはり第10回の特にきょうだい児の心理が中心になるシーンだと思う。それはそこに至るまでにこつこつと積み重ねたきょうだい児の心理のシーンがなくてはもちろん語れない。

 主人公の兄の妻。夫の弟が障害者であるという事実からどこか目を避けるような他人事を決め込みたいような、まあ、ドラマ前半中盤部では悪役的存在。な~るほど、と思うこと。つまりそういう彼女だからこそ、この兄は好きになったのかも、とドラマを観ながらふと思った。

 兄だから否定できる立場に無い、兄だから手を貸さなきゃいけない、兄だから我慢しなきゃいけない。そういう、どこか見えない「べき」に縛られたような気持ちをたくさん経験した背景を感じさせた第10回放映分の兄と母親との会話。

 その兄は、「配偶者の弟だからって言ったって、そんなに簡単に認められるもんじゃないわ」って気持ちを堂々と持つっていう、そういう女性だからこそ惹かれたんじゃないかと思うこと。自分の中に巣くう「べき」に対しての反乱のようなものも無意識下にちらっとあった、いやあるという設定で構成されたのではないかと思うこと。

 障害者を主人公にもってくるドラマ。その主人公の状態や持っているハンディと社会との軋轢なんてものは、現実に存在するものからみれば、やっぱりどうしても希釈したものになるし、そうしなければ表現自体が難しくなるものもあると思う。

 ただ、きょうだい児の心理に関しては、どういう設定であったとしてもリアルに描こうとすれば描けるものだ。また、障害の受容に困難を抱えた親の気持ちってのものもそうだと思う。今回の主人公の職場に存在させた「もう一人の自閉症児の父親」の存在は大きかった。この、障害児をとりまく周囲の人間の要素とドラマというものが、今回のドラマではよく出ていたとも思う。

「僕の歩く道」に見るきょうだい児の心理

2006年12月13日 | 「障害」に関わること
 昨日の「僕の歩く道」第10回放送。
障害をもつ子のきょうだい児の心理にどば~んとスポットをあててましたね。
特に妹が、自分の生育歴の中で、母親が障害をもつ子どもに集中し、自分が甘えられなかったという話を医師にするところ。「あなたの話を聞きましょうか」と言われるまで、自分主体の話ができない、できなくなっている事実。話しながら、本当は母親に甘えたかったのだと声をあげて泣くシーン。
その後に母親の肩をもみながら、母親に手を握られることで後ろから母親に抱きつくシーン。
このひとつひとつのシーンを見ながら、障害をもつ子のきょうだい児って立場の息子と一緒に見ながら、泣けてねえ。もう泣けて泣けてたまらんかったですよ、わたしは。

 うちの息子は、障害をもつ子のきょうだい児としては、サインをよく出す子だった。そういう意味ではわかりやすく、問題の先送りということをしにくい子だったと思う。
 サインは多かった、応えてきたつもりだった、でもでもでも。それでもあなたにはわたしに言えてないことがあるだろう。黙って我慢したこともあるんだろう。そしてその問題はこれからまた複雑化していくのか、していくのかもしれない。僕の声が聞こえる? わたしが気づいていない彼の心ってのは、まだまだあるんだろうと思う。

 昨夜の「僕の歩く道」、特に、母親にそっと後ろから抱きつく妹のシーン。
このドラマがよくできていると思うのは、たとえばこの「後ろから抱きつく」というところ。前から正面から素直に抱きつけなかったということを象徴させたかったのかなと思う。

 きょうだい児の心理をクローズアップしたシーンを見ながら、黙ったままたらたらと涙をこぼすわたし。そのわたしの長い髪の端にすっと手をやり、指で髪の毛の先を静かにくるくると弄ぶ息子。
ああそうかそうだったのかもしれないと思う。髪の毛を切らないでと、そんな風に息子に言われるままにのばし続け、ずいぶん長くなった髪の毛。そういえば彼は自分の気持ちをうまく言えないときに、こうやって髪の端をそっと指にからめていたっけ。これはそっと後ろから抱きつくってことと似てる動作なのかもしれないと、ふと思った。

 正面から抱いてやらなかったのか。そうじゃない。このドラマの母親だってそうじゃないと思う。
ただ、そうして欲しいタイミングが見えなかった。そういうことなんだと思う。
そういうタイミングってのが、障害をもつ子のきょうだい児にはある。わかっていながら見過ごしてしまうときがある。そういうことなんじゃないかと思う。

*関連リンク:福祉ネットワーク - 難病児のきょうだい(2)お兄さんの心の傷
 「お前はママではなくて、ママロボットだ」

「レインマン」と「ギルバート・グレイプ」

2006年12月12日 | 「障害」に関わること
 「僕の歩く道」を毎週観ていて思い出すのは「レインマン」。
ということで、先日のTSUTAYAの半額日に、「レインマン」を借りる。
公開当時観ていて、ずいぶん久しぶりに再見。

 「レインマン」を借りるときに、ふと思い立って「ギルバート・グレイプ」も借りる。
借りた動機は、ディカプリオの知的障害児役を観たかったから。

 「レインマン」と「ギルバート・グレイプ」。これは両者共に、障害児のきょうだい児が主人公。
「レインマン」は自閉症の特性である行動障害に対する嫌悪から始まって、愛情の場面が後から来る。
「ギルバート・グレイプ」は、知的障害のある弟に対して冒頭の紹介部のナレーションで「時々嫌気が」と出てくるが、愛情の場面でつないでいき、後半で衝動的な怒りが来る。

 「レインマン」は、弟が、最初は存在さえ知らなかった兄と旅をすることになり、兄を知り、いっしょに暮らしたがるが、その思いを断念させられる。
「ギルバート・グレイプ」は、兄は、父が自殺をし長男は家を出てしまったという状況の中で、その肩に常に知的障害をもつ弟を背負い、弟から離れる選択肢を持っていない。最後のシーンでも「We can go anywhere.」と言う。その主語は一人称では語られない。
両者に共通しているのは、きょうだいが知的障害をもつ兄や弟に向かい合うときに、親がそのきょうだいを助ける立場にいない、ということ。

 知的障害児のきょうだい児としては、その相手役との恋愛面からだけ見れば、両者共にいわゆる「シンデレラストーリー」。
きょうだい児がきょうだいのもつ知的障害に対しての、混乱、嫌悪、ため息等のマイナスな心情、また衝動的行動をとっても、その恋人は受け入れる。恋の相手にも、知的障害をもつきょうだいに対しても。そしてそのことは、主人公を助けていく。
通常はこんなシンデレラストーリーだけではないと思う。

 ダスティン・ホフマンの自閉症役の演技に関しては、語るに及ばず。
初見は自閉症と診断名がつく障害児・者に身近で出会ったことが無い時代。無い時代だからこそ、素直にダスティン・ホフマンが創り出す世界にはまる。

 ギルバート・グレイプは、障害というものに出会ってから観た、ということになる。
ディカプリオの知的障害児役には、もう、脱帽。
天才子役だったというエピソードには強くうなづくが、全ての動きの細部に表現としての緻密な計算があり、天才である前に努力家なのだとも思う。
ただ、その努力すべきポイントに気づく、構築する、形にしていくセンスという意味では、やはり天才なんだろうとも思う。

 知的障害児をドラマに出すというと、すぐにピュアだの感動だのってことに結びつけていくという短絡的な思考のものは数多くあるとは思うけれど、ギルバート・グレイプに登場する知的障害児は、狡くて汚くて自分勝手。
「わかって欲しいこと」がいつまでたってもわからない。わかろうとしないことも含めて。

 そのことを感じてしまうことにマヒしていくか、気長に気長にわかってもらえる日を待つか。
今日蒔いた種の実が結ばれるのが一年後か十年後かそれよりもっと後なのかわからない。
そういうことがあるということ。それが知的障害児の生の姿でもあると思う。
その生の姿と接しながら、様々な感情を織り交ぜて、葛藤し、そのことに左右されても、その根底の「愛情」が導き出される。
それが知的障害児の家族の生の姿でもあると思う。
「レインマン」は、兄を見つけた話ではあるが、その障害に対して起こる衝動的思いは、障害自体たとえば自閉症特性に関しての無知から来るかんしゃくのようなものであり、障害というものを知った上での葛藤の方が、ずっとやっかいだと思う。

*「ギルバート・グレイプ」:2007年2月6日まで、ヤフー動画にて無料で視聴できます。
http://streaming.yahoo.co.jp/p/t/00154/v00584/

僕の歩く道

2006年11月15日 | 「障害」に関わること
 テレビドラマ「僕の歩く道」。
放送開始時刻は10時。息子は10時は寝る時間。寝る時間なんだけれど、もそもそと隣で見る。

 最初は途中まで見ていて、という流れだったんだけれど、回を重ねるごとに「ちょっと見る」時間は増え、火曜は寝る支度をしてこのドラマを最後まで観るのが定着。

 娘はすでに寝ている時刻、息子と二人でこのドラマを観る。障害児のきょうだい児の心理にも焦点をあてたドラマ。

 「わたしはわたしの人生を歩んでもいいんだよね」と、主人公の妹が母親に聞くシーン。
ああ、このフレーズ。障害児のきょうだい児の立場の人が、それぞれの思いをこめてもつフレーズ。
それを黙って見ている障害児のきょうだい児と、障害児のきょうだい児の母親であるわたし。

 ドラマを観ながら、主人公の障害の特性が現れるシーンを見ながら、息子にもう少し詳しく説明してやる。
コマーシャルの時間に、自閉症のこだわりを説明するために、テーブルの上のテレビのリモコンとさっき使った爪切りとジュースを飲んだコップとを整然と並べてみせる。
不安ってのをたくさん持っている人たちなのよ。だから、不安になると決まっていることというものに頼ろうとするの。その決まっていることってのは、たとえばこういう物の並べ方がこうなっていること、こうなっていると落ち着くことだったりするのよ、と。

 コマーシャルの後に、今説明したまんま、そのままのようなシーンが出てくる。息子がわたしを見る、わたしは黙ってうなづく。

 登場人物の中に、息子の自閉症を受け入れられなかった父親が出てくる。その受け入れられないシーンを見ながら、怖いよおかあさん、と息子が言う。ボクが結婚して、子どもが生まれて、自閉症だったらどうしよう、ダウン症だったらどうしよう。

 う~ん、と思う。きょうだい児だから受け入れられるだろうと思う人もいるだろうし、実際きょうだい児だから受け入れられる人もいるだろうと思う。
でも、きょうだい児の立場の人から確かに聞く不安。そして自分の立場であるからこそ、口に出して言ってはいけないような感覚を持っていくのだろうと思うこと。

 わたしもアンタ生むとき怖かったわ、と言う。不安だったよ。そういう子どもが生まれるってことをよく知っているからこそ、怖かったわ。でも子ども欲しかったから。

 ふうん、と答える息子。そしてまたコマーシャルが終わり、ドラマが始まる。答は無い。そしてドラマはまだまだ続く。

障害をもつ子を産むということ

2006年09月23日 | 「障害」に関わること
 障害をもつ子を産むということ。生んだ人間に対してかけられる、まあよくあるよく聞く言葉。「あなただからだいじょうぶ」とか、神様がとかこの子がとかが「あなたを選んだ」とかなんだとかかんだとか。

 すぱっと気持ちよく、そして実にわかりやすくこのことを語る文章に出会いました。

 「なぜ、私が、と思うときに」。もうこれ以上なんだかんだ言う必要無し、という感じ。「なぜ、私が」と思う方におススメです。

 「友達の家に障碍のある子供が来たときに」という文章も秀逸。「『かわいそう』と言うぐらいなら、『かわいいねえ』といいましょう」という表現には思わず拍手してしまいました。

 記載された方のお子さんは逝ってしまわれました。でもその命はこうした文章を生み出す元として生きている。その命が残したものに、また影響を受けていく人がいるだろうと思う。命というものの力の大きさを感じるのはこんなときです。

なぜ、私が、と思うときに

友達の家に障碍のある子供が来たときに
    →何を言ってあげればよいのか 
*参考リンク; 「オランダへようこそ」/JDSNデータライブラリィ

障害児と障害児のきょうだい児における「機器利用」

2006年08月29日 | 「障害」に関わること
1.障害児の位置検索機器
 娘の自力通学には、位置検索機所持が必須。位置検索機が存在するからこそ、挑戦できることでもあったと思う。
 我が家では、その障害児の位置検索機器を、P-doco miniから、キッズケータイに変更。理由は、以下のとおり。
  ・ドコモがPHSサービス終了を発表したこと
  (P-doco miniを利用した位置検索サービスも当然使えなくなる)
  ・新位置検索サービス「イマドコサーチ」の位置検索の正確性に期待したこと
   (PHSの位置検索は誤差が大きい)
  ・本人に電話に関してのスキルを身につけさせたかったこと
   (使える能力が無くても「電話をかけてください」と人に依頼するスキル)

2.「障害児のきょうだい児」との特別ラインとして機能する携帯電話
 わたしは携帯はボーダフォン社を利用。P-doco mini導入時にボーダフォン社の解約を含めて考えた末に、ドコモのハーティ割引を利用して、ドコモ機器を新たに契約。娘の位置検索モニター専用機として機能させることにした。これで娘に何かあったときには、位置検索をかけながら電話することが可能。

 この携帯を娘に関しての位置検索に使用しない時に使用するやり方として、新たな効能を発見。それは娘と息子と二人連れて外出するときに、息子に持たせるということ。
 娘と息子と、行動のパターンとその手のかかり方は全然違う。わたしの手と視線は、自ずと娘にばかりいくということはケースとして多い。また、常に娘の行動パターンに息子を合わせるのはかわいそうだという感覚もある。その解決に、携帯という機器が力を発揮するというわけ。

 たとえばなんらかのイベントを見に行く。息子はさまざまな興味を示して、ばたばたと行動したい。しかし娘はそういう行動を好まず、また息子のペースにはついていけず、そしてこういう場で娘は一人で行動したがり、うっかり目を離すと、あっという間に迷子になる。わたしの視線は自ずと娘にべったりと貼り付く。息子にはなかなか気を配ってやれない。
 そこで機能する携帯。彼の首に携帯をかけて自由な行動を許可する。何かあればわたしは電話で彼を呼び、また何かあれば彼は電話でわたしを呼ぶ。このことが半ば習慣になったときに、見えてきたひとつの線があった。

 息子に聞く。推測した回答を得る。つまり、息子は自分が母と特別なラインを所持しているという感覚。生活の中で存在するある特定の場面において、娘に対していわばアナログ的に気を配り、息子に対していわばデジタル的に気を配る、とでも言えばいいのだろうか。この「特別なライン」が存在しなかったら、彼はこうした状態において「障害を持つきょうだい児の存在によって淋しさを感じる」という気持ちをもつ可能性があったのではないか。そのことを軽減できたのでは、という仮説。

 小学生に携帯をもたせて使用させる、ということは、賛否両論あるだろうと思う。しかし、障害児のきょうだい児としての息子にとっては、それは携帯の機能以上に精神的に機能しているのだという実感。これは大きかった。携帯をもつ、ということがまあ普通という年齢に達したときには、こうした「特別なライン」なんぞもう必要なくなっているだろうと思う。通常のケースで年齢を語るというのとは、少し違った側面があると思う。

 ただし、携帯を持たせても事件に巻き込まれることはある。そのことは忘れてはいけないと思う。だからこそ、キッズケータイという商品が生まれたのだから。
 息子に関して今回キッズケータイを考えなかったのは、すでに6年生、もうキッズ機の年齢ではないよな、ということ。機器を「特別なライン」維持のためにちょっと貸し、の時期は、あと数年だろうと思う。(ちなみに「特別なライン」開始は4年生)

 思えば息子が幼児期の頃、ほぼ双子状態だった日々。娘の手を引いてゆっくりと歩くペースに幼児の男の子である息子は合わせられず、一人走って交差点を渡ってしまった日の光景。変わる信号、交差点のむこうとこちら。行きかう自動車と戻りたがる息子。それを押さえてくださった、その場にいらしたご婦人。
 信号が変わり交差点を渡り、危険だと叱る。二度とやってはいけないと叱る。きょうだい児という複数の子どもが家庭にいれば、それはありうる光景かもしれない。それでも、障害児のきょうだい児には、年齢を重ねても、形を変えて同様の原因による叱責の可能性は常にあるだろうと思う。「障害」という側面をもって、特定の能力に関して「育たないきょうだい児」を彼は抱える。

 その叱責に、孤独を感じないか、と思う。そう思うのは考えすぎだろうかとも思う。でも、わたしは娘の障害について考えるのと同じように、息子が背負うもの、そこに起因する孤独というものを考えていたいと思う。それは考えすぎくらいな程度の方が、息子にきちんと伝わるのではないかと思っている。渡せるときに渡せるものを渡しながら、傷や曇りや孤独の無い形で親離れの時期を迎えてほしい。

教育関連のDMから

2006年07月22日 | 「障害」に関わること
 娘宛てにくる教育関連のDM。乳児期があけた途端くらいに始まった。カワイ・ヤマハ、ベネッセの幼児通信教育は娘の対象年齢の少し後に始まったはず。小学校に入学すればお勉強関連が増え、小学校の高学年くらいから「中学受験」だの「中学進学準備」だのといったキャッチコピーと共に量が増える。中学に入れば「初めての定期試験」だの「高校受験」だのといってまた増え続ける。さて中三。中三にもなれば少しずつ減ってきたように思うけれど、ここに来て増えているDM、「国際留学」「海外留学」。すっごいなあ。やれるもんならやってみろ、という感覚少し。

 いや、アメリカだの北欧だのといったところの障害児教育を体験、なんていう海外留学もあってもいいんじゃないか、と、ふと思う。ふと思って、そうだそうだと検索。

 障害者の海外留学、日本の障害者運動を支えてきた歴史のある「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」。ここでは確か、知的障害の方も数年前から対象に入っていたはず。

 数年前? バカいっちゃいけませんね、最初は’92年。もう10年以上も前なんだな。(ダスキン愛の輪運動ヒストリー

 知的障害者としてこの留学に参加する25期生の面々26期生の面々なんぞを頼もしく閲覧。

 ここにたどりつくまでに大きく貢献してきたのは、やっぱり社会福祉法人全日本手をつなぐ育成会本人活動だと思う。
我が子に本人活動のリーダーになれるほどの資質が無いなんて嘆くなかれ。我が子の知的障害がある日突然消えるような奇蹟を望むよりも、同様の立場をもつ人の声が聞けることのことの方が、余程現実的で明解。

 娘に関して初めてきた教育関連のDMはカワイ音楽教室。広告パンフの「電車ごっこをしながら走る子どもの姿」の写真を眺め、右から左にゴミ箱に放り投げた当時のわたし。当時の娘はやっと座位が定着してきた頃で、立つも歩くもまだその発達が視野に見えてはいない頃だった。

 数分後だったか数時間後だったか忘れたが、(いや待てよ)と、一度捨てた広告を拾い上げる。母子分離ではない、そばにわたしが同席できる。いけるかも、と、体験日をチェックして参加。

 参加してみれば、母親にへばりつく幼児たちの中で、医療や療育等ですでに集団に場慣れしている娘が一番積極参加。なんのことはない、子どもを歩かせて参加させるシーンでは、わたしが抱いて動けばいい、たったそれだけのこと。「支援付きの参加で可能なことがある」ということを身をもって体験したのは、多分このときが初めてのこと。特になんてこともなく、入会、参加。楽しかった日々。

 そうか、と思い、ベネッセの幼児通信教育のDMに問い合わせ。事情を話して一年下げたDMを送ってもらう。送付されたものを検討、いえこれでもまだまだと、結局対象年齢を3歳下げる。よくできた内容だと、娘を見ながら実感したことを思い出す。

 たかがDM、されどDM。平等に営業されることにちょっとため息をつきたくなることもあるけれど、そこから見えるもの、拾えるものもたくさんあるよな、と、思い出含め、改めて実感。

ある朝の光景

2006年04月27日 | 「障害」に関わること
 自閉症、というものに関しての社会的理解というものの現実は、まだまだお粗末なものだと思う。こんなところで?と言いたいようなところでも、いまだに「自閉症になっちゃう」的発言があると、まだそこか…、なんていう気持ちにもなるというか。
 ○○すると自閉症になる的な発言というものは、自閉症児の親にとってはつらいものだろうな、と思う。

 先日、娘の通う養護学校に用事があり、朝の登校時刻に学校に行く。
娘はすでに登校している時刻で、わたしはひとり、最寄り駅から学校までの通学路を歩く。
その通学路の途中で一人の自閉症児に会う。
いや、もう高校生だから自閉症児、というより、自閉症者、になるのかな。

 娘より一学年上のこの男の子は、小学校の障害児学級で娘と共に5年を過ごした。
そして学区の中学の障害児学級に進学。この春、娘の通う養護学校の高等部に入学。
わたしと顔を会わせるのは3年ぶりくらいかな。
小学校は同じでも、この子の家とわたしの家は居住する場所が遠い。生活圏でも顔を合わせることは無かったな、と思う。

 「○○くん」と声をかける。3年もたちゃ、わたしのことなんぞ忘れているだろうなと思う。
わたしに声をかけられても彼は特に反応せず、顔をうつむきがちに、目を合わせることはない。
そばに人がいるなんぞということは、まるで気づいていないかのような感じで歩く。
それでもわたしは久しぶりに会えたのがうれしくて。「学校、楽しい?」なんぞと話しかける。

 顔をうつむきがちに、目を合わせることなく、彼はわたしに言う「○○さん、元気ですか」。
彼はわたしの名前を呼ぶ。「ちぃちゃんのおかあさん」ではない、わたしの名前。
 
 わたしは歓声をあげる、とてもうれしい。
続けて彼は「○○くん、元気ですか」と言う。これは娘の弟の名前。
わたしはうれしくて、「元気よ」と叫ぶ。

 自閉症、ってなに?と思う。
 自分の子どもと同じクラスにいた子ども、そのつき合い方もあるだろうけれど、たいがいは高校生の段階なら、クラスメートの母親なんぞと話なんかしたくないのが普通だと思う。
そうやって、意志をもって「人との接点を閉じる」ことなんていくらだってある。
「自閉症になっちゃう」なんて表現に使われる「閉じている」いう要素は、そっちの方が大きくないか、などと思う。

 彼は、彼の隣で飛び跳ねるようなテンションのわたしには目もくれず、黙々と歩く。
そして、そっと、歩きながらわたしの腕を取る。
ああ、うれしいなあ、と思う。わたしは彼の人間関係の記憶の中に生き続けていたんだなあと思う。
今年16になろうとしている男の子が、女の人の腕をとるというのは、教育上はやめさせなければいけないことだと思う。
本当は、そっとほどかなければならない手なんだろうと思う。
それでもわたしは反則技というかなんというか、校門まであと数メートルくらいは、こうやって歩いていたいなと思った。

*参考リンク:自閉症という問題

PTA役員というもの

2006年04月26日 | 「障害」に関わること
 一般的というか、学齢以上の子どもに縁が無い人にとっての「PTA役員」というと、あのテレビ番組がダメだとか、これが教育上よろしくないとか、妙なことをヒステリックに叫ぶ人たちという印象があるように思う。イメージ的にそんな感じ。
でも実際は、誰かがやらなくちゃならないことを「断れない人」なんてのが大半なんではないかと思う。

 PTA役員をやると、学校運営の様子がよくわかる、学年を超えた人間関係が開かれる。わたしはそれなりにメリットの多いものだと思う。
子どもを持つ前に持っていた「PTAという言葉から来るイメージ」というものも、実態とはちょっと違う。中小企業の経営者がみんな「禿げててスケベなシャチョーサン」じゃないのと同じこと。

 障害児の親をやっていこうと思ったら、このPTA役員というものはメリットが多い。
通常学級、障害児学級、養護学校、その就学先全てにおいて、みなそれなりにメリットのあるものだと思う。

 PTA役員になれば、さらにいわゆる「役付き」になれば、学校運営の様子というものがよくわかる。通常学級所属ならば、我が子だけの視点ではなく、学校運営、学級運営上に出てくる一面からくる我が子の障害という面、という視点を持つことができるし、障害児学級在籍なら、通常学級の保護者との接点を広げていける利点があるし、さらに加えて、他の保護者に対しての理解活動を進めるチャンスを持つこともできる。

 養護学校は生徒数が少ない。それでも通常の学校の学級と同じ数だけの役員選出を行わなければならない。まあ、養護学校に入れたら「すぐに役員をやらなきゃいけない順番が回ってくる」っていう俗説なんぞが出てくる背景は存在する。
それでもわたしは、養護学校を進学先とした場合に、PTA役員を担うというメリットは大きいと思う。

 地域の「障害児界」は、狭い。就学先、就労先、年齢が同じようなものだったら、必ずどこかで接点ができてくる。同じ学年、なんてことはたったの12年間だけのこと。実はその12年間の後の方がずっと長い。この12年のずっと後に出てくる問題なんてことが出現した場合、学年を超えた人間関係を持っている、もしくは持っていたということのメリットは大きいと思う。また学年を超えた人間関係は、視点を豊かに、視野を広く持つという素養を自分に育てる材料になる。
 特に小学校から養護学校に進学させた場合は、役員さんは小学生の親から高等部の親までで編成される。この時期に高等部の保護者と人間関係ができていくことで、先を見通した子育てに対しての情報を得られる。これは大きいと思う。

 新年度に入り、全国津々浦々、いろいろな場所で、新しい役員さん同士の「自己紹介」なんてものが行われているんじゃないかと思う。そしてわたしもその一人。
 知的障害児を持つ家庭は、その家庭ごとにストーリーがある。障害の傾向も違えば、対処法やその家庭環境という背景も異なる。そんなストーリーに出会っていくことも、とても興味深い。

存在する壁に対しての解決法と気持ちの持ち方

2006年04月14日 | 「障害」に関わること
 週刊モーニング不定期連載「走れ!チコ」に見る「存在する壁に対しての解決法と気持ちの持ち方」 
週刊モーニング№19掲載「走れ!チコ」作:戸川水城よりあらすじ
 2歳時に脳性麻痺になり、足に不自由をもつ少女チコ。現在小学校一年生。母親の付き添いにより学区の小学校の通常学級在籍。「とびっきりの笑顔がキュートな元気娘の物語」。
 車椅子を常時使用のチコ、今朝の登校はクラッチ(歩行補助杖)使用。クラッチ使用で体育の徒競走にも参加。「”トン””タタン”って足を出して、お馬さんの”パカラッパカラッ”みたいに『リズム』でね、うまくいくとすんごい楽しーの!!」
 校長と母親の面談。一年生の教室は一階だが、次年度二年生は二階の教室。階段に手すりはつけられるが昇降機やエレベーター設置は無理。消防法の問題ではなく、そうした処置により階段が狭くなって他児童の安全が確保できないため。
 この「現実」を前にして、クラッチでの歩行に意欲を見せるチコに、母親は(いずれはクラッチで自力で階段を上れないか)ともくろむ。
 始めたばかりのクラッチ歩行、チコは母親の目を盗み、学校の階段を上ることに単独で挑戦。挑戦中に下から駆け上がってきた児童と接触、児童二人を巻き込んで転倒。駆け上がってきた児童の母親から、チコの母親は「保護者の監督不行届」と糾弾を受け、校長からは「他児童の安全確保のため、学校でのクラッチの使用をしばらくやめてほしい」と言われる。
 号泣するチコ。母親はチコに号泣の「場」と「時間」を与え、タイミングを見はからって「大丈夫、大丈夫」をくり返す。
(「大丈夫、大丈夫」お母さんはいっつも大丈夫の大安売りだ:本文内チコの言葉より)。
 「世界の終わりみたいに泣いちゃって!」
 「大丈夫よ、校長先生は『しばらく』って言ってなかった?」
 だからいつかその『しばらく』が終わる時のために階段を上る特訓をしよう。
「世界は終わり」じゃない。かすかな可能性の発見に、うっふっふ、と、学校外で「クラッチによる階段の特訓」を始める母子、今日もチコは元気印。
 存在する「壁」に屈するのではなく、「壁」の存在は解決する工夫の始まり。問題はそのことを発見する意志と視点。泣くという行為を禁止しない優しさと、「だいじょうぶ」という言葉の大切さ。

 知的障害児の場合は、こうした「母子による会話で明日を見つける」ことは難しい。それでも共通の体験、共通の感情体験を持つ「仲間」との交流で、こうした意志と視点を見つけ出していくことは可能。
「仲間との出会い」は明日への力を育てることで、一人が超えた体験で得たものを、次に続くものに手渡していくことはとても重要なことだと思う。

知的障害と、支援と、友達と

2006年04月10日 | 「障害」に関わること
 知的障害児を障害の無い子どもの集団に入れること。このことを妙に理想化する向きというものがある。
 本当にそうだろうか、と思う。必要なことは「入れた後の支援」なのではないかと思う。「入れっぱなし」は多いのではないかと。

 わたしは小学校の6年間、ずっと、一人の知的障害児と同じクラスだった。クラス替えを2回、3種のクラスを経験する中で、6年間ずっと同じクラスだった4人の中の一人だった。
送り迎えをする子がいる、家に遊びに行く子がいる。それが「いい子」のような、暗黙の了解のような線がある。
善意の包囲網のような圧迫感。
わたしはその線に乗っかっていくのが、自分にとってどこか居心地が悪く、そうした「いい子」たちを、半ば斜めに見ていたような記憶がある。

 「共に学んだ」印象の大半は、放りっぱなしで同じことをさせ、それができるかどうかということではなく、「邪魔をしなければそこにいられる」という「大人の態度」だったように思う。
その態度を間接的に学び、学芸会だの運動会だのといった行事において、「邪魔をしたかしなかったか」程度の印象しか残っていない。

 お世話係の「いい子」たちも、そんな役回りにはいつか飽きていったように思う。
一人混ざる障害のある子に対して攻撃をしなければそれでいい。それは子どもが生んでいった態度ではなく、大人の態度に模倣したものだと思う。
わたしはいろいろな思いの中で、半ば斜めに見ながらも、思っていたことは、その子がこうした状態でこの集団にいてしあわせか、ということだった。
校長や、担任以外の教員、教員以外の職員、そうした「大人たち」にその子は声をかけられることは多かったけれど、「友達」というものはいなかったと思う。
いたのは「友達」ではなく、「大人の目にかなった親切な子どもたち」だった。

 わたしは娘を保育園に入れた。生活集団として、就学前の集団の場に、保育園を選んだ。加配の職員が一人つくという「支援付き参加」。
 障害児学級でスタートした小学生、「交流教育の」という支援をもって、「交流級」という制度で障害の無い子どもたちの集団に「支援付き参加」。
 「支援付き参加」は、子どもに善意を強要しない。子どもたちは必要な支援を見て学ぶ。

 「支援付き参加」をもってして娘に生まれた小学校での人間関係の中で、一番仲の良かった子は、自分と娘との関係に対して「大人」を信用していない。「大人」は自分たちの関係に余計な意味づけをすると解釈し、大人の都合でかけられる言葉の「嘘」を、いつか見ぬくようになった。
この子が娘に関わることに対して「善意」の存在を当然のように押しつけてくる大人には、斜めの冷たい視線を送る。大人達はこの視線にひるみ、口を閉じる。

 一緒に遊んでいるときに、何気なく「世話を焼く」光景がある。これは「世話をするために世話をする」のではなく、「一緒に遊べるための支援を行う」という方がしっくりくる。
支援をもって対等になる、ということを、この子は周囲から学んだのだろうと思う。
「障害児と遊んであげる」などという一般的なイメージから、最も遠いところにいるんじゃないだろうかという個性の子。

 年齢があがり、中学生になって一緒に遊ぶことは無くなったけれど、家にはこの子が作り出して娘に教えた「いっしょに遊べるための遊び」があふれている。
娘が学区の中学の障害児学級に参加する「居住地交流」の日、地域行事の数々、そんなときに必ずこの子は娘の前に現れ、娘の名を呼ぶ。
大人と子どものような身長差になった二人、この子が娘の名を呼び、娘は応える。
やっていることはそれだけ。その「それだけ」に、娘とこの子以外の人間が意味づけをする必要はどこにもない。
娘の応え方がおもしろい、あるときはちらっと見て生意気そうに微笑む、あるときは跳び上がって子犬のように応える、あるときはこの子が娘に教えたギャグで返す。
それを見てこの子はからからと笑う。ただそれだけのこと。

車椅子マークの駐車スペース

2006年03月26日 | 「障害」に関わること
 パラリンピック関連検索中に発見したもの。新聞社のニュース記事なので、リンク切れを予測して要約で紹介。
車椅子マーク:駐車場に健常者 苦情急増[MSN毎日インタラクティブ] より要約
・車につける「車椅子マーク」、本来必要の無い人が「障害者用駐車スペース」利用のための不正使用が増えている「疑惑」。
・日本で「車椅子マーク」の商標権を持つのは「障害者リハビリテーション協会」。
・車につける「車椅子マーク」は、複数の業者が製造し、昨年は約1万7000枚作られた。1枚数百円で、カー用品店などで売られていて、障害者手帳の提示等の購入資格の制限は無い。「必要であれば誰でも買える」。
・外見では有無が分かりにくい障害もあり、「見た目だけで不正と決めつけるのは危険」(リハビリテーション協会)。
・土曜の午後、スーパーで直撃。「足が痛い」「家族に外見で分からない障害がある」他、「(車椅子マークは)おしゃれで付けてます。ごめんなさーい」、「足の悪いおばあさんがいる。今は乗せてないけど」。

 不正使用うんぬんを言う時に、障害者用駐車スペースに関しては、その必要性の理解に対しての「説明」が必要なのではないか、と思う。

1.障害者用駐車スペースは、どうしてあんなに両側に広くスペースを空けてあるのか
2.障害者用駐車スペースの利用者とは
3.「駐車禁止除外指定車」で解決できないこと
4.「空いている」ときに、対象者以外の人間が使っていいのか
 
 以上のことに関しては、このサイトがわかりやすく説明してくれていると思うので、是非ご一読を、と思う。
駐車大問題 / 車椅子で彷徨えば

 以下、私見。

 「1.」に関して。
 車椅子使用者が運転者の場合は、車の横に車椅子一台分のスペースが必要だからであることが、一般的にどこまで理解されているのかいささか疑問。車椅子使用者が運転者の場合は、運転席のドアの横に車椅子分のスペースがなければ「その位置でドアを開けられない」し、「車に乗ることも車から降りることもできない」。そうしたスペースがとってない通常の駐車スペースは、隣に車が駐車してしまえば「車に乗ることも車から降りることもできない駐車スペース」になるわけであり、駐車スペースとして機能しない。

 「2.」に関して。
 これには、「優先順位」というものがあると思う。
1.障害者用駐車スペースが無くては駐車できない人。
2.単独でその場にいることが困難な障害者が同乗している車。
(単独で数分程度「いられる」障害者の場合は、安全な場所で障害者を車から降ろしてそこで待たせて車を駐車場に停めに行くことができるが、そうでない場合は「両脇スペースがなくてはならない人」という位置づけになる。)
3.「障害者用駐車スペース」利用により、ハンディキャップを軽減するパーセンテージが高い人。
 つまり「優遇」より「必要不可欠」が優先されるべきだと思う。

 「3.」に関して。
 車椅子使用者が運転者の場合は、障害者用駐車スペースで見られるように、運転席の横側に車椅子が横付けできるスペースが必要だということ。車から乗降するときにこれだけのスペースが必要だということは、車道で路駐した場合にも例外ではない。車道での路駐は、気をつけていないと「後ろから来る車に轢かれる」危険があるということ。駐車違反のキップを切られない、なんてことだけで解決できることではないと思う。

 「4.」に関して。
 ひとつの駐車場に一台かせいぜい二台程度しかない駐車スペースがふさがっていれば、それだけで「満車」ということ。
通常の駐車スペースを「利用できる」人は、利用しないで「本来利用する人のために空けておく」のは当然のことだとわたしは思う。
本当に必要な人、そこ以外に駐車できない人が来たときに、そのスペースが「空いている」ということは、「社会がウェルカム状態でいる」ということになり、「該当者以外の車両に占領されている状態」ということは、「社会が拒絶している状態」という意味づけになりかねないと思うのがその理由。

 駐車スペースとはちょっと話が飛ぶのですが。
建築設計を仕事とする夫が図面を引いて建てたのが、現在の自邸。バリアフリー住宅として設計され、車椅子使用での居住が可能になる計算で作られています。
家族には現在、車椅子使用者はいないのですが、この図面を見たときに思ったこと。
わたしを含め、家族に今後、どんな事故・事態が起きても、自宅が居住可能な状態であるということは、精神的な衝撃を軽減させるだろうということ。
「社会がウェルカム状態である」ということは、そういうことなんじゃないかな、と思う。

「害」について

2006年02月21日 | 「障害」に関わること
 障害・障碍・しょうがい で、「障害」という表記の「害」という文字は、けして障害をもつ人に対してかかっているものではない、という視点で表記の問題にふれました。
 
 では、なぜ、「害」という文字が、障害をもつ人にかかると変更される動きがあるのか。
 これは、言葉がどうの、ということではなく、障害をもつ人が日常の生活の中で他者から向けられている「視線」がキーになっているのではないかと思います。

 娘を連れて歩いていると、とても日常的に「じろじろ見られる」ことが多いです。いわゆる大人の中では「ダウン症とその外見」はすでに常識化しているところがあるのではないかと思います。それでも大人の中にも存在する。
具体例をひとつ挙げますが。駅のベンチに座っているときに、隣に座った20代の女性が異質なものを見る目つきで、すぐそばにいるにも関わらず、娘を眺め回した。どうすりゃいいんだ、という感覚を当然持たされます。「ダウン症児・者を見たことがないんですか」と言ってやろうかとさえ思いました。
 無遠慮な子どもの視線は時々痛烈です。異質なものを見る目つきで上から下まで眺め回すように見る子どもは少なくありません。その子どもの視線におたおたする保護者には、正直同情します。対応は難しいだろうと思う。しかし、子どもと一緒に同じ視線を向けてくることもあります。そんなとき、こちらから見える景色は、「複数の人間に同様の視線を一斉に投げられる状態」になります。これはもう、慣れるしかないことです。 
 この、異質なものを見る目つきで眺め回されること、このことは「わたしは害ですか?」と問う感覚が生まれる一つの要素かもしれない、とも思うのです。
 
 ある友人が言ってたことですが。
交通事故で脊椎損傷者になり、下半身の機能の障害が決定したときに、その事実は衝撃だったけれど、リハビリセンターで車椅子を自在に扱う人たちの自由な姿に影響され、車椅子を駆使するということに慣れていったと。
そしてそのことで得た「自由」と共に外出、デパートに行ったときに、混んでいるところで、中年の女性にある視線を投げられたと。
「なんでこんなところに来るんだ」「邪魔だ」と、そうその視線は自分にその感情を放っていた、と言います。そのときに自分にとっての「障害」が決定されたような気がした、と。
脊椎損傷者になったら、気味が悪いほど、自分のまわりに「いい人」が増えた。しかしその「いい人」たちは、その人たちの自由であるテリトリーを自分が侵さない範囲でしか「いい人」として存在しないのではないか、と。そんな感覚を持つようになってしまった、と。

 個人の談、なのかもしれない。でも、とても示唆に充ちている、と、わたしは位置づけています。実際「その人たちの自由であるテリトリーを自分たちが侵さない範囲」というのは、わたしも感じたことがあります。
こうした問題は、障害をもつ人の「日常的な慣れと、感覚の耐性」に押しつけられているのが現実です。

 「害」という文字が与えるもの。それは文字表記の問題ではない。社会を構成する人々のひとりひとりがカギを握っているんではないだろうか。
 表記の問題は、それを抜いては考えられないことであるし、「害」という文字表記を変更しようという動きは、文字表記に関してこだわっているのではなく、人に再考を求めているものなのだと、わたしは思いたい。

 ただ、それは、文字表記の変更に頼ってはいけないんだ。そうわたしは思うのですよね。
また、「障害」という表記をすることに対して、責めるものであってもおかしいと思う。
その上で、もしも文字表記の変更というものが、こうしたことに影響していく力をもつのだという説得力をわたしが感じることがあったならば、わたしは文字表記を変更していくことに対して吝かではありません。