S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

障害をもつ赤ん坊と「祖母」

2005年10月29日 | 「障害」に関わること
保健相談所からの紹介で、医師の紹介で、知人・友人の紹介で、ダウン症の親の会を案内する冊子で、そんな様々なルートから人と出会い、話をすることがよくある。
「ダウン症の赤ちゃんが生まれた」と。
相手の個性に合わせて、話を聞く。
まず最初の作業は、相手の生の声をそのままに聞くことだと思う。
現在の衝撃から来る「今の気持ち」、そして「その先」への道への扉は、その人自身が持っている。
わたしにできることは、その扉へのカギを、その人自身が見つけやすくするヒントを、その人の個性に合わせて探すことだと思う。

そんな中で。
ダウン症の子どものおばあちゃんという立場の方が出てくることがある。
「子どもを生んだ娘の母親」という立場になる。
孫の障害に関しての一生懸命。
きれいに解釈すれば、そういうことだと思う。
でも。
実は、わたしはそうは思えないところがある。
「子どもを生んだ娘の母親」がやるべきことは、「孫に一生懸命」じゃないんじゃないかと思うからだ。
「孫に一生懸命」だとか、「孫の持つ障害に知識を」とか、そういうことではなくて、一番大事なことは、「子どもを生んだ娘」が「母親になること」を見守り、「母親になること」を支えることだと思う。
生まれた赤ん坊に障害がある、母親は気持ちが乱れる。
「子どもを生んだ娘の母親」は、この「子どもを生んだ娘」を支えることを考えて欲しい。
それは、「アンタが動揺してるからアタシが」では無いし、それではいけないのだと思う。
「子どもを生んだ娘」が「母親になること」に動揺しているからといって、「助ける」という名目で、横から「母親になること」をかっさらわないで欲しい。
心が回り道をしようが、寄り道をしようが、停滞をしようが、逃避をしようが、「子どもを生んだ娘」が「母親になっていくこと」のために、その心のベースを支えるのが、「子どもを生んだ娘の母親」の役割なのだと思う。
要するに、出過ぎないで欲しいということ。
それは「子どもを生んだ娘」が衝撃を乗り越えて「障害児の母親になっていくこと」を本当に支えることだとは思えない。
「子どもを生んだ娘」は、自分の精神的停滞の中で、自分の母親がいそいそと赤ん坊のために動きまわることで、「母親に、母親として、自分の『母親』という部分を査定され」、「母親の管理下」から逃れることができない。

ダウン症に限らず、孫の障害に対して、熱意をもって一生懸命という「祖母」という方がたまに存在する。
親だけでは育てることが難しい障害をもつ乳幼児にとって、そうした「祖母」は、ありがたい存在でもある。
しかし。
うがった見方で、わたしは時々思う。
「障害をもつ孫」の出現で、子離れしなくていい理由という免罪符を持った「母親」という要素が、あなたにあるのではないですか、と。

女というものは、子どもを生んだから即「母親」になるのではない。
子どもを生んで、そこから「母親になっていくこと」のスタートが開始し、赤ん坊との相互関係によって、子どもを生んだ女は「母親」になっていく。
生まれた赤ん坊の障害が発覚して、その道のりがゆっくりになったとしても、その道のりを本人が歩んでいくことが「母子関係の成立」なのだと思う。
「母子関係の成立の支援」という名目で、「自分と孫と娘」という関係を無理やり築こうとしている、そんな要素が見えてしまうことがあるのである。
子離れしたくない母親、という一面が、時々、そこには見えるというケースが存在すると、わたしは思う。

あるひとつのケース。
婉曲的に再三忠告したにもかかわらず、いきいきと、初孫に対して「母親的介入」をやめなかった「祖母」。
赤ん坊の母親は、母親になることを結果的に妨害され、障害児の母親であることから逃避し、それを認めた「祖母」に対して、「可能性をあなたが絶った」という一抹の怒りがいまだに消えない。

「障害をもった子ども」を「大人」にするということ

2005年10月28日 | 「障害」に関わること
今日、学生さんの卒論のための取材を受ける。
学生さんの取材というのは、ずいぶんたくさん受けてきた。
保育専門学校の方、映画学校の方、看護に関しての大学院の論文、福祉系の大学や専門学校の方、そのテーマもいろいろ。
今日の方のテーマは、ダウン症の子どもとその子どもが成長していく中での家族との距離感の考察。その考察の材料のためのインタビュー。
知的な障害をもつ1人の人間が成人して老いていく中での「家族」とは。
抱え込む家族ではなく、突き放す家族ではなく、その適切な距離とは。
子どもを育てていく中で、その子どものライフサイクルの中で、親が考えていくこととは。
なんてことに焦点をあてていた。

印象に残った質問。
「老後というものをどう考えますか」

わたし個人が考える「老後」とは、以下の通り。
・障害をもつ子の将来像としては、「本人に必要な支援を受けながらの『親からの独立』」。
・障害をもつ子の親の将来像としては、「障害者としての我が子に対して、その生活に必要な支援のアレンジに対しての支援の充実と、親離れさせていくという『子どもを大人にしていく教育』を終えた『子どもからの独立』」。
・障害をもつ子のきょうだい児の将来像としては、「障害をもつきょうだいの『支援付きの親からの独立』によって安心して形成される『きょうだい児自身の生家からの独立』」

具体的に言えば、子育てというものの最終目標は、「親から離れよう、親から巣立とうとする気持ちを子どもが充実して持つこと」だと思う。
子育てというものは、巣立たせるための教育、だと思う。
それが、障害をもつ子だからという理由で変わるとは思えない。
逆に言えば、障害をもつ子だからという理由で、こうした当たり前の「大人になる」ことが、親によって制限されないように、妨害されないように、考えていくことなんではないかと思う。

通常の順番で言えば、親は先に死ぬ。
わたしは、支援付きの「大人」として立派に成人した娘に、見送られたい。
知的障害を持った「立派な大人」にすること、それが目標。
支援を受けて生きるためのベースを充実させた「立派な大人」にすること、それが目標。

学生さんと話している最中に、娘が帰宅。
「ただいま」そして、相手を見て、「こんにちは」。
お迎えを必要とせず帰宅し、促されることなく「客」に挨拶する。
たったこれだけのことではあるけれど、そこに到達するまでには娘の知的レベルとしては地道な支援と努力を長年にかけて根気よく、チャンスを逃さずに、積み重ねてきた結果であり、まずは目標を踏みはずしていないと、母、ヒソカに「しめしめ、うまく行ってるゾ」とほくそ笑む。

ポータブル用ミニスピーカー

2005年10月26日 | 使用機器/ソフト
 ←ポータブル用ミニスピーカー
 ヘッドホンの部分に差し込むと、小さなステレオスピーカーになります。プレイやんにセットすると、こんな感じ→。
 音質は良くない、ラジオの音みたい。でも、音質はとりあえずこだわらないから、ちょっと好きな曲だけ持ち歩いてイヤホンじゃなくてスピーカーで聞きたい時、とても便利。それってどんな時? 家の中の雑事に動きまわるとき。洗濯物干しながら、洗濯物たたみながら、アイロンかけながら、半月分の古紙をまとめながら、衣替えをしながら、洗濯のためにシーツを布団からはぎ取りながら、そしてセッティングしながら、ながら、ながら、ながら。もちろんお風呂タイムにはジッパー付きのビニール袋に入れて浴室持ち込み。
 このポータブル用ミニスピーカー、検索して調べてみたら、楽天やその他のオンラインショップにもありましたね、しかしどこも売り切れ。送料付けても買いたい人がけっこういらしたんだなあと思う。驚いたのはヤフオクで出品されていたこと、そしてそれを4倍の価格で落札された方がいらしたこと。定価の4倍出して、送料負担して、商品届いて「さて」って聞いたときにこの音質じゃ、かなり泣けたと思う。
 ワタクシですが、店舗で直接購入なので、当然と言っちゃ当然だが送料無し。どこで買ったかといえば、この製品、発売元は100円均一の店舗を運営する会社。つまりコレ、100均商品。ってことで定価は税込み105円。

「ドリームナイト・アット・ザ・ズー」参加レポ:その3

2005年10月25日 | 「障害」に関わること
■夜の動物を見学
アマゾンの密林エリア:オオアリクイ、オセロット、ウーリーモンキー、メガネグマ
アフリカの熱帯雨林エリア:オカピ、ヤマアラシ、ハリネズミ、ベルセオレガメ、ボールニシキヘビ
 動物に対してのフラッシュを使った撮影が禁止されたこの日、飼育室の明るさを頼りに携帯で撮ったこの写真が、この日の「動物を撮った写真」で、この一枚のみです。ズーラシアの目玉でもあるオカピです。人気のオカピは、通常の時間帯に、こんなにゆっくりとは眺められません。オカピのご機嫌で顔を見せてくれないこともありますが、顔を見せてくれているときでも障害をもつ子には「ゆっくり眺める」ことが難しい場合もあります。「人気のオカピを見たがる普通の子どものパワーに負けてしまう」ということが一因になる場合です。知的な障害のある子の行動に対して「人の迷惑かえりみず」という解釈をされる方も存在しますが、興味の対象に向かう普通の子どもの生存競争が発散するパワーの前で、臆してしまう子も多いです。混雑が苦手、あきらめが早い、ということが影響する子もいます。身障者用のバギーで子どもの混雑に割り込むのにも勇気が要ります。ゆったりとご対面というこの日、娘は何度も行ったことがあるこのズーラシアで、初めてオカピを満喫しました。
 照明がついている中でのご対面は、このオカピだけで、あとは暗闇の中でのご対面でした。ちょっとおもしろかったのはメガネグマが一生懸命食べていたのが、夜目遠目で「大きなレモン」に見えたことです。飼育の説明のための展示として並べられていたエサの中に果物がリンゴとレモンしかなかったことも拍車をかけました。「なんであのレモンはあんなに大きいんだ???」。飼育係の方に質問して、飼育係の方が夜目遠目で必死に目をこらしてそれを見て、結論は「あれはパイナップルですね」。夜間の動物園ならではという感じでした。
 コースが限定された中で見られる動物の種類は少なかったけれど、企画がたくさんあり飲み物とおやつが配布されての2時間半にはこれで充分。照明に照らされず好き勝手に動く動物たちは、自然のままという感じがしました。
 動物の見学の間にあった企画コーナー「吹き矢体験」もおもしろかったです。小さな注射器をセットした吹き矢を、動物の絵が描いてあるボードに向かって吹くもの。娘の肺活量でも充分楽しめました(母と息子はこのコーナーで、やたらにアツくなっていました、すみません)。

 盛りだくさんであっという間の二時間半、今回参加されなかった方には是非次回参加をと思いますし、今後のこの企画の継続を心から望みます。この企画に関わられた全ての方々に心から「楽しい一日をありがとう」。

*関連記事: 
 「ドリームナイト・アット・ザ・ズー」雑感
 「ドリームナイト・アット・ザ・ズー」参加レポ:その1
 「ドリームナイト・アット・ザ・ズー」参加レポ:その2

「ドリームナイト・アット・ザ・ズー」参加レポ:その2

2005年10月24日 | 「障害」に関わること
 「ドリームナイト・アット・ザ・ズー」参加レポ:その1
 からの続きです。
 
 飲み物とおやつを配布された休憩所の中には、工作コーナー。動物園で毎日山ほど出るゴミを材料にした「リサイクル工作」。展示されているものに「好きなものを持って帰っていい」と書いてあったので、いただいてきたのがこの写真。リンゴを段ボールに詰めるときに敷く紙材の、一個一個の丸み部分を切り抜いて材料にしたものです。写真ではわかりにくいですが、紙材の紙の部分と縄の感じがなかなかの味わい。
この工作コーナーは参加したかったけれど、限られた時間がなくなってしまいそうだったので、不参加。でも、休憩所のあちこちに飾られたこの工作の展示だけでも楽しめました。工作コーナーの協力はアトリエ・オーバ。オーバならではの企画ですし、横浜でこの手の企画があれば、やっぱりオーバの出番でしょうと勝手に納得。
 休憩所を出ると、太鼓の音が聞こえます。この太鼓はバケツを利用したもの。他にも粉ミルクの缶を使ったものや、いろいろな身近な材料でパーカッション。ドコドコたたいて楽しみました。確認はしていないけれど、これも多分オーバでしょう。
 暗くなってきた園内の移動は、青く光る文字のボードにより、順路が指示されていました。このボードはひとつひとつの企画の前にも案内板として置かれていましたが、子どもたちに人気だったようで、さわられたり文字の部分をこすったりすることで、終盤頃にはどのボードも文字がすっかり見えなくなっていましたが、それは人気の証として鷹揚に受けとめられていることも、場の安心感につながっていたように思います。
 この日のコースは一部解放、草食動物が中心になっていて、園内各所で飼育係の方が説明。この「飼育係の説明」というのは事前資料で知ってはいましたが、正直「娘に理解できる説明ではないだろう」と思っていました。しかしこの日の説明は、「知的障害児は抽象的概念に弱く、具体物での説明は理解しやすい」ということにとても配慮されており、目に見える形で「わかる」ものを中心とした説明になっていました。これは非常にありがたかった。
 以下、飼育係の説明という企画で記憶に残ったもの。
ゾウ
・実際の一日分のエサ 
・バケツにゾウの一日分の糞の重さを再現したもの(持ってみることができる)
・一日分の糞を乾燥させてニス塗りをした「実物」(持ったりさわったりすることができる)
・縄を輪にしてゾウの腰の周囲を再現(広げてみることができる)
・布でゾウの鼻の長さを再現(伸ばしてみることができる)
・ゾウの実際の「歯」と「牙」(折れてしまったものを保存してあるもの、さわってみることができる)
ヤマアラシ
・抜け落ちた「針」を飼育係の人が持っていて、手にもって見てみることができる
アリクイ
・ベニヤで作った模型が展示され、口のところに「舌」がついていて、アリクイの「舌」の部分を手で引っぱって、どのくらい舌が伸びるのか、実物大で自分の手で実感できる。
ポールニシキヘビ
・ヘビの抜け殻をさわってみることができる。
ダチョウの卵
・上に乗ってみて、殻の堅さを実感できる。
 各動物の説明の主体となっていたのは「エサ」と「うんこ」です。一日に食べるエサが実際に実物で並べられ、糞は乾燥させてニスぬりをした「不潔を排除した」状態のものを、手に持ったり、さわってみたりすることができました。数種の動物の「うんこ一覧」も、その形の違いを一目で比較して見ることができ、新鮮に楽しかったです。生き物の生態として「食べる」と「うんこ」、とてもわかりやすかったと思います。飼育係は誰もがその対応が明るく、この企画の体現の一員であることを楽しんでいる様子が、好感を持ってとても印象に残りました。
(「3」へとつづく…)

*関連記事: 
 「ドリームナイト・アット・ザ・ズー」雑感
 「ドリームナイト・アット・ザ・ズー」参加レポ:その1

「ドリームナイト・アット・ザ・ズー」参加レポ:その1

2005年10月23日 | 「障害」に関わること

 ドリームナイト・アット・ザ・ズー
  2005.10.22 17:00~19:30
  於:よこはま動物園ズーラシア

 娘の通う養護学校からのお便りという形で知ったこの企画、夕刻の4時半から受付で、この時間帯の園の駐車場は通常の来園者が帰った後ですいていて、入り口から遠いところに停めなくてはならないということはありませんでした。駐車場のあちこちで、身障者用のバギーを車から降ろす光景が見受けられました。
 あらかじめ郵送されていたチケットをもって、受付に。受付から始まり、今回のこの企画のスタッフの方々は、誰もが暖かな笑顔と明るい応対で、これはとても大きかったと思います。以前、同様の企画である大手劇団のミュージカルの観劇に参加したことがありますが、観劇後の出演者との握手等のふれあいタイムの中で、おざなりの冷たさを感じたこととは好対照でした。「やらされることをやっただけ」、「企画に関わる1人1人が企画の主旨の体現者」。この二者の差は参加者にはすぐにわかることだと思いました。
 入園後、最初の企画コーナーは、フェイスペインティング。動物の絵の簡単な枠抜きの型紙を渡されて、置いてある絵の具から好きな色を選び、家族によるペインティング。娘とわたしは手の甲に赤いペンギンを、息子は頬に緑のペンギンを描きました。簡単とは言いつつも、枠の細かい部分まできれいに仕上げるのはちょっと難しい。全員で頬に濃い青のカンガルーのペインティングを施した家族連れの笑顔に思わず見とれてしまいました。「普通と違う」から視線を浴びるのではなく、「普通より上手だから」視線を浴びる。そんなこともこの日の安心できる場への信頼が支えているような気もしました。
 次の企画は「カンガルーの赤ちゃんとの家族写真を撮れるコーナー」。とても人気で列ができていましたが、もともと参加者の人数が限られていることもあって、待ち時間はたいしたものでもありませんでした。カンガルーの赤ちゃんは袋に入れて飼育係に抱っこされていました。つまり疑似袋を抱えた飼育係代理母状態。この代理母をまん中に二つの椅子が用意され、家族でそこに並ぶというもの、カメラは持参したものを使ってスタッフが撮ってくれます。子どもの障害に応じて身障者用のバギーの場合はこの椅子を片づけ、次の家族ではまた椅子を用意しと、やらなくてはいけないことはその都度あっても、移動も写真撮影も、誰にせかされることなく、ゆったりと交替するほのぼのとしたムードの中で、次々に家族写真が写されていきました。写真を撮るとき撮った後に、その赤ちゃんにさわらせてもらうことができます。至近距離で見たカンガルーの赤ちゃんは、はあはあと舌を出さない子犬、いたずらな戦闘モードの無い子猫、とてもおとなしくて毛はやわらかくほわほわとしていて、肉球は細長く硬かったです。
 カンガルーの赤ちゃんとの写真撮影のコーナーは、ジュースの販売機がある休憩所の前に設置されていました。この休憩所の前で、この企画の協賛企業から提供された飲み物とおやつの配布がありました。ゆっくりと歓談する中で、あちこちで家族同士の挨拶が交わされます。要は「地元の狭い世界」を実感する同士、ということかもしれません。そこでは穏やかな時間がゆっくりと流れていました。
(「2」へとつづく…)

*関連記事: 「ドリームナイト・アット・ザ・ズー」雑感

「ドリームナイト・アット・ザ・ズー」雑感

2005年10月23日 | 「障害」に関わること
ドリームナイト・アット・ザ・ズー に、参加してきました。
内容の紹介以前に、思ったこと。
これは、世界各地の動物園で行なわれている社会貢献イベントで、障害のあるお子様とそのご家族を、普段はなかなか体験できない夜の動物園にご招待し、楽しい時間を過ごしていただこうというものです。
つまり園内には「障害のある子どもとその家族」とスタッフしかいません。
そうした、通常の社会とは違う「世界」になっています。
これを言っていいことなのかどうかわかりませんが、とても心穏やかです。
奇声を上げて飛び跳ねている子どもがいても、特に誰も気にしません。
子ども用の、大小もその形態も様々な身障者用バギーがあちこちで見かけられても、特に誰も気にしません。そして誰もが自然に道をゆずります。
カンガルーと一緒に家族写真を撮れるコーナーで、自分の順番が来たときに突然泣き叫んで走って逃げていってしまう子がいても、誰も奇異の目を向けてその姿を追ったり、顔をしかめたりしません。
きょうだい児も、自分のきょうだいに向けられる視線というものを気にせずに、心から場を楽しむことができます。
「楽しい」ということを満喫できる場が展開されていました。
「一般的」な社会参加は、意義上も、経験としても重要なことです。
でも、こうした心穏やかな場が用意されることも、やはりその意義はとても大きいということを実感したような気がしました。

*参考リンク:視線 /障害者の“きょうだい”のつぶやき

*関連記事: 
 「ドリームナイト・アット・ザ・ズー」参加レポ:その1
 「ドリームナイト・アット・ザ・ズー」参加レポ:その2
 「ドリームナイト・アット・ザ・ズー」参加レポ:その3

「チャンス」のプレゼントをありがとう

2005年10月21日 | インターネット雑記
個人ニュースサイトの有名どころのひとつである「駄文にゅうす」、その10月20日(木)更新分において、【コラム】のところに被リンクがありました。
「自分たち」以外の人間関係を成立させることができない子ども達 【S嬢のPC日記
これを見て、わたし以外に気づいた人は、はたしてどれくらい存在するんでしょう。
そう、ここで被リンクとなっている記事にタグとしてついているURLは記事URLではありませんでした、この記事を含むカテゴリアドレスでした。
ごめんなさい、公開の場で恥をかかせる気はないのだけれど、これは単純なミスだと思う。そしてその単純なミスで多分まちがいなく、わたしは「儲けた」ってとこなのだと思います、単なる被リンクより閲覧者に「寄り道」の窓が開いている展開。

被リンク記事を読み終わる頃、自然に目には「ジベル薔薇色枇糠疹」が飛びこんでくる流れになっています。
この流れにどのくらいの人が乗ってくださるかわからんが、「ジベル薔薇色枇糠疹」の名前の由来であるジベルさんも、自分の名がつく病名が多数の人の目にふれて、きっと喜んでいらっしゃることでしょう。
そして、もしかしたら「たべすぎ・ねっと (tabesugi.net) 」の紹介にもつながったかもと思うと、わたしはちょっとうれしい。この方の「ジベル薔薇色枇糠疹」話には、とても楽しませていただいたので。

以上、「駄文にゅうす」のE様感謝です、ありがとう。

娘の「ジベル薔薇色枇糠疹」は、派手な発疹の状態の割にはあっという間に完治。おしゃれにも精を出し、明日はコチラのイベントに行ってきます。

自費/半自費出版本から

2005年10月19日 | 書籍紹介
家には何冊かの自費出版、もしくは半自費出版本がある。
親戚の人間が出版したものを年始回りの時に置いていった本があるが、笑顔とありきたりの社交辞令で受け取っても大半の人がただ受け取るだけだと思う。実際数冊手渡されたその書籍を実際に読了したのは、多分親戚中でわたしだけだと思われる。
半自費出版本とは、一定の部数の本の出版に関して、自費出版を手がける出版社と共同出資で出版され、書店にも配本されるシステムらしい。たいがいは与えられるのはチャンスだけで、残るのは行き場のない本の山と、経費に対しての請求書という展開のようだ。
個人が本を出版したい、個人の書籍を購入して読みたい、この両者にはかなりの距離があり、販売される形での出版に至らせる本を作るのは、結局百万円単位の金を使う「道楽」というものらしい。
ウェブ上に「書きたい人」が山ほど存在する中で、書籍が商品として成立し、「読まれる本」となるのは、ほんの一握りだと思う。

そうした「個人の書籍」に類するもので、わたしにとって大事な書籍として本棚に並んでいる代表作はこちら。

 あの子の笑顔は永遠に
 笹井 裕子 著
 (ホームページ自費出版図書館より借出可能) 
 ウェブ上で閲覧できる書評
 *「あの子の笑顔は永遠に」書評/特定非営利法人(NPO)日本せきずい基金
 *「ある頸損者のベンチレータ事故死」 /"WORKING QUADS" HomePage 働く四肢まひ者たち(ワーキング・クォーズ)
 
 夢を持って体操に取り組んでいた少年が、ある日突然、事故に遭う。それは練習中の事故、体操クラブの指導ミス。そして頸椎損傷者としての人生が始るが、19歳でその生涯は終わる。原因は命をつなぎ止めるはずの医療機器の突然の故障。この突然の故障に、不幸な状況も重なっている。24時間介護にあたっていた母親が救急車を呼ばなければならないほどの大量の鼻血、そしてその後の耳鼻科受診時。母の留守中に徹夜明けで介護にあたっていた兄が、その故障の時に居合わせており、自分を責める弟の最期という展開。事故が発生したことに関しての裁判にも至る問題、命をつなぎ止めるはずの医療機器の突然の故障、家族による24時間介護の過酷さの問題等、個人の体験談を超える貴重な手記と認識している一冊。新聞紹介により、直接著者に電話を入れ、購入。多数の反響の中、丁寧な応対と内容のお話を直接お聞きすることもでき、著者の人柄にふれられたこと、丁寧なメッセージを書かれた手書きの紙がそえられていたこと等も含め、わたしにとっては貴重な一冊。

 詩集 ふうか
 脇坂 安郎 著
 赤ん坊が生まれた。その赤ん坊はダウン症だと父親は聞かされる、母親はまだ知らない。出生後すぐに集中治療が必要になり別の病院に搬送された我が子に、父親は母親が搾乳した母乳を届ける日々が始まる。そして母親への告知。
 個人の体験が美しい旋律のように記された一冊。心象風景が見えてくるような内容の高さだけでなく、装丁や行間、本の大きさ等、書籍ならではの価値は高いと思う。アマゾンにて、元価格より高いユーズド価格で出品されていることも注目に値する。入手は購入ではなく、著者から直接いただいたのだが、プレゼントとして使いたくて改めて購入させていただいた経緯がある。
以下、母親が赤ん坊がダウン症だと告知された日を綴った一編の一部を引用。
君を抱いてお乳を与える妻も
いつのまにかうつらうつら
その頬に涙の跡が幾すじも
陽にひからびている

ああ 今日は小春日和だ
(「小春日和の母子」より)
 
(所蔵用とは別に「貸出用」があるので、関心ある方は左メニューのメールフォームからご連絡下さい)

消化不良

2005年10月17日 | つぶやき
なんでだろう、と、消化不良。
仕方ないことなんだろう、と、思いつつ、消化不良。

娘と関わる接点のある子どもたち、というものがありました。
まあ、娘を媒体とする人間関係、とも言える。
わたしは娘の小学校の登下校の送迎中に、子どもたちと接点がたくさんあったし、何より子どもたちが娘と関わろうとすると「不可解な行動」というものが娘には、ある。
自然、わたしと話すことも多くなりますね、子どもたち。
その上で、わたしは娘を「地域で育てる」ということを重視していましたから、小学生対象である地域の子ども会の役員も代表もやった。
どのあたりに何年生の○○という名前の子がいるってのは、40名以上既知なわけです。
引率してあっちゃこっちゃ行きましたから、ひとりひとりの個性もだいたいは把握している。
うちの地区の自治会の居住地区内、つまり娘と年齢が近い「おらが町の子どもたち」は、たいがい相互に知っている関係でもある。
個と個の関係というのができているってことなんでしょう。

この「子どもたち」に対しては、気楽に注意というものができるわけです。
一緒に歩いているときに、知っている人が「おはよう」だの「こんにちは」だの子どもたちに声をかける。
ごにょごにょと小さい声で返事してるんだかしてないんだかという反応もある。
ちょっとそっぽ向いて、「無視」という行動を取る場合もある。
まあ、気軽に、簡単に言えたんですよね。
「『おはよう』って顔見て言われたら、ちゃんと相手の顔見て『おはよう』って言おうよね」とか、「『ありがとう』って言うべきときには、顔を見てちゃんと『ありがとう』って言わなきゃいけないよ」とかね。
即時に、角が立たない言い方で、信頼関係の中にあるという実感の中で言えたんですよね。

ところが、言えないんだな、息子と接点のある子どもたちには。
特に、うちの自治会の地区以外の子どもたちには。
ううむ、と思いつつ、叱れない、注意できない。
人んちの子を叱る難しさみたいなものに、自分が負けてしまう。

先週、息子の友達が家に遊びに来た。
コーンのアイスを出してやったら、なんだかこぼしながら食べている。
「雑巾、雑巾」などと叫んでいるのだけれど、「拭くものください」という一言が言えない。
わたしここにいますが、あなたたちには見えませんか?という感じがする。
まあ、1人一枚、ハンドタオルを出して手渡してやったのですが、顔も見ずに受け取る。
用が済めば、家の中のすみのあちこちに「落ちて」いるわけです、このハンドタオルが。
わたしがそれを拾っても、別に何か言うわけでもない。
男の子だから、ってことじゃない、女の子もなんですよね。

この子たちがどうのってことじゃなくて。
娘と関わる接点のある子どもたちだったら、最初にハンドタオルを手渡すときに言ってますね。
「ちゃんと顔見て『ありがとう』言いなさいね」って。

息子が5年生になって、途端にこういうこと、増えてきた。
「自分たち」以外の人間関係を成立させることができない子ども。
そしてそれを感じて、躊躇してしまう自分。
グズグズと、非常に消化不良です。

「伝える力」を身につけたい

2005年10月14日 | ○○さんにトラックバック!
ブログは文章力を上げるとは限らない/304 Not Modified

文章力ってなに?
作文というものが上手か下手かってこと?
ブログにおいて「伝えたいことが伝わるように文章にする力」は、いわゆる「作文が上手か下手か」は影響するかもしれないが、必ずしもそれは絶対ではないと思う。
構成だの表現だの下手くそだって、「伝わるものが伝わって記憶に残る」というものが、ブログには存在する。
文章として書かれたものがうまいか下手か、なんてことは、ブログ上で個人が何かを出していく上で、「読み手」としてのわたしはそんなにポイントにはしていない。
説明文、意見文がわかりやすくなることに越したことはないけれど、「これが言いたい」ということの存在自体には、わたしにとってはあまり影響しない。
読み手にも、その文章が記載された思考を読みとる力だって必要とされるわけだし、この読みとる力というものは読み手側の感性も大きく影響するとも思う。
「書き手」としては、自分の思考を文章に表現していくことで、その思考を明確化していく要素がある。
そこに必要とされるものは、文章自体のうまい下手ではなく、明確化することに向き合う姿勢だと思う。

またここであげられている「2ch語」に関しては、以下に同意。
ブログは文章力を上げるとは限らない(304 Not Modified)
 2ch語は「言葉にならない感情」という切り札を容易に「キター」等の言葉にしてしまい適当な言葉を探さなくなる。何でもかんでも「ヤバい」と表現するのと同じ。フォントいじりはバラエティー番組の字幕と同じ。
2ch語は基本的に「共通経験を有することが必要な仲間言語」。
使用しない側の人間にとっては意味不明、使用する人間がその特徴をいかに述べようとも、使用することによって読み手を限定するものであることには変わりない。顔文字も同様の要素がある。
使用言語は思考にも影響する要素があり、使用者を限定する言語に基づいて思考したものに関して「一般」に公開する場合には、翻訳/意訳する意識が求められる。
<まとめ>
 ブログは文章力を上げるためのツールではありません。
 しかし、ブログで文章力を上げることもできると思います。

以下、上記にそってまとめ。

ブログは作文能力を上げるためのツールではありません。
しかし、ブログで更新を続けていくことにより、伝えたいことを伝えたい相手に伝える工夫をする思考を意識することを身につけたり、また伝える力を熟達させる可能性を持つことはできると思います。


*トラックバック:ブログは文章力を上げるとは限らない/304 Not Modified

公開された場に思考を刻む

2005年10月13日 | ○○さんにトラックバック!
ねえねえ、聞いて。
伝えたいことがあるの。
あなたに。
そして誰かはわからないけれど、わたしが伝えたいことを感じてくださるどなたかに。
ひとつのボタンを一度押すと、わたしの思いは公開される。

何のために。
わたしはわたしのために話し、わたしのために今日のわたしを記録に残す。
明日のわたしに伝えるために。
今日のわたしはここにいるわ。
明日のわたしはどんなだろう。

頭のなかの思いを言葉にして放出する。
わたしはわたしの頭の中から出てきた言葉を眺める。
それは明日のわたしに向かっていく種でもあり、芽でもあり。
言葉にして放出する行為は、その種や芽に対しての、最初の肥料かもしれない。
公開は、適度な緊張感と、その先に向かうためのチャンスをもたらしていく。

あなたの言葉を眺める。
あなたの声を聞く。
あなたの思いに思いを馳せる。

今日のあなたを覚えておこう。
明日のあなたはどんなだろう。

そこから巡った思い。/徒然こそだて日記 にトラックバック

ジベル薔薇色枇糠疹

2005年10月11日 | つぶやき
ジベル薔薇色枇糠疹。
なんか、かっこいい名前ですねえ、
「じべるばらいろひこうしん」と読みます。

先週、娘のお腹あたりに、ぽつぽつと、発疹らしきものが出ました。
なんじゃ、こりゃ。
と思いましたが、特に変わりなく元気なので放置。
この辺が、いわゆる「大きい子」に関しての対処ですねえ。
赤ん坊や幼児なら、とっとと小児科に行くものの、ちょっと大きくなってくるとあんまり病気しなくなってくるので「とりあえず様子見」が多くなる。
学校から帰ってわざわざ「さあ医者に」って感じでもないし、もちろん学校に遅刻して病院行くほどでもない。
土曜に行こうと思えば行けた。
でも土曜は小児科も皮膚科も混んでる。
で、放置。

連休中、どばどばと増えました、発疹。
元気です、食欲も旺盛、なんら変わりなく。
ただ、入浴のときにびっくらする。
…、なんじゃこりゃ。
お腹だけじゃない、かわいらしいオッパイにも、ぷりぷりのふとももにも、背中にも。
でも体調、機嫌、なんら変わりなく、そんな感じで。

さて、本日、連休も明けたし、やっと重い腰をあげて受診。
明日から宿泊学習で帰宅早いし、明日から宿泊学習だし。
全身状態特に変わりもないので、皮膚科でよかろ皮膚科で。

ジベル薔薇色枇糠疹

腹部の発疹、ぱっと発疹見た途端に、医師、次々と質問。
というか、ぱっと腹部の発疹見ただけで。
でも、思い当たることばかり。

「太ももにも出てるよね」
「先週くらいからちょこっとお腹に出て、ばっと広がったでしょ」
「本人、特に変わりないかな」

へいへい、そ~ざんす。

「軽い方だよ」
「掻き壊しもしてないからかゆみも無いはず」
「かゆみが全然無い人も多いから」
「見た目は派手だけど、たいしたことない病気だからだいじょうぶ」
「伝染しないから、集団もだいじょうぶ」
「首には出るけど、顔には出ないんだよ」

…、確かに。

帰宅して、さっそくネット、ネット。
検索、検索。
どうやら小児科ではなく皮膚科受診で正解だった模様。
皮膚科サイトをいくつか見てから、さてお楽しみの個人サイト。
そんなに多くはないがいくつか見つかった、この病気に関しての体験談の中でピカ一はこちら。

こんにちは。バラ色の新山です。

うーむ、それにしてもバラ色病、調べるとなかなかおもしろい病気だ。

バラ色の夢は見なかった。

以上、「たべすぎ・ねっと (tabesugi.net)」のコンテンツからご紹介。

ここでお願いがあります。
是非、この、「たべすぎ・ねっと (tabesugi.net)」のトップから、「このサイトについて」というところに飛んでいただきたい。
そして「管理人について」と書かれた下にある、「ごらんください」ってとこに行ってみていただきたい。
わたしはこのセンス、好きだ。

「女のドラマ」と「女のロマン」

2005年10月10日 | つぶやき
女のロマンとはなにか/また君か。@d.hatena
これ、 AdYandWさんのはてなブックマークから見つけたので、この場合、以下のように入れるのでしょうか。
情報元/せかたん定点観測所(建設予定地)

と、これは前置き。
「女のロマン」ですが。
これ、「女のドラマ」として、実は以前友人と盛り上がったネタ。

女性はですね、
体内に「ドラマ」を持っている。
毎月毎月、体内のドラマは動き続けています。
分泌、乳房、体温等の体の生理的変化、食欲・睡眠等の体質の変化、気分や情緒等精神的な変化。
そのそれぞれの変化の表れ方に大なり小なり個人差はあれど、基本的には「体内ドラマ」盛りだくさんです。
基礎体温というのを記録してみると、一ヶ月の内に体温が上がったり下がったり、グラフ上にはっきりと曲線としてその「体内ドラマ」が記載される。
これが正常なドラマの曲線を描かなければ、それはまたドラマだ。
なんつったって、唾液さえ変化する。

生む性である。
人生設計上、「体内時計」というものがある。
生むか生まないか、相手がどうのということを超えて、自分のからだがカチカチと、「生む力を持てるタイムリミット」へと時を刻む。
このタイムリミットまでにどこかでなんとかしないと、体にいっぱい詰め込んだ「卵」が全て無駄になる。
「生む性」というものを選ぶことのできない体質ならば、それはまた「ドラマ」だ。

なんというか、何にもしなくたって、日常的に、もう、体内にドラマだらけで忙しくってしょうがない。
そして一番スゴイのは、この「体内にドラマが常に展開している」ということに当たり前になっていることだと思う。
毎月だらだらと出血しながら、どんどん変化・進化していく生理用品を、ごく日常的に商品特性なりにピックアップする。
商品特性なんぞどうでもよく、セール品の価格を一番の視点にする場合もある。
実に実に日常的なことなのだけれど、リビングのテレビから流れるCMで「ズレ」だの「モレ」だのと言われて、ビビったことのない男性も少なくないんじゃないかとわたしは思う。
女性というものは、平然と体内にドラマを内在している。

男性には、性衝動という体内ドラマがあるのかもしれない。
性癖、性志向というドラマもあるかもしれないが、これに関しては、持っている女性だっている。
つまり、何にもしないところでも常にドラマが展開されている女性に比べたら、男性は「何かしないとドラマが生まれない」。
自然、自分の意志で「男のロマン」、つまり「待っていては生まれないドラマ」を生みだしていこうとする。

女性も、自分のドラマは作りたいと思う。
女のロマンだって持ちたい。
でも、そのためには「体内ドラマ」を併行して持てることが条件になる。
数回経験すれば完全に日常となっていく、もしくは日常とすることが強いられていく毎月の「ドラマ」との併行は必須。
これは難なく併行所持できる人もいれば、かなりの努力を強いられる人もいる。
そして大きくそびえたつのは、自分の「生む性」と向かい合うことだ。

動物的、生物的に、この「卵」なんとか有益に使いたいと思う本能があるならば、絶対として出てくることは「卵だけでは生まれない」ということ。
相手というもんが要りますわね。
この相手、というのは「男性」だ。
男のロマンをひっさげた「男性」と、体内ドラマを内在した「女性」が向かい合う。

恋愛はドラマだ。
女性の体において、卵を受精させるための行為に使われる神経細胞の活動もまた、ドラマだ。
この、卵を受精させるための行為に使われる神経細胞の活動のドラマだって、実に複雑怪奇、個人差に満ち満ちていて、そりゃ感覚器官総動員して大変なモンだ。
感覚器官総動員という精神的状況でない場合は、全ての神経細胞が「マヒする」という現象が起きるのも、また女性の体のドラマだと思う。

女が「男のロマン」に匹敵する「女のロマン」を持ち、維持するためには、これだけの「女性が常に持っているドラマ」を併行して持つエネルギーと意志力がいる。
そういう人もたまにはいるかもしれないけれど、女性が女性なりに自分のドラマを内在させた「女のロマン」を持つ方が、わたしは自然な展開だと思う。

女性が女性なりに自分のドラマを内在させた「女のロマン」とはなんぞや。
男性がもしもそれが知りたいと思うならば、自分が出会って選んだ「女」に聞いてごらん。
きっとそこに答があるんだと、わたしは思うよ。
自分が選んだ女性の返答に「答」が聞こえてこないならば、まだまだ修行が足りないかもね。

以上、「論評」ではなく、「ネタ」です。
そこんとこ、よろしくです。

Ad.Y&Wさんにお返事

2005年10月09日 | ○○さんにトラックバック!
インターネット上で、ひとつの文章と出会う。
「見た」だけで終わるものもあるし、「思い」や「疑問」を喚起するものもある。
喚起してもそこで終わるものもあるし、そのことに対して、またインターネット上でなんらかの形で出していく場合もあると思う。

非常に興味深いブログを発見です。
こんな世界のはしっこで・・・
こちらの管理者が管理されるはてなブックマーク「せかたん定点観測所(建設予定地)」でブックマークされたものに関して、抽出してその感想を書かれた文章が掲載されています。

こちらの最新記事、
一方的な「想い」で「交流」できるだろうか?

「交流」(S嬢のPC日記さま)
という出だしに、「はいはい」と、こう、お手紙を読むような感じで読ませていただきました。
使う言葉が意味するもの、このことでわたしは「疑問」をお渡ししたのでしょう。
もちろん「交流」ではないからといってそれに価値や意味がないというわけではない。
それに意味や価値を見出すのは人それぞれだろう。

要約すると『「交流」以外にも価値や意味はあるだろうけど、「伝わらない交流」は「交流」とは呼べない』って事。

回答、しっかり受け取りました。
お返事としては、ここで取り上げられた「交流」という記事の最後の一行を書き換えてお渡しします。
でも、見える結果だけを短絡的に意識し過ぎて、それを追い求めようとしてしまうのは、何か違うんではないかと思う最近です。
「内に秘めた想い」の発生や蓄積が、どんな形で現れていくのか。
そのことに無理はしたくないと思う。
でも全てはこの「内に秘めた想い」の発生が原点ですよね。
そのことをわたしは、大事にしたい。

感想として持たれたものを、形として出していってくださってありがとう。
さかのぼって、いろいろな文章に対して感じられたことも読ませていただきました。
おや、もうひとつ、自分の書いたものがここにあった、などと「」について書かれたものも読ませていただきました。
これに関しては、恋愛関連に話が及んでいる部分がありますので、こちらのアドレスをお渡ししたい。
高樹 洸 名言集:男だもの(その参)のトップに出てくる「書」とそれに関しての文章。
全くの嘘でない場合に限って、「ツッコミ」で答えてやるのも、愛ですわ、愛。
間髪入れずに答えて欲しいというものに答えてやるという「行動」は、答えてやるというより応えてやるということであって、それはその「行動」ということ自体が、この手の質問に対しては、そうそう「嘘」とも言えますまい。

以上、一方的な「想い」で「交流」できるだろうか?/こんな世界のはしっこで・・・ にトラックバックです。