多くの国が、議会制民主主義を採用しています。この主張でも論じている民主主義は、話し合いをすること。少数者の意見を尊重すること。結果の検証(総括、反省)をすること。
ところが、日本の衆議院選挙制度は、小選挙区制を採用し、少数者を切り捨て、相対順位で一位の政党、候補者のみが当選するという制度です。したがって、多数者尊重との形式すら満たしていません。このような選挙制度によって議席多数を取ったとしても多数決の原理にも合致していません。また、その議席が選挙区、国民の多数意見をくみ上げていることにもなっていません。
安倍、自公政権は、選挙で衆参多数派政権は選挙で信認されたので何でも出来る。と白紙委任状を貰ったかのような政権運営を強行しています。このような選挙結果、政党、政権が一強であるとした政治は正当性を持っているとはいえません。このことを明らかにしてゆくことが必要です。だからこそ、特定秘密保護法反対、原子力発電所再稼動反対、TPP交渉反対などで多く(世論調査での半数を超える反対意見)の国民が主張している声を無視することは民主主義の最低限のルールから見ても許せるものではありません。
また、民主党政権、安倍自民党政権に共通するのは政治課題の総括、検証を意識的に放棄していることです。福島第一原子力発電所事故の事故調査は政府、国会、民間調査と3つの組織、依頼者によって行われました。しかし、その調査に基づく検証、議論は行われず、たなざらしとなっています。消費税率の引き上げによる景気悪化、税収の落ち込みなども過去において二回経験しているのにも関わらず、そのことの検証、検証結果に基づく他の対応策は検討すらされていません。民主党政権、自民党政権ともに同じです。要は、大企業の経済的な要請を政治課題とするのが彼らの政治的使命であり、その要求に反することは全て切り捨てるのが彼らの政権運営の常套手段になっていることを示しています。彼らには国民利益、国民の権利擁護という思考はないことを示しています。
自民党型政治を転換する以外に解決の方法はないことを示しています。
<東京新聞社説>
「一強多弱」の政治状況です。多数決を用いれば、「一強」は何でも決められます。でも、民主主義には多数派のおごりを覆すダイナミズムもあります。
三人が昼食に行こうとしています。Aさんは和食がいいと言い、Bさんは洋食、Cさんは中華を望んでいます。決まりません。
そこで好む順番を考えました。Aさんは和食、洋食、中華の順。Bさんは洋食、中華、和食。Cさんは中華、和食、洋食の順です。好む順番にそれぞれ三点、二点、一点を与えると、和・洋・中、すべて六点の同数になってしまいます。要するに何を食べるのか、決まらないのです。
◆少数意見に意義がある
これに似た状態を「コンドルセのパラドックス(逆理)」と呼んでいます。コンドルセは十八世紀のフランスの社会学者で、数学者でもありました。哲学者のルソーと同時代を生きた人です。
昼食をめぐって、民主主義的な投票をしたわけですが、決めることができない…。でも、きっと三人は話し合って、この日の昼食を決めたことでしょう。重要なポイントは、それぞれ異なる好みや意見を持つ人たちが率直に話し合うことでしょう。民主主義のルールとは、まず第一に話し合いといえます。
国を動かす一つ一つの政策には、当然、政府とは異なる意見を持つ人々がいます。議論の過程で、少数意見を十分に尊重し、くみ上げることが肝心です。
一九四八年に旧文部省(現文部科学省)が高校生向けに出した教科書『民主主義』には、次のように書かれています。<民主主義を単なる政治のやり方だと思うのは、まちがいである。民主主義の根本はもっと深いところにある。それは、みんなの心のなかにある。すべての人間を個人として尊厳な価値をもつものとして取り扱おうとする心、それが民主主義の根本精神である>
◆「空疎」と排除するな
少数意見を押し切らず、交流しあうことが大切です。面倒であっても、熟した議論は避けられません。民主主義を多数決だと思い込んでいる人は、再考すべきです。
現在使われている教科書『現代社会』(教育出版)の中には、二つの基本原理が書かれています。一つは「全メンバーの承認に基づいて社会を結成すべきであること」、もう一つは「社会の運営にあたって、個人をとことん尊重すべきであること」です。民主主義とは、この二つを同時に実現しようとする企てなのです。
翻って、安倍晋三首相の政権運営はどうでしょう。
昨年暮れには特定秘密保護法を強行可決しました。集団的自衛権をめぐる憲法解釈の変更でも、強引に閣議決定してしまう可能性が濃厚です。そのための首相の私的諮問機関である「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」は、近いうちに報告書をまとめる予定です。でも、このメンバーは首相の「お友達」といわれる人の名前が並んでいます。
この点について、安倍首相は国会で「空疎な議論をされている方は排除している」と述べました。空疎な議論をする人とは、どんな人でしょう。おそらく反対意見を持つ人のことではないでしょうか。反対派を排除し、賛成派ばかりで構成する会議の結論は見えています。公正さも、議論の深まりも期待できないでしょう。
反対意見を「空疎」と断じる政治姿勢は民主主義的とは到底、言えません。
内閣法制局長官も、首相の意に近い人物を据えました。このような手段には、異論をはさませぬ姑息(こそく)さを覚えます。
確かに民主主義の手続きには、多数決があります。これが第二のルールでしょう。でも、多数決とは「51対49」の場合もありえます。「49」の意見を無視する冷徹な仕組みでもあるわけです。
しかも、多数派の意思決定が必ずしも正しいとは限りません。世界史を振り返っても、多数の横暴が民衆を苦しめる結果になったケースはいくらでもあります。
そのとき、持ち出すべきは、第三のルールである検証だと考えます。多数派がなぜ判断を間違えたのか、きちんと検証すべきなのです。すると、少数派だった意見が、今度は多数派を占めるダイナミックな転換を呼ぶはずです。これが民主主義の醍醐味(だいごみ)でしょう。
◆独裁に走らせぬために
英国の元首相チャーチルは、次のようなウイットに富んだ演説をしたことがあります。
<民主主義は最悪の政治形態だ。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けばだが…>
少数意見の尊重と検証のルールを怠ると、多数派は多数決を乱発し、独裁に走りかねません。