新自由主義政治経済を信奉する国家、アメリカ、イギリス、ニュージーランド、日本などが貧富の格差拡大が政治経済問題となっています。新自由主義の思想は、富めるものがより多くのもの(富、利益)を総取りすることを正しいとする思想なので当たり前の結果です。また、彼らは自らの裁量、資金、投機により得られた利益には課税することを拒否し、その利益を最大化することを当然視します。その意味では税制による格差是正、富の再分配を否定する支配層です。1%富裕層がますます富を収奪し、富を一人締めとする。
アジアの中国、韓国、インド、インドネシアなどが人口が多いこと、経済成長の対象地域になっていること、労働力が相対的に安いことなどから、アメリカ、日本、EUなどの先進工業国が生産拠点をアジア新興国に急激、大量に移してきました。それらの国の生産力、輸出金額などが拡大することで経済力が強化されてきました。その結果、当然にもそれらの国家の賃金は上昇し、労働者の所得水準が改善され、生活水準も改善されてきました。このことは一部先進工業国が繁栄し、富を収奪したことから見れば、歓迎すべきことでした。
しかし、その一方で、先進工業国の企業は、多国籍企業であり、新自由主義を行動原理を取っているので、これらの企業支配が強まれば強まるほど、先進工業国で問題となる貧富の格差拡大がそれらの国家、政治に現れる関係となっています。この問題をどう考え、それぞれの国家、政府が、対応するかが問われているのだと思います。
先進工業国で問題となる貧富の格差拡大は、社会の不安定要因を作り出し、社会秩序の破壊に行き着くことはあきらかです。また、このことは国民主権、基本的人権を脅かすところまで政治経済の腐敗が進んでいます。脱税、租税回避、消費税率引き上げなどによる国民収奪、失業率の慢性的高止まり、非正規労働者の爆発的な拡大、地球環境の汚染と破壊などです。このような事実に目を向けて、その原因を改善、解決する政治的な対応が要請されているのだと思います。
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小平は「一部の人をまず先に豊かにさせよう」と言った。小平は中国について語っていたが、アジア全体について話していてもおかしくなった。
過去20年間、アジアの大半の地域で見られた急成長は貧富の格差を拡大させた。ある開発担当の役人によると、それが中南米との「大いなる収斂」をもたらしているという。アジア開発銀行(ADB)のヴィノッド・トーマス事務局長によれば、南米や中米の多くでは格差が縮小している一方、アジアでは反対方向に向かっている。ジニ指数で測定したアジアの格差は、1990年代から2000年代にかけて毎年約1%のペースで拡大してきた。
ADBは新たな報告書で、成長が貧困削減、格差、社会福祉に与えてきた影響を調査している。報告書は、成長の原データは、国の業績を評価するうえで、もはや最重要要素としての役割を果たすべきではないと結論付けた。ADBが「成長の包括的パターン」と呼ぶものによってもたらされる「人間の福祉と生活水準の向上」というより幅広い評価尺度も同様に重要だという。
経済成長のペースに追いつかない平均的な生活水準の向上
アジア太平洋地域の国内総生産(GDP)は、1990年代には年率9%のペースで拡大し、2000年代には8.2%に減速した。だが、平均生活水準は成長ペースに追いつかなかった。1990年代には、家計消費の伸びはGDPよりはるかに鈍く、わずか5.7%だった。
その結果、GDPに占める消費の割合は地域の大部分で低下した。一般市民は、理論上は自国が生み出している富の多くを享受する機会を逃した。
確かに急成長は、1日1.25ドル以下(2005年の購買力平価ベース)で暮らすと定義されている「絶対的貧困層」を劇的に減らした。この絶望的な区分に入る人の数は、1990年代の12億3000万人から2000年代に7億9000万人に減少した。中国だけでも、絶対的貧困層の数は、1990年代の5億2000万人(人口の43%)から2000年代には2億3000万人(同17%)に減少した。
だが、1日2ドル未満で暮らすと定義されている「中程度の貧困」の減少率の記録は、それほど目覚ましいものではない。この区分に入る人の数は、はるかにゆっくりとしか減少しなかった。言い換えれば、成長の多くは、既に暮らし向きが良い人たちのところに向かい、この人たちが群れをさらに引き離すことを可能にしたということだ。
アジアの経済発展は、1960年代と1970年代にはかなり均等なものだった。それがこの数十年間で、はるかに均等でなくなった。ベトナムやフィリピン(ほとんど状況が大きく悪化しようがない)などいくつかの国では、過去10年間で格差が小さくなっている。
だが、これらの国は例外だ。中国、インド、インドネシアなど最も多くの人口を持つ国では、格差が急速に拡大している。中国では、都市部で生活する人たちと農村部に縛られている人たちの間の格差がその大きな原因だ。対照的にインドでは、都市生活者の間で格差が急速に広がっている。
また、アジア諸国は、自国が生み出した成長を十分生かしていないようにも見える。中国、インド、インドネシア、フィリピンなど、アジア諸国の約半分では、教育支出がGDP比4%足らずにとどまり、先進国の平均5.2%を下回っている。ADBは、概して保健の成果が経済パフォーマンスに後れを取っていたことも発見した。
この調査は部分的に、ADB自身に向けられたものだ。報告書は、ADBが経済成長に重点を置き過ぎ、経済発展の効果を広げることについては十分でなかったと結論付けている。だが、各国政府にとっても暗黙の教訓がある。アジアでは格差が明らかに問題であるということだ。
ピュー・リサーチ・センターの世論調査では、インド人の82%が格差を重要な問題と見なしていることが示された。タイでは、亡命中の元首相、タクシン・チナワット氏の支持者たちは、所得格差から生まれた社会的不公正感によって動かされてきた。一方、マレーシアの積極的差別の法律などの公正性を保つ試みは、また別の社会的傷口を開いている。
特にインドでは、エコノミストや政策立案者たちが長年、政府は成長を優先すべきか、それとも成長が花開ける社会的条件を改善することに注力すべきかを議論してきた。はるかに貧しいバングラデシュで健康や識字能力が改善し、女性の権利が拡大していることを示す指標は、成長だけでは人々の生活を変えるのに十分でないことを示す証拠として、インドでよく引き合いに出される。
もちろん、理想は両方が達成されることだ。可能な限り大きな成長を生み出し、そして、それが確実に最大限多くの人に最大の機会を与えるようにすることだ。これは、しばしば政府が提供するのに最も相応しい立場にある公共財――社会基盤と物的インフラ――を提供することを意味する。また、多くのアジア諸国で欠けているもの、つまり、公正で安定した税基盤を作ることを意味する。
さらにこれは、最高のコネを持っていたり、最も道徳観念が希薄だったりする人たちに便宜が与えられることがないよう、汚職や縁故資本主義を締め出すということも意味する。
一定の富を再分配することも意味するかもしれない。もっともこれは注意深く狙いを定める必要があるが。インドやインドネシアなど多くの国で好まれるような包括的な補助金は、貧困層よりも中間層や富裕層の助けになることもよくある。
もちろん、アジアの急成長は貧困削減に驚くべき効果を発揮してきた。急成長はすべての船を浮揚させた。だが、一部の船はまだ、他の船よりずっと浸水しやすいのだ。