からっ風と、繭の郷の子守唄(67)
「東日本最大の前方後円墳は、昼飯前の軽いハイキング・コース」
群馬県東南部の太田市は、自動車メーカーの城下町です。
中島飛行機が日本の航空機エンジンにおいて、高い評価を得ていたことはよく知られています。
GHQの占領政策の元、一度は解体された旧中島飛行機の6社がふたたび結集をして、
スバルの名前で知られる今日の、『富士重工』をたちあげました。
長年にわたる機械生産の歴史を持ち、数多くの部品工場を市内一円に育て上げてきた
この自動車メーカーは、太田市における工業生産の頂点でありかつ活力の源です。
満徳寺を裏手から眺めただけで再び走り出した康平のスクーターは、
そんな太田市の市街地を、快適な速度を保ったまま駆け抜けていきます。
太田市はまた、長い距離の直線道路をいくつも有している街です。
最長距離を誇る県道2号線は、太田市と伊勢崎市の間、20kmを一度も曲がることなく、
直線のまま、両市の中心部までを繋いでいます。
市街地を経て南北へ伸びる主要な道路や、東西方向へ走り抜けていく主な国道や県道もまた、
それぞれに長い直線を保ったまま、次の目的地までを伸びていきます。
市街地の商店街を抜けると、水田の光景が広がってきます。
東部浅草線・大田駅から、隣接する足利市へまっすぐに伸びる県道を10分も走ると
前方右手に、落葉樹に覆われた丘陵と林の様子が見えてきます。
そこが康平が目指している次の目的地、東日本で最大級をほこる前方後円墳の
『太田天神山古墳』です。
墳丘と呼ばれる人工の山は、長さが210メートル。高さは、17メートル。
ぐるりと周囲に広がっている水田は、丘を造る際に土を掘り取った濠(ほり)の名残です。
5世紀前半に造られたもので、住宅地に取り囲まれたまま、今だにその原型をとどめています。
群馬県は、3世紀の中頃から6世紀末まで続いた古墳時代を通じ、
東国でも有数と言われる古墳群を生み出しています。
出土品には一級品が目白押しです。朝鮮半島からもたらされた物なども多く見られ、
かつてはこの地が、古代日本文化における東の中心の一つであったことを物語っています。
太田天神山古墳は、その代表的な存在です。
平面の形は、ヤマト政権中枢の古市古墳群(大阪府羽曳野市・他)で考案された
最新の設計を忠実に採用しています。
棺(ひつぎ)には6枚の加工石を組み合わせた、長持形石棺が用いられています。
この棺は、ヤマトの大王のほか突出した有力者のみに許されたものだと言われています。
中央から石工が派遣され、製作をされた格式高い王者の棺と称されています。
駐車スペースへスクーターを停めた康平が、『歩くよ』と千尋を振り返ります。
『え!』と驚く千尋を尻目に、康平が雑木林の隙間に見えている細い散策の道を指し示します。
後円部を麓から見上げると墳高17m の高さは、まるで見上げるばかりの丘そのものの様子があります。
『あらぁ突然に、もの凄い高さが・・・いきなり、意識が遠のきかけるような、そんな光景です』
ヘルメットを脱ぎながら、千尋が感嘆ともため息ともつかない声を漏らします。
「遠くから眺めるだけかと思ったら、散策の小道が有って、古墳の上を歩けるの?
聞いたことがありません。間違ってバチなどが当たらないかしら」
「大丈夫だよ。管理をしている太田市の教育委員会も認めている、立派な散策の小道だ。
おいで、ほら。途中まで手をひいてあげるから」
康平が、後円部の登り口で千尋へ手を差し伸べます。
素直に頷いた千尋が、差し出された手に応え、しっかりと握り返します。
1500年あまりもの風雨に耐え、原形を崩さないまま保ててきたのは、巨大さゆえとも言われています。
後円部を墳頂近くまで登っていくと表土が雨に洗い流されているためか、
葺石(ふきいし)が露出をはじめてきます。
葺石は、主に古墳時代の墳墓の遺骸埋葬施設や、墳丘を覆う外部施設を守るために使われました。
墳丘の斜面に河原石や礫石(れきいし)を積み、貼りつけるように葺いたものが葺石です。
これらは再現されたものではなく、積まれたときの当時の姿でそのままに残っています。
「1500年前に人の手によって敷き詰められたものが、いまだに残っているなんて凄い。
ということは、私は今、1500年の歴史の上に居ることになる!」
足元を見つめながら、千尋がおそるおそる歩みをすすめています。
後円部の墳頂から麓を見下ろすと、その高さを実感すると共に、これが人の手によって
築かれたという事実に対して軽い驚嘆さえも覚えます。
「ここが前方後円墳のお尻の部分にあたります。
ここから前方部分までは、尾根伝いに散策の小道が続いています。
登りはここまでですから、もうこの手は離してもいいでしょう。ちょっぴり名残惜しいけど」
「じゃあ、今度は私が。」
と言うなり、千尋が康平の右手へ自分の腕を通します。
「せっかくですもの。こうして1500年前の風情を2人で楽しみましょう」
後円部の頂きから前方部をみても、鬱蒼と茂っている樹木のために見通しはほとんど利きません。
さすがに200mを超える大きさだ・・・と巨大さを思わず実感します。
生えている木は殆どがブナなどの落葉樹ばかりで、冬場になれば見通しが良くなるかも知れません。
カブトムシやクワガタなどが沢山いそうな様子に、思わず康平の目が童心へと帰ります。
前方後円墳には、3つの連なる築段があります。
中央部分にあたる2つ目の築段は、祭殿の場とされ、多くの埴輪などが立ち並んだはずの区域です。
比較的平坦に変わるために歩き易くなります。木立のあいだからかつては濠としても使われ、
外郭の形がそのまま残る水田の様子なども、少しずつ見えるようになってきます。
息を切らし軽く汗ばんだ千尋が、ようやく終点となる最前部の頂きに立ちました。
頂上でくるりと振り返り、自分がつけてきたはずの尾根の足あとの様子などを、
背伸びをしなが、ちょっぴりまぶしそうに見つめています。
「たかが200mの距離なのに、されど200mの距離です。
古墳の上を自分の足で歩くなんて、私の生まれて初めての体験になりました。
感動とともに、太古への畏敬の念に、ドキドキと心が駆られています」
「ここ天神山古墳の被葬者は、
毛の国(群馬県)を支配した、最後の覇者と言われています。
事実これ以降、太田市からは巨大な規模を誇る前方後円墳は、すべて姿を消してしまいます。
これ以降は、大きさも半分以下に縮小され、勢力が急激に衰退したことを如実に示し始めます。
その原因については学者たちが研究中ですが、強大になりすぎた毛の国にたいし、
ヤマト朝廷が規制と干渉を強めた結果、衰退が始まったという見方が強いようです。」
「ヤマト朝廷に対抗をできるような、強大な大国が此処へ有ったという意味なのですか?」
「全盛期の頃には、群馬県のほぼ全てを制圧し、
さらに栃木県の鬼怒川以西まで、その支配権をひろげたとさえ言われています。
東北地方を制圧するための拠点として、巨大な軍事施設と役所もここに建てられました。
最近の発掘調査によれば、すぐ西の地域で、周囲を濠に囲まれた100m四方の兵舎跡も出てきました。
東山道の整備などにより、ヤマトの勢力が陸路を使ってやってきたと考えられていましたが、
大河の流れを利用して、船による大軍団がここへやってきたということが
最近の研究で、明らかになってきました」
・「新田さらだ館」は、
日本の食と農業の安心と安全な未来を語る、地域発のホームページです
http://saradakann.xsrv.jp/
「東日本最大の前方後円墳は、昼飯前の軽いハイキング・コース」
群馬県東南部の太田市は、自動車メーカーの城下町です。
中島飛行機が日本の航空機エンジンにおいて、高い評価を得ていたことはよく知られています。
GHQの占領政策の元、一度は解体された旧中島飛行機の6社がふたたび結集をして、
スバルの名前で知られる今日の、『富士重工』をたちあげました。
長年にわたる機械生産の歴史を持ち、数多くの部品工場を市内一円に育て上げてきた
この自動車メーカーは、太田市における工業生産の頂点でありかつ活力の源です。
満徳寺を裏手から眺めただけで再び走り出した康平のスクーターは、
そんな太田市の市街地を、快適な速度を保ったまま駆け抜けていきます。
太田市はまた、長い距離の直線道路をいくつも有している街です。
最長距離を誇る県道2号線は、太田市と伊勢崎市の間、20kmを一度も曲がることなく、
直線のまま、両市の中心部までを繋いでいます。
市街地を経て南北へ伸びる主要な道路や、東西方向へ走り抜けていく主な国道や県道もまた、
それぞれに長い直線を保ったまま、次の目的地までを伸びていきます。
市街地の商店街を抜けると、水田の光景が広がってきます。
東部浅草線・大田駅から、隣接する足利市へまっすぐに伸びる県道を10分も走ると
前方右手に、落葉樹に覆われた丘陵と林の様子が見えてきます。
そこが康平が目指している次の目的地、東日本で最大級をほこる前方後円墳の
『太田天神山古墳』です。
墳丘と呼ばれる人工の山は、長さが210メートル。高さは、17メートル。
ぐるりと周囲に広がっている水田は、丘を造る際に土を掘り取った濠(ほり)の名残です。
5世紀前半に造られたもので、住宅地に取り囲まれたまま、今だにその原型をとどめています。
群馬県は、3世紀の中頃から6世紀末まで続いた古墳時代を通じ、
東国でも有数と言われる古墳群を生み出しています。
出土品には一級品が目白押しです。朝鮮半島からもたらされた物なども多く見られ、
かつてはこの地が、古代日本文化における東の中心の一つであったことを物語っています。
太田天神山古墳は、その代表的な存在です。
平面の形は、ヤマト政権中枢の古市古墳群(大阪府羽曳野市・他)で考案された
最新の設計を忠実に採用しています。
棺(ひつぎ)には6枚の加工石を組み合わせた、長持形石棺が用いられています。
この棺は、ヤマトの大王のほか突出した有力者のみに許されたものだと言われています。
中央から石工が派遣され、製作をされた格式高い王者の棺と称されています。
駐車スペースへスクーターを停めた康平が、『歩くよ』と千尋を振り返ります。
『え!』と驚く千尋を尻目に、康平が雑木林の隙間に見えている細い散策の道を指し示します。
後円部を麓から見上げると墳高17m の高さは、まるで見上げるばかりの丘そのものの様子があります。
『あらぁ突然に、もの凄い高さが・・・いきなり、意識が遠のきかけるような、そんな光景です』
ヘルメットを脱ぎながら、千尋が感嘆ともため息ともつかない声を漏らします。
「遠くから眺めるだけかと思ったら、散策の小道が有って、古墳の上を歩けるの?
聞いたことがありません。間違ってバチなどが当たらないかしら」
「大丈夫だよ。管理をしている太田市の教育委員会も認めている、立派な散策の小道だ。
おいで、ほら。途中まで手をひいてあげるから」
康平が、後円部の登り口で千尋へ手を差し伸べます。
素直に頷いた千尋が、差し出された手に応え、しっかりと握り返します。
1500年あまりもの風雨に耐え、原形を崩さないまま保ててきたのは、巨大さゆえとも言われています。
後円部を墳頂近くまで登っていくと表土が雨に洗い流されているためか、
葺石(ふきいし)が露出をはじめてきます。
葺石は、主に古墳時代の墳墓の遺骸埋葬施設や、墳丘を覆う外部施設を守るために使われました。
墳丘の斜面に河原石や礫石(れきいし)を積み、貼りつけるように葺いたものが葺石です。
これらは再現されたものではなく、積まれたときの当時の姿でそのままに残っています。
「1500年前に人の手によって敷き詰められたものが、いまだに残っているなんて凄い。
ということは、私は今、1500年の歴史の上に居ることになる!」
足元を見つめながら、千尋がおそるおそる歩みをすすめています。
後円部の墳頂から麓を見下ろすと、その高さを実感すると共に、これが人の手によって
築かれたという事実に対して軽い驚嘆さえも覚えます。
「ここが前方後円墳のお尻の部分にあたります。
ここから前方部分までは、尾根伝いに散策の小道が続いています。
登りはここまでですから、もうこの手は離してもいいでしょう。ちょっぴり名残惜しいけど」
「じゃあ、今度は私が。」
と言うなり、千尋が康平の右手へ自分の腕を通します。
「せっかくですもの。こうして1500年前の風情を2人で楽しみましょう」
後円部の頂きから前方部をみても、鬱蒼と茂っている樹木のために見通しはほとんど利きません。
さすがに200mを超える大きさだ・・・と巨大さを思わず実感します。
生えている木は殆どがブナなどの落葉樹ばかりで、冬場になれば見通しが良くなるかも知れません。
カブトムシやクワガタなどが沢山いそうな様子に、思わず康平の目が童心へと帰ります。
前方後円墳には、3つの連なる築段があります。
中央部分にあたる2つ目の築段は、祭殿の場とされ、多くの埴輪などが立ち並んだはずの区域です。
比較的平坦に変わるために歩き易くなります。木立のあいだからかつては濠としても使われ、
外郭の形がそのまま残る水田の様子なども、少しずつ見えるようになってきます。
息を切らし軽く汗ばんだ千尋が、ようやく終点となる最前部の頂きに立ちました。
頂上でくるりと振り返り、自分がつけてきたはずの尾根の足あとの様子などを、
背伸びをしなが、ちょっぴりまぶしそうに見つめています。
「たかが200mの距離なのに、されど200mの距離です。
古墳の上を自分の足で歩くなんて、私の生まれて初めての体験になりました。
感動とともに、太古への畏敬の念に、ドキドキと心が駆られています」
「ここ天神山古墳の被葬者は、
毛の国(群馬県)を支配した、最後の覇者と言われています。
事実これ以降、太田市からは巨大な規模を誇る前方後円墳は、すべて姿を消してしまいます。
これ以降は、大きさも半分以下に縮小され、勢力が急激に衰退したことを如実に示し始めます。
その原因については学者たちが研究中ですが、強大になりすぎた毛の国にたいし、
ヤマト朝廷が規制と干渉を強めた結果、衰退が始まったという見方が強いようです。」
「ヤマト朝廷に対抗をできるような、強大な大国が此処へ有ったという意味なのですか?」
「全盛期の頃には、群馬県のほぼ全てを制圧し、
さらに栃木県の鬼怒川以西まで、その支配権をひろげたとさえ言われています。
東北地方を制圧するための拠点として、巨大な軍事施設と役所もここに建てられました。
最近の発掘調査によれば、すぐ西の地域で、周囲を濠に囲まれた100m四方の兵舎跡も出てきました。
東山道の整備などにより、ヤマトの勢力が陸路を使ってやってきたと考えられていましたが、
大河の流れを利用して、船による大軍団がここへやってきたということが
最近の研究で、明らかになってきました」
・「新田さらだ館」は、
日本の食と農業の安心と安全な未来を語る、地域発のホームページです
http://saradakann.xsrv.jp/