落合順平 作品集

現代小説の部屋。

からっ風と、繭の郷の子守唄(67)  

2013-08-26 09:32:48 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(67)  
「東日本最大の前方後円墳は、昼飯前の軽いハイキング・コース」



 群馬県東南部の太田市は、自動車メーカーの城下町です。
中島飛行機が日本の航空機エンジンにおいて、高い評価を得ていたことはよく知られています。
GHQの占領政策の元、一度は解体された旧中島飛行機の6社がふたたび結集をして、
スバルの名前で知られる今日の、『富士重工』をたちあげました。
長年にわたる機械生産の歴史を持ち、数多くの部品工場を市内一円に育て上げてきた
この自動車メーカーは、太田市における工業生産の頂点でありかつ活力の源です。


 満徳寺を裏手から眺めただけで再び走り出した康平のスクーターは、
そんな太田市の市街地を、快適な速度を保ったまま駆け抜けていきます。
太田市はまた、長い距離の直線道路をいくつも有している街です。
最長距離を誇る県道2号線は、太田市と伊勢崎市の間、20kmを一度も曲がることなく、
直線のまま、両市の中心部までを繋いでいます。
市街地を経て南北へ伸びる主要な道路や、東西方向へ走り抜けていく主な国道や県道もまた、
それぞれに長い直線を保ったまま、次の目的地までを伸びていきます。


 市街地の商店街を抜けると、水田の光景が広がってきます。
東部浅草線・大田駅から、隣接する足利市へまっすぐに伸びる県道を10分も走ると
前方右手に、落葉樹に覆われた丘陵と林の様子が見えてきます。
そこが康平が目指している次の目的地、東日本で最大級をほこる前方後円墳の
『太田天神山古墳』です。



 墳丘と呼ばれる人工の山は、長さが210メートル。高さは、17メートル。
ぐるりと周囲に広がっている水田は、丘を造る際に土を掘り取った濠(ほり)の名残です。
5世紀前半に造られたもので、住宅地に取り囲まれたまま、今だにその原型をとどめています。


 群馬県は、3世紀の中頃から6世紀末まで続いた古墳時代を通じ、
東国でも有数と言われる古墳群を生み出しています。
出土品には一級品が目白押しです。朝鮮半島からもたらされた物なども多く見られ、
かつてはこの地が、古代日本文化における東の中心の一つであったことを物語っています。



 太田天神山古墳は、その代表的な存在です。
平面の形は、ヤマト政権中枢の古市古墳群(大阪府羽曳野市・他)で考案された
最新の設計を忠実に採用しています。
棺(ひつぎ)には6枚の加工石を組み合わせた、長持形石棺が用いられています。
この棺は、ヤマトの大王のほか突出した有力者のみに許されたものだと言われています。
中央から石工が派遣され、製作をされた格式高い王者の棺と称されています。


 駐車スペースへスクーターを停めた康平が、『歩くよ』と千尋を振り返ります。
『え!』と驚く千尋を尻目に、康平が雑木林の隙間に見えている細い散策の道を指し示します。
後円部を麓から見上げると墳高17m の高さは、まるで見上げるばかりの丘そのものの様子があります。
『あらぁ突然に、もの凄い高さが・・・いきなり、意識が遠のきかけるような、そんな光景です』
ヘルメットを脱ぎながら、千尋が感嘆ともため息ともつかない声を漏らします。




 「遠くから眺めるだけかと思ったら、散策の小道が有って、古墳の上を歩けるの?
 聞いたことがありません。間違ってバチなどが当たらないかしら」


 「大丈夫だよ。管理をしている太田市の教育委員会も認めている、立派な散策の小道だ。
 おいで、ほら。途中まで手をひいてあげるから」


 康平が、後円部の登り口で千尋へ手を差し伸べます。
素直に頷いた千尋が、差し出された手に応え、しっかりと握り返します。
1500年あまりもの風雨に耐え、原形を崩さないまま保ててきたのは、巨大さゆえとも言われています。
後円部を墳頂近くまで登っていくと表土が雨に洗い流されているためか、
葺石(ふきいし)が露出をはじめてきます。
葺石は、主に古墳時代の墳墓の遺骸埋葬施設や、墳丘を覆う外部施設を守るために使われました。
墳丘の斜面に河原石や礫石(れきいし)を積み、貼りつけるように葺いたものが葺石です。
これらは再現されたものではなく、積まれたときの当時の姿でそのままに残っています。


 「1500年前に人の手によって敷き詰められたものが、いまだに残っているなんて凄い。
 ということは、私は今、1500年の歴史の上に居ることになる!」


 足元を見つめながら、千尋がおそるおそる歩みをすすめています。
後円部の墳頂から麓を見下ろすと、その高さを実感すると共に、これが人の手によって
築かれたという事実に対して軽い驚嘆さえも覚えます。


 「ここが前方後円墳のお尻の部分にあたります。
 ここから前方部分までは、尾根伝いに散策の小道が続いています。
 登りはここまでですから、もうこの手は離してもいいでしょう。ちょっぴり名残惜しいけど」



 「じゃあ、今度は私が。」


 と言うなり、千尋が康平の右手へ自分の腕を通します。

 「せっかくですもの。こうして1500年前の風情を2人で楽しみましょう」



 後円部の頂きから前方部をみても、鬱蒼と茂っている樹木のために見通しはほとんど利きません。
さすがに200mを超える大きさだ・・・と巨大さを思わず実感します。
生えている木は殆どがブナなどの落葉樹ばかりで、冬場になれば見通しが良くなるかも知れません。
カブトムシやクワガタなどが沢山いそうな様子に、思わず康平の目が童心へと帰ります。


 前方後円墳には、3つの連なる築段があります。
中央部分にあたる2つ目の築段は、祭殿の場とされ、多くの埴輪などが立ち並んだはずの区域です。
比較的平坦に変わるために歩き易くなります。木立のあいだからかつては濠としても使われ、
外郭の形がそのまま残る水田の様子なども、少しずつ見えるようになってきます。

 息を切らし軽く汗ばんだ千尋が、ようやく終点となる最前部の頂きに立ちました。
頂上でくるりと振り返り、自分がつけてきたはずの尾根の足あとの様子などを、
背伸びをしなが、ちょっぴりまぶしそうに見つめています。


 「たかが200mの距離なのに、されど200mの距離です。
 古墳の上を自分の足で歩くなんて、私の生まれて初めての体験になりました。
 感動とともに、太古への畏敬の念に、ドキドキと心が駆られています」


 「ここ天神山古墳の被葬者は、
 毛の国(群馬県)を支配した、最後の覇者と言われています。
 事実これ以降、太田市からは巨大な規模を誇る前方後円墳は、すべて姿を消してしまいます。
 これ以降は、大きさも半分以下に縮小され、勢力が急激に衰退したことを如実に示し始めます。
 その原因については学者たちが研究中ですが、強大になりすぎた毛の国にたいし、
 ヤマト朝廷が規制と干渉を強めた結果、衰退が始まったという見方が強いようです。」


 「ヤマト朝廷に対抗をできるような、強大な大国が此処へ有ったという意味なのですか?」


 「全盛期の頃には、群馬県のほぼ全てを制圧し、
 さらに栃木県の鬼怒川以西まで、その支配権をひろげたとさえ言われています。
 東北地方を制圧するための拠点として、巨大な軍事施設と役所もここに建てられました。
 最近の発掘調査によれば、すぐ西の地域で、周囲を濠に囲まれた100m四方の兵舎跡も出てきました。
 東山道の整備などにより、ヤマトの勢力が陸路を使ってやってきたと考えられていましたが、
 大河の流れを利用して、船による大軍団がここへやってきたということが
 最近の研究で、明らかになってきました」




  
・「新田さらだ館」は、
日本の食と農業の安心と安全な未来を語る、地域発のホームページです
 http://saradakann.xsrv.jp/

からっ風と、繭の郷の子守唄(66) 

2013-08-25 10:57:26 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(66) 
「悠久の流れを見せる利根川と、対岸にある縁切り寺の満徳寺」



 観光ガイドの渋沢老人と別れを告げ、
田島邸まで戻ってきたふたりは、ぴたりと寄り添ったままスクーターへ乗り込みます。
ゆっくりと島村の集落を走り、利根川の堰堤上まで登ってきたのは午前11時の少し前です。
アンツーカーの色に舗装をされた自転車用の専用路面が、堤防上を川に沿ってどこまでも伸びています。


 「利根川を下り途中から江戸川を行けば、東京ディズニーリゾートまで約170km。
 直進をしていけば、太平洋へ出て行く銚子の河口部まで、ほぼ180km。
 ここは東日本でも有数の規模を誇る、サイクリング・ロードです」


 下流方向を指差しながら、康平が千尋へ説明します。
中流域のこのあたりになると、利根川の川幅はゆうに500メートルを越えはじめます。
川幅がさらに一層の広がりを見せていく下流の領域では、河川敷内に作られた
多くのゴルフ場が次々と現れてきます。


 「実に雄大で、悠久と言える壮大な流れですね。
 暴れ坂東と呼ばれているそうですが、ここへ住んでいる島村の人たちは、
 気性の荒いこの川と辛抱強く寄り添いながら、気候と風土を活かして
 長年にわたる養蚕業に取り組んできました。
 この広くて平坦で肥沃な大地と、この美しい風景の中から群馬を代表する蚕と繭が育まれ、
 絹が織りされてきたのかと思うと、なぜか全身が震えます。
 この空気。この大地。この風の匂い。悠々と流れていく果てしないこの川の流れが、
 私の五感の隅々までに心地の良い、刺激などを与えてくれます・・・・
 ここまで来て本当に良かった。私は一生、この風景と風の匂いは忘れません」


 「風の匂い?」

 「水があり、緑があり、黒い大地が広がるところには、必ず健康な風が吹きわたります。
 いいえ、私自身が何故かそういう匂いを風の中に感じます。
 今日の私の心の中にも、いつもの香りの、爽やかな風が心地よく吹きわたっています」


 なるほど・・・と、康平が目を細め、あらためて周囲を眺め回しています。
雄大な流れを見せる利根川は人が走るよりもはるかに早い速度で、かぎりない水の量を
ごうごうとした勢いのまま下流へ、ひたすら押し流していきます。
初夏の日差しを受けて艶やかに光る青いネギの畑は、風に揺れるうねりの連なりを、
どこまでも果てしなく見せてくれています。
所々に見える養蚕農家のやぐらの上では、今日も30度を越えようという太陽が、
青みがかった屋根瓦をジリジリと焼きながら、真南の天空へさしかかろうとしています。


 「さてと。君のお弁当を食べるにはまだ時間が少々早すぎるようだ。
 古墳時代と言われている4世紀から6世紀にかけて、時の大和朝廷が大船団を仕立てて
 この悠久の流れをさかのぼってきた、という可能性が最近になって発表をされた。
 その証拠のひとつとして、東日本最大の前方後円墳がこの近くにある。
 どうだい。足を伸ばして見学に行ってみないかい?」


 「あら、蚕種の歴史のあとには、古代史の探訪がはじまるの?。
 いいわねぇ。悠久の大地には、さらなる奥深い悠久の歴史が潜んでいるわけね。
 いいわ、行きましょう。その前方・・・・なんとかへ」


 「前方後円墳。
 もちろん君には、最高のとっておきのサプライズもついている。
 B級グルメで町おこしが盛んになっている今の時代、太田もその例外ではない。
 これから行く前方後円墳の街は、実はB級グルメ『焼きそば』の町だ。
 しかも立地的に見ると、そこは君があれほど食べたいと騒いでいた、
 『焼きまんじゅう』の伊勢崎市と、背中を接した地点になる」


 「どちらも一緒に食べられる可能性が有る。ということになるわけですね!」


 「察しが早い。さすが食いしん坊を自慢するだけのことはあります。
 どちらもB級グルメで場所が隣接していれば、同時にどちらも提供をしてくれる
 名物店は、いくらでも存在しています。
 古墳の散歩で腹を減らしてから、その名物店でお待ちかねの食事をしましょう。
 どうします。?後半戦は、そのような日程でもいいですか?」


 「申し分のないナイスな申し出です。
 B級グルメの競演なら、食いしん坊の私にはまたとないサプライズです。
 嬉しい限りです。もう、どこへとなりに着いてまいります。うふっ」


 康平が、堤防に沿いながら下流への道をはしります。
サイクリング・ロードよりは低い位置にあるものの、それでも遠景は充分なほどに望めます。
数軒の集落を点々と見せながら、平地にはどこまでも野菜の畑を広がっています。
背伸びをすれば、サイクリング・ロード越しに川の流れと、はるかな対岸の景色も望めます。
ゆるやかに走るスクータの後部座席では、康平の両肩へ手を置いたままの千尋が、
大地と川の流れの景色を左右交互に楽しんでいます。



 下流に見えていた赤い橋は、あっという間に近づいてきました。
本線へ戻った康平が、軽くアクセルを開けるとスクーターが突然の突進を見せます。
バランスを崩し後方へ置いていかれそうになった千尋が、あわてて康平の腰へ両手を回します。
「こらっ。暴走族!」。千尋が康平のヘルメットを叩く頃、すでにスクーターは
長い赤い橋の中間地点をはるかに超えていました。
速度を緩め、元通りの運転に戻ったスクーターは対岸上の土手を走り始めます。
堤防越しには、緑の芝が敷き詰められた県営の河川敷ゴルフ場が見えてきました。
やがて前方左側方向へ、大きな木々に取り囲まれた寺院の青い瓦屋根が、夏の日差しに
鈍い照り返しを見せているのが見えてきました。



 「あそこに見えてきたのは、縁切寺の満徳寺。
 江戸幕府をひらいた徳川家のゆかりの寺で、かつてこの一帯を収めていたのは
 新田一族の新田義季(よしすえ)だ。
 利根川の北部一帯を開墾して徳川と名づけたことが、徳川という姓の発祥になった。
 満徳寺は娘の浄念尼(じょうねんに)によって開かれた、尼寺だ。
 江戸時代の鎌倉の東慶寺とともに、世界で2つしか存在しなかった縁切寺のひとつだよ。
 有名な三くだり半(離縁状)も、展示されている。
 どうする? 見学でもしていくかい」


 「パス!。」


 「うん。きっと君はそう言うだろうと、俺も思っていた。
 付き合い始めた途端に、三行半では、洒落にもならないものがある。
 とりあえず満徳寺の裏に、お気に入りの自動販売機があるんだ。
 そこで軽く喉を潤そう」

 「ややっこしい場所が、お気に入りのようです。
 わかりました。三くだり半に興味はありませんが、私も喉は乾いています。
 先ほどの道路表示に徳川と矢印がありましたが、このあたり一帯が
 徳川と呼ばれる地域なのですか」


 「利根川の北岸から、群馬と栃木を横切って流れる渡良瀬川の南岸までの一帯が
 新田義貞で知られる新田一族の支配地です。
 元々が広大な湿地で、その多くが開墾によって田んぼに改良されました。
 利根川の流域に近いこのあたりが、新田義季によって開発されたもので、
 世良田という地もふくめて、この一帯が徳川家発祥の地とされています」


 「では、家康の孫娘で千姫ゆかりの寺は、ここのことを指すのですか?」



 「その通り。満徳寺が縁切寺としての特権を持つようになったのは、
 徳川家康の孫娘、千姫にかかわった由緒が起源です。
 千姫は、豊臣秀頼に嫁いだものの大坂城の落城後、豊臣家とは縁を切り、
 本多家へ再嫁するため、満徳寺に一時的に入寺したと伝えられています。
 江戸時代では、一度嫁いだ女性はたとえ夫との間に不和が生じて実家へ戻っても、
 夫からの離縁状がなければ、再婚することはできません。
 離婚を求めて駆け込んできた妻たちを救済し、夫との離婚を達成させたのが縁切寺です。
 入寺後に25ヶ月間を寺で生活すると、夫に三くだり半(離縁状)を書くように
 要求できたと言われています」


 「着きました」と、康平が満徳寺の裏手でスクーターを停めます。
たくさんの自販機が並ぶ一角は、まるで大型専門の駐車場といえるような広さを備えています。
観光バスから降りた女性の一団が、道路を渡って満徳寺へ向かう最中の姿も見えます。


 「団体さんで、駆け込み寺へ三くだり半の申請に行くのかしら。うふふ」

 「君も言うねぇ。
 いまどきのご婦人たちに、昔懐かしい三くだり半など必要があるものか。
 此処は義理と人情が篤く、雷と、からっ風と、かかあ天下が名物の国、上州だぜ。
 三行半が無くても、男のほうが先に追い出されちまう」




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からっ風と、繭の郷の子守唄(65) 

2013-08-24 10:03:03 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(65) 
「人が人を呼ぶ、そう語るのは島村の観光ガイドの老農家」



 養蚕で栄えてきた島村の歴史は、利根川の氾濫との長い闘いの歴史でもあります。
島村は、1385年(元中2年)に、開村されたという記録が残っています。
1661年(寛文1年)。利根川が村の東西を貫流したために、集落が南北に分断をされました。
利根川は、1680年における大洪水での被害をはじめ、村の記録に残っているだけでも
30数回におよぶ氾濫の歴史を、この地で繰り返してきました。
記憶に新しいところでは平成10年にも、利根川による洪水が発生をしています。


 こうしたなか、1800年(寛政12年)に栗原勘平衛と、他の12戸により、
蚕種製造を盛んにするという初めての記述が、島村の歴史の中へ登場をしています。
1822年。今日の島村の繁栄の基礎を築いたと言われる田島弥平が、この地で生まれています。
太平洋戦争が始まった1941年(昭和16年)。有志による『島村蚕種共同施設組合』が結成され、
県内外へ、活発に蚕種が販売されるようになります。
昭和を通じて幾多の繁栄を経験した後、1988年(昭和63年)に、島村蚕種組合が解散します。
島村の蚕種業はこの年で終わりを告げ、島村蚕種組合の跡地の約1haには、
住宅団地が造成されることに決まりました。


 「20数年前に島村の建物たちは、すでにその役割を終えていたのね。
 群馬県の蚕ばかりか日本中の養蚕業を長いあいだにわたって、縁の下から支えてきたんだもの。
 こころの底から『ご苦労さん』と、褒めてあげたいわねぇ・・・・」


 「最近は、そう言ってくれるお客さんがずいぶんと増えてきた。
 官営の富岡製糸場を中心に世界遺産へ登録をしょうという取り組みが
 活発化をしてきたので、その恩恵のおかげじゃろう。
 蚕種で栄えてきた島村も一度見ておきたいと、足を運んできてくれているようだ。
 ありがたいことだ。
 ところであんたかのう。京都から来たという美人の糸とりさんは」


 突然、千尋と康平の背後から、一人の老人が声をかけてきました。
驚いて振り返る康平の脇で、すっかりと恋人気分に浸っていた千尋が、悪戯を見つけられた
子供のように、あわてて康平の腕を離し、顔を真っ赤にしてうつむいてしまいます。



 「別に照れることもないだろう。
 男女が仲良くすることは美しいことじゃ。先ほど田島の奥さんから電話が入ってのう、
 暇が有るなら、これからそちらへ行く若いふたりを案内してやってくれと頼まれた。
 わしは見た通りの年寄りだ。暇ならば持て余すほどにたっぷりとあるわい。
 どれと思って出かけてはきたものの、わしの前を歩いているのはいちゃいちゃの新婚さんだけだ。
 あんた達だろうと思って後ろを着いてきたが、いつまで経ってもキリがなさそうなので、
 つい、わしの方から声をかけてしもうた」


 「もしかして、島村の観光ガイドをなさっているお方ですか?」


 「おう。悪いか。こんな年寄りが島村の観光ガイドなんぞをして。
 手に持っているこの道具は、むかし蚕種を入れるために実際に使っておった道具じゃ。
 あれこれと昔の建物の説明などもしてやるが、俺の話の大半は
 蚕種を作っていた頃の昔話が専門だ。
 わしの案内が必要か、必要でないのか、どちらかはっきりせい。
 熱々の新婚などを見ていると、わしが入る込む隙間もありゃせんわい」


 (いいえ、わたしたちはまだ・・・・)と言いかける千尋を康平が目で止めます。


 「光栄です。実際にこちらで蚕種を作っていた方から話を聞けるなんて、滅多にないことです。
 喜んでガイドをお願いします。教えてください、昔のことを色々と」

 「ほう。旦那の方が聞き分けが良いとみえる。
 じぁ、わしの屋敷へ案内をするから、その道々、ぼちぼちと話でもしていこう。
 悪かったのう。仲の良いところへ突然、邪魔などをして」



 老人から見えないところで、千尋がペロッと長い舌を出しています。
「こら。」と叱る康平へ、「うふっ」とまた、千尋が甘えたように腕をとり寄りかかってきます。
「私たち、今日は新婚旅行の途中です。うふふ」と千尋が言えば、


 「今時の新婚旅行なんぞと言うものは、スクータであちこち巡るのか。
 わしらの若いころは、汽車で、熱海へ新婚旅行に行くというのが大流行りをしおった。
 分からんもんだのう。今時の若い者たちのすることは。あっはっは。
 さて、やぐらが2つ乗っているが母屋が見えてきたであろう。それがわしの屋敷だ」



 案内をされたのは黒塗りの大きな門がそびえ、日本庭園が屋敷内に広がっている建物です。
手入れの行き届いた庭は、かつておおいに流行をした和風庭園風の造りそのもので、
池を中心にして築山がそびえ、三波石で知られる庭石などが随所に配置をされていて、
ところどこに石の灯篭までそびえています。


 「富と財力の象徴として、和風の庭を造ることは昭和という時代の流行でした。
 それにしても、実によく手入れが行き届いていますねぇ。
 たいしたものです。こういう管理の良い庭を見るのは、実に久々です」



 「ほう。その歳で庭がわかるとはたいしたもんじゃ。
 金にまかせて日本庭園などを作ってはみたものの、時とともに樹木は大きく育つし
 やたらとあちこちで、雑草なども生えてくる。
 毎日が草むしりと、木の手入れに追われる羽目になる。
 だがな、こうした繁栄をもたらしてくれたのは、実はわしの力ではなく親父の力だ。
 親父の蚕種の技術は、今でも誇れるものだったと堅く信じておる。
 それほどまでに確かな技術と誇りが、この島村の地には確かに息づいて定着をしておった」



 渋沢と名乗った観光ガイドの老人は、父親である栄吉氏の仕事を受け継ぎ、
稚蚕飼育専門で長年にわたって暮らしてきた、蚕種の農家です。
委託された蚕種を2眠まで育てる仕事をしてきました。
温度調節の管理や桑のやり方など、養蚕をする上で、もっとも難しいとされるのが稚蚕です。
蚕が眠りに入る時機をぴったりと合わせたうえに、蚕を丈夫に育てなければなりません。


  稚蚕の発育が悪ければ出荷した養蚕農家に、多大な影響を及ぼします。
それだけに、仕事は常に慎重にかつ丁寧に行わなければなりません。
稚蚕の仕事を始める前には家の中を全てきれいに磨き上げ、清潔な状態で作業にかかります。



 「うちの蚕でうまくいかなければ、1軒の養蚕農家を駄目にしちゃうこともある。
 夜も眠れないとはよく言ったもので、天候不順のときは夜中でも温度調節に忙しかった。
 自分が寝ていたせいで、蚕が起きてこなかったのでは後で困るからのう。
 最初のころは、蚕種800グラムから面倒をみはじめた。
 だんだんと拡大をしていき、最盛期には3000グラムまでを手掛けた。
 春蚕(はるご)、夏、初秋、晩秋、晩々秋と年に5回。
 島村地区では1番遅くまで、1970年代の半ばまでわしは稚蚕を続けてきた。
 仕事の師匠は、常に親父だった。
 あれこれ教わった訳ではなく、一緒に仕事をしているうちにだんだんと覚えたもんだ。
 分からないことを聞けば、必ず的確な答えが返ってきた。
 病気で体が弱ってからも、聞きに行くとうれしがって丁寧に教えてくれた。
 いろいろとアドバイスもしてくれた。雨が続いた時の桑のくれ方を聞いたら、
 『梅雨っ桑なんか怖がることはない。空気の流れをよくして、防寒紙は外してやれって。
 そうすれば、絶対大丈夫だって』。親父の言うことはいつも正しかった。
 怒鳴られたり、さんざんこき使われたりしたけど、難しい技術もいつの間にか身に付いた。
 これが、親の持っている『ありがたさ』というやつかな」


  親父さんは出荷した先の養蚕農家を見て回り、飼育上のアドバイスもしてきたと言います。
渋沢さん自身もその方法を同じように踏襲し、稚蚕農家の仲間と時機を見ては農家を回ってきました。


 「自分の蚕に最後まで責任を持つ姿を見せたから、農家からも信頼された。
 おやじは『欲をかいちゃ駄目だ。力の8割でやれ。1000グラムできても800グラムで止めろ』
 と常に言い続けてきた。
 言われたことを守ったからこそ、養蚕農家にもいい蚕を届けられんだと思う。
 おやじは、本当に蚕の仕事が好きだったんだ」

 と、懐かしそうに、ガイドの渋沢老人が目をほそめています。




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からっ風と、繭の郷の子守唄(64) 

2013-08-23 10:24:12 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(64) 
「やぐらの有る建物が林立する路地道を、腕を組んで歩くふたり」




 「スクーターは置いて、歩いたほうが見て回りやすい。
 15分もあればすべて見て歩ける集落だから、そのほうが勝手も良い。
 なにしろ明治のはじめに形が作られた田舎の集落だ。道路もろくすっぽ整備されていない。
 まぁ。桑畑の中に突如として次々と建てられてきたのだから、
 それもまた、まったく無理のない話だ」


 と笑う田島邸のご当主に見送られ、康平と千尋が周囲の散策のために歩き出します。
センターラインの無い4mそこそこの舗装された農道は、まっすぐ南へ向かって伸びたあと、
突然T字路の突き当りとなり、前方は一面の野菜畑に変わってしまいます。
 
 「じゃあ、この辺の路地道から探索と行くか」



 畑以外には何もないことを確認した康平が、ひょいと脇道へ逸れていきます。
鬱蒼とそびえる大きな風よけ用の生垣を抜けていくと、いっぺんにふたりの目の前が開けました。
開けた視界からは左右同時にやぐらがそびえている農家の、巨大な母屋が二人の目に飛び込んできます。
右側に見えたのは明治維新の翌年、1869年に建てられたという母屋です。
「凄い・・・・」とスキップでもするかのように、後方から追いついてきた千尋が突然康平の右腕を取ると
有無を言わせず、恋人たちのようにからみついてしまいます。


 「なんとまぁ・・・・大胆だねぇ。君は」と康平が振り返っても、「うふっ」と笑うだけで、
軽くスキップを続けながら、千尋が上機嫌のままに斜め前方へ出ます。


 出現をした母屋の間口は22メートル。奥行きは13メートルの総2階建て。
屋根の頂には、島村の養蚕農家の象徴ともいえる「やぐら」と呼ばれる小窓が3つ見え、
蚕種を取る目的のために造られた『清涼育』式の母屋です。


 「2階の上には、幅10センチほどの板が、
 45センチほどの間隔で、すのこのように張られた『3階』がある。
 そこから、はしごで上にあるやぐらまで上り、窓を開けられる構造になっている。
 3階には、桑かごなどの養蚕道具などを収納していたそうだ。
 2階は広いので小学生のころは、近所の友達と追いかけっこや鬼ごっこ、
 隠れんぼなどをして遊んだと言う」


 「あら、詳しいのね。 
 道理で話が長いと思ったら、バイクの他にもいろいろと情報を仕入れてきたようです。
 なかなかやるじゃないの。もと赤城山最速の暴走族は」


 「君も五六から、余計な情報を仕入れてきたようだね。
 もう30歳になる。昔のような暴走行為などするもんか、命がいくつあっても足りない」


 「10年前に台湾の極上ワインを載せて、赤城で最速のタイムを叩き出したと聞きました。
 しかもワインをほとんどこぼさずに、なめらかに滑るように走り抜けたと賞賛までしていました。
 美人で超ナイスバディなんですって・・・・その台湾産のワインの方は」

 「あのやろう・・・・余計なことまで喋りやがって」


 「スクーターのバックシートって、もう少し怖いかと思い実は内心は緊張していました。
 シートの感触の良さと柔らかいクッションに驚きましたが、
 それ以上に、安定感のあるスムーズな運転ぶりにちょっぴりと、あなたに感動すらを覚えました。
 4輪のドライブにも劣らない快適性と、開放感のある走行は、やみつきになりそうです。
 それにフォルツァというスクーターも、とってもお洒落で素敵です。
 いっぺんにスクーターという乗り物が、大好きになってしまいました」



 (ついでに、あなたも)と言いかけた千尋が、あわてて言葉を呑み込みます。



 「さきほどの話しの続きを聞かせてくださいな。
 田島邸の趣とは異なり、こちらは屋根の上には、やぐらが3つ載っています。
 それにしても大きいですね。田島邸から比べてもひとまわり以上も大きく見えます」


 「毎年、4月下旬になると今まで使っていた南側の1番日当たりの良い部屋を
 稚蚕の飼育室にするために明け渡すそうです。
 蚕の季節になると、ほとんどの部屋が蚕室として使われます。
 年寄りは動かなくていいように離れで暮らしますが、ほかの家の者は『おろし』という
 下屋の1部屋に移って生活をします。
 家自体が蚕を飼育するための工場で、人間は蚕のいないときに
 蚕室を使っているような暮らし方をしています。
 当時の農家は、現金収入の大半を、こうして養蚕に頼ってきました。


 蚕種を取るための原蚕飼育は特に難しく、技術によって当たりと外れが発生をします。
 当たりを目指して、昔は家族全員が協力するのは当然のことでした。
 この農家の当主が物心がついた昭和10年代の頃、
 ここには、1年を通して桑園の手入れをする3、4人もの番頭さんがいたそうです。
 蚕が家にいるようになると、臨時雇いの人たちも含めると
 20人ぐらいの人たちが働くようになって、とてもにぎやかになったと言います。
 大正時代の半ばに、鉄板と鉄製の棒で、一度補強をしているそうです。
 大工さんは、雨さえ漏らなければこの先、100年は大丈夫と太鼓判を押したそうです。


  島村は、できるだけ自然に任せる養蚕の飼育法「清涼育」を説いた技術書
 「養蚕新論」を著した田島弥平(1822―98年)を生んだ土地です。
 やぐらは、同書の指導に基づいて、蚕室の通気を良くするために設けられたもので、
 島村地区にはやぐらを設けた養蚕農家の、70棟が現在でも残っています。
 しかし後継者がいなくなったり、老朽化のため、ここ数年は急激に姿を消しはじめています。
 屋根の改修の際に、やぐらを撤去する農家もあるようですが、
 こちらでは3つ有るやぐらを、あえてそのまま外観として残したそうです。
 2つは内部から閉めたそうですが、1つにはサッシ戸を入れ、
 今でも開けられるようになっています。
 過去には絶対に必要だったやぐらも、今の生活にはまったく必要ありません。
 でもやぐらを取ってしまったら、島村の養蚕農家ではなくなってしまいます。
 『生きている間は、このままの形で残しておきたい』と、ほとんどの人が心から思っているのです。
 その想いの中にこそ島村で生まれ育った人たちの、共通の誇りがにじんでいると思います」



 「私も、その通りだと思います。
 建物の維持管理は大変でしょうが、かけがえのない文化の名残です。
 100年を超えて生き残ってきたものたちです。
 すべてを残して欲しいとは言いませんが、主だったものだけでも、
 未来の子供たちに見せてあげたいと思います。
 シルクの織物が何世紀も超えて生き続けるように、繭や蚕を育て上げてきた
 この建物たちも、同じように未来永劫に残してあげたいと思います。
 でもそれには、膨大な費用もかかるし、人手もいります。
 かつての文化や伝統を守り抜くということは、実は多くの人々の献身的な努力を必要とします。
 よくぞここまで残したものだという遺跡や建物たちには、かならず、
 必死で守り抜いた、多くの人たちの努力の姿が刻まれています。
 がんばれ、島村。がんばれ千尋って。
 そんな声が私には、ふと、どこからか聞こえてくるような気もします。
 やっぱりよかった。ここへきて。(あなたをもっと好きになってしまいそう、うふっ)」



 左右に、はるかな高さを持つまるで目隠しのような生垣が現れてきました。
かつての日本建築や日本の庭づくりに、なくてはならない機能を果たしてきたのが生垣の存在です。
防風や防火、隣家や通行人からの目隠し、あるいは景観をつくり、庭の中の仕切りなどの
役割を果たしてきた大きな生垣が、やぐらのある建物の1階部分を隠しはじめました。
右側を覆っているサザンカは、秋から冬へかけて蕾と、可愛い花を咲かせます。
北側にあたる左側のサンゴジュは、大型に育つ生垣で、葉の色と赤い実が長いあいだ楽しめます。



 周囲からの視界が消えたとき、千尋がそれまで抱きしめていた康平の右手へ、
ふと身体全体で寄り添い、ゆるやかに重みまで傾けてきました。
それを受け止めた康平も、応えるように、そっと千尋の肩へ手を回します。



 

・「新田さらだ館」は、
日本の食と農業の安心と安全な未来を語る、地域発のホームページです
 http://saradakann.xsrv.jp/

からっ風と、繭の郷の子守唄(63)

2013-08-22 10:24:02 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(63)
「シルクに魅せられた千尋が語る、インド旅行の想い出」



 「折角のご縁です。
 私はこの家にとついだものの、家業にはつかずそのまま教師生活を続けてまいりました。
 残念ながら蚕種や養蚕に関しては、いまだに素人同然の身です。
 できればそんな私に、座ぐり糸作家のあなたの話を少し聞かせてください。
 お若い方が、この時代にわざわざ糸を紡ぐなんて、興味深々です」


 奥さんからそう問われた千尋が、自分の生い立ちについて語りはじめます。
和歌山県の海沿いの小さな町に生まれた千尋は、18歳で京都・嵯峨野にある美術学校へ進学をします。
卒業旅行も兼ねた友人たちとのインドの旅行が、千尋へ最初といえる『絹』の衝撃をもたらします。
とても手触りの良いインドシルクと呼ばれる、一枚のスカーフとの出会いが、
後になり、やがて千尋の運命を大きく変えることになります。



 「インドは28の州と、7つの連邦直轄地域に分かれています。
 州は、言語の違いなどで線が引かれています。
 大きな州はヨーロッパのいくつかの国や、日本よりもはるかに大きいものです。
 連邦直轄地域は、州よりも小さく、あるときは単にひとつの市だけの場合もあります。
 インド産のシルクと、インドに出回るシルク製品のほとんどが北部にある
 バラナシという地方で生産をされています。
 私はそこで、原始の繭を使って生産をする、貴重な絹の『野蚕糸』と出会いました。
 『ムガサンシルク』と呼ばれ、インド北東部のアッサム地方にのみ生息する
 ヤママユガ科のムンガ蚕が吐く糸で作られるものです。
 淡い褐色の繭は繰糸後に美しい黄金色に変わるので、『ゴールデン・シルク』や
 『ゴールド・ムンガ』などと呼ばれています。


 日本とは異なり、バナナや麦わらの灰汁を入れて煮繭します。
 繰糸する工程を経て着物生地として完成するまでの全工程を、すべて現地で生産しています。
 そのため、生産量はごく少量に限られます。
 シルクといえば白い洗練された絹糸などをイメージしますが、
 家蚕(養蚕)によって作られた絹糸とは異なり、野蚕糸は繭の大きさや色もさまざまで、
 同じものを大量に生産することはできません。
 それゆえに、個性的なことはもちろん、大変に付加価値の高い織物になります。
 蚕の種類と食べ物や季節によっても、様々な色と風合いが生まれます。


 ムガサンシルクは主にモクレンの葉を食べ、
 アクの強い春の葉を食べて育った繭は茶色系の『ゴールド・ムンガ』、
 アクの弱い秋の葉を食べた繭は白い『プラチナ・ムンガ』と呼ばれる野蚕糸を紡ぎだします。
 ケヤキや栗、樫、クヌギやブナなどの新芽を食べる蚕から生産される
 『ギッチャーシルク』は、大型で色は褐色がかっています。
 インド野蚕の大きさは、日本で飼われている蚕の1,5倍ほどの大きさになります。
 日本の蚕が普通4~5g程度なのに対し、インド野蚕は6g以上になるものさえあります。
 大人の着物を1着作るのに必要な和服地の量を、1反と言います。
 日本の蚕の場合、一反の絹織物をつくるのには約2700頭の蚕が必要となりますが、
 インド野蚕では、2000頭前後で一反の生地が作れます。

 
 インドシルクに衝撃を受けた私は、日本に戻ってから絹について学びはじめました。
 イラストかグラフイックの世界へ進むはずでしたが、卒業を直前にして何故か、
 京都の街中にある反物屋さんと呉服屋さん巡りを始めてしまいました。
 たまたま一軒の呉服屋さんに声をかけてもらい。そこへの就職が決まったことが、
 今日の、糸紡ぎの世界へ入るきっかけになりました。

 国内一の繭と生糸を生産している群馬県へ注目をするようなるまで、
 それほどの時間はかかりませんでした。
 インターネットで『座ぐり糸養成講座』という募集を見つけた瞬間から、
 私の糸を紡ぐ人生が、この群馬県で始まりました。


 群馬県内の各地にある、かつての養蚕業の繁栄ぶりの今に伝えるたくさんの施設や
 遺跡などをこうして見て回っているのも、私の5感で群馬の生糸を直接に感じてみたいからです。
 私は、私の5感で糸を紡ぎたいと心から願っています。
 将来的には小さな工房を持ち、自らの手で桑を育て蚕を育てて糸を紡ぎたいと考えています。
 私はその夢を実現するために、こうして群馬へやってきました」




 「もう、その夢は実現しはじめているようですね。
 あなたのその輝やいている瞳は、希望に満ちていて、とても素敵だと思います。
 まだ、いらしたのですねぇ。これほどまでに情熱的に糸を紡ぐ女性が、この群馬にも。
 では住所などをお教えしますので、後ほどに私の実家を訪ねて見てください。
 そこでは母がいまだに細々と『赤城の糸』を紡いでおります。
 実は噂で聞いていたのですが、あなたのことでしょう?
 赤城の山麓を駆け回りながら、『赤城の糸』を紡ぐ女性たちを探し回り、
 黄金の糸を吐く『群馬黄金』の蚕を飼い始めたという、小さな頑張り屋さんという
 座ぐり糸の作家さんは」


 意表を突かれたために、千尋の目が思わず点に変わります。
そんな千尋を見つめながら『驚くにあたりません』と、奥さんが目を細めて笑います。


 「広い勢多郡の一帯ですが、私の母も含め、
 節のある赤城の糸を紡いでいるのは、もう、おそらく10人とは残っていないでしょう。
 赤城山の麓で、昔ながらの道具を用いて、丹念に手引きをされるのが座繰りの糸です。
 かつては、日本全国のどこの養蚕農家で見られたというこの風習も時代とともに衰退し、
 今では、赤城の山麓に僅かに残るのみと聞いています。
 高速回転で糸を巻き取る機械製糸とは異なり、糸の様子を見ながら
 人の手で無理なく糸を引き出すために、糸自体が傷まずに、
 繭本来の光沢を損なわない出来上がりになると、そう言われているそうです。
 空気を含くんだふんわりとした軽い弾力があり、引く人のそれぞれの個性を表すような
 表情豊かな糸が生まれてくると、いつも母が語っておりました。


 父が養蚕をいまだに続けているのも、そんな母の
 背中姿へ、なにやらの愛着などを感じているせいかもしれません。
 父も母もそのようにして70年以上の人生を、蚕と繭一筋に生きてきたのですから。
 京都から糸を引くために女の子がやって来たという話は、もう赤城では有名な話です。
 ましてや興味や趣味ではなく、生業として取り組もうというのですから、
 糸をひく女たちからして見れば、まさに女神の降臨にも近いと思われる出来事でしょう。
 あなたが最初に戸口から土間を覗いたときに、ピンときました。
 2階の蚕室をお見せした時のあの真剣な表情に、間違いがないと確信をいたしました。
 こう見えても私は、島村の遺跡を紹介するボランティアガイドのひとりです。
 ただし、お蚕などの経験は一切ありませんので、耳学問だけのにわかガイドです。


 そうですか。
 あなたは、5感で感じて糸を紡ぐのですか。
 いい表現だと思いますし、実際にその通りだと思います。
 私の母も、自然のままに、いつも楽しそうに糸を紡いでおりました。
 カラカラとまわる糸車の音は、わたしへの子守唄のような響きさえありました。
 途絶えると思われていた古い伝統が、こうしてこんな形で引き継がれることも有るのですね。
 まさに奇跡に近い出来事ですが、それは島村のやぐらを持つ農家とて同じことです。
 未来へ向かって残したいものを、地道に支えてながら後世へバトンタッチをしていく・・・・
 そのあたりに、島村に生きる私たちの使命がありそうです。
 あなたに会えて発奮しましたので、もう少し私も、真面目にガイドの勉強をしようと思います。
 あなたと会えてよかった。今日はわざわざ、ありがとうございます。
 あら、あちらのほうでも、長いバイク談義が終えたようです。
 旦那様かしら? 用が済んだから次へ行くぞと、あなたを呼んでいるような様子です。
 ふふふ・・・まったく男の人というものは、常に、自分勝手で短気ですね。
 またお越し下さいな。ふたたび会える日を楽しみにしております」




 奥さんの丁寧なお辞儀に見送られ、千尋が母屋から表へ出ます。
初夏の燦々とした日差しを受けて、屋根一面に敷き詰められた本瓦が、まぶしく、
青黒い照り返しなどを見せています。
康平はすでに門の外に立ち、除草用の道具を手にしたままのご当主と、
残りの会話などを楽しんでいます。


 優良な蚕種を何世代にもわたって育て上げ、
大いに隆盛を誇ってきたやぐらを持った建物たちが、その役割をすでに終焉させても、、
今日もまた、同じ一日が島村の養蚕農家群では始まろうとしています。
『あら、まだ午前10時を過ぎたばかりです!』腕時計を覗き込んだ千尋が、
意外なほどゆっくりとすすんでいる時間の展開に、すこしばかり戸惑いなどを感じています。




 
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