オヤジたちの白球(1) 謎の美人客
話は、10年前にさかのぼる。
織物の町として知られる群馬県桐生市の北西部に、日暮れとともに
呑んだくれが集まる居酒屋がある。
街の中心部からかなり離れた山の裾。ポツンと一軒だけたつ小さな居酒屋。
春になり田圃に水が満たされると、カエルがうるさく鳴きはじめる。
真夏になると、ホタルが飛び交う。
近くにあるホタルの里から迷い出たホタルたちだ。
赤い提灯につられて、ここまで飛んでくる。
桐生市は、関東平野北限の町。
市街地のはずれから、山地がたちあがる。
山容は低いが里山ではない。すすむにつれて標高を増していく。
栃木県、福島県と越え、岩手県を経て、青森まで連なっていく山脈がここからはじまる。
店主の名前は、片柳 祐介。
いまは独身。ことしで50歳になる。
居酒屋をはじめて、今年で5年目。
美人で愛想のよかった奥さんは3年前、ふいの病気でこの世をさった。
奥さんが亡くなって以降。店の中で閑古鳥が鳴きはじめた。
5人が座れるカウンターと、小上がりに6人が掛けられる大き目のテーブルが2つ。
それでも客の消えた店内は、閑散として広すぎる。
『そろそろ閉め時かな・・・この店も』それがひとり残された祐介の口癖。
そんな居酒屋が、ある日を境に復活をとげる。
復活の原因は、ふらりと不定期にふらりとあらわれるひとりの美人客。
歳の頃なら40前後。色白。額に前髪が揺れている。
この美人客が何処へ住み、どんな暮らしをしているのか、誰も知らない。
いつなら出会えるのか。誰も見当がつかない。
ふらりとあらわれるこの美人客と行き逢えるだけで、幸運なのだ。
噂が噂を呼び、酒と女が大好きな男たちが集まるようになった。
今夜もふらりとあらわれる美人客を目当てに、呑んべぇたちが集まって来る。
「今日あたり(たぶん)あらわれるだろう」と、とぐろを巻く。
のれんが揺れた。女があらわれた。
(お・・・)軽いどよめきが、呑んべぃどもの間を走り過ぎていく。
いつものように女が、カウンターへ腰をおろす。
1杯目に出てくるのは、東北の純米酒。
薄く切られたカボスが2片。ゆらゆらとコップの中で揺れている。
「おいしい・・・」
女が目を細めて静かに酒を飲む。コップの酒が半分ほどに減った頃。
季節の食材をつかった小鉢が、3品並ぶ。
「どうぞ」と出される2杯目の酒に、厚めに切られたすだちが浮かんでいる。
2杯の純米酒と3つの小鉢。これでいつものように一時間。
「ご馳走様、お愛想をお願いします」女がいつものように立ち上がる。
この瞬間が、男たちの出番になる。
「今日は俺が!」すかさず、あちこちから声が出る。
優先権が有る。女性のとなりに座ることができた幸運な飲んべェが、金を出す。
「悪いわ。それじゃ」いつものように、女がほほ笑む。
それもまた、毎度のことだ。
「いいってことよ。お安い御用だ。また来いよ。いつでもおごってやるから」
上機嫌ののんべェに見送られ、女が店から出ていく。
時間はいつもとまったく同じ、午後の8時15分。
「横から見ても絵になる。だがよ、後ろ姿もたまらねぇなぁ。
そそるねぇ。あの背中は・・・」
ガラスの向こうへ消えていく女を惜しむように、店のあちこちから
男たちのため息がもれる。
「おい。おまえら。女のあとをつけるんじゃないぞ。
野暮な詮索はやめときな。
いまから店を出ていく奴は、ひとり3万円の勘定を払ってもらう。
ほうっておけ。またそのうちに顔を出す」
(謎の美女か。何者か、正体がわからねぇから余計に気にかかる。
だがよ。住んでいる場所や、暮らしぶりが露呈してみろ。
とたんに夢から覚めたような心地になる。
それにしてもいい女だ。
俺がもっと若けりゃたぶん、まっさきに、惚れていただろうな・・・)
女のグラスを片付けながら、祐介がポツリとつぶやく。
(2)へ、つづく
落合順平 作品館はこちら
話は、10年前にさかのぼる。
織物の町として知られる群馬県桐生市の北西部に、日暮れとともに
呑んだくれが集まる居酒屋がある。
街の中心部からかなり離れた山の裾。ポツンと一軒だけたつ小さな居酒屋。
春になり田圃に水が満たされると、カエルがうるさく鳴きはじめる。
真夏になると、ホタルが飛び交う。
近くにあるホタルの里から迷い出たホタルたちだ。
赤い提灯につられて、ここまで飛んでくる。
桐生市は、関東平野北限の町。
市街地のはずれから、山地がたちあがる。
山容は低いが里山ではない。すすむにつれて標高を増していく。
栃木県、福島県と越え、岩手県を経て、青森まで連なっていく山脈がここからはじまる。
店主の名前は、片柳 祐介。
いまは独身。ことしで50歳になる。
居酒屋をはじめて、今年で5年目。
美人で愛想のよかった奥さんは3年前、ふいの病気でこの世をさった。
奥さんが亡くなって以降。店の中で閑古鳥が鳴きはじめた。
5人が座れるカウンターと、小上がりに6人が掛けられる大き目のテーブルが2つ。
それでも客の消えた店内は、閑散として広すぎる。
『そろそろ閉め時かな・・・この店も』それがひとり残された祐介の口癖。
そんな居酒屋が、ある日を境に復活をとげる。
復活の原因は、ふらりと不定期にふらりとあらわれるひとりの美人客。
歳の頃なら40前後。色白。額に前髪が揺れている。
この美人客が何処へ住み、どんな暮らしをしているのか、誰も知らない。
いつなら出会えるのか。誰も見当がつかない。
ふらりとあらわれるこの美人客と行き逢えるだけで、幸運なのだ。
噂が噂を呼び、酒と女が大好きな男たちが集まるようになった。
今夜もふらりとあらわれる美人客を目当てに、呑んべぇたちが集まって来る。
「今日あたり(たぶん)あらわれるだろう」と、とぐろを巻く。
のれんが揺れた。女があらわれた。
(お・・・)軽いどよめきが、呑んべぃどもの間を走り過ぎていく。
いつものように女が、カウンターへ腰をおろす。
1杯目に出てくるのは、東北の純米酒。
薄く切られたカボスが2片。ゆらゆらとコップの中で揺れている。
「おいしい・・・」
女が目を細めて静かに酒を飲む。コップの酒が半分ほどに減った頃。
季節の食材をつかった小鉢が、3品並ぶ。
「どうぞ」と出される2杯目の酒に、厚めに切られたすだちが浮かんでいる。
2杯の純米酒と3つの小鉢。これでいつものように一時間。
「ご馳走様、お愛想をお願いします」女がいつものように立ち上がる。
この瞬間が、男たちの出番になる。
「今日は俺が!」すかさず、あちこちから声が出る。
優先権が有る。女性のとなりに座ることができた幸運な飲んべェが、金を出す。
「悪いわ。それじゃ」いつものように、女がほほ笑む。
それもまた、毎度のことだ。
「いいってことよ。お安い御用だ。また来いよ。いつでもおごってやるから」
上機嫌ののんべェに見送られ、女が店から出ていく。
時間はいつもとまったく同じ、午後の8時15分。
「横から見ても絵になる。だがよ、後ろ姿もたまらねぇなぁ。
そそるねぇ。あの背中は・・・」
ガラスの向こうへ消えていく女を惜しむように、店のあちこちから
男たちのため息がもれる。
「おい。おまえら。女のあとをつけるんじゃないぞ。
野暮な詮索はやめときな。
いまから店を出ていく奴は、ひとり3万円の勘定を払ってもらう。
ほうっておけ。またそのうちに顔を出す」
(謎の美女か。何者か、正体がわからねぇから余計に気にかかる。
だがよ。住んでいる場所や、暮らしぶりが露呈してみろ。
とたんに夢から覚めたような心地になる。
それにしてもいい女だ。
俺がもっと若けりゃたぶん、まっさきに、惚れていただろうな・・・)
女のグラスを片付けながら、祐介がポツリとつぶやく。
(2)へ、つづく
落合順平 作品館はこちら