きっと、いいことあるよね!

母(sake)と息子(keke)の日々の記録。
お出かけ写真と料理など。

「怒らないで生きるには」/アルボムッレ・スマナサーラさん&しりあがり寿さん

2016-09-04 | 読んだ本
「怒らないで生きるには」/アルボムッレ・スマナサーラさん&しりあがり寿さん

これは図書館でたまたま手に取った本です。返却棚にありました。
これは衝撃的な本で、今まで何冊も感想を書いてきましたが、これはいろんな方にぜひぜひ読んでいただきたい、そして感想をうかがいたいと思う本である。

まず衝撃的なのが、冒頭のマンガ。

1人の女の子がほしかったケーキが売切れてしまって、お母さんに怒る。そこからお母さんが店の主に怒り、主がバイトの女の子に怒り・・・・次々に怒りが連鎖していって、ネットのたくさんの悪口や、怒りの政治デモ、最後には国同士が怒りあい戦争に至る・・・という内容である。

「怒らないで生きるには」


後半は、このマンガを描いた、しりあがりさんが、こちらのアルボムッレさんに「怒ることって何ですか?」「どうすれば怒らないでいられますか?」という質問をしていき、アルボムッレさんがそれに回答するという形式を取っている。あっという間(というと大袈裟ですが)に読めてしまう本である。

こちらのアルボムッレさんはスリランカの上座仏教長老という偉い方のようである。
「怒らなければならない事は何も無い!」と断言している人である。例えば、子供を殺された親御さんについても、「それでも怒ることはない」と言い、アメリカの9.11テロで息子を殺された母親で、テロへの報復に反対する活動をしていた人がいることを評価している。自分の息子は殺されてしまったが、テロへの報復の侵攻は自分と同じ悲しみを更に増やすことになると考えたのだろう。

正義なんて状況によって幾らでも変化する。
正義のための怒りや報復は(どのような場合でも)間違っている。

その考えが1冊に渡って語られているのである。

私は個人的に、自分が幼稚園時代にクラス中から嫌われていたので、最近よくある学校のイジメ事件が大嫌いだ。よってたかってグループで、1人の人間を追い詰めるような人間は二度とシャバに出られなくてもいいと思っていた。でも、そういう彼らでもやはりどこかで「事情」はあるに違いない。

幼稚園時代にいじめられたことや、家から出て行った元夫など、「こんなの許せない!」と思っていた人間が、今までの人生で何人かいたのだが、彼が加害者で自分が被害者なのかはもはや言い切れない。というのは、自分だって言い逃れのできない加害者になることもあるからと身にしみて分かったのだ。

もちろん法や罰則は必要である。
でもその上で、それが終わった時みんなで過去の事を問わない、上から目線にならない、「またもう1度やりなおそう」と言う気持で受け入れることは大切なことだと考えた。

そして冒頭のマンガでは、バイトの女の子が家に帰ってきて同棲している彼氏が仕事を探さないことに逆切れして怒っている場面が書いてある。その様子が、息子が働かないことに怒っている過去の自分とそっくりで恥ずかしいを通り越して悲しくなってきた。

私は数年前までこうして、息子を怒鳴り続けてきた。
働くこと、仕事を探すことが正論だとばかりに、上から怒鳴りつけてきたのだ。(過去のブログを見ればご覧の通りである)
自分は正しいことを言っている。間違っているのはkekeだ。
どんなに怒っても正しいと思ってきた。

でも、ちっとも正しくなかった。


この本では「怒ること」と単純に書かれているが、私はそれだけでなく「正論を通すこと」全てに該当すると思う。
スポーツや成績で勝ち負けや順位ができるのは当たり前。それがないと人は成長できないから。
でも負けても、「あ、これでは負けたけれど、他の面では否定しない」と言う考え方は大切である。仕事をしてないという一面があっても、そこでその人全てを否定することは浅はかなのである。むしろそこでその人全てを否定できる方が疎かなのではなかろうか。

このお坊さんは、今のアメリカのテロ報復や核兵器の維持をはっきり否定している。正義と言う報復は間違っているというのである。

私は中国や韓国が好きでないので、中国産のものはなるべく買わないし、韓国の音楽やドラマは見なかった。(皮肉にも仲の良い友達は好きな人が多いけれども)
でも、政治的な問題で全てを否定するのも正しいとは言えない。彼らは彼らの事情もあるのだろう。

本当の世界平和になるためには「怒る」とか「正義でやりかえす」とか「正しさを主張する」と言う方法では無いのかもしれない。私は割りと安倍さんよりなので、尖閣諸島も竹島も自己主張していいのではないかと考えていた。

でもその考え方は「世界平和」と言う意味では遠ざかってしまうのかもしれない。憲法9条を守るという考え方に一律の不安を持ってきたが、どこかの国がどこかの民族がそれを本当に正しいと思うのなら、体を張って命をかけて、それを世界にアピールするという考え方もあるかもしれないなぁ、と思う。
自分達は何もなくなってしまうけれど、もしかしたらその事で、それから後の世界の考え方は変わるかもしれないね。
「自分はこれを欲しい」と言う気持を持ち続けたままで、人に何かをアピールするのは説得力が欠けている。

そんなことを思った本でした!

amazonでの感想はこちらにあります。

ちなみにこの本を読んで、身近のある人のあの普段の怒りようはどうだろう?と言う思いがフツフツ沸いてきた。
でも、その人も怒らなければいられない事情があるのだろう。

私達ができることは、それを受け入れつつも、自分をほがらかにして、ほがらかな気持を周りにも伝染させて、いつかあの人がもっとほがらかな人に変われるように・・・時間を掛けて願っていくことだと思う。(少しイヤミ?)



8 コメント

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こんにちは (kao)
2016-09-04 16:53:09
素敵な本ですね。
テロで子供を殺されても
テロではやり返さない・。
すごいお母さんだと思いました・。
それに、私も病気で仕事が一時
中断しているのを非常に恥じてしまいますが、。
しょうがない事情もあるのではないか、
自分で自分を追い詰めているのではないかと
思いました。その本、私も読んでみたいです。
図書館に今度行ったときにリクエストしてみますね。
ありがとうございました^^!!
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>kaoさん (sake)
2016-09-04 17:09:01
そうですね!
これは仏教の偉い方が言われている言葉を文字に起こしたようです。怒らないで済む方法は「慈愛」を持つことだとか?

この本、お勧めですが、マンガの絵が怖くてキョーレツであまり好きになれません。ドキドキしてしまうような絵柄なんです。
なので、目次を見てマンガは省いてそのあとから読んだ方がいいかもしれません。

そうですよ。kaoさんは働ける時は働いていましたもの。むしろ大変な時間帯に働いていましたよね。
今、お休みしているのはそれでいいと神様仏様が言われているのだと思います。^^無理な時はゆっくりされて良いのではないでしょうか。

kekeもこれから仕事をすることになりました。
時期が来れば、そういう風に自然に道はできてくるもののようですね。
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この、スマナサーラさんの本は、この本では (takaちゃん)
2016-09-04 22:35:17
無いですが図書館で見たことがある気がします。
仏教法話的な感じの本もたくさん書いておられる様ですね。
一読の価値ありのようですから、私も探してみます。
ちょっと違うかもしれませんが、非暴力、不服従のマハトマ.ガンジーの思想に、何か根底には、思想的流れが通じるところがあるように、
思うのですが、先ずは読んでみなければです。
本を読むと言うことは、人生の糧ともなり、ほんとうに良いことですね。
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>takaさん (sake)
2016-09-05 06:39:26
そうなんです。
非暴力・不服従のガンジーさんと少し似ているような気がします。でもこの本はガンジーさんも取り上げて「私とは少し違います」と言われているんです。ガンジーさんは仏教徒ではないのでやり方を誤り敵を作ってしまい、やがては殺されてしまうそうですが、本当の仏教徒は人から憎まれるようなことはしないと書かれてました。
でも、それはかなり細かいことで、私は似ているなーと両方とも素敵だなと思っています。(^_^;)

私が一番驚いたのは、「正義な怒りはない」というところ。ベッキーさんや高畑さんやちょっとした事件、正義の剣で怒りや報復でネットで祭り上げられるようなこと。それの行為も正しくは無いというのを読んで、ホッとしたんです。
追い詰めるという意味では戦争にも似ているのではないでしょうか。ベッキーさんなんて仕事もいっぱい無くしてしまったでしょう。私があの人を弁護するのはおこがましいですが、でも違う立場でも同じように考えたような気がします。世間が騒がなくたっていずれツケは回ってくるでしょうに、騒いで干して不幸にしなければ気がすまない心は何なのでしょう。
でもそう言う人もかつての(旦那に不倫されて離婚した)自分と同じように心の闇や事情があるのだと思います。自分も当時はそうだったし。
だからこの本を読んで、とりあえず自分は人を攻撃しないようにしようと思ったんです。

私もまた違うこの方の本を借りてみます!(^o^)
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こんばんは♪ (みみ)
2016-09-05 18:38:53
なるほどね~

それでも「怒り」が生きる原動力になる場合もあると私は思ってしまいます。

じゃないとあの時(調停)私は壊れていたかも?
「怒り」と「子どもとの生活を守る!」だけが当時の生きる原動力になっていた気がします。

今は大抵の事は笑って流せているかな 私。
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>みみさん (sake)
2016-09-05 23:41:02
たしかに!怒りがなければ、私は宅建の勉強もできなかったかも。
そうですね、怒りと子供の生活を守る!だけが原動力。ほんとにそうですよね。

若いうちはやはり怒りも奮起に変わりますね。
そう言えば年をとっていくと、だんだん丸くなってきて、今だから怒らないなんて言えるのかもしれませんね。

仏教では「無視」が一番の辛らつな態度だそうです。
私も悪い所はあったけれど・・・やはりあの人とは別れてよかったと思います。
無視するようでは意思疎通は計れないものね。
振り返ると、やっぱりこれでよかったかなぁ~
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話題の提供がお見事です。 (アリス)
2016-09-07 04:54:44
いつもながらSake-sanのブログは考えさせられることが多いですね。勝手な言い分をコメントします。


まず最初に、世界には70億人の人が居て、100か国以上の人間が存在します。また、教育とは宗教と同じで、殆どの人々がこの影響を受けています。


しかし、その基本となる宗教は殆ど間違っていると理解した方が良いと考えます。理由は、同じ宗教の中でも多数の宗派があります。いったいキリスト教には幾つの宗派があるのか?全ての宗教は同じです。


代表的な宗教は1位.キリスト教(世界人口の約32%)2位.イスラム教(世界人口の約23%)3位.ヒンドゥー教(世界人口の約15%)4位.仏教(世界人口の約7%)とある様です。詳細はこれ➡http://lifenoblog.com/life/religion-number/


それでは、正義とは何かと考えた場合に、この宗教を基本としたものの考え方がそれぞれ違いますので、真の正義などはこの世に存在しない事になります。これは、ほぼ正しいと考えた方良いのでは?


逆に言うと、子供の頃から学校で学ぶ内容が、全く世界では一致していない事です。また、間違った教育も存在します。例えば、現在でも正々堂々と核兵器を保持しこれを権力に世界の国に暴力と圧力で制圧している事が現実社会にはあります。


従って、同じ教育と、同じ環境の中で、価値観を同じにしている国は存在しない事だろうと思います。世界でトップのキリスト教信者の国も堂々と戦争をしています。また、それが正義だと考えているからだろうと思います。この正義は間違っています。殆どが綺麗事を言うが実行していない。


従って、何を言いたいかといえば、基本的な考え方が違う人間は、正義というものに近づこうと読書したり、経験したり、宗教を読みふけるなどの努力をしている人が居ます。しかし、そんなものに興味の無い国及び国民も存在する。だから、戦争は必ず存在する。


怒りとは何かと考え見ても、この世に誕生してから一度も怒ったことがない人を聞いたこともないし、見たこともありません。これが正しいとすれば、人間は怒る生き物だと考えるべきです。失くすことは不可能です。


また、苛めの世界はいつの時代でもあり、子供の世界だけではなく、大人の世界でも存在しますから、こういったものを失くそうと努力することは必要だと思いますが、全ての人が反省し、努力している訳ではありません。だから苛めはなくなりません。


私が言いたいのは、世の中の綺麗事は幻にしか過ぎない。ですから、そういう事は必ずある事からスタートした方良いと思います。


簡単に表現すれば、悪を失くそうとする努力は必要ですが、必ずや愚かな人間は存在し、絶滅することは不可能だと考えた方が早いです。戦争は必ずある。苛めは撲滅できない。正義はその教育と環境によってそれぞれ違う。だから正義など言う主観的な判断は、客観的な判断とは全く違うと理解した方が解り易いと考えます。


結論から言うと、そういう正義ではない行為が発生した時に個々人がどう行動するか?だろうと思います。どれ程考えて見ても、より現実的に、より具体的に行動しない限り結果は出ない。また、その時に自分には勇気があるか?が問われるのだろうと思います。残念ながら殆どの人は傍観する。これが問題です。


例えば、目の前で苛めがあった場合に、犠牲を払ってでもその行為を止める事が出来るか?止める事が出来ない時は沈黙するのか?これが問題だと思います。そこには暴力、権力を含めて静止できるだけの勇気ある行動が出来るだろうか?だと思います。


ガンジーの様に無抵抗で戦う事も間違ってはいないと思いますが、結果的には戦争はなくならない。あるとすれば、全ての70億人の人類の頂点に立つことが出来る人が正義であって、戦争を失くすことが出来る。これは既に歴史から学ぶことが出来ます。


日本という国は、どうして統一されたか?それは織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの人が多くの血を流し、戦いの中から平和が訪れた事になる。ですから、武力から正義が生まれたのですが、武力によって正義は変化し新たな争いの中から正義が生まれる。これは真の正義ではないかも知れない?


人間はたかだか100年も生きられませんから、確実にその時代時代によって正義が変わる訳ですから、現在の時代の正義らしいものは、時代と共に正義ではなくなるかも知れません?北朝鮮は、どうして日本にミサイルを発射するのか?中国はどうして南沙諸島に人工島を作るのか?これは、彼らに正義というものがあるからだろうと思います。これらは間違っていても、彼らは正義だと思い込んでいる。


世界の正義が正しいか?と言ってみても価値観の違う正義は存在する。何故なら、日本の中で教育されている事は、世界では通用しない幻の正義を教えているからだろうと思います。世界の常識は、日本の常識ではない事に気付いた人がグローバルの世界で生き残れるのではないのでしょうか?


国が違えば正義は違う。学校教育を間違えれば同じ日本でも正義は違う。なので、右翼もあれば左翼もあり、中道も存在するが、誰も統一は出来ない。キリスト教とイスラムは違う。これが実社会ではないのでしょうか?世の中に綺麗事が通用しない事だろうと思います。


歴史で学ぶなら、暴力と権力でのみ統一出来る事は立証されているのでは?と思います。将来を担う子供達には、現実社会を理解させるべきだろうと思います。綺麗事では世の中を渡っていけない。
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>アリスさん (sake)
2016-09-07 06:17:03
アリスさん、コメントありがとうございます。
いつもながら理論的な説得力のある切り口でのお話、ありがとうございます。
アリスさんのコメントは間違っていない、確かなものだと思いますが、さらに私の考えを書こうと思います。反論ではありませんのでご了承ください。

今回私は交通事故を起こしてしまいました。私の方が10割過失です。
言い逃れの無い状況で、どんなに責められるだろうかと責められたらどう答えるか・・と思っていたところ、相手の方はまったく責められなかったのです。保険で元通り直るのだからいいよと言ってくださったのです。
一人の方は顔も合わせていないのですが、電話口で「あなたの方こそ心を痛めているでしょう。直接会うとまた違う感情も出てくるかもしれないので謝罪も要りません。こちらは大丈夫です」と言ってくださいました。
その言葉で電話口で逆に涙が出てしまいました。

これが逆に怒鳴られたらどうだろう?
私だって人間だから自分自身を守るために内心は言い訳したと思います。
「だって、普段使っている車とは違ったもの」「誰だってあるじゃない」とか。。。自己防衛のために何かの心理が働くような気がします。
素直に反省できなかったのではないかと思うのです。
どんな行動も、それをしてしまった事情があるかもしれない。心理的な状況も含めて、です。
ある出来事の1つを取って、人格に近いところまで人を非難したり軽蔑する・・・そういう行動(主に最近の芸能ニュースですね)に疑問を持つのです。

そんな時に偶然、手に取ったのが前の週に借りたこの本だったのです。「怒らないで生きるには」
そうか、怒ることでは人は変われないのかもしれない、と思うようになったのです。怒ることで、力でギューギュー言って人の行動を方向付けるのは悪い感情をうつしてしまう、もっと別のやり方があるのでは?と思ったのです。
それで↑上の記事を書いてみました。

政治はまた別の話です。
アリスさんの言われるように少なくても今後100年、何もせず無抵抗で平和が生まれることはありえない。
私もそう思います。
何もしなければ搾取されてオワリでしょう。

でもこれだけのネット社会。
どこかの国がそういう行動を起こし、自分達はあえて武器を持たず戦わないことを選び、そのことが世界を感動させ、世界中で平和憲法を選ぶ・・・・
そんなストーリーがあったらなぁ~・・・・なんて考えてしまいました。理想的過ぎるかもしれませんが。。。この先、戦わずして世界が平和になってくれたらいいなぁ~なんて。

この本の冒頭のマンガでは、日本の総理大臣(安倍さんではありません)が「デモ隊がそんなにギャーギャー騒ぐなら、オレがどんなに苦労しているか分からせてやる!!」と逆ギレして、尖閣諸島に立ってしまい相手国の感情をさかなでして、日中の戦争が始まるストーリーになってます。
ケーキがほしいと騒いだ小さな女の子の怒りが、親へ、店へ、いろいろ飛び火して最後に戦争に発展してしまうんです。

最近、偶然仏教の本を手にする事が多いですが、仏教は世界では7%しかいないとは驚きました。
私自身も仏教徒ではないし、改宗するつもりはないですが、素敵な考え方だなと思います。

キリストもたしか「左の頬を殴られたら、右の頬を差し出せ」みたいな教訓がありませんでしたっけねぇ。
「相手にこうされて自分がこう被害があったから、こうしてやる」
こういうアメリカン的な思想は、昔ながらの日本ではなかったのでは?と思います。世界で生き残るためには止むを得ない部分はあります。何もしなければ、島はあちこちいろんな国に取られてしまうでしょう。

しかし私の個人レベルでは、「権利を主張して人様を責めることはこれから止めよう」と思ったんです。

前に車検でドアを壊され、ディーラーに無償で直していただきました。修理車ということで車の価値が下がり、「何も文句言わなくてよかったのかな」と後になって思いましたが、やっぱり何も言わず直してもらって良かったです。
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