小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

540 出雲臣と青の人々 その13

2016年10月25日 01時52分30秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生540 ―出雲臣と青の人々 その13―
 
 
 高市皇子の要請を受けて桑名郡家から不破に向かった大海人皇子は不破郡家に
入ります。
 そこに、尾張国司守(おわりのくにのみこともちのかみ)である小子部連鉏鉤(ちいさ
こべのむらじさひち)が二万の軍勢を率いて恭順してきました。
 大海人皇子は鉏鉤をねぎらうと、その兵を各所の道を封鎖するために配置して野上の
行宮に入ったのでした。
 
 小子部連鉏鉤が率いた二万という兵数は多すぎるように思えます。それゆえに『日本
書紀』の誇張も疑ってしまいますが。遠山美都男(『壬申の乱』)は、鉏鉤が率いた二万の
兵は近江朝が徴兵したものではないか、と推測します。
 『日本書紀』の「天武天皇即位前紀」には、吉野に隠遁していた大海人皇子に、朴井連
雄君(えのいのむらじおきみ)が、
 「朝廷が美濃・尾張の両国の国司に、『天智天皇の陵墓を造るので人夫を徴集せよ』と
命じました。ところが、集めた人夫に武器を与えているのです。思うにこれは陵墓造営の
ためではなく、いくさを起こすつもりでしょう。もしこの地を去らねばまことに危ないことに
なりましょう」
と、吉野脱出を進言する場面が登場します。
 遠山美都男は、この陵墓造営の名目で集められた人夫が鉏鉤の率いる二万の兵だと
推測しているわけです。
 
 しかし、そうすると鉏鉤は近江朝側の人物ということになります。それが大海人皇子側に
寝返ったことになるわけです。
 鉏鉤の裏切りが事実だとすれば、その背景には小子部氏と同族の多臣品治(おうの
おみほむち)と尾張連大隅(おわりのむらじおおすみ)の両名による説得があったのでは
ないか、と遠山美都男は推測しますが、おそらくこれには天武天皇の指示があったのかも
しれません。
 吉野を出立する前に、大海人皇子は、村国連男依(むらくにのむらじおより)、和珥部臣
君手(わにべのおみきみて)、身毛君広(むげのきみひろ)の三名に、
 「汝ら三人、急ぎ美濃国安八磨郡の多臣品治のもとに行き、安八磨郡にて兵を起こせ。
それから国司たちに命じてそれらの兵を集めさせ、不破の道を押さえよ」
と命じて安八磨郡に先行で派遣していますが、この時に多品治に小子部連鉏鉤を味方に
付けさせるよう指示をしていた可能性があります。
 
 多氏(太氏)と小子部氏はともに神八井耳命を始祖とすることが『古事記』に記されており、
また、小子部氏ゆかりの子部神社(奈良県橿原市)は式内社ながら太氏ゆかりの多神社の
境外摂社でもあるというように、両氏には結びつきがあるのです。
 
 そして、尾張氏は大海氏(おおしあま氏)と同族なのです。
 大海氏は大海人皇子を養育した氏族とされています。この時代、皇子や皇女に氏族名の
名がつけられているのは、それらの皇子・皇女を養育した氏族の名である、とされているの
ですが、大海氏が大海人皇子を養育したとされている理由は、単に名前だけのことでは
なく。『日本書紀』に、天武天皇の殯宮(葬儀)における誄(しのびごと=故人である天皇を
偲んでその人生や業績などを語ること)では、まず大海宿禰荒蒲(おおしあまのすくねあらかま)
がその一人目として誄を行い、壬生のことを述べたとあります。
 壬生とは皇子や皇女の養育を司るものですので、このことからも大海氏が大海人皇子の
養育と担当したものと思われるのです。
 このような事情で、尾張連大隅のもとにも、大海人皇子から予め協力の要請があったことは
十分に考えられるのです。
 
 大海氏にかぎらず海人系氏族は結びつきが強かったようです。
 福井県大飯郡高浜町の青海神社(あおうみ神社)や新潟県加茂市の青海神社(あおみ
神社)の祭祀氏族とされる青海氏もまた海人系氏族であったといわれます。それは、青海氏の
祖である椎根津彦(シイネツヒコ)に海人の面影が認められるからなのですが、同時に椎根
津彦は多神社の祭神、弥志理津比古(ミシリツヒコ)と同神であると考える研究者もいるのです。
 
 そうすると、大海人皇子は青(おう)のネットワークを可能な限り利用していたと想像できます。
 
 
 もしも、鉏鉤が率いる二万の兵が近江朝の命令で集められたものであったするならば、鉏鉤の
大海人皇子への合流は相当に想定外のできごとだったに違いありません。何しろ事に備えて
徴発した兵がそっくりそのまま大海人皇子に「持って行かれた」わけですから。
 大海人軍が関ヶ原に布陣したという一報とともに、おそらく鉏鉤の兵二万がそれに恭順したと
いう情報も受けた近江朝は、味方集めに奔走することになるのですが、このうち、すでに鈴鹿関と
不破関は大海人軍によって押さえられ、その他の道も鉏鉤がつれて来た兵によって封鎖された
ために東国に使者を送ることは不可能になってしまっていたのです。
 実際、韋那公磐鍬(いなのきみいわすき)・書直薬(ふみのあたいくすり)・忍坂直大摩侶(おし
さかのあたいおおまろ)が東国に派遣されますが、書直薬・忍坂直大摩侶は封鎖の網にかかって
しまうのです。
 ふたりが捕えられたことを知った韋那公磐鍬は引き返えしてしまいます。
 
 その他では、樟使主磐手(くすのおみいわて)を吉備国に、佐伯連男(さえきのむらじおとこ)を
筑紫に派遣されましたが、両名には、
 「もしも筑紫の大宰栗隈王(くるくま王)や吉備の国司当麻公広嶋(たいまのきみひろしま)が
大海人皇子に加担しているようであればその場で殺せ」
と、命じられていました。
 しかし、ここで近江朝の期待を粉砕する「何か」が起こったのです。
 『日本書紀』はその理由を記していません。
 理由は不明ながら、吉備の当麻公広嶋を訪ねた樟使主磐手は親書を手渡すと同時に広嶋を
殺害してしまうのです。
 
 一方、筑紫の栗隈王は、こちらははっきりと、
 「筑紫は賊から国を守る役目があるので、今筑紫を留守にするわけにはいかない」
と要請を拒否しています。
 ただ、この時栗隈王のふたりの息子が剣を佩いてその傍らに立っていたため、佐伯連男は栗隈王
を殺害することができませんでした。
 大友皇子の使者に対して栗隈王の息子たちが帯刀して謁見の場にいた、というのが事実でしたら、
近江朝に対して疑心暗鬼になっていたとしか考えられません
 ともかく、ふたりの息子のおかげで栗隈王は当麻公広嶋と同じ運命を辿ることだけは免れたのです。
 
 結果として近江朝の動員は不発に終わったことになります。