小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

538 出雲臣と青の人々 その11

2016年10月18日 01時03分41秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生538 ―出雲臣と青の人々 その11―
 
 
 諏訪大社の鎮座する地は言うまでもなく長野県、当時で言えば信濃国です。
 『日本書紀』天武天皇十三年二月の記事に、次のようなことが記されています。
 
 「三野王、小錦下采女臣筑羅らを信濃に遣わして地形を看しめたまう。この地に都を
造らんとするか」
 
 大海人皇子が即位して天武天皇となり、その治世は15年であったので、晩年のことに
なります。
 晩年の天武天皇は後に造られる藤原京や平城京、平安京のような都の造営を考えて
おり、その都を置く候補地のひとつに信濃を考えておられたのではないか、と『日本書紀』は
伝えるのです。
 なお、三野王らは翌天武天皇十四年の四月に信濃国の地図を作り上げて献上して
います。
 
 また、同じ天武天皇十四年十月の記事には、
 
 「軽部朝臣足瀬、高田首新家、荒田尾連麻呂を信濃に遣わして行宮を造らしむ」
 
と、あります。ただし『日本書紀』は、その理由として、
 
 「湯治に行幸されようと思われたか」
 
と、記し、信濃の行宮造営が都城造営の前倒しとしてのものではないだろう、としています。
 
 ところが、『日本書紀』によれば、三野王らの信濃派遣にさかのぼる天武天皇十一年の
記事では三野王らを新城(奈良県大和郡山市新木)に派遣して地形を調べさせているの
です。『日本書紀』はこれを、
 
 「都を造らんとす」
 
と、記しています。
 もっとも、十二年十二月の記事には、天武天皇が、
 
 「都や皇居は一か所にあってはならない。必ず二か所三か所造るものである。そこでまず
難波宮を造ろうと思う」
 
と、廷臣たちに語っているので、天武天皇の中には、難波、新城、信濃の3か所に都を置く
「複都構想」があったと思われるのです。
 
 それにしても、なぜ畿内ではなくて信濃なのか?という疑問が残ります。
 実のところ、このことについての考察は意外なほどに少ないのです。
 そのため、一般的に言われているのは、当時の信濃では良馬が多く飼育されていたため、
あるいは、壬申の乱では東国の勢力を味方に付けた天武天皇が勝利したことで、東国の
兵力を直属のものにするために信濃に都を造ろうとした、などの軍事的な理由とするもの
です。
 
 これに対して、易でその理由を解こうとしたのが 吉野裕子(『陰陽五行思想からみた日本の
祭』)です。
 吉野裕子の説をまとめると次のようになります。
 
 天武十一年は、壬午年。新城は子の方(真北)
 天武十四年は、甲申年。信濃は寅の方(東北)同時に国土中央
 
 新城は明日香の真北、子の方角で、子の方は「子の星」といわれる北極星を象徴する方位
であり、「天の中央」を意味する。
 これに対して「地の中央」が信濃、それもおそらく諏訪湖を中心とした諏訪地方。
 
 ここでいう「地の中央」は本州の中央地点。吉野裕子は、『古事記』の記述などから、この
時代すでに本州の形が把握されていたと考えています。
 
 ただし、大和岩雄(『神社と古代王権祭祀』)は、諏訪を中心とした文献がないことなどを挙げて、
当時の人々が本州の形をどれほど正確に知っていたのか疑問とし、だから諏訪を本州の中心
だとは知らなかったのではないか、と指摘しています
 それでも、大和岩雄もまた、吉野裕子が三合の理と火について考察していることと同じ考察を
しています。
 
 それでは、その三合の理と火とはどういうものなのかということにも少し触れておく必要が生じます。