小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

539出雲臣と青の人々 その12

2016年10月22日 02時30分55秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生539 ―出雲臣と青の人々 その12―
 
 
 三合の理とは、陰陽五行の組み合わせのひとつです。もっとも、組み合わせという表現は適切では
ないかもしれません。なぜなら陰陽五行の火・水・木・金・土はお互いに影響し合いサイクルを作り
だしているからです。たとえるなら春夏秋冬や輪廻転生などのように。
 
 それで三合の理は、「寅・午・戌」のように、十二支の中からの三支の組み合わせです。
 すべてのものは、「生・旺・墓」(始まりがあり、盛んになり、終末を迎える)なのです。人間に当てはめ
たなら、「誕生・生きる・死ぬ」です。
 だから、「寅・午・戌」とは、
 「寅に生まれ、午に生き、戌に死す」
ということになります。
 ちなみにこれは「火の三合」で、
 「申・子・辰」で水の三合
 「亥・卯・未」で木の三合
 「巳・酉・丑」で金の三合
 「午・戌・寅」で土の三合
ができます。
 
 三合の理について、吉野裕子は『陰陽五行思想からみた日本の祭』の中で次のように書いている
ので抜粋してみます。
 
 
 中国創世記によれば、原初、宇宙は唯一絶対の混沌であり、この混沌から陰陽二気が派生し、
天地、火と水等の二元が生じたが、天地は元来、同根である。宇宙は一にして二、二にして一
なのである。
 その天地は、『淮南子』天文訓によれば、
 「天は円に、地は中央にあり」
とみえ、天は円く、地は角い、そうして道が中央を貫く、とされている。
 国土の中央に菱形、つまり方形に近い形で横たわり、その畔り(ほとり)をめぐって東山道が陸の
奥に至る信濃国の諏訪湖は、正に中国哲学の説かれる「地」そのものの象徴としてうけとめられて
のではなかろうか。
(中略)
 また信濃は明日香からは寅方に当たるが、天武天皇を火徳とすれば、「寅・午・戌」の「火の三合」
において、寅は火の生気に当たる。天武天皇の晩年における強烈な信濃志向の原因の中には、
上記理由の他に、己れの生気を求める呪術も附加できるのではなかろうか。
 
 
 この文中に「天武天皇を火徳とすれば」という言葉が出てきますが、天武天皇が火徳にこだわりを
見せていたことは多くの人が指摘するところです。
 火徳とは、陰陽五行の火・水・木・金・土の中の火です。
 壬申の乱において天武天皇の軍は軍衣に赤の目印をつけ、赤旗を用いるなどしており(火は五色
では赤)、自らを「火徳王」に見立てていたというのが通説になっています。
 壬申の乱で大友皇子の軍は「金」を合言葉にしていた、と伝えられていますが、金に対して火は、
相剋で「火剋金」になり、天武天皇はこれを意識していたとも言われます。
 火剋金とは「火は金を剋す」の意味で、金属は火力によって溶かされ姿を変えられる、とイメージ
していただければよいかと思います。
 
 火は干支では午になりますが、大海人皇子が出家して吉野に入った日も午の日で、壬申の乱の
挙兵の日も午の日、また天武天皇として即位し、崩御の年に「朱鳥」という年号にしましたが(ここでも
朱が使われています)、改元の日が午の日と、午(火)にこだわりをみせているのも火徳王を自認した
ものとされているのです。
 
 そして、明日香を午の方角に見立てた時に、信濃は明日香から見て寅の方角にあたります。
 これは、三合の理の火をあらわす「寅・午・戌」、「寅に生まれ、午に生き、戌に死す」になるわけです。
戌の方角は「金」で、「火剋金」です。
 
 吉野裕子(『陰陽五行思想からみた日本の祭』)も大和岩雄(『神社と古代王権祭祀』)も天武天皇の
信濃に都を造る計画をこのような陰陽五行で解こうとする考えは同じなのですが、大和岩雄は
吉野裕子が説く諏訪が日本の中心と見られていたという考えには否定的です。
 しかし、大和岩雄もまた、信濃に都を造営するという計画には諏訪大社の存在がその理由となって
いる、と考えているのです。
 
 その背景をお話する前に、今一度壬申の乱に戻りたいと思います。
 大海人皇子が野上の行宮に入り、高市皇子が関ヶ原に布陣したところからまた始めます。