小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

懐かしのオレたちひょうきん族

2012年09月20日 23時38分45秒 | 日記
2009年10月10日(土)(1歳6か月)


 テレビで、懐かしの『オレたちひょうきん族』のVTRを放送していた。

 で、それを観て春奈が笑う。意味がわかっている訳ではないんだろうけ
ど、空気は読めるようだ。

 ゆうきとりえも小さい頃、寄席で漫才のライブを観て空気で笑っていたし。

 さて、その日の風呂の中で、僕が手を動かした時に指が春奈のおでこに
当たった。すると、

 「いたい」

と、笑って言って、おでこを押さえる。

 こんなもん痛いものか。指が当たっただけやろ。って、言うか春奈笑っ
てるやん、と、思ってからハタと気づいた。

 これは、さっきテレビで観た、『ひょうきん族』の中で、たけしとさんま
が、おたまで渡辺正行のおでこを叩き、渡辺正行が転げまわって痛がるネタ
のマネッコだと。

 春奈、何でもマネる。お笑いもマネる。


2009年10月11日(日)(1歳6か月)


 いつものように春奈を風呂に入れていると、終わり掛けの頃に、ゆうきと
りえの2人も入ってきた。

 当然、先に入っている春奈の方が先に上がったわけだけど、その時に、
ゆうき&りえの方を振り向いて、

 「ごゆっくりよー」

と、言った。

 商売人か、お前は。
 ってか、そんな言葉どこで覚えた?使い方は間違っていないけど。

④出雲国造の神賀詞奏上と額田部臣鉄剣

2012年09月20日 23時28分21秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生④ ―出雲国造の神賀詞奏上と額田部臣鉄剣―


 それじゃあ次は、このオオナムチ=オオクニヌシの神話が広く伝わって
いった理由にいきましょう。

 松前健(『出雲神話』、『古代信仰と神話文学』他)は、オオナムチの
信仰が広まった理由、そして大和にある中央政府に出雲神話を認めさせた
理由として、出雲国造の神賀詞奏上を挙げています。

 これは何かと言いますと、出雲国の国造(くにのみやつこ。こくぞう、
こくそう、とも。現在の県知事のようなもの)が代替わりし、新しい国造
が就任すると、一族百余人とともに大挙上京し、数々の神宝や供え物の献
上とともに、天皇の長久と若返りを祈る神賀詞(かむよごと)を唱和する
ものです。

 新しい国造の就任の際には、まず朝廷で行われる補任式があり、新国造
が上京して辞令を受け取るのですが、その後国に帰り、1年間物忌みをした
後、一族を率いて再び上京し、神賀詞を奏上しました。その際に、おびた
だしい数の、水晶や瑪瑙(めのう)などの玉、剣、鏡、布、白馬、白鳥など
を献上します。
 それが終わると、国造たちは一度出雲に帰り、また1年間の物忌みをした
後、再び上京して前回と同じ神賀詞と神宝を奉じるのです。

 これらの、旅費などを含む費用はすべて出雲国造の自己負担で、その
負担はかなり大きなものであったと想像できます。
 しかしながら、そこまでして神賀詞奏上が行われた理由として、松前健
は、出雲国造による中央への出雲神話の売り込みであり、これが功を奏し
て記紀をして出雲神話を取り上げさせることになった、と考えています。

 多くの研究者たちも、この松前健説を支持し、中央政権が出雲神話と大
きく扱うことになった理由としています。
 松前健は、この神賀詞奏上は出雲国造側の売り込みであった、とします
が、反対に、大和の中央政府側からの強制であったとする研究者もいます。

 ですが、神賀詞の中に、いわゆる国譲り神話の部分があって、ここには
次のようなことが歌われています。


 高天の原のタカミムスヒの神は天孫に地上を治めさせようと思い、アメ
ノホヒの命を調査に向かわせた。
 アメノホヒは、

「地上は禍々しい世界ですが、これを天孫の住まわれる世界にいたしま
しょう」

と、言って、わが子アメノヒナドリの命にフツヌシの命を副えて地上に
遣わせた。
 アメノヒナドリは、荒ぶる神を払い伏せ、国作りましし大神オオナモチ
の命を媚び鎮めた。
 オオナモチは、自分の和魂を、大物主くしみたまの命と名を添えて大和
の大三輪の神奈備に坐せ、子のアジスキタカヒコネの命の御魂を葛城の鴨
の神奈備に坐せ、コトシロヌシの命の御魂を宇奈堤に坐せ、カヤナルミの
命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せ、自らは皇室の守り神とならんと、杵築の
宮に静まった。

 つまりは、大和の神々は、オオナモチの分身であったり、オオナモチの子
たちである、というものです。
 もしも、神賀詞奏上が中央政権側からの強制であったなら、被支配者側が
「大和の神は出雲の神ですよ」と主張するのはおかしいのではないでしょう
か。出雲の神が大和の神の子です、と言うならわかるのですが。

 ですが、ここで新たな謎が生れます。

 それなら、なぜ中央政権は、出雲側のこのような神話を受け入れたのか?
と、いう謎です。


 1984年に島根県松江市の岡田山1号墳から鉄剣が発見され、考古学者たち
の関心を奪いました。
 と、言うのもその鉄剣に文字が刻まれており、「客田阝臣」、「大和」と
いう文字が判別できたからなのです。

 「大和」は「大利」とも見えるのですが、それよりも問題となるのは
「客田阝臣」の銘文。
 「客」の字はちょうど上部が欠けていて、そこから、これは「額田部臣」
ではないか、と推理されたのです。
 考古学者たちに衝撃を与えたのは、『出雲国風土記』に登場する額田部臣
の名が刻まれていただけでなく、岡田山1号墳が6世紀末頃に造られたと考え
られることから、6世紀末にはすでの部民制が存在したことがわかったから
です。

 部民というのは、古代天皇家の所有民で、天皇に認められた場合には豪族
も部民を所有することもありました。
 部民は専門の職種に就いていた人たちなのですが、その職種によっては
普段は仕事がなく、たとえば語部などは新しく天皇が即位する践祚大嘗祭の
時くらいしか仕事がなかったと考えられるので、これらの部民は、平時は
農業に従事していたものと考えられています。
 また、部民を統括する者の中に、力を持ち豪族となったと考えられる氏族も
おり、その氏族名に部の名前を戴いていることもあります。
 物部氏は、物部(軍事や現代の警察のような仕事に従事していた者たち。
もののふ、とも)を統括する氏族であったといわれています。

 しかし、額田部臣鉄剣の発見は同時に新たな謎も生み出したのでした。

 その1つが、なぜ「出雲には多くの臣が存在したのか?」という疑問です。

 出雲には、出雲臣、神門臣をはじめ、林臣、有臣、建部臣、日置部臣など
、多くの臣姓の豪族がいたことがわかっています。その中にあって額田部臣
は決して勢力の強い豪族とは言えないのです。
 それなのに、古代姓制の中でも序列の高い臣姓を有していたのはなぜなの
でしょうか?

 これについて、額田部臣の名が登場する『出雲国風土記』が編算された奈
良時代には臣の価値も下落していたのだ、という説、出雲の中だけで通用す
る姓、いわば勝手に名乗っていただけ、とする説などいろいろありますが、
少なくとも、この鉄剣の発見により、6世紀末後半にはすでに額田部臣の存在
が証明されたことになります。

 それでは、出雲の豪族たちが、どうして臣の姓を許されるほどの特別扱い
を受けていたのか。問題点はそこになります。

 素直に考えるならば、当時の出雲が大和政権から重要な地域と見られてい
たか、あるいは出雲の豪族たちのバックに大和政権内の有力者がついていた、
ということになるのではないでしょうか?

 そこで。まずは手っ取り早く、古代の出雲と大和政権との関わりを追って
みたいと思います。

・・・つづく