小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

ネコともメタ活

2012年09月24日 22時49分48秒 | 日記
2009年10月25日(日)(1歳6か月)


 仕事で実家で行く用事があった。
 
 家を出ようとすると春奈も一緒に行きたがるので連れて行ってやる。

 春奈をつれて実家に行くと、上の階から、実家で飼っているネコの
鳴声が聞こえた。

 実家のネコは19歳。ネコは18歳になると長生きした賞状がもらえる
らしいが(犬だと16歳)、それだけ18年も生きるネコは少ないのだろう。

 それが、実家のネコは19歳である。

 歳が歳だけに腎臓が悪いけど、それ以外はいたって健康。
 眼もきれいだし、毛のツヤもいい。
 あ、耳は少し遠くなったかな。

 とにかく元気だ。

 若いころは悪ネコで、家族に対して何か気に食わないことがあると
飛び掛かってきたものだ。
 ちなみにこいつは雌である。

 ただ、毛並が茶トラで、腹には斑点がある。しかも尻尾は縞模様。
 これはネコの先祖である中東からアフリカのヤマネコの特徴である。
 たまに、こんな先祖がえりのネコがいるようだけど、性格まで野生
を受け継いでいるのかもしれない。
 
 最近は性格も丸くなって腹を立てることもめっきり少なくなった
けど、

 「お前は何歳まで生きるつもりなんや?」

と、訊くと怒る。
 人間の言葉がわかるのか?



 さて、その実家のネコが鳴いている。3階から声が聞こえる。

 すると、春奈が階段まで行くと、上を見上げて、

 「わあ!」

と、言った。で、また、

 「にゃあ!」

と鳴声が聞こえると、

 「わあ!」

と、返す。

 ネコの泣き声までメタ活(マネッコ)しとる・・・。

 いや、春奈にとってはこれも会話なのかもしれん。

⑦アジシキタカヒコネの神話

2012年09月24日 22時34分15秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生 ―⑦アジシキタカヒコネの神話―


 まずはホムチワケの方から検証してみたいと思います。

 サホビメが遺していったホムチワケという皇子の伝承はまことに不思議
な物語です。

 第一、これほどの物語を持つ皇子なのに、次の天皇になることもなく、そ
のまま消えてしまうのですから。

 さて、ホムチワケは火の中で生まれたのでその名がついた、となっていま
すが、稲城が燃え落ちる前に生まれているから実際には違います。
 だけど、サホビメが、
「火の中で産まれました。なので、本牟智和気皇子と名乗らせてあげてくだ
さい」
と、言っているので、いわゆる火中出産の一例になっているのです。
 この、火の中で生まれたというエピソードは、『古事記』にある、高天の
原から降り立ったホノニニギの妻カムアタツヒメ(神阿多都比売)またの名
を木花之佐久毘売(コノハナノサクヤビメ)が、ホデリの命、ホスセリの命、
ホオリの命の3神を、八尋殿を造って中に入り、それに火をつけて燃える中
で生んだ、いわゆる火中出産のエピソードに似ています。


 次に、泣いてばかりいたというエピソードですが、『古事記』には、

 「八握ひげ胸の先に至るまでま言とわず(言葉を発しなかった)」

と、書かれていますが、これは、やはり『古事記』のスサノオが、

 「八握ひげ胸の先に至るまで泣きいさちき」

とある箇所と、『出雲国風土記』の仁多郡の項に登場するアジスキタカヒコの
神の、

 「御ひげ八握に生えるまで、夜昼泣きまして御言かよわざりき」

とある箇所に大変似通っています。



 それから、ヒナガヒメのエピソードですが、これにも似た話があります。
 ヒナガヒメの正体が大蛇であったという話ですが、『古事記』ではホノニニ
ギの子ホオリノミコト(火遠理命)は、海神の娘トヨタマビメ(豊玉毘売)と
の間にアマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト(天津日高日子
波限建鵜葺草葺不合命)をもうけますが、トヨタマビメは、産屋を作り、その
中で出産をする時に、ホオリに言います。

 「子を生むときには本来の姿に戻らなければいけません。どうぞ中を覗か
ないでください」

ホオリはその言いつけを破って中を覗いてみますと、トヨタマビメの正体は
八尋和邇(やひろワニ)で、驚いてホオリは逃げ去ってしまいました。
ト ヨタマビメは正体を見られたことを恥じ、生んだばかりの子を残して海
に帰ってしまいました。


 次に、ヒナガヒメの正体にビックリしたホムチワケが逃げ出すと、ヒナガ
ヒメが海を照らしながら追いかけてきました。そのためホムチワケは船を捨
てて陸路を逃げます。
 これと似た話が『播磨国風土記』の飾磨郡の項にあるのです。
 伊和の里にある14の丘の名前の由来について書き記された部分です
 
 昔、オオナムチノミコト(大汝命)の子ホアカリノミコト(火明命)は大変
荒々しい神だった。
 このことをオオナムチはひどく憂い、捨ててしまおうと決めた。
 わが子とともに因達の神山まで出かけたオオナムチは、ホアカリに水を汲み
に行かせると、その間に船に乗って逃げ去って行った。
 水を汲み終えて戻ってきたホアカリは、父神の乗った船が遠ざかっていくの
を見て激怒すると、波風を起こして船を追い迫っていった。
 その勢いに、父神の船は進むことができず、ついには追いつかれて船は打ち
破られてしまった。
 それで、そこのあった二つの丘を、船丘、浪丘と名付けた。
 琴が落ちたところは琴神丘と名付け、箱の落ちたところは箱丘と名付け、櫛
匣(くしげ)の落ちたところは匣丘と名付け、箕が落ちたところは箕形丘と名
付け、甕が落ちたところは甕丘と名付け、稲が落ちたところは稲牟礼丘と名付
け、冑の落ちたところは冑山と名付け、沈石(碇)の落ちたところは沈石丘と
名付け、綱の落ちたところは藤丘と名付け、鹿の落ちたところは鹿丘と名付け
、犬の落ちたところは犬丘と名付け、蚕の落ちたところは日女道丘(ひめじ丘。
蚕のことをヒメコともいう)
 オオナムチが妻の弩都比売(ノトヒメ)に、「乱暴者の子から逃げようとし
てかえって苦しい思いをさせられた」と、言った。今はその渡しを苦の渡(た
しなみのわたり)という。


 さて、ヒナガヒメのエピソードの前に、スサノオとアジスキタカヒコの、泣
いてばかりの話をしましたが、この神は、出雲の神賀詞の中の一節、

 オオナモチは、自分の和魂を、大物主くしみたまの命と名を添えて大和の大
三輪の神奈備に坐せ、子のアジスキタカヒコネの命の御魂を葛城の鴨の神奈備
に坐せ、コトシロヌシの命の御魂を宇奈堤に坐せ、カヤナルミの命の御魂を飛
鳥の神奈備に坐せ、自らは皇室の守り神とならんと、杵築の宮に静まった。

とある神のことです。

『古事記』の中では、オオクニヌシがタキリビメノミコト(多紀理毘売命)を
娶って生まれた神として、アジスキタカヒコネの神(阿遅鉏高日子根神)とタ
カヒメノミコト(高比売命)またの名をシタテルヒメノミコト、という記事も
載せています。
 さらに、このアジシキタカヒコネを、

 今は迦毛大御神(かものおおみかみ)という

と、記しております。迦毛は鴨のことです。


 アジスキタカヒコ(アジシキタカヒコネ、アジスキタカヒコネとも)は、大和
の葛城地方、奈良県御所市にある高鴨神社の祭神で、出雲地方にも信仰のあった
神なのですが、中部地方にもエピソードを残しています。

『出雲国風土記』の仁多郡には次の話があります。

 大神オオナモチノミコト(大穴持命)の御子アジスキタカヒコの命はひげが
八握(やつか)に生える年齢になっても夜昼泣いてばかりで言葉を話すことは
なかった。
 父神が、御子を船に乗せて島々を廻って楽しませたが泣きやむことはなかった。
 そこで父神である大神が、

「御子の泣く理由を教えたまえ」

と、夢占いをしてみたところ、御子が言葉を発する夢を見た。
 翌朝、御子の前に立つと、

 ※「御津(みつ)」

と、御子が言ったので、

 「それはどこのことか?」

と、大神が問いかけると、御子は外に行き、石川を渡り、坂の上に登ると、

 「ここぞ」

と、申された。その時、沢より流れ出た水で沐浴をされた。
 国造が神吉事奏上のために朝廷に上がる時にはこの水で身を清めるのは、
この故事によるものである。
 御津は今、三澤という。

※岩波古典文学大系『風土記』(秋本吉郎校注)では、「御澤」となっていま
すが原文は「御津」。秋本吉郎は、原文が誤記と解釈したのでしょうか?


 「尾張国風土記逸文」には、ホムチワケ伝承の原型かと思わせる話があり
ます。

 垂仁天皇の御子ホムツワケ(品津別)は7歳になっても言葉を話すことはな
かった。
 ある時皇后の夢に神が現れ、

 「吾は多具の国の神、名をアマノミカツヒメ(阿麻乃弥加都比女)という。
吾を祀れば皇子の口はきけるようになり、長寿を得るであろう」

と、お告げがあったので、日置部の始祖建岡(たけおか)の君に占わせ、阿豆
良の里にこの神を祀ることになった。

 このアマノミカツヒメを祀った神社は、尾張一宮市にある阿豆良神社(あづ
らじんじゃ)です。


 『出雲国風土記』には、アマノミカジヒメノミコト(天御梶日女命)という
神が登場しますが、おそらくはアマノミカツヒメと同じ神で、この神はアジス
キタカヒコの后とされています。


 アジシキタカヒコネの神話を紹介する時に、もう1つ、喪山伝承についても
お話しをしないといけないでしょう。
岐阜県美濃市にある大矢田神社は喪山天神社とも称されますが、この神社の
祭神はスサノヲとアメノワカヒコノミコト(天若日子命)です。

 このアメノワカヒコについては、『古事記』にこう記されています。

 アマテラスたち天つ神たちが、ホノニニギを降臨させる前に、アメノホヒ
の神(天菩比神)を使者として葦原中国に遣わしますが、アメノホヒは逆に
オオクニヌシに媚び従い、3年たっても帰って来ませんでした。
 そこで今度はアメノワカヒコを遣わすことに決め、天之朝迦古弓(あめの
まかこゆみ)と天之波波矢(あめのははや)を授けて葦原中国に遣わしまし
たが、アメノワカヒコもまた、オオクニヌシの娘シモテルヒメ(下照比売)
を妻にし、また葦原中国を自分が得ようと考え、8年たっても復奏しません
でした。
 ここに天つ神たちはまた集まって、

 「なぜアメノワカヒコは戻って来ないのか?またいずれかの神を遣わして
その理由を問おう」

と、話し合い、ナキメ(鳴女)という名の雉を遣わすことにしました。
 この雉の鳴女がアメノワカヒコの家の木にとまり、天つ神の言葉を言っ
ていますと、アメノサグメ(天佐具女)なる者がこの鳥の声を聞き、アメ
ノワカヒコに、

 「あの鳥の鳴く声は大変不吉なものでございます。どうか射殺してくだ
さいませ」

と、言ったので、アメノワカヒコは、天つ神より授かった弓矢で鳴女を射
殺してしまいました。この時に射た矢が雉の胸を貫通し、そのまま天の安川
の河原にいたアマテラスと高木の神の足元に届きました。
 高木の神はこの矢を拾うと、

 「これはアメノワカヒコに授けたものだ」

と、言い、そして、

 「もしこの矢が悪い神を討つために射た矢なであればアメノワカヒコに
は当たるな。もしこの矢が邪心をもって射たものであればアメノワカヒコ
に当たれ」

と、言って矢を落としますと、アメノワカヒコの胸に刺さり死んでしまいま
した。
 それで、アメノワカヒコの父天津国玉の神とその妻子が降ってきて、喪屋
を作り、八日八晩葬儀を行いました。
 この時、アジシキタカヒコネの神(阿遅志貴高日子根神)が弔問にやって
来ましたが、その容姿があまりにアメノワカヒコに似ていたために、天津国
玉の神は、

 「わが子は死なずにいた!」

と、言い、シタテルヒメも、

 「わが君は死なずにいた!」

と、言ってアジアスキタカヒコネの手足にすがりついて泣いたので、

 「吾は友なればこそ弔いにやって来たのに汚らわしい死人と間違えると
は!」

と、大いに怒り、剣を抜くと喪屋を斬り伏せ飛び出してしまいました。

 この時、シタテルヒメはアジスキタカヒコネが自分の兄であることに
気づき、そしてその名をあらわし知らせようと思い、

 天なるや 弟棚機(おとたなばた)の うながせる 玉の御統(みす
まる) 御統に 
 穴玉はや み谷 二渡らす 阿治志貴高日子根の神ぞ

と、歌いました。


 アジシキタカヒコネは、死と再生の物語を語る神とも言われています。
 『古事記』の喪山伝承では、アメノ若日子が死にアジスキ高日子が登場
します。
 『風土記』では、泣いてばかりの神が一人前の神になります。
 稚拙な状態から一度死に、成人した姿で復活する、という構図になって
いるわけです。

 『古事記』では、アメノワカヒコの葬儀が行われた所を、美濃国の藍見
河の河上の喪山(もやま)と記しています。

 大矢田神社、またの名を喪山天神社は、この喪山にある神社なのですが、
この地が尾張に隣接した美濃にあることに注目したいと思います。


 それでは、今一度あらためて中部地方との関連性を見てみます。

 ホムチワケの伝承と、出雲、中部地方に残る、アジシキタカヒコネおよ
びその妻のアメノミカツヒメの伝承が似通っていること。

『古事記』の中に、ホムチワケのために尾張の相津の二俣杉で船を作ると
あります。

 そして、ホムチワケと一緒に出雲に向かったアケタツの王とウナカミの
王が三重県に関係していること。
アケタツの王を祭神とする佐那神社が三重県多気郡多気町にあり、ウナカ
ミの王を祭神とする莬上神社が三重県いなべ市大安町(旧員弁郡)にあり
ます。
 また、三重県四日市市にはやはり莬上王を祭神とする莬上耳利神社があ
ります。

・・・つづく