小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

⑨桃太郎と銅鐸

2012年09月27日 00時19分06秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生⑨ ―桃太郎と銅鐸―


 ヤマトタケルが大いに関係しているのがもう1つあります。
 それは吉備です。

 ヤマトタケルは、『古事記』によると、景行天皇と、吉備臣等の始祖ワカ
タケキビツヒコ(若建吉備津日子)の娘ハリマノイナビノオオイラツメ(針
間之伊那毘能大郎女)の間に生まれた皇子なのです。


 ところで、桃太郎にモデルがいるのはご存じでしょうか?いや、モデルだと
言われている人物がいます。

 それは、大吉備津日子命(オオキビツヒコノミコト)と若建日子吉備津日子
命(ワカタケヒコキビツヒコノミコト)のふたり。

 このふたりの吉備津日子がどういう人なのかというと、第7代天皇である孝霊
天皇の皇子。
 母親は、大吉備津日子の方が、ハエイロネ、またの名をオオヤマトクニアレヒ
メ。若建日子吉備津日子の方がハエイロド。ハエイロネとハエイロドは姉妹で、
だからこのふたりの吉備津日子は、父親が同じ、母親が姉妹同士なわけです。


 話は変わりますが、私たち家族が参加しているヒッポ・ファミリー・クラブは、
前に書いたように全国に活動の場「ファミリー」があります。
 その1つ、愛知県犬山市のヒッポファミリーが主催する犬山SADAキャンプと
いうものがかつてありました。本当にキャンプ場を借りて、テントを張ってヒッ
ポの合宿をするものでした。私たち家族も何度か参加させてもらったものです。

 車で大阪を出発し、名神高速の小牧インターを降りて下道を走っていくと、途
中、「縣主神社」と書かれた大きな看板が目に飛び込んできます。
 縣主神社は美濃加茂市にある神社で、日子坐(ヒコイマス)王を祀る神社です。

 ヒコイマスの王とは9代開化天皇の皇子で、10代崇神天皇の異母兄弟にあたる
人物です。

 「景行記」の登場するオオウスの命がカムオオネのふたりの娘を自分の后にし
ていしまう話が登場しますが、カムオオネの王はヒコイマスの王の子なのです。
 また、「垂仁記」の登場したアケタツの王とウナカミの王は、ヒコイマスの王
の子大俣王(オオマタノミコ)の子です。

カムオオネの王は美濃国造の祖と『古事記』にもありますから、ヒコイマスの王
を祀る神社が美濃にあったって何の不思議もないのです。
 それから、美濃加茂の地名は、ここに鴨氏の一族がいたことから来ている、と
されております。

 さて、私たちはキャンプ場を目指し、名鉄犬山遊園駅の踏切を渡ります。そこか
らは木曽川沿いを走っていきます。
 少し行くと「氷室」という交差点に出会います。ここは氷室という地名なのだ
とか。
氷室は水取部の管轄です。水取部とは、てっとり早く言うと、古代の天皇に飲み水
を奉る人々を指します。それに冬にできた氷を氷室の中で夏まで保存しておく仕事
もしていました。
鴨氏はこの水取部だったのです。

 この氷室の交差点を越えてさらに進みますと、今度は桃太郎神社が現れます。

桃太郎と言えば岡山県、と思いがちですが、ここ犬山にも桃太郎伝説があるだそう
です。
それに、水取部とも関係があるのです・

『古事記』によれば、ふたりのに吉備津日子は、吉備の平定に向かい、まずは針
間の氷川(兵庫県の加古川のことと言われています)で、忌甕を据えて呪術をお
こなった、と古事記にある。川で甕を用いて行う呪術であろう、と考えられてお
ります。

 さらに、ハエイロドとハエイロネの姉妹ですが、こちらはどういう人たちなの
かと言えば、3代安寧天皇の孫にあたるワチツミノミコト(和知都美命)の娘。
ワチツミノミコトは古事記に「淡道の御井宮に坐しき」とありますが、この表
現って実は天皇と同格の扱いなのです。

 しかも、淡道(淡路)といえば、天皇に奉る水を供給する地なのです。やっぱ
り水取部と関係しています。

それから、カムオオネの王の母親もオキナガノミズヨリヒメ(息長水依比売)と
いって水に関係する名前をもっています。
 そして、桃太郎と言えば、実は水取部が大いに関係しているのでした。


 3代目の天皇は安寧天皇ですが、『古事記』にはこうあります。

 この天皇は、縣主羽延(あがたぬしはえ)の娘アクトヒメ(阿久斗比売)を迎え
られてお生まれになった皇子は、
トコネツヒコイノネノミコト(常根津日子伊呂泥命)、
オオヤマトヒコスキトモノミコト(大倭日子鉏友命)、
シキツヒコノミコト(師木津日子命)。

 この3人の皇子の中でオオヤマトヒコスキトモノミコトが次の天皇におなりにな
られました。懿徳天皇です。

シキツヒコの命には二人の皇子がおられ、ひとりの皇子は、伊賀の須知の稲置、
那婆理の稲置、三野の稲置の始祖です。
もうひとりの皇子ワチツミノミコト(和知都美命)は、淡道(あわじ)の御井宮
(みいのみや)に坐しました。
また、この王にはふたりの娘がいらっしゃいました。
姉の方がハエイロネ(蝿伊呂泥)、またの名をオオヤマトクニアレヒメノミコト
(意富夜麻登久邇阿礼比売命)。
妹の方がハエイロド(蝿伊呂杼)です。

 4代懿徳天皇の子が5代孝昭天皇です。『古事記』によれば、

  この天皇、尾張連(おわりのむらじ)の始祖オキツヨソ(奥津余曽)の妹
ヨソタホビメ(余曽多本毘売)を娶られてお生まれになった御子が、
アメオシタラシヒコノミコト(天押帯日子命)、
オオヤマトタラシヒコクニオシビトノミコト(大倭帯日子国押人命)。

 弟のオオヤマトタラシヒコクニオシビトの命は次の天皇(孝安天皇)におな
りになられました。

 孝安天皇の子が7代孝霊天皇です。『古事記』には、

この天皇、十市縣主(とおちのあがたぬし)の祖先オオメ(大目)の娘、名は
クワシヒメノミコト(細比売命)を娶られて、お生まれになったのが、
オオヤマトネコヒコクニクルノミコト(大倭根子日子国玖琉命)。

またオオヤマトクニアレヒメノミコト(意富玖夜麻登邇阿礼比売命)を娶られ
て、お生まれになったのが、
ヤマトトモモソビメノミコト(夜麻登登母母曽毘売命)、
ヒコサシカタワケノミコト(日子刺肩別命)、
ヒコイサセリビコノミコト(比古伊佐勢理毘古命)またの名をオオキビツヒコ
ノミコト(大吉備津日子命)、
ヤマトトビハヤワカヤヒメ(倭飛羽矢若屋比売)
の4名。

またそのアレヒメの妹ハエイロド(蝿伊呂杼)を娶られて、お生まれになった
のが、
ヒコサメマノミコト(日子寤間命)、
ワカヒコタケキビツヒコノミコト(若日子建吉備津日子命)

と、あります。


 以上のつながりを、女系で見てみますと次のようになります

安寧天皇
 ↓
シキツヒコの命
 ↓
ハエイロド(夫は孝霊天皇)
 ↓
ワカタケキビツヒコの命
 ↓
イナビの大郎女(夫は景行天皇)
 ↓
ヤマトタケル


 吉備氏の話は一旦ここまでにしまして、次に尾張氏に移らせていただきま
す。

 ヤマトタケルと恋話が語られるミヤズヒメは尾張氏の女性ですが、大国主
神話の誕生に大きく関係しているとにらんでいるのです。

 尾張氏はホアカリノミコト(火明命)の子孫を称しています。
『古事記』の中で、イワレヒコ(後の神武天皇)にタケミカヅチの横刀を渡
すタカクラジは、天香語山命の別名とされていますが、『先代旧辞本紀』に
よれば天香語山命はホアカリの子になっています。

 イワレヒコが日向を発ち、瀬戸内海を航海して大和入りを目指していた時
のことです。この時の様子を『古事記』は次のように記しています。


 一行は、浪速の渡(大阪湾)を経て、青雲の白肩津までいらっしゃいまし
た。この時、トミノナガスネヒコ(登美能那我須泥毘古)が兵をそろえて待っ
ており、戦いをしかけてまいりました。
 そこで、船から盾を手に降り立たれました。ゆえに、この地を盾津といいま
す。今では日下の蓼津(くさかのたてつ)といいます。
 トミビコ(登美毘古=登美のナガスネヒコのこと)との戦いの中、イツセノ
ミコト(註:イワレヒコの兄)は手に矢傷を負われました。それで、

 「私は日の神の御子であるのに日に向かって戦ったのがいけなかった。それ
ゆえに賤しき奴に深手を負わされたのだ。向こうに回って、日を背にして戦お
う」

と、おっしゃられ、血沼の海(ちぬの海=泉州沖)に出られました。紀伊半島
に沿って登美の反対側に回ろうとされたのですが、途中、手の血をお洗いにな
られました。ゆえに血沼の海というのです。
 紀の国の男之水門(おのみなと)まで来られた時に、

 「賤しき奴に傷を受けて死ぬのか!」

と、男建び(雄叫び)をあげられて亡くなられました。ゆえに男の水門(おの
みなと)というのです。陵は紀州の窯山にあります。
 カムヤマトイワレビコの命は、紀伊半島を回られて熊野村まで来られた時、
大熊が現れてすぐに姿を消しました。すると、イワレヒコの命は急に病にかか
られ、また兵士たちも病になって倒れてしまいました。
 その時、熊野のタカクラジ(高倉下)という者がひと振りの横刀(たち)を
持ってイワレヒコの命の伏せられた処に来て、横刀を献じると、イワレヒコの
命はたちまちに起きられ、

 「長く寝てしまった」

と、おっしゃられました。
 そして、その横刀を受け取られると、その熊野の荒らぶる神を自ら斬り倒さ
れました。すると、病に伏した兵士たちもたちまち目覚め立ち上がりました。
 天つ神の御子が、その横刀を所有したいきさつをお尋ねになられると、タカ
クラジが答えて言うには、

 「夢の中に、天照大神と高木の神が現れ、タケミカヅチ(建御雷)の神を呼
んでおっしゃるには、『葦原中国は、今騒がしい。わが子孫たちも病に倒れて
しまった。葦原中国はわが子孫が治める国である。ゆえに、タケミカヅチよ、
地上に下りなさい』と。すると、タケミカヅチの神が、『私が降らずとも、こ
の横刀を降しましょう。タカクラジという者の家の倉にこの刀を降しますので、
タカクラジよ、明日の朝お前は横刀を天つ神の御子に献上せよ』と、おっしゃ
られました。それで、朝起きまして倉を見に行ってみると、本当に横刀があっ
たのです。そういったわけで、この横刀をお届けに上がった次第でございます」

と、いうことでした。
 また、

 「高木の神がおっしゃるには、『天つ神の御子がこれより行く道には荒らぶ
る神がたくさんおる。今、天より八咫烏(ヤタガラス)を遣わさん。八咫烏が
案内するゆえ、その後をついてゆくがよい』とのことです」

と、報告しました。
 そこで、その教えのとおり八咫烏の行く後をついて行かれ、吉野河の河尻に
至りますと(註:この場合むしろ川上になるのでは?)、ウヘ(註:魚を取る
道具)を伏せて魚を取っている人がいました。
 天つ神の御子が、
 「そなたは誰か?」
と、お尋ねになられますと、
 「私は国つ神。名はニエモツノコ(贄持之子)と申す」
と、答えました。このニエモツノコは阿陀の鵜養の始祖です。
 さらに行かれますと、しっぽの生えた人が井より出てきました。その井は光っ
ていました。

 「そなたは誰か?」

と、お尋ねになられますと、

 「私は国つ神。名はイヒカ(井氷鹿)と申す」

と、答えました。このイヒカは吉野首等の始祖です。
 さらに山に入られると、またしっぽの生えた人が会われました。この人は岩を
押し分けて出てまいりました。

 「そなたは誰か?」

と、お尋ねになられますと、

 「私は国つ神。名はイシオシワクノコ(石押分之子)と申す。天つ神の御子が
来られると聞いたので参上いたしました」

と、答えました。このイシオシワクノコは吉野の国巣の始祖です。
 イワレヒコの命たちは、その地より踏み穿ち越えて宇陀に参られました。ゆえ
に、この地を宇陀の穿(うかち)といいます。
 

 先に、このタカクラジが天香語山命と同じ神とされている、と言いました。
 天香語山という文字から、奈良県にある「天の香具山」を連想した人も多いの
ではないでしょうか?「香」という字は、朝鮮半島の言葉では「カグ」といいま
す。
 奈良県の香具山も、『日本書紀』では「天香山」と書き、『古事記』では、
「天金山」と書いています。
 「香」は、日本語の音読みだと「コウ」で、鉱山の「鉱」もまた「コウ」なの
ですが、朝鮮半島でも、鉱山を「カグサン」といい、やっぱり「香」と同じ音に
なります。
 だから、天金山の「金」は「鉄」であり、「鉱(カグ)」でもあると考えられ
ます。日本書紀の一書にも「天香山の金を採りて、以て日矛を作らしむ」とあり、
天香具山は鉱山のイメージでとらえられていたのではないでしょうか。


 『日本書紀』では、この後イワレヒコたちは葛城に住む赤胴の八十梟帥(あか
がねのやそたける)を討ったとありますが、八十というのは個人の名前ではなく、
「多くのタケル」という意味ではないかと言われおり、つまり鋳銅の技術者たち
のことだと考えられています。
 あかがねとは、銅のことです。
 実際に、葛城地方の御所市にある名柄遺跡からも銅鐸が見つかっていますし、
近くには朝町銅山があります。
 さらに、興味深いことには、「全国の銅鐸の出土地は約230ヶ所であるが、そ
れ等の出土地付近に上古尾張氏の居住の跡のみられる約190ヶ所で80パーセント
の一致をみる」という報告です。(註:このデータは1959年の田中卓『神宮の
創祀と発展』に書かれたものであり、当然数字は当時のものです)


 銅鐸は出雲からも出土していますが、尾張氏と銅鐸の関係は決して見過ごすこ
とのできないものなのです。

・・・つづく