小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

169 物部氏の西進と徳島県吉野川市

2013年08月05日 00時16分30秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生169 ―物部氏の西進と徳島県吉野川市―


 愛媛県今治市の大山祇神社が、「伊予国風土記逸文」に、ここの祭神は
摂津の三島から遷って来た、とありますが、それだけではなく、研究者た
ちを悩ませる一文もまた記されているのです。
 そもそも、この記事とは、

 「伊予の国の風土記に曰く、乎知(おち)の郡の御嶋(みしま)。坐す
神の御名は大山積の神、またの名を和多志(わたし)の大神なり。この神
は、仁徳天皇の御世にあらわれ、百済の国より渡り来まして、津の国の御
嶋に坐しき。この地を御嶋というのは津の国の御嶋からきたものである」

と、いうものなのですが、ここには、大山積神(大山祇神)が百済からやっ
て来た、とあるのです。
 そうすると、天孫は外来神の娘たちを妻に迎えて皇室が誕生したという
ことになるのです。

 もっとも、『播磨国風土記』の揖保郡の大田の里の項には、

「大田というのは、昔、呉の勝(すぐり)が韓国より渡来して来て、最初
は紀伊の名草郡大田の村にいたが、その後枝分かれして摂津の三島の賀美
郡大田の村に移ってきた。
それが、今度は揖保郡の大田の村に移って来た。大田というのは元は紀伊
の大田の地名が由来である」

と、いう記事があるので、摂津の三島から渡来人たちが伊予の大三島に移っ
て来て、その際に大山祇神の信仰も持ち込んだ、という風にも考えられる
のです。
 『播磨国風土記』の記事から、この渡来人は朝鮮半島からのやって来た
人たちだけど呉の人、と言われていたと推測されます。

 ただし、大山祇神の信仰を持ち込み定着させたのは、渡来人たちだけの
働きではなかったと思われます。
 おそらくは、摂津三島周辺の物部氏らが移動し、それにつき従うように
その他の氏族たちも移動したのでしょう。

愛媛県今治市五十嵐には伊加奈志神社(いかなし神社)が鎮座しますが、
祭神は、五柱命、五十日足彦命、伊迦色許命です。
五柱命とは、『古事記』の天地創生の時に最初に現れた神々、
天之御中主神(アミノミナカヌシの神)
高御産巣日神(タカミムスヒの神)。
 神産巣日神(カミムスヒの神)。
宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)。
 天之常立神(アメノトコタチの神(天之常立神)
のことで、五十日足彦命(イカタラシヒコノミコト)は垂仁天皇の皇子で
す。
それから、伊迦賀色許男命(イカガシコオノミコト)は、『日本書紀』に、
物部氏の祖と書かれていますが、社名の「いかなし」とは、おそらく「イ
カガシコオ」の「イカガシ」が転じたものと思わることから、本来の主祭
神はイカガシコオであると思われ、このことから、物部氏の進出が考えら
れるのです。

また、徳島県吉野川市には伊加加志神社(いかがし神社)があり、ここの
祭神は、伊加賀色許売命、伊加賀色許雄命、天照大御神です。
 これなどは、物部氏の四国進出の足跡と見てよいでしょう。

 それから、同じく吉野川市には、『日本書紀』に、「母をば伊香色謎命
(イカガシコメノミコト)ともうす。物部氏の遠祖大綜麻杵の娘なり」と
ある大綜麻杵(オオヘソキ)を祀る五所神社が存在します。

 物部氏の西国進出は四国だけではありません。山陽にもその足跡が見ら
れるのです。
 『播磨国風土記』の揖保郡枚方の里の条には次のように記されています。

 「枚方と名付けられた理由は、河内国茨田郡枚方の里の漢人がここにやっ
て来てこの村を開墾したからである。それで枚方の里という」

 枚方の里は現在の大阪府枚方市にあった地名だと考えられています。
 枚方市は『播磨国風土記』にあるとおり河内国に属していましたが、摂
津の旧三島郡とは淀川を挟んで隣接しています。なお、茨木市とは間に高
槻市を挟んでいますが、その距離は非常に近いものなのです。
 そして、何よりも淀川に近いところに伊加賀という地域が存在している
のです(伊加賀本町、伊加賀西町など)。

 こうした物部氏の西進が、後に吉備氏との摩擦を招いたと推測されます。

 さて、伊加加志神社も五所神社が鎮座する吉野川市は、2004年に誕
生するまでは麻植郡でした。麻植郡は阿波忌部氏の拠点でもあります。
 実際、吉野川市には忌部神社があり、これは式内社忌部神社に比定され
ている神社です。
 なお、公式には、式内社忌部神社は徳島市二軒屋町の忌部神社となって
いますが、これにはちょっとした理由があるのです。
 その理由とは、麻植郡(現在の吉野川市)の忌部神社と美馬郡の御所神
社が、互いに当社こそ式内社の忌部神社だと主張したために、明治25年
(1892年)に、現在の徳島市二軒屋町に式内社忌部神社の「後継社」
として忌部神社を遷座したのです。

 しかし、忌部氏の拠点に物部氏が進出したということは見落としてはい
けないことではあります。
 伊勢の忌部氏が伊勢神宮の祭祀に関係しており、物部氏は伊勢進出の伝
承を持ち、かつ伊勢の采女の伝承を持つ。
 物部氏、そして穂積氏はやはり伊勢神宮の祭祀に何らかの関わりがあっ
たと考えてよいでしょう。

 ただ、穂積氏が海神の祭祀に関係する伝承を持つことを考察する時に、
もう1つのキーとして尾張氏の存在を無視するわけにはいきません。



・・・つづく