小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

通じるまで何度もチャレンジ

2013年08月02日 01時17分11秒 | 日記
2010年10月12日(火)(2歳6か月)


 さーて、今日もそろそろ春奈を
風呂に入れてやる時間だ。

 「春奈、風呂いこか」

と、僕が声をかけると、

 「ゆうかんなり!」

と、春奈が言った。

 勇敢なり???

 聞き直すと、

 「ゆうかいなり!」

に変わった。

 誘拐だと???

 何の話だろう?

 もう1度聞き直すと、

 「ようかいなり!」

に変わった。

 今度は妖怪かよ?

 わからん・・・。

 すると、春奈が敬礼のポーズを
取って、もう1度

 「ゆうかいなり!」

と、言った。

 あー、わかった。

 「了解なり!」と言ってるのか。

 しかし・・・。

 大人でも、ヒッポでもよくあること
だけど、外国の人と相手の国の言葉で
話している時に、その相手が不思議そ
うな顔をする時がある。

 そんな時は、「あ、通じてないな」
と感じて言い方を変えてみる。

 今回の春奈もこれと同じだ。

 ただ、大人の場合だと、それでも相手
に通じないと英語で伝えてしまったりす
る。

 今回の春奈の場合だと日本語が通じ
ないと他の言葉で伝えることができない。

 だから何度もチャレンジする。

 本当はこれが大事で、これこそが話せ
るようになる近道なんだろうね。

167 新家氏と伊勢

2013年08月02日 01時11分33秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生167 ―新家氏と伊勢―


 それでは残る穂積臣の祖大水口宿禰(オオミクチノスクネ)
も大物主の祭祀に関係していたのでしょうか。

 穂積氏の女性だとされるオトタチバナヒメが行った儀礼に
海神の儀礼が重なると指摘しましたが、穂積氏の出自は大和
国山辺郡穂積(天理市前栽町に比定)と言われています。
 海のない大和出自の穂積氏が海神と関係があるのはどうし
てなのでしょうか。

 研究者たちが言うように倭迹速神浅茅原目妙姫がヤマトト
トヒモモソヒメだとするならば、大物主の妻ということにな
り、それは多神社の天祖賢津日女神尊=天照大御神と重なり
ます。

 伊勢麻績君は、ここまで見てきましたように伊勢神宮内宮
の神御衣祭に関係をうかがわせます。(ただし、天照大御神
を祭神とする伊勢神宮の信仰は崇神朝よりももっと後世のこ
とであろうと考えられますから、伊勢麻績君そのものの存在
もまた後世に創作された可能性が高いとみられます)
 ならば穂積臣の祖大水口宿禰も天照大御神に関係している
と考えた方がよいでしょう。

 穂積氏は、『古事記』には宇摩志麻遅命(ウマシマジノミ
コト)を始祖とすることが記されていますが、ウマシマジノ
ミコトを始祖とする氏族には、穂積氏の他に物部氏、娞氏が
挙げられます。
 婇(うねめ)氏は采女を管轄した氏族であるなどと言われ
たりしますが、『日本書紀』には、雄略天皇の時代に采女に
関連した記事が多く取り上げられ、そこに婇氏とは同族の物
部氏や職業としての物部も絡んでいます。しかも、伊勢の采
女に関する記事が多く見られることから、やはり伊勢に関係
している氏族と思われます。

 また、物部氏も、天照大御神に関わる伝承を持ちます。
 神武天皇が危機に陥った時に、アマテラスはタケミカヅチ
に地上に降りるよう命じますが、タケミカヅチは、
 「我が地上に降りるまでもありません。この横刀を降ろし
ましょう」
と、言って霊剣布都御魂を高倉下(タカクラジ)のもとに降
ろします。
 この剣を石上神社にて管理していたのが物部氏なのです。

 では、穂積氏と伊勢神宮の関係は、となると、斎宮のヤマ
トヒメから草薙の剣を授かったヤマトタケルに穂積氏の女性
であるオトタチバナヒメがつき従った、という、非常に間接
的なものになるのです。
 しかし、それならば、目妙姫や伊勢麻績君とともに大水口
宿禰が名を連ねている理由には相当しないように思えます。

 そこで考えられるのが摂津三島です。
 摂津国の旧の三島郡に含まれる大阪府茨木市に穂積という
地名があることはお話ししましたが、南北に走る名神高速道
路とJR東海道本線に挟まれるように位置します(ただし西
穂積町は名神高速道路よりも西側にあります)。
 ところで、茨木市には3つの新屋坐天照御魂神社(にいや
にますあまてるみたま神社)が存在しますが、鎮座する場所
は、穂積の北東に位置する西河原、西穂積のほぼ真北に位置
する西福井、穂積の北西に位置する宿久庄といったように、
穂積地区の北部を覆うような形になっているのです。

 新屋坐天照御魂神社の祭祀氏族は新家氏ですが、『先代旧
辞本紀』によれば、新屋氏の祖は物部竺志とあるので、物部
氏の分流で、つまりは穂積氏と同じニギハヤヒの系譜になり
ます。

 『日本書紀』の宣化天皇元年の項に、物部大連麁鹿火(も
ののべのおおむらじあらかい)が新家連を遣わして新家屯倉
の穀を運ばせた、という記事が見えますが、新家屯倉は、伊
勢国、現在の三重県の、久居市(2006年の合併により現
在は津市)に存在した地名の新家が比定されています。この
地には物部神社も存在します(近鉄名古屋線沿線。桃園駅と
雲出川の中間に鎮座)。
伊勢神宮の『皇太神宮儀式帳』によれば、孝徳天皇の時代に、
度会(わたらい)の山田原に屯倉を立てて神郡にした時に、
新家連阿久を督領に、磯連牟良を助督にした、とあります。
磯氏は度会氏のことです。
 大和岩雄(『神社と古代王権祭祀』)は、

「たぶん、神郡の「マツリゴト」のうち、政事は外来の新家
氏、神事は土着の度会氏が行ったと考えられる」

と、しており、また、大和政権の伊勢進出についても、これ
まで何度か紹介しましたように、『日本書紀』では雄略天皇
の時代に、物部連目が伊勢朝日郎を討った記事があり、「伊
勢国風土記逸文」には、神武天皇の時代に天日別命(度会氏
の祖)が伊勢津彦を討った話があるのですが、このことにつ
いても、

 「中央史観に立つ『日本書紀』は征服者を雄略朝の物部氏
とし、地方史観による『風土記』は渡会氏の祖を征服者とし
て時代を神武天皇までさかのぼらせたのであろう」

と、考察しています。

ところで、新家氏が天照御魂神を祭祀するようになったのは
どういう経緯によるものでしょうか。
 新屋氏は物部氏の分流なのですから、始祖のウマシマジや
その父ニギハヤヒを祭祀するのが自然に思われます。
 茨木市に3つある新屋坐天照御魂神社は、元々は西福井だ
けにあったものが西河原と宿久庄に分詞されたといわれます
が、西福井では、天照皇御魂大神とホアカリ(天照国照天彦
火明大神)を祀ります。なお、天照皇御魂大神は天照大御神
のことと言われています。
 西河原ではホアカリを祀り、宿久庄では、天照皇大神(天
照大御神)とホアカリ、ホノニニギを祀っています。
祭神の天照御魂神は、現在でこそ天照大御神のこととされて
いますが、おそらく元は海人系の氏族たちが祭祀するアマテ
ル神ではなかったでしょうか。
 それと言うのも、海人系の氏族たちにはホアカリを祭祀す
る氏族も少なくなり、ホアカリもまたアマテル神とされるか
らです。

 問題は、なぜ新家氏が海人系氏族の祭祀する神を自身も祭
祀し、また穂積氏にも海の伝承(オトタチバナヒメの海での
儀礼)を所有しているか、です。


・・・つづく