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小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

642 蘇我氏の登場 その8

2019年02月14日 01時45分10秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生642 ―蘇我氏の登場 その8―


 まず、最初にみていきたいのが石川郡です。
 石川郡に佐備郷があったことは注目すべきことです。
 と、言うのも『日本書紀』の神功皇后摂政五年の記事によれば、新羅が、日本に人質に
出されていた新羅王子の微叱許智伐旱(ミシコチホッカン、「新羅本紀」では未斯欣)を
策略でもって新羅に脱出させたことで、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)が新羅の早羅城
(さわらのさし)を攻撃し、これを落とすと、捕虜たちを日本につれ帰って、これが桑原、
佐穈(さび)、高宮、忍海(おしぬみ)に住む渡来人である、とあるからです。
 佐穈が現在のどこにあたるのかについては、この石川郡佐備郷とする説と大和国葛上郡
佐味郷とする説のふたつが有力ですが、どちらかと言えば佐味郷にやや軍配が上がるよう
です。それは、桑原が大和国葛上郡桑原、高宮が大和国葛上郡高宮、忍海が大和国忍海郡に
それぞれ比定されているからで、いずれもが葛城地方に比定されているわけです。そのため、
佐穈についても、桑原・高宮と同様に大和国葛上郡である、と考える方が自然だというわけ
です。
 ただし、高宮については河内国讃良郡の高宮とする説もあるので佐穈が河内国石川郡と
する説も安易に否定はできませんが。
 それでも、やはり『日本書紀』の神功皇后摂政五年の記事に登場する四邑は大和の葛城で
あったと思われ、その地から河内に移住したとする考えが主流です。

 ところが、移住したのが渡来人であったとは断定しづらい点もあるのです。佐備には
大和の忌部氏が大いに関係しているという説もあるのですが、このことについては後述する
ことにして、今はまず渡来人に焦点を絞っていきたいと思います。

 この地域一帯における渡来人の分布についての研究は、水野正好「河内飛鳥と漢・韓人の
墳墓」や山尾幸久「河内飛鳥と渡来氏族」(ともに門脇禎二・水野正好編『古代を考える 
河内飛鳥』に詳しいのですが、たとえば、石川郡山代郷(現在の南河内郡河南町山代)には、
漢人系の山城忌寸(やましろのいみき)がいたことが山代忌寸真作(まはぎ)の墓誌によって
確かめられています。
 昭和27年に奈良県五條市の阿太小学校に墓誌が保管されているものが発見されたのですが、
そこには「河内国石川郡山代郷従六位上山代忌寸真作」と記されていたのです。

 石川郡に近接する錦部郡(にしごり郡)には百済郷という百済の国名をそのまま用いた
地名が存在しましたが、この地には百済系の錦部連が居住していました。また、高向(現在の
河内長野市高向)には高向村主(たかむこのすぐり)がいました。

 『新撰姓氏録』の逸文には、阿智王が妻子と漢人の七氏族をつれて来朝したことが記されて
いますが、この阿智王と同一人物と見られるのが『日本書紀』の応神二十年九月の条にある
阿知使主(あちのおみ)です。こちらは、『日本書紀』の中で、

 「阿知使主(あちのおみ)、その子、都加使主(つかのおみ)、並びに党類十七県を率いて
帰朝した」

と、あります。
 『新撰姓氏録』にある七氏族は七姓漢人とも言われますが、この七氏族の中に高向氏がいる
のです。

 また、石川郡の北にあった安宿郡(あすか郡)では、上村主、上勝、上曰佐、下村主、下曰佐、
伯禰、飛鳥戸造、飛鳥部、田辺史といった渡来系氏族がいました。
 他にもこの周辺では、古市郡に西漢氏(かわちのあや氏)、武生氏、蔵氏がおり、丹比郡には
葛井氏(ふじい氏)、船氏、津氏などがいましたが、これらは渡来系氏族なのです。

 このように、南河内には多くの渡来系氏族が存在していたわけですが、ここで物部氏との関係が
関連付けられてくるのです。
 河南町の磐船神社が物部氏とゆかりのある神社であったとするなら、物部氏は南河内を掌握し、
かつ渡来系氏族を管轄していたものと思われるのです。
 そもそも物部氏の本拠は現在の東大阪市であったと言われているのですが、他にも大阪府下では、
先に紹介した八尾市の渋川に別業があり、『日本書紀』を見れば、物部目大連が雄略天皇から
餌香(えが)の長野邑を賜った、という記事があり、この餌香は大阪府羽曳野市恵我之荘に比定
されていますから、河内の広い地域に根を張っていたものと思われます。
 そこに蘇我氏の支流である蘇我倉氏が進出してきたわけですから、蘇我氏本宗が河内の渡来人系
氏族たちをその傘下に収め始めたということも十分に考えられ、その結果として物部氏と蘇我氏の
対立が生まれたのです。
 もちろん、蘇我倉氏の河内進出は物部氏滅亡後のことと考えることもできます。それに渡来系
氏族の帰属をめぐっての対立と結論づけるには仮説の上に仮説を立てる論法となる傾向にあるのも
確かです。
 しかし、近年言われているような蘇我氏と物部氏と対立が仏教を巡ってのものではなかったので
あれば、対立の原因は勢力争いと考えるべきであり、ではその勢力争いとは具体的にどのような
ものだったのか、と問われたなら、やはりそれは渡来系氏族を自分の傘下にしようとする争いで
あったと考えるべきではないでしょうか。

 それに、河内の渡来系氏族を影響下に置くにあたって、蘇我氏にはその下地があり、逆に物部氏の
方も完全に渡来系氏族を掌握するには至っていなかった事情があったのです。

641 蘇我氏の登場 その7

2019年01月20日 01時57分30秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生641 ―蘇我氏の登場 その7―


 それではもうひとりの「石川」の地名を有する名を持つ人物、蘇我倉山田石川麻呂に
ついてはどうでしょうか。
 蘇我倉山田石川麻呂は、中大兄皇子らとともに乙巳の変で蘇我入鹿暗殺に加担した
ものの、後に謀反の嫌疑で自殺した悲劇の人物として語られます。しかし、蘇我倉山田
石川麻呂については分かっていないことが多く、その最たるものが名前ではないでしょうか。
 蘇我倉山田石川麻呂、この名前について、「蘇我」が氏族名で「倉山田石川麻呂」が
名と思っている人が少なくないように思います。蘇我倉山田石川麻呂の弟たちが、蘇我日向、
蘇我赤兄、蘇我果安など蘇我を氏族名にしているので、蘇我倉山田石川麻呂の場合もあく
までも蘇我が氏族名だと考えられていても何ら不思議はないかもしれません。
 しかし、直木孝次郎(『日本古代国家の構造』)は、「蘇我倉山田」までが氏族名、
「石川麻呂」が名、もしくは、「蘇我倉山田石川」までが氏族名で「麻呂」が名ではないか、
と提唱しており、志田諄一(『古代氏族の性格と伝承』)も、「蘇我倉山田石川」までが
氏族名で「麻呂」が名、としています。
 ちなみに両者がこのように考える理由なのですが、直木孝次郎は『日本書紀』に、蘇我倉麻呂、
蘇我倉山田麻呂、倉山田麻呂、蘇我石川麻呂、倉山田大臣、蘇我倉山田麻呂大臣などの呼称で
記されていること、志田諄一も、蘇我日向が蘇我倉山田石川麻呂のことを「異母兄麻呂」と
言っていることを挙げています。

 それでは蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏の出身なのか否か、という点が問題になるかと思い
ますが、蘇我倉山田石川麻呂とは、蘇我馬子の子、蘇我倉麻呂の子だとされています。
 もし志田諄一の説のとおりだとすれば、父子でともに蘇我倉麻呂という名になるわけですが、
『日本書紀』の「舒明天皇即位前紀」には、「蘇我倉麻呂またの名は雄当(おまさ)」とあり、
こちらの蘇我倉麻呂には雄当という別名があったことになります。
 『公卿補任』には、蘇我馬子の子、「雄正子臣」という人物が登場しますが、志田諄一は
この人物を雄当と同一人物とみています。
 つまり、馬子の子、雄当が蘇我倉氏の始祖ということになるわけです。

 そうすると、雄当の子の麻呂(蘇我倉山田石川麻呂)が氏族名を「蘇我倉山田石川」に変えた
ということになるのですが、その理由、そして、それ以前に雄当が「蘇我倉」を称した理由は
何でしょうか。
 直木孝次郎によれば、蘇我倉の「倉」とはすなわち「蔵」で、大化以前の朝廷には財政関係を
司る官司として「蔵」が置かれていた、といいます。
 その根拠となるのは、『古事記』や『日本書紀』には蔵に関する記事がいくつか見られることで、
そこら官職としての「蔵」の存在をうかがうことができる、というのです。
 たとえば、
 履中天皇が阿知直を蔵官に任じた記事。(『古事記』)
 履中天皇が蔵職と蔵部を置いた記事。(『日本書紀』)
 雄略天皇崩御の直後に星川皇子が大蔵の官を取った記事。(『日本書紀』)
 欽明天皇の時代に、秦大津父が大蔵省に拝したこと、秦伴造を大蔵掾としたこと。(『日本書紀』)

 また、諸記録に、蔵に関する氏族名が見られること。
 たとえば、蔵であれば、倉臣、倉連、椋連、倉首、蔵史。
 内蔵であれば、内蔵(氏)、内蔵宿禰、内蔵朝臣。
 大蔵であれば、大蔵直、大蔵忌寸、巨椋連、大蔵宿禰、大蔵朝臣。
 このように、蔵そのものを氏族名する氏の他に、忍海倉連、春日蔵首、当麻之倉首など、
複姓の氏族の名が見られます。

 以上のような記録などから、蘇我雄当が蔵の役職に就き、それによって「蘇我倉」という
氏族名を称するにようになった、というのです。
 そして、さらにその子である麻呂が「蘇我倉山田石川」を称したのは、山田と石川を領する
ようになったからではないか、と考察できるのです。
 このうち、「山田」は、蘇我倉山田石川麻呂が建立したという山田寺があった、奈良県桜井市の
山田で間違いないと思われます。そして「石川」は河内国の石川郡だと思ってよいでしょう。
 蘇我氏は後世に石川氏を称するようになりましたが、この「石川」も地名から採ったものと
考えるのが自然なので、こちらの石川も河内国石川郡であり、同じく蘇我倉山田石川の石川も
河内国石川郡と思われるわけです。

 ただ、蝦夷・入鹿という蘇我氏の本宗は乙巳の変で滅亡しているから、石川氏を称したのは
蘇我倉氏であり、かつ蘇我倉山田石川麻呂とその子たちは謀反の嫌疑で自刃しているので、
蘇我倉山田石川麻呂以外の誰かの子孫ということになります。(志田諄一は蘇我倉山田石川麻呂の
弟のひとり蘇我連の子孫と考察しています)

 以上考察が長くなってしまいましたが、河内国石川郡と蘇我氏本宗は関係がなく、おそらくは、
蘇我倉山田石川麻呂が新しく得た領地と思われるのです。
 もっとも、蘇我倉山田石川麻呂の系譜が途絶えた後に「蘇我氏の子孫」が石川氏を称している
ことから、石川郡を賜ったのは蘇我雄当なのかもしれません。あるいは、蘇我倉山田石川麻呂の
遺領を弟の連が受け継いだのかもしれませんが。

 いずれにせよ、結論として、河内国石川郡と物部氏との間につながりがあった可能性は十分に
ある、ということです。そして、時期的にはおそらく物部守屋滅亡後になると思えるのですが、
蘇我氏の一族である蘇我倉氏が進出していった、と考えられるのです。
 しかし、このような物部氏の勢力圏に蘇我氏が進出していったという事例は他の地域でも起こって
いたのかもしれません。もちろん、これについては文献に記されてはいないので「可能性がある」と
しか言えないのですが。
 ただ、石川郡の例ひとつとってみても、そこには領地争いとは異なるまた別の衝突が起こり得る、
そんな要素を含んでいるのです。もしかすると、物部氏と蘇我氏の抗争の本当の原因はこれにある
かもしれないのです。

640 蘇我氏の登場 その6

2019年01月07日 00時36分39秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生640 ―蘇我氏の登場 その6―


 もっとも、近年では蘇我氏渡来人説はやや劣勢と言えるでしょう。そもそも蘇我氏が渡来人と
考える根拠は何か、近年ではあまり支持されない傾向にあるのはなぜか、といったことはここ
では割愛させていただきます。

 反対に、もっとも有力視されているのが奈良県橿原市曽我町を発祥の地とする説です。
 理由は、蘇我氏と同じ臣(おみ)の姓(かばね)を持つ氏族の多くが地名を氏族名としている
ことと、曽我町に鎮座する宗我坐宗我都比古神社(そがにますそがつひこ神社)が別名を入鹿宮と
呼ばれているからです。

 それでは問題となる河内国石川発祥とする説についてなのですが。
 これは、次の2点が主な根拠と言ってもよいと思います。
 すなわち、1つ目として飛鳥の地名が存在すること。
 2つ目には、蘇我石河宿禰や蘇我倉山田石川麻呂など、名前に石川という言葉を含む人物が
蘇我氏にいること、そして蘇我氏が後に氏族名を石川氏に改称していることです。

 そもそもの話なのですが、河内の石川とは、大阪の南河内地域を流れる石川流域のことで、
具体的には富田林市、南河内郡河南町、南河内郡太子町あたりを指します。
 河内の飛鳥は河南町や羽曳野市周辺を指しますが(羽曳野市に飛鳥という地名が現存します)、
この河内の飛鳥は古くより「近つ飛鳥」と呼ばれているのです。一方、奈良県の飛鳥(明日香)は
「遠つ飛鳥」と呼ばれるのです。
 奈良県の飛鳥は言うまでもなく蘇我氏と関わりの深い土地です。だから、河内の飛鳥も、
蘇我氏に石川という地名を含んだ人物がいることも絡めてきっと蘇我氏と縁のある地であろう、と。
その上で、奈良の飛鳥が「遠つ飛鳥」で河内の飛鳥が「近つ飛鳥」と呼ばれているのだから
蘇我氏は河内が発祥で後に大和の飛鳥に遷っていったのだ、というのが、河内の石川発祥説の
第1に挙げた理由です。

 しかし、「近つ飛鳥」の呼称を根拠とするには、あくまでもこれが蘇我氏によって呼称された
ものでなくてはなりません。残念ながら河内の飛鳥が蘇我氏によって「近つ飛鳥」と呼称される
ようになった、とする記録はないのです。
 そこで蘇我氏は河内発祥と考えるには、2つ目の「石川の地名と人物名」に求めることとなり
ます。

 まずは石川の地名を含む名前を持つ蘇我氏の人物ですが、一人目は蘇我氏の始祖である蘇賀(蘇我)
石河宿禰です。
 蘇賀石河宿禰の系譜は8代孝元天皇から始まり、その子孫である武内宿禰の子が石河宿禰とされて
います。ただ『古事記』と『日本書紀』とでは少し異なる系譜を載せています。
 『古事記』では、孝元天皇の御子である比古布都押之信命(ヒコフツオシノマコトノミコト)が、
木(紀伊)国造祖先宇豆比古(ウヅヒコ)の妹山下影日売(ヤマシタカゲヒメ)を娶って生まれた
のが建内宿禰となっています。早い話しがヒコフツオシノマコトの子であるとしているわけです。

 これに対して『日本書紀』は、武内宿禰は彦太忍信命比古布都押之信命(ヒコフツオシノマコトノ
ミコト)の孫となっており、かつ屋主忍男武雄心命(ヤヌシオシオタケヲゴコロノミコト)と紀直の
遠祖菟道彦(ウヂヒコ)の娘影媛との子としています(つまり屋主忍男武雄心命は彦太忍信命比古布
都押之信命の子ということになるのでしょうか)。

 ところで、『日本書紀』にある屋主忍男武雄心命は、『古事記』にある少名日子建猪心命(スクナ
ヒコタケイココロノミコト)と同一人物だと考えられています。
 『古事記』にある少名日子建猪心命は孝元天皇の御子なので、孝元天皇の孫とされる『日本書紀』の
屋主忍男武雄心命との違いがまず見られますが、この差異よりもその生母の方に注目したいと思います。

 ヒコフツオシノマコトの生母は記紀ともに伊迦賀色許売命(イカガシコメノミコト)となっています。
イカガシコメはその後、孝元天皇の御子で第9代天皇となった開化天皇の皇后となり(つまり再婚)崇神
天皇を生んでいます。
 『古事記』では孝元天皇の御子となっている少名日子建猪心命の生母は内色許売命(ウツシシコメノ
ミコト)となっています。
 イカガシコメとウツシシコメ、実はこのふたりは叔母と姪の関係なのです。
 イカガシコメは内色許男命(ウツシシコオノミコト)の娘で、ウツシシコメはウツシシコオの妹なの
ですが、問題はこのウツシシコオが「穂積臣等の祖」と記されていることです。
 穂積氏はニギハヤヒの御子ウマシマヂの子孫なので物部氏と同族となります。
 このことはすなわち、蘇我氏の始祖を辿っていくと物部氏の始祖に行き着くということになるのです。
 このことは、つい見逃されがちになっていますが、蘇我氏と物部氏の関係を考える上で非常に興味深い
ものとなります。

 さて、石川の名を持つ蘇我氏の人物として一人目に紹介した石河宿禰ですが、実在性を問われると
大いに疑問を抱かざるを得ないのです。
 しかも、石河宿禰から稲目に至る系譜を見ると次のような名前が並ぶことになるのです。

 石河宿禰 ― 満智 ― 韓子 ― 高麗 ― 稲目

 特徴として朝鮮半島を連想させる名前が連なっています。韓子(からこ)や高麗(こま)は言うまでも
なく、満智(まち)という名も、朝鮮半島の人物を連想させるものです。『日本書紀』の応神天皇二十五年の
記事には、幼少の百済王、久爾辛王に代わって執政を行った、木満致(モクマンチ)という人物が登場します。

 実を言えば朝鮮半島を連想させる名前の人物が続くことが、蘇我氏渡来人説の根拠のひとつとなっている
わけなのですが、その一方で、韓とか高麗などストレートすぎる名前がむしろ実在を疑わせるという指摘も
あり、それで言えば石河宿禰という名も後から付けられた可能性も否定できないのです。

639 蘇我氏の登場 その5

2018年12月20日 01時45分03秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生639 ―蘇我氏の登場 その5―


 これは、著者の大山誠一自身が記すように、北條勝貴によって指摘されたものなのですが、
魏崔浩条にあるのは次のような内容になります。

 北魏の泰平真君七年(四四六)、太武帝に重用された宰相の崔浩は、道教の国教化を図って
寇謙之(こうけんし)を天師とし、僧尼を迫害し、伽藍を破壊し、経典を廃棄するという
大規模な廃仏を行った。
 この後、崔浩は後宮の庭から一体の金像を掘り出すが、これを汚したところ陰部に痛みを
覚える。太史から「大神を犯したためです」と卜断を受け、広く名山・、祀廟に祈願するが
効験を得られず、宮人の助言で仏に祈請してようやく快癒に至る。そこで崔浩は仏に帰依
するが、罹患して慚愧の心を起こした太武帝により寇謙之は酷刑に処せられ、崔浩自身も
誅殺されてしまう。太武帝はそのまま崩御し、孫の文成帝が即位するに至って仏教が再興
される。
 (大山誠一『天孫降臨の夢』より抜粋)

 たしかに、この内容は『日本書紀』の「敏達紀」によく似ています。ただし、魏崔浩条に
おける崔浩の行動が、「敏達紀」では蘇我馬子と物部守屋のふたりに分かれているところが
異なりますが。
 「敏達紀」では、病にかかり、それを卜者にから「仏神の祟り」と言われたことで一層仏を
礼拝し、結果快癒することになったのは崇仏派の蘇我馬子となっています。
 一方、仏像と仏殿を焼き、焼け残った仏像は捨て、僧尼を迫害したのは物部守屋となって
います。
 こうした違いはあるにしても、馬子の話と守屋の行動は魏崔浩条の内容と酷似しています。
 さらには、敏達天皇も病にかかり、天皇は僧尼を馬子に還すものの崩御してしまうところも
魏崔浩条の太武帝とよく似ています。
 そして、明日香時代に入ると仏教が栄えるところも、魏崔浩条に、太武帝の孫の文成帝の
時代に仏教が再興された、とあることと大いに似通っているのです。

 ここまで共通点が多いとなると、「敏達紀」は「魏崔浩条」を模倣としていると考える
方が自然でしょう。
 すると、物部氏と蘇我氏の抗争も、仏教を巡ってのものではなかったことになってしまう
のです。物部尾興、稲目父子が排仏派ではなかったとは言いませんが、その行為も、『日本書紀』に
記されている内容ほどの過激な行動ではなかったと思えるのです。
 ならば仏教を信仰するか否かという対立は武力抗争に発展するほどのものではなかったはず
です。

 それでは、物部氏と蘇我氏の抗争の原因は一体何だったのでしょうか?

 この疑問を解くために、あらためて物部氏と蘇我氏の本拠を追ってみたいと思います。
 まず、物部氏ですが、本拠は大阪府東大阪市とする説が有力です。
 物部氏の始祖はニギハヤヒノミコト(『古事記』では邇芸速日命、『日本書紀』では饒速日尊)
です。この神は天つ神で、神武天皇よりも先に大和に降り立った、と『古事記』や『日本書紀』に
記されています。
しかし、物部氏らニギハヤヒの子孫を主に記された『先代旧辞本紀』には、ニギハヤヒの降り
立った地は河内国河上の哮峯(いかるがみね)で、そこから大和の鳥見に遷った、と記されて
いるのです。
 では、この哮峯がどこなのか、ということについてなのですが、その比定地については諸説
あり、大阪府と奈良県を隔てる生駒山のどこか、あるいは大阪府交野市、大阪府南河内郡河南町
などが候補に挙げられます。
 生駒山説は生駒山のどこか、と曖昧であるのに対して、交野市説と河南町説は具体的な場所が
否定されています。交野市説は交野市私市の磐船神社で河南町説は河南町平石の磐船神社です。
どちらも同じ磐船神社(いわふね神社)という社名ですが、磐船とは、ニギハヤヒが高天の原
から降り立った時に乗ってきた「天の磐船」を指します。

 ただし、河南町の磐船神社よりも交野市の磐船神社の方が有力視されている傾向にあります。
逆になぜ河南町説が不利なのか言いますと、河南町の磐船神社が鎮座する河南町平石はかつて
石川郡に属しており、石川郡は蘇我氏の拠点だったとされているため、ここが物部氏の始祖で
あるニギハヤヒの降り立った地であるとは考えにくい、というわけです。

 しかし、石川郡が本当に蘇我氏の拠点だったとするならば、どうしてここに天の磐船伝承に
ちなむ磐船神社が鎮座するのか、という疑問が生じるわけで、これを解決せずに河南町説を否定
することはできません。
 そのため、まずは石川郡が蘇我氏の拠点、という「通説」についても再考する必要がある
ように思えます。

 そもそも蘇我氏発祥の地はどこか、ということから始めなくてはいけないのでしょうが、他の
氏族がそうであるように、蘇我氏もまた発祥の地がどこかと言うことについては諸説あるのです。
 それどころか、蘇我氏が渡来人であるという説もあり、実際のところ現代に刊行されている
書籍の中にも「蘇我氏は渡来系氏族」と書かれているものが少なくはないのです。

638 蘇我氏の登場 その4

2018年12月12日 00時49分50秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生638 ―蘇我氏の登場 その4―


 仏教伝来は『日本書紀』に、欽明天皇十三年の出来事と記されており、これが「正史」とされて
います。実はこの記事に関しては多くの研究者が疑問視しているのですが、そのことは主題では
ないので横に置いておくとして、『日本書紀』は次のような内容のことを記します。
 欽明天皇は群臣を前に、「仏を信じるべきかどうか?」と尋ねられると、蘇我稲目は「諸外国は
仏教を信仰しております。日本も受け入れるべきです」と答え、物部尾興と中臣鎌子は、「日本には
日本の神々がすでにおわすというのに外国の神を祭祀する必要などありません」と反対した。

 このように、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が仏教を巡って対立し続けた後、ついには武力抗争に
発展して結果物部氏は滅ぶこととなった、とされています。
 ところが、今しがたのとおり、『日本書紀』の記事を疑問視する意見も多く、また渋川寺の問題も
あります。
 渋川寺とは、大阪府八尾市渋川町にかつて存在した仏教寺院のことです。現在では存在しないため、
ふつう渋川廃寺と呼ばれています。なお、現在この地には渋川天神社が鎮座します。それでこの渋川廃寺
なのですが、この周辺は物部氏の別業(本拠地以外の領地)であったと伝えられている地なのです。
そのため、物部氏は実は仏教を容認し自らも取り入れていた、などと言われることとなったのです。
 もっとも、渋川廃寺跡から発見された瓦などから、渋川寺は白鳳時代に建立されたと考えられており、
つまり物部氏滅亡後に建てられているので、物部氏が仏教を容認していたと考えるにはいささか難が
あります。

 しかし、物部氏が『日本書紀』に描かれているような強硬なまでの排仏派であったのかどうか、という
点については疑問とする考察は以前より存在するのです。
 これについて紹介する前に、まずは『日本書紀』にて描かれている物部尾興と物部守屋父子の排仏派
ぶりを押さえてみたいと思います。それは次のような内容のものです。

 欽明朝時代、蘇我稲目は小墾田の家に仏像を安置し、向原の家を寺にしますが、その後国中に疫病が
流行します。すると物部尾興と中臣鎌子はその原因が仏教を信仰したことで神が怒ったのだ、と奏上し、
仏像を難波の堀江に捨て、伽藍を焼き払ってしまったのです。
 すると、風雲もないのに天皇が住まわれる大殿が消失するという出来事が起こります。

 敏達天皇十三年の年、蘇我馬子は百済より伝わった弥勒の石像を家の東に仏殿を作って安置します。
この時、善信尼、恵善尼、禅蔵尼の三人の尼を招きますが、まさにその席で仏舎利が出現したので、
馬子は石川の宅にも仏殿を造ります。
 さらに翌年、馬子はその仏舎利を納める塔を大野の丘の北に建てますが、その直後馬子は病にかかり
ます。卜者に問うたところ稲目が祀った仏神の祟りである、と言うので、さらに石像を礼拝したところ、
国中に疫病が流行し、多くの民が死んでしまう状況が起きたのです。
 そこで天皇は物部守屋と中臣勝美の奏上を受け入れて仏法の停止を認めます。
 守屋は仏像と仏殿を焼き、焼き残った仏像は難波の堀江に捨ててしまいます。 
 さらに、善信尼ら三人の尼を全裸にして鞭で打ちます。
 ところが、その直後に天皇と守屋は瘡病にかかり、また多くの民も病で死んでしまったのです。人々は
仏像を焼いた報いだと語り、そのため天皇は三人の尼を馬子を還しますが、まもなく天皇は崩御して
しまいます。

 以上のようなことが『日本書紀』に記されているわけですが、この内容が、中国の仏教の経典などを
参考、あるいは模倣によって作られたものだという指摘があるのです。
 大山誠一の『天孫降臨の夢』は、この点についてのことを詳細かつわかりやすく解説しています。
この書の中にある、仏教伝来ついての章は、吉田一彦、北條勝貴、井上薫、津田左右吉といった研究者
たちの説を織り交ぜ引用する形で展開されているためここで紹介するのは事実上の孫引きになってしまう
のですが、今も述べたようにわかりやすくまとめられているから採り上げてみたいと思います。

 まず、この書で指摘されていることなのですが、『日本書紀』の記事は欽明天皇や敏達天皇が物部尾興や
物部守屋の意見を採用して仏像が捨てられたり伽藍が焼かれるなど廃仏が行わると、大殿が火災になったり、
天皇自身も病となり崩御してしまう、という形をとっています。
 しかし、これは中国の仏教文献を参照、模倣している、というのです。
 中国では、北魏の太武帝や北周の武帝による大規模な廃仏があり、その経緯は唐代の道宣の『広弘明集』、
『集古今仏道論衡』、『続高僧伝』、『集神州三法感通録』や道世の『法苑珠林』に詳しく書かれており、
『日本書紀』の文章はこれらを利用して書かれている、とするのです。

 また、中国の仏教思想には、廃仏の動きが起こり、次に排仏派との戦いがあり、これに勝利した後仏教の
興隆(三法興隆)というものがあるといいます。
 『日本書紀』に書かれていることも、やはり廃仏が行われた後、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の戦いが
あり、勝利した物部氏と聖徳太子らによって立派な寺院が建立され、憲法十七条に「篤く憲法を敬え」と
謳われることになっているのです。

 さらには既出の道世の『法苑珠林』十悪篇邪見部感応縁の魏崔浩条に記された内容は驚くほど『日本書紀』の
記事と一致している、というのです。