さっちゃん 空を飛ぶ

認知症で要介護5の妻との楽しい日常を 日記に書き留めたいと思います

さっちゃんの最期へのカウントダウンが始まってしまった、と思いました

2022-03-05 23:56:07 | 病気やら体調やら
昨日の日没ころからだったと思います。
さっちゃんの息が荒くなりました。
目をつむって寝ている状態でも、その荒く息する音は続いていました。
熱も平熱には戻りませんでしたから、寝ている時にも額に濡れタオルを置くようにしていました。
朝になってもその状態は変わっていませんでした。

今朝の9時前にヘルパーさんが来てくださいました。
今日はオムツ交換と清拭の日なんです。
僕はヘルパーさんにこれから訪問診療のお医者さんが来ることを告げ、その成り行きに沿って行動してくださいとお願いしました。
結局、ヘルパーさんは途中で帰ることになりました。

その後、訪問診療のお医者さんと女性二人が来られました。
3人はさっちゃんの寝ている寝室に向かい、お医者さんがさっちゃんの様子を見ますが、しばらくしてすぐに僕にこう言うんです。
「もう生死が問われる状況です。ご主人に決めていただきたいのですが、
このまま看取るか、時間とお金を掛けて治療するか、どうしますか?」

他にもいろいろな説明をしてくださったように思いますが、突き詰めて言えば上記の二者択一です。
僕の心も揺れています。
もちろん、治療を進めて、せめて退院直後の状態くらいには戻って欲しいという願いがあります。
でも、治療を進めて、ある程度落ち着いて退院できる状況のさっちゃんの容態がどのようなものなのか?
その容態が先週の退院直後よりずっと劣るものだったらどうなのか?
(そうなる可能性が客観的にはかなり高いと素人なりには思います)

さっちゃんが自分の命の在り様に対してどういう考え方を持っていたかは、僕にはある程度想像が付きます。
さっちゃんなら昨年11月の入院直前の自分の状態ですら赦せないだろうと、僕には感じられます。
この状態でもいいから僕と一緒に暮らしてくれ、という僕の我が儘が強かったと思います。
さっちゃんは僕に対して「このまま看取って」と願っているかもしれません。
でも、僕にはそういった決断は下せませんでした。
訪問診療のお医者さんに「救急車を呼んでください」とお願いしました。
僕にはまだ、加療することによって開ける一筋の希望に縋る気持ちが消えていなかったからです。

大柄な3人の救急隊員が部屋に入って来ました。
さっちゃんの様子をひと通り見て、訪問診療のお医者さんと同じ二者択一を僕に迫ります。
「看取ることを前提に一般病院に搬送するか、治療するために救命救急病院に搬送するか、決めてください」
再び僕は悩んでしまいます。
救急隊員の方の問いかけを前に、この二者択一がより重く現実味を帯びて来たのです。
僕は自分の気持ちを訥々と説明しながら声を詰まらせてしまいました。
そして、「救急救命病院にお願いします」と言いました。

このご時世ですから、搬送先がなかなか決まらないのではと思いましたが、おそらく第一候補の、隣りの市の災害医療センターがすぐに決まりました。
必要なものを用意して、僕も救急車に同席します。
9時59分でした。
車内の計器にPsO₂と脈拍の数値が出ていました。
86と140台でした。
ともに異常な数値です。

10時20分、災害医療センター到着。
さっちゃんとはここで別れます。
僕は家族用待合室、狭い個室に通されました。

すぐにA病院の相談員さんに電話して、診療情報提供書の作成を依頼しました。
訪問診療の事業所と契約を結ぶために必要な書類のようです。
今朝、契約のための書類を置いて行ってくださったのですが、契約もまだ一向に進んでいないのに、診察を行なってくださって本当に感謝しかありません。

10時50分に看護師さんが家族用待合室に来てくださいました。
「奥様は嫌なことをされると嫌がる様子もありますよ」
「肺炎もあるようです。後で先生から連絡が来ると思います」

忘れてしまいましたけれど、何か書類にサインしたと思います。

11時12分、医師からの電話が入りました。
「肺炎をおこしていますが、新型コロナウイルスによる肺炎だとの前提でまずは対応します。
もちろん、細菌性や誤嚥性である可能性もありますけど」
「脱水症状が進んでいるので、点滴を補水目的で行なっています」
「亡くなる可能性も十分ありますが、年齢や体力等考慮して、心臓マッサージ等は行ないませんがよろしいですね」
「今日は新型コロナウイルスに感染可能性を前提にそのための病室に入ります。
週明けにでもPCR検査が陰性なら、一般病棟へ移ります」

僕のメモや記憶には不正確な部分もあると思います。
上記内容にも微妙な間違いが含まれているかもしれません。
さっちゃんの顔を見ることも叶いませんし、僕に出来ることもありません。
11時25分、災害医療センターを離れ、帰宅しました。

11時30分、駅に歩いて行きながら、ケアマネさんへの伝言(今日はお休みなんです)を託しました。

2時8分に災害医療センターから電話が入りました。
18分間も喋ったことになっていますが、何を喋ったのか忘れてしまっています。
うろ覚えですが、食事や排泄が全介助であることの確認とか、薬のアレルギーがあるかどうかとか、病歴や手術歴の確認だったような気がします。

僕は何することもなく、さっちゃんが寝ていた介護ベッドで横になっていました。
そんな時、酷く懐かしい山の仲間S﨑くんから電話が入ったのです。
5時10分でした。
彼が学生の時代に知り合い、いろんな山へともに向かいました。
30歳近く僕よりも若いんです。
彼と最後に山に行ったのは2016年4月中旬尾瀬ヶ原でした。
歴史的な寡雪の年でした。
そのブログがこれです。
https://blog.goo.ne.jp/1940sachiko/e/5fb20aee3ee0308ef89fa7ecc23ffcd5
こんな寡雪の年は珍しいですから、すぐ後のGWも僕はさっちゃんと、S﨑くんは奥さんと息子さんを連れて、尾瀬を再度訪れたのです。
そのブログ記事も上記ブログの後を辿ると簡単に見つかりますから、読んでみてください。
この時も彼とは超久し振りの同行でした。

彼とは沢登りをし、谷川岳一ノ倉沢の南稜や中央稜、北岳バットレス4尾根、剱岳のCフェースやDフェースや本峰南壁と源次郎尾根などを登攀しました。
GWには飯豊山塊のほとんど誰も登らないような超マイナーな縦走をしたりしました。
そして、S﨑くんとY根君と僕の3人で穂高お池巡りをしたのです。
穂高お池巡りというのは上高地~ひょうたん池~奥又白池~北穂池~天狗池~槍ヶ岳を、主稜線を通らずに山腹を大トラバースするのです。
さらに槍ヶ岳からは北鎌尾根をP2まで下降し、天上沢へ下りました。
僕にとってとりわけ思い出深い山行の山仲間なんです。

彼が僕の最近の様子を聞くものですから、僕はさっちゃんのことを話しました。
長く話しました。
ひと通り話して、彼や彼の家族(主に息子さん)の近況などに話題が移ります。
会社でもそれなりの役職になったのでしょう、仕事のこなし方も工夫を凝らして上手くなったようです。
月に1回は山へ行こうと思っているのだとか。
それで、僕と一緒に行けないかと、電話を掛けてくれたんです。
彼は40代になったばかりですからともかく、高齢者の僕に一緒に山へ行こうと電話を掛けてくれるとは、本当に有り難いですね。
Y根君もそうですが、彼も本当に優しい奴です。
そんな山仲間がいてくれて感謝しかありません。
ともに状況が許せば、13日の日曜日にご一緒する予定です。
まあ、さっちゃんの状況次第ですけどね。
彼とは43分間も話し続けてました。
嬉しかったですね。
重かった気持ちも少し軽くなったように感じます。

6時41分、ケアマネさんから電話が入りました。
さっちゃんの状況を話し、今朝、訪問診療のお医者さんが来てくださって本当に助かったと話しました。
とても急いで話を進めてくださったケアマネさんに心の底から感謝の気持ちでいっぱいです。
僕自身はいつも後手に後手に回ってしまいがちだったのですが、ケアマネさんの尽力でギリギリ対応できたようです。
もちろん、それで良い結果が保証されるわけではありませんが。

今日これほどの重大局面に、僕の心はただただ揺れるに任せるしかありませんでした。
客観的に第三者的視点で眺めたり、利害関係を計算高く考えたり、さっちゃんへの愛情が皆無のような空想を抱いたりしました。
かと思うと、自宅でさっちゃんの不在に涙したり、さっちゃんへの想いが心締め付けたりもします。
哀しさや辛さ、さっちゃんへの愛おしさだけの心情に支配されてしまわない僕の心を疎ましく思ったりしました。

いったいどうなってしまうんでしょう!?
さっちゃんは・・・・
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