ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

源長寺・掃部宿・千住大橋

2016年05月24日 11時38分01秒 | 歴史の小道

千住駅前に行きたかったので、リハビリ病院を終えて千住に向かいました。病院の裏から綾瀬橋を渡って墨堤通を千住に向かって行きました。JRの高架下に通っている道路を潜り抜けて苦労してどうにか日光道の入り口らしきところに着きました。

角に源長寺がありました。

★ランドマーク源長寺:浄土宗稲荷山勝林院源長寺と号す。慶長三年(1598)この地に住み開拓した石出掃部亮吉胤により、同十五年(1610)一族の菩提寺として開かれたが、千住大橋架橋等に尽くした郡代伊奈備前守忠次を敬慕してそのその法名にちなむ寺号を付して開基としている。本尊は、阿弥陀如来。
墓地に、石出掃部亮吉胤墓(区指定記念物)大阪冬の陣西軍の武将矢野和泉守墓、女行者心静法尼墓、三遊亭円朝が心静に報恩寄進した石燈籠、その他千住宿商家の墓碑が多い。また草創期の寺子屋師匠だった多坂梅里翁の筆子塚、一啓斎路川句碑等がある。

 もとは地蔵尊像を本尊としていた。今の本尊は閻魔大王像。戦災で山門、本堂、庫裏を消失し、1971年、鉄筋コンクリートで再建された。

こちらの地蔵尊は昔からのものでしょうか。

建て直された本堂です。

馬頭観世音

大欅の切り株が

何が書いてるのかわかりませんでしたが、脇に高札が

多坂梅里先生の追悼碑と書かれています。

本堂の脇を抜けて墓地へ入り口のところに、

墓地の中に入ると

矢野和泉守正倫の墓:矢野和泉守正倫て知らない人なので調べて見たら「墓豊臣家中老であった中村一氏の家臣。関ヶ原の戦いで中村家が伯耆の国持大名になると3千石が与えられ伯耆江美城代になっていますが、中村一忠(一氏の息子)が亡くなり中村家は改易となり浪人。その後中村家再興のために大坂城へ入城しますが、大坂冬の陣の今福の戦いで力戦虚しく東軍の佐竹義宣隊に敗れ討ち死にしています。

この敗北直後に木村長門守重成が活躍し、ある意味彼の引き立て役みたいになってしまった人ですが、中村家は鳥取藩主池田家の家老に仕えることとなり形の上では陪臣ながらお家再興を果たしています。なぜ彼の墓が千住にあるのか不明ですが、ご子孫の方などが後に建てたのかもしれません(墓は牧野氏の名がきざまれた礎石にありますし)。」というようなことが書いてあるHPを見つけました。

次にところには

石出掃部亮吉胤の墓がありました。

 

こちらはここまでに通ってきた墨堤通りの堤を作った人のようです。「胤の字で分かるように千葉氏一族です。経歴は北条家の家臣であったなど諸説あるようですが千住掃部宿(現在の千住仲町)の開拓や千住大橋架橋、家康に願い出て荒川に2kmに及ぶ掃部堤を築くなどこの地の開拓に尽力した人物で、幕府にその功を賞され子孫は代々千住掃部宿の名主を務めています。」

昔から千住に住んでいた商家などの古いお墓があります。

無縁仏はこちら集められています。

千住の駅の方面に向かうとこんな広場があります。千住掃部宿の紹介です。

千住宿は奥州街道・日光街道第1宿 日本橋から8.7km 草加宿まで8.7kmのところにあります。

駅前で用事を終えて大橋の方に戻ってみました。

橋から千住宿に向かうところは「やっちゃ場」だったようです。今でも都立の千住市場があります。

奥の細道の芭蕉像があります。

周りにはドクダミの花が満開でした。

千住宿の方を振り返ると

先には千住大橋が見えます。

渡ったところに碑や案内がありました。

浮世絵で名所江戸百景「千住の大はし」が描かれています。

山は筑波山のようです。

江戸名所絵図会ではこのように描かれています。鬼平犯科帳にも時々登場します。

次はこの橋の手前左側にある天王宮に向かいました。

 

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