ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

光源寺(駒込大観音)江戸名所図会めぐり

2017年09月09日 21時43分35秒 | 江戸名所図会めぐり

秋晴れに誘われて駒込の大観音を訪れてみました。団子坂があるので、交通手段をいろいろと悩みましたが思い切って自転車で向かいました。漢音堂です。江戸名所図会より

大人の塗り絵「江戸名所図会」よりお借りしました。たのしく塗り絵されています。

再建された十一面観音菩薩像です。

観音堂の前に初代の大観音像の敷石が置いてあります。

十一面観世音碑です。

現場では意味が分かりませんでしたが、大和長谷の写しという意味ですね。

★ランドマーク駒込大観音:「駒込大観音」は大和国(奈良県)長谷寺本尊の十一面観音を模して元禄10年(1697)地蔵菩薩の持物である錫杖を持ち、岩の上に立つという独特の様式で、お地蔵さまの慈悲をあわせ持つ観音さまとして、古来人々の信仰を集めてまいりました。『江戸名所図会』の挿絵としても掲載されてる駒込大観音は、7月9日と10日にお参りすると4万6千日分のご利益がある「4万6千日」の縁日、酸漿市として今日にいたるまで賑わいをみせております。

  この駒込大観音は昭和20年(1945)5月25日の東京大空襲により堂宇もろとも灰燼と帰し、そのお姿を拝むことができなくなってしまいました。爾来、私どもはその復興に努めてまいりましたが、ようやく念願がかない再興が相成りました。

  再興された十一面観音は長谷寺式同様に錫杖を右手に持つ像高6メートル余の立像で、仏像彫刻家・西山如雲氏により父・如拙氏の監修のもとで木曽檜を用いた寄木造りで彫刻され、さらに東京都伝統工芸士の藤原茂夫氏により漆塗りと金箔・金粉を施して仕上げられました。また、像の後方壁面には書家・柳田泰雲氏揮毫の「妙法蓮華協経観世音菩薩普門品偈」が陶板に加工して飾られ、堂内を荘厳しております。

  観音堂は楜沢成明氏の設計で、創建当時の土蔵造りの外観を生かし、内部はインドなどの仏教聖地の建築意匠をとりいれています。

  なお、観音堂に向かって右手の阿弥陀如来と千手観音の石像は、駒込大観音を建立した江戸の町人、丸屋吉兵衛の供養塔です。また、境内に点在設置してある石は、創建時の観音像の台座として用いられていたものです。

  観音さまは「観世音菩薩」あるいは「観自在菩薩」と呼ばれ、駒込大観音は十一面観音の名のとおり時に応じたさまざまなお顔で私たちに接し、苦しみ、悩み、悲しみ、怒り、願い、喜びなどをもつあらゆる境遇の人に、宇宙の根源的な生命力を自覚させてくださる菩薩です。

  お参りされるときは「南無大慈大悲観世音菩薩」または「オンマカキャロニキャソワカ」と唱え、観音さまを鑑として自己を見つめなおされるようおすすめいたします。

  ここに、駒込大観音を再興するにあたって浄財を寄進してくださった方々のお名前を記しておきます。

  平成5年(1993)5月吉日 駒込大観音光源寺 二十一世観誉俊匡

ちなみに似せたという本物の長谷十一面観音像です。

右手には梅の木がありました。蓬莱梅だそうです。

★蓬莱梅: 「野梅性(やばいしょう)白梅、樹齢約300年」かって、この大観音堂の傍らに梅の古木があったが、昭和20年5月25日の空襲で、観音堂と共に焼失した。 この度、大観音再建にあたり、代替りの梅の木を各地に探し求めたが、榛名山の麓でこの梅を見付け出し、昔を偲ぶ思いをこめて、ここに移植した。蓬莱梅の名称は住居表示改正前、ここの町名であった駒込蓬莱町に因んで名付けたが、明治末頃迄、駒込辺りは梅や桜の花木の産地として有名であった。   平成5年(1993)11月吉日 光源寺住職 島田 俊匡

公園のようになっている一角には庚申塔がありました。

★庚申待百万遍講中庚申塔  文京区指定有形民族文化財 平成23年(2011)3月1日指定

  青面金剛立像を主尊とする笠付角柱型の庚申塔である。紀年銘から明和9年(1772)9月に造立されたものと考えられる。基礎の上に塔身・笠、最上部に宝珠を載せる。地面からの高さは250cmを超える、極めて大型の庚申塔である。

  塔身正面に一面六臂の青面金剛立像を浮き彫りし、その下には青面金剛に踏まれた邪鬼や岩座の中に三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)を浮き彫りする。塔身向かって身側面および左側面には施主銘「庚申待百万遍講中」や願文が、裏面には「南無阿弥陀仏」の六字名号が刻まれる。また、上段の基礎の四面すべてと下段の基礎の正面には200名を超える人名が刻まれている。これらは、本庚申塔に造立に関係した人々と考えられる。

  本庚申塔は、保存状態が良好であり、かつ造作・規模などの点から極めて優品の庚申塔である。江戸時代中期における庚申信仰のあり方を伝える貴重なものである。

  文京区教育委員会 平成24年(2012)3月

石仏が並んでいました。

ようやく表に回ってみました。

★ランドマーク浄土宗 天昌山 光源寺:光源寺は、天生17年(1589)に神田に創建されましたが、慶安元年(1648)に現在の地に移転しました。

浄土宗寺院の本尊は阿弥陀様ですが、大きい観音様が目立っていたため、江戸時代から駒込大観音として親しまれてきました。元禄年間に造られたという奈良の長谷観音を写した十一面観音は東京大空襲で焼失しましたが、平成5年に御丈6m余の御像として再建されました。境内に梅の巨木があることから、梅の大観音とも呼ばれています。

近所に住んだ夏目漱石も小説『三四郎』の中に、この大観音のことを書いています。

毎年7月9日と10日には四万六千日 ほおずき千成り市が開かれます。「四万六千日」とは、7月9・10日の観音様の日に参詣をすると四万六千日(=約126年)分のご利益があるという日の縁日で、今でも賑わっています。

本堂に行く途中で女郎花が生き生きと咲いていました。本堂です。

右手に墓地があります。

明珍本家墓

  平安時代、京都九条の甲冑師・鍔工であった宗介は、その技術のすぐれていることに感をうたれた近衛天皇(1141~1155在位)から「明珍」の号を授かったと伝えられている。以来、その一族は明珍姓を名乗るようになり、代々各地で甲冑・鍔作りを生業としていた。

  光源寺本堂に向かって右手奥には、江戸寛政期(1789~1801)に幕府お抱えの甲冑師となった明珍本家の墓所があり、54世宗介、55世宗正、56世宗政、57世宗益、58世宗妙、59世宗邦、宗家、宗胤、60世宗治などが埋葬されている。

  浄土宗 光源寺    文京区教育委員会 平成8年(1996)3月

墓地の中にも女郎花がたくさん咲いていました。

切絵図です。谷中の長久寺ところから坂を下って千駄木に、川になっているところは不忍通です。途中の団子坂を登って光源寺大観音と書かれているところに着きました。今回の目的は根津権現でした。団子坂上から下って根津神社の裏門に着きました。次回アップします。

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