ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

埼玉(さきたま)古墳群

2016年11月01日 21時35分45秒 | 歴史の小道

行田の姉の家にお邪魔して、付近を散策させてもらいました。忍城址から埼玉古墳群に向かいました。さきたま史跡の博物館のHPより

駐車場のトイレの近くに車を止めて、案内表示に従って、最初に丸墓古墳に向かいました。

途中にこんな石碑がありましたが、調べましたがよくわかりません。

石田堤の右側に文部省の史跡の碑が立っています。

石田堤

左の藪みたいになっているところは水連池だそうです。こちちらは古墳側から見たものです。

埼玉県の古墳群の史跡の碑です。

丸墓山古墳の前で撮りました。

私は登らずに下で写真を撮っていました。丸墓山古墳の案内です。

★ランドマーク丸墓山古墳丸墓山古墳は、直径105m、日本最大の円墳として有名です。墳丘の高さは埼玉古墳群で最高、まさに山のようです。頂上に立つと、隣に稲荷山古墳、その向こうに将軍山古墳の、復原整備を終えた墳丘がよく見えます。また、近年では昔地元の方が植えたソメイヨシノが成長し、桜の名所として親しまれています。 振り返って北西には、行田の市街地が遠望(えんぼう)されます。下から見上げても、上に上ってもその大きさ、高さが実感されます。 

「丸墓山」という名の由来については、「麿墓」(まろはか)が訛って「丸墓」になった、あるいは丸い墳丘からその名が付いたなどの説がありますが、いずれにしても江戸時代の書物に「丸墓山」が登場することから、当時からすでにその名で知られていたことが確認できます。埋葬施設(まいそうしせつ)は発掘されていないため詳しいことはわかりませんが、出土した埴輪から6世紀前半ころに造られたと推定されています。とすれば、稲荷山古墳のあと、二子山古墳と同じころに造られたことになります。

二子山古墳は埼玉古墳群中最大の前方後円墳ですが、相前後して日本最大の円墳が造られたわけです。丸墓山古墳に盛り上げられた土の量は二子山古墳より多いという試算(しさん)もあります。このように、最大級の丸墓山古墳が、前方後円墳が連続していく埼玉古墳群の中に、なぜひとつだけ円墳という形で現れたのか、そして二子山古墳との関係は。謎のむこうに歴史のドラマが秘められているかもしれません。

その後、丸墓山古墳は思わぬ形で歴史の舞台となります。豊臣秀吉が天下統一を進める1590年、家臣の石田三成は、秀吉の備中高松城水攻めにならい忍城を水攻めにします。その際、城がよくみえるこの古墳の上に陣を張ったのです。現在駐車場から古墳へと続く道は、その際築かれた堤防の跡といわれています。いわゆる「石田堤」です。さきたま史跡の博物館のHPより。

丸墓山古墳下の石碑。指定地の村有化のための保存運動を記念して建てられた(1940年建立)ものだそうです。

遠くに見えるのが稲荷山古墳です。

稲荷山古墳は5世紀後半に造られた前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)で、埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)の中で最初に出現(しゅつげん)した古墳です。以前、古墳の上に小さな稲荷社(いなりしゃ)があったことから、稲荷山と呼ばれるようになりました。前方部は1937(昭12)年に土取(つちとり)で壊(こわ)されてしまいましたが、1997(平9)年からの復原整備(ふくげんせいび)で前方部が復元され、現在では造られた当時のカタチを見ることができます。墳丘(ふんきゅう)の全長は120mで、12m近い高さがあり、周囲には2重の堀が巡っています。

堀の整備などはこれからも続けていきますが、墳丘の頂上(ちょうじょう)には登れるようになり、周囲の古墳を見ることができますので、高さを実感して下さい。さきたま風土記の丘を整備するために、1968(昭43)年に稲荷山古墳の後円部を発掘調査(はっくつちょうさ)したところ、頂上から2基の主体部(しゅたいぶ)(人を埋葬(まいそう)した施設)が発見されました。 

ここからは、表面に57・裏面に58の文字が刻(きざ)まれた金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)や甲冑(かっちゅう)・馬具(ばぐ)などの副葬品(ふくそうひん)が出土しました。115の文字には、ワカタケル大王(雄略天皇 ゆうりゃくてんのう)に仕えたヲワケの功績(こうせき)などが記(しる)されており、我国の古代史を考える上で貴重な資料となっています。これらの遺物(いぶつ)は1983(昭58)年に国宝に指定され、さきたま史跡の博物館の国宝展示室に常時展示されています。さきたま史跡の博物館のHPより

脚が悪いのでそちらへ行くのはあきらめて二子山古墳に向かいました。

二子山古墳です。

★ランドマーク二子山古墳二子山古墳は、稲荷山古墳の南側、埼玉古墳群のほぼ中央にあたります。長さ138m、埼玉古墳群の中で、そしてかつての武蔵国の中でも最大の前方後円墳です。名前は、前方部と後円部という二つの山が連結したような形からついたもので、「観音寺山(かんのんじやま)」とも呼ばれていました。「二(双)子山」という名の古墳は全国各地にみられます。墳丘は二重の堀に囲まれており、それを含めた長さは南北240m以上になります。 

墳丘に登ることはできませんが、堀に挟まれた中堤は遊歩道になっており、ぐるり四方から墳丘を間近に見ることができます。側面から見ると、古墳は大きな船が港にいるように見え、その大きさが実感されます。でも気分は、史跡の中にいるというより、のどかな散歩道を歩いているようです。春にはその周囲でポピー、花菖蒲などの花が咲き、訪れる人の目を楽しませてくれます。

南側の県道からは、前方部の前面を直接見渡せます。この道路は古墳群の中央を横切っていますが、沿道の建物に視界をさえぎられて、自分が古墳群の中にいるとはほとんどわかりません。例外は二子山古墳で、家並みがとぎれたかと思うと緑の大きな墳丘が突然目の前にあらわれ、何か不思議な世界の入り口に来たように思えます。思わず引き込まれてしまいます。

埋葬施設は発掘調査されておらず詳しいことは不明ですが、墳丘周囲の調査で出土した埴輪から、6世紀初頭前後に造られたと推定されています。稲荷山古墳に続く時期にあたりますが、稲荷山古墳とは、墳丘の向きが同じ、またともに、中堤の西側に「造出し(つくりだし)」と呼ばれる四角い土壇(どだん)をもつなどの共通点があります。位置、時期とともに、両者の連続性がうかがわれます。さきたま史跡の博物館のHPより

手前の道路と歩いて、さきたま史跡の博物館に向かいました。右に折れて天祥寺の前を通って左に行くと右側にも小さな古墳がありました。愛宕山古墳です。現在8つある古墳のなかでは最も小さいもののようです。さきたま史跡の博物館に向かうケヤキ並木です。

途中に埼玉県名発祥の碑がありました。

さきたま史跡の博物館の埴輪です。馬形埴輪は中学校などの教科書に載っていたように思います。

白鳥型や犬型の埴輪です。

こちらは国宝の金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)です。埼玉(さきたま)古墳群の稲荷山古墳第1主体(礫槨)の出土品。剣身の中央に切っ先から柄(つか)に向かって、表面57文字、裏面58文字の計115文字の銘文が刻まれている。古墳時代の刀剣に刻まれた銘文としては最長である。冒頭の「辛亥年(しんがいのとし)」は西暦471年と考えられ、作刀者の「ヲワケの臣(しん)」の8代の系譜、「杖刀人首(じょうとうじんのかしら)」の職について「ワカタケルの大王(おおきみ)」(雄略天皇か?)の政治の補佐役を務めたことが書かれている。

埴輪です。人物埴輪(右から2番目は捧げ物をする女性埴輪です)。

楯型埴輪や家形埴輪です。

古民家が移転されて飾ってありました。

古民家は昔の実家がそうだったのであまり興味がなく、庭に咲いているコスモスや菊、鶏頭を撮ってきました。

帰りがけに天祥寺にも寄ってみました。

由来にあるようにかなり荒れていました。

旧藩主松平家の墓です。

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