ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

祐天寺

2015年01月14日 23時35分23秒 | 訪問地周辺散策

中目黒の施設を訪問しました。少し会社を早く出て一つ先の祐天寺に寄ってみました。祐天寺には友人の親族の通夜で一度訪れたことがありました。前回は夜だったので、今回初めて全体を見ることができました。会社の近くの霞が関から日比谷線に乗りました。霞が関は国会のすぐ近くです。

東急の祐天寺駅です。

祐天寺表門です。

もとは将軍や武士が出入りするための門で、一般の人は門番所への断りなしには入ることが許されませんでした。創られた当時は現在のような屋根はかかっておらず、のちに何度か建て直しがあった際に掛けられたようです。

次は仁王門です。5代将軍綱吉の養女竹姫が、祐天上人の遺言によって、享保20年(1735)に寄進して建立。正面の両脇間に仁王像が立ち、門上方蟇股部分には、各方位に合わせた十二支の動物の彫刻があります。
(目黒区有形文化財)本堂は、祐天寺起立の翌年の享保4年(1719)建立され、嘉永4年(1851)大破のため、再建されました。その後明治27年(1894)に回禄の難に遭いますが、同31年(1898)に復興され、現在に至ります。

鐘楼です。梵鐘と鐘楼は、6代将軍家宣の17回忌追善のために、享保14年(1729)、正室天英院が寄進。以来「時の鐘」として正午を知らせ、心に深く染み渡る音を響かせているそうです。かさね塚:祐天上人が累という女性の怨霊を成仏得脱させたという伝説は有名です。鶴屋南北がそれを歌舞伎化した作品が「法掛松成田利剣」です。大正15年には6世尾上梅幸、15世市村羽左衛門、5世清元延寿太夫らがこれを復活上演し、評判を呼びました。この作品の一部である清元の人気曲「色彩間刈豆」は、今もよく上演されます。この碑は、復活公演に携わった3者から寄付されたもので、茨城県法蔵寺より累一族の墓士を分けて祀ってあります。舞台で累の芸能を演じる前には必ず参拝する習わしがあります。子守地蔵:昭和18年(1943)に建立され、子供の百日咳や虫封じに御利益があるとして信仰をあつめています。もとは本堂の左側にあり、子供の成長をこの子まもり地蔵に祈願したあと、墓地にある宝篋印塔をくぐらせたそうです。白子組(しろこぐみ)の海難供養碑:昭和62年(1987)目黒区指定文化財、歴史資料」
遭難した白子港(現、三重県鈴鹿市)を拠点とする白子回船問屋に所属していた船の、遭難者慰霊のために、江戸白子組が文政4年(1821)に建立しました。

灘目(なだめ)の海難供養碑:「昭和62年(1987)目黒区指定文化財 歴史資料」
「灘の樽(たる)回船」の遭難者慰霊のため、寛政8年(1796)に建立されました。

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