ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

慈照院・真珠院(文京区小石川)

2018年07月12日 23時56分47秒 | 社寺仏閣

暑い中せっかく来たのでいろいろと寺院を巡りました。光圓寺の隣の慈照院です。

★ランドマーク慈照院:慈照院は、梵音山と号し、中山五平次(法名大巌院石翁道基居士)が開基、白眼慈雲大和尚が開山となり寛永8年(1631)創建したといいます。

境内には傳通院前の茶漬屋辰巳屋惣兵衛の墓がある。惣兵衛は江戸の祭禮には必ず出たと云はれる人で、墓石の正面に娘に扮した老人が振袖姿で踊つてゐるところが刻んである。昭和20年(1945)東京大空襲により伽藍一切を焼失昭和30~39(1955~1964)檀信徒の協賛を得本堂・書院・山門を再建した。本堂です。

★ランドマーク辰巳屋惣兵衛の墓:江戸中期の遊侠人で、本名は平井辰五郎(1733-1821)と言った。伝通院門前に居住して、茶漬け飯・田楽豆腐屋を開業した。しかし、店は家人に任せ、もっぱら、遊侠の生活にふけっていた。

 辰五郎は生来、踊りが好きで、若い頃から暇をみては、踊りに時を費やした。特に、踊りの名声を高めたのは、女装して面白おかしい所作をとりいれてからである。 天明8年(1788)には、「仮面」をつけて踊る「狂言神楽」(里神楽と類似型)を創案し、江戸市民の人気をあつめた。

山王権現社、神田明神社のほか、江戸市中の各神社の祭礼での活躍は言うにおよばず、大名邸での宴会の余興にも招かれるようになった。そのような時、自分は遊戯のために踊るのであり、利欲のためでない、と言って金銭を受けとらなかったという。

 「お祭と神楽の堂に辰巳屋の枯木娘や花咲かせ爺」蜀山人(太田南畝) 文京区教育委員会掲

墓はこちらです。

墓石の正面、娘に扮した老人が振袖姿で踊つているところです。

江戸時代の大名屋敷から移設した雪見燈籠だそうです。慈照院の開基墓所です。寛文2年{1662年)と記銘されています。

極楽水ではありませんが井戸がありました。地蔵尊

枯れかけている柏葉アジサイです。

光圓寺と慈照院から離れて道がわからなくなり近所の人に春日通りに出る道を教えていただきました。

伝通院と真珠院の間の道を通ってで通院の前から春日通に出る道を教えていただきました。

暑くて伝通院はあきらめていましたが、坂道を登りました。

左手に真珠院がありました。ちょっと寄ってみました。

本堂です。

★ランドマーク真珠院:真珠院は、無量山全忠寺と号し、水野隼人正忠清(徳川家康生母・於大の方の甥、真珠院殿廓譽全忠大居士)が開基、運蓮社霊誉単無上人が開山となり正保4年(1647)に創建、明治維新後一寺となったといいます。寺には小石川七福神の布袋尊が祀られています。

墓地や布袋尊などに行くには本堂の脇の階段で行かなければならないのであきらめて前にあるものだけを見てきました。七福神

平和漢音

仏足石

千支守護佛石などがありました。

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