ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

谷中墓地桜・徳川慶喜の墓

2016年04月02日 15時38分39秒 | 近郊散策

友人の墓参りの帰りがけに谷中墓地に寄ってもらいました。

★ランドマーク都立谷中墓地谷中の寺町の中にあって、寛永寺や天王寺の墓地が入り組んで一団の墓域を形成し、霊園内には、幸田露伴の小説「五重塔」のモデルになった天王寺五重塔の跡もあります。霊園の北側はJRの線路に接する高台となり、スカイツリーを望むことが出来ます。園内は明るく静かで、著名な画家や文学者、俳優なども眠っています。開設は明治7年で、面積は約10ヘクタール。開園は明治7年9月1日  

園路沿いにはたくさんのサクラが植えられています。特に、中央園路の桜並木は見事なものであり、墓参者の気持ちを和ませます。

ちょうど桜が満開でしたが、青空でないのが残念です。行き当たりばったりの散策なので目的の徳川慶喜の墓にたどり着くのに苦労しました。途中でこんな墓がありました。

ウイキペディアによると「高橋 お伝(たかはし おでん、本名:でん、嘉永3年(1850年) - 明治12年(1879年)1月31日)は、日本で最後に斬首刑に処せられた女囚とされる女性。仮名垣魯文の「高橋阿伝夜刃譚」のモデルとなり、「明治の毒婦」と呼ばれた。

処刑の翌日から「仮名読新聞」「有喜世新聞」などの小新聞が一斉にお伝の記事を「仏説にいふ因果応報母が密夫の罪(「仮名読」)」、「四方の民うるほひまさる徳川(「有喜世新聞」)」といった戯作調の書き出しで掲載した。読売の自演により、口説き歌として流行した。これが後の「毒婦物」の契機となる。明治14年(1881年)4月、お伝三回忌のおりに仮名垣魯文の世話で、谷中霊園にもお伝の墓が建立された(遺骨は納められていない)。十二代目守田勘彌、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次、三遊亭圓朝、三代目三遊亭圓生らがお伝の芝居を打って当たったのでその礼として寄付し建てたという。」と書かれていました。

桜の木に珍しくカラスのつがいが止まっていました。

桜に囲まれた墓もいいですね。西行法師が「願はくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」意味は「死ぬときは春の桜の下で死にたいものだ。それも満月の夜に」。きさらぎは旧暦の2月。新暦のおよそ3月にあたります。望月(もちづき)はもちろん満月のこと。西行は1190年2月16日に本当に満月のもとで死んだそうですが、墓が桜に囲まれてるのもなかなかいいようです。

こんな墓があったのでこれかと思いましたが、

違いました。調べて見たら、「井上正鉄(いのうえまさかね)    寛政2年8月4日~嘉永2年2月18日(1790-1849)という幕末の国学者の墓でした。正鉄の墓は盛り土上の巨大石。正面「井上正鉄大人之墓」。父の名は、安真鉄ではなく安真鉄である。谷中霊園の中では、極めて大きな墓域にあり、「トウカミの井戸」跡がある。これは、「トウカミエミタメ」という祈りから呼ばれるようになったという。 」と書かれていました。

慶喜の墓の案内が出ていました。

大きな墓の囲いがあったのでここかと撮りました。調べてみたらこの一角は徳川家の菩提の寛永寺となっていました。

寛永寺でも慶喜はこの中ではなく少し離れたところに墓地があるようです。さらに行くと明治大学の創設者の墓がありました。

岸本辰雄(きしもとたつお)    嘉永4年11月13日~明治45年4月5日(1851-1912)

いろいろと調べている人がいるのですね。「明治大学の源流である明治法律学校を創立。幼名、辰三郎。父、鳥取藩士作事方下吟味役岸本平次郎尚義(三男)。因幡国南本寺町(島根県)出身。はじめ藩校「尚徳館」で蘭式兵法を修める。戊辰戦争で官軍に参加。 明治2年箕作麟祥塾に入門、フランス語を学ぶ。明治3年(1870)藩を代表し貢進生となり、大学南校(東京大学)に入学。明治5年(1930)8月新設の司法省「明法寮」に編入し、ボアソナードにフランス法を学ぶ。明治9年(1876)卒業と同時に選ばれて熊野敏三・宮城浩蔵らとフランスに留学、パリ法科大学で法律学士の学位を取得。明治13年(1880)帰朝後、東京大学理学部教授兼太政官御用掛。明治14年(1881)1月宮城浩蔵、矢代操(1852-1891)と共に明治法律学校を創立する。」ということだそうです。

ようやく慶喜の墓に近づきました。

門には葵の紋があります。

よくわからいけど写真を撮りました。

すると入り口にいた男性がいろいろと説明してくれました。ランドマークなので自宅で調べてみました。

★ランドマーク徳川慶喜の墓徳川慶喜(1837〜1913)は、水戸藩主徳川斉昭の第七子で、慶応2(1866)年、第15代将軍職を継ぎましたが、翌年大政を奉還し慶応4(1868)年正月に鳥羽伏見の戦を起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。
駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治35(1902)年には公爵を受爵しました。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正2(1913)年11月22日に77歳で没しました。
お墓は、間口3.6m、奥行4.9mの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径1.7m、高さ0.72mの玉石垣の基壇を築き、その上は葺石円墳状を成しています。
墓所内には、正室一条美賀子、女中頭(側室)一色須賀、側室中根幸、新村信と徳川慶喜家の墓があります。

その他御子孫の墓も周りにあったようですが、これ以上は写真を撮りませんでした。

途中に咲いていた石楠花真っ赤にさいていました。

1本単独に植えてある桜もなかなかでした。

墓地の中は二本杖で歩き、3200歩ほどになり、ちょうど良いリハビリなりました。

車に載せていただいたおかげて、墓参りと墓地散策ができました。ありがとうございました。

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浄光寺・江戸東部六地蔵

2016年04月02日 14時26分41秒 | 江戸名所図会めぐり

平成14年4月7日に亡くなった、同い年のテニス仲間の墓参りにいってきました。浄光寺は西日暮里の駅の上(台地)にあります。右手が浄光寺、左手は諏方神社です。

★ランドマーク浄光寺真言宗豊山派の寺院で、太田道灌説と豊島左衛門尉経泰説があります。江戸時代までは、諏方神社の別当でした。諏訪台の高台に位置し、展望が開け眺めが良く雪見に適することから「雪見寺」とも呼ばれていました。この近辺には、月見寺(本行寺)、花見寺(青雲寺)などの寺院もあり、風流を好む江戸の文人墨客が集まったことで知られています。

 江戸時代、将軍が鷹狩の際に立寄ってから御膳所にあてられ、将軍が来訪した時に腰掛けたとされる「将軍の腰掛けの石」と石の隣には、「三代将軍御腰掛石」という碑があります。 また、山門の左手には、元禄4年(1691)に空無上人によって江戸の東部6カ所に開眼された江戸六地蔵の3番目として知られる大きな銅造地蔵菩薩立像、文化6年(1809)作の銅造地蔵菩薩坐像、庚申塔等の石造物があります。

荒川区教育委員会の由緒書きがありました。

銅造地蔵菩薩の立像と坐像です。

江戸六地蔵の3番目は銅造地蔵菩薩立像の方です。

★ランドマーク江戸東部六地蔵六地蔵の由緒は、江戸時代に刊行された『江戸砂子』の記載によると、元禄四年(1691年)に、慈済菴空無上人が開眼供養したもの、また、宝永五年(1708年)に、地蔵坊正元が江戸庶民から寄進を募って造立したものと、二つ存在したと由が書かれており、元禄年中の方を「始めの六地蔵」、宝永年中のを「後の六地蔵」として紹介されています。これは「始めの六地蔵」は東部六地蔵といわれ、「後の六地蔵」を江戸六地蔵というようです。江戸東部六地蔵とは一番目が瑞泰寺(本駒込)、二番目が専念寺(千駄木)、三番目が浄光寺(西日暮里)、四番目心行寺(池之端⇒府中市)、五番目が福聚院(上野)、六番目正智院(浅草)となってます。

江戸名所図会では日暮里惣図その3、右上の浄光寺の境内に六地蔵と書かれています。その左側が諏訪明神(諏訪神社)です。

江戸の六地蔵:江戸の出入口六箇所に造立してあります東海道の品川寺や甲州街道太宗寺などで、東部六地蔵が立像なのに江戸六地蔵は坐像になっています。これは2015年1月12日に撮影した東海道品川寺の地蔵です。

 

今は、墓から日暮里にある高層マンションが見える都会の真ん中になっています。

新しく作った墓なので、まだ一人だけです。

初めて戒名を読みましたがなかなかですね。進さんで「常楽道進」とは、ご家族から見ると「常に楽しく道楽」をしていた人と思われていたのでしょか。

隣の諏訪神社の桜が見えています。

隣の諏訪神社です。

諏訪台地の桜は江戸時代から有名でした。歌川広重の名所江戸百景 日暮里諏訪の台です。

桜が満開になっていますが、神社の中での宴会は禁止されているようで静かでした。

 

拝殿です。

★ランドマーク諏方神社荒川区の西日暮里駅近くに鎮座する諏方神社は、日暮里及び谷中の鎮守である。長野の諏訪大社から元久2年(1205年)に勧請された。山を切り開いて当地に遷座したのは寛永12年(1635年)である。旧別当寺は隣の浄光寺。
社殿や社務所その他は第二次世界大戦で焼失し戦後に再建された物だが、本社神輿の神輿庫だけは焼け残った。この神輿庫は大正15年の鉄筋コンクリート建築、つまり近代和風建築である。
例大祭は8月末に行われ、本祭は3年に一度である(2014年、2017年、2020年…)。

手水鉢には天保二年と書いてあります。天保2年(1831年)を調べてみました。勝海舟が8歳、葛飾北斎が71歳だったそうです。前年1830年(文政13年、天保元年)はお伊勢参り(お蔭参り)の60周年の年で、「おかげ年」が意識されていた。伝播地域は、明和よりも狭かったが、参加人数は大幅に増えている。何故か参詣するときに、ひしゃくを持って行って伊勢神宮の外宮の北門で置いていくということが流行った。阿波の巡礼の風習が広まったとも言う。

  • 参詣者:427万6500人
  • 当時の日本総人口:3228万人(1850年)
  • 発生地域:阿波
  • 期間:閏3月初~8月末
  • 経済効果:86万両以上
    物価上昇が起こり、大坂で13文のわらじが200文に、京都で16文のひしゃくが300文に値上がりしたと記録されている。

お蔭参りの最大の特徴として、奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣したことにある。これが、お蔭参りが抜け参りとも呼ばれるゆえんである。大金を持たなくても信心の旅ということで沿道の施しを受けることができた時期でもあった。

江戸からは片道15日間、大坂からでも5日間、名古屋からでも3日間、東北地方からも、九州からも参宮者は歩いて参拝した。陸奥国釜石(岩手県)からは100日かかったと言われる。。

近くに富士見坂がありました。

見えるかと覘いてみましたが、今は見ないようです。脇小さく最近まで見えたと書いてありました。

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