リハビリで29日以来亀戸天神に行ってきました。自宅からの歩きでなく自転車で行き境内を一回りしてきました。桜は満開になっていました。
曇り空でちょっと残念でしたが、スカイツリーも良く見えていました。
池には久しぶりにアオサギが来ていました。
中の島からの桜とスカイツリーでした。
一回りしてみました。
五歳の菅公です。
ポール立てに書いてある「和魂漢才」は日本固有の精神と中国伝来の学問の才。また、日本古来 の精神を失わずに、中国の学問を消化し活用すべきであるということ。▽「和魂」は日本 固有の精神のこと。「漢才」は中国の学問・知識の意。 ということだそうです。
クスノキの新芽が光っていました。
脇に回ると中江兆民の碑
★ランドマーク【中江兆民の碑】この中江兆民の碑はその建立の理由は不明らしいですが、「兆民全集等によると、明治40 年に板垣退助、大隈重信らが発起し、友人門下生らに
よって建てられたと書かれている。」そうです。
中江兆民:1847(弘化4)年11月1日、土佐藩高知に生まれる。本名は中江篤助。1871(明治4)年、フランスへ留学。 1874年に帰国後、自身が創設した仏蘭西学舎(のち「仏学塾」と改称)を中心に、フランスから持ち帰った思想を広める。そのなかでもルソーを日本に紹介 した功績は大きく、「東洋のルソー」とも呼ばれる。主に自由民権論の理論的指導者として活躍し、1890年には衆議院議員となるも政界に失望して翌年に辞 職。以後実業に手を出すも悉く失敗。1901年4月咽頭癌と宣告され、同年12月13日永眠。
隣に国産マッチの創始者清水誠氏の碑がありました。
★ランドマーク 清水誠の頌
国産マッチの創始者 清水誠の頌
岸 信人 書
人類は 原始以来火を自由に使うことによって 今日の文明 を築いてきた 日本の近代文明もまた 西欧からマッチの製法 を輸入し これを改良工夫した先人の努力によって 飛躍的に 発展したのである その創始の時が今から丁度百年前であり その創始者が清水誠氏である 清水氏は弘化二年(1845年) 金沢で生まれ 明治三年幕命を受けてフランスに留学しパリ工 芸大学に学んだ 専攻は造船学であったが 明治七年たまたま在 仏中の宮内次官吉井友美氏の勧めによって マッチの製造を決 意して 帰朝した 翌八年(1875年)四月には 本務の造 船技師のかたわら 東京三田の仮工場で 早くもマッチの製造 に着手した 明治九年九月本所柳原町に工場を新設して新燧社 を興し 同十二月には 官職をやめて その経営に没頭した 翌十年九月には 初めて国産マッチを上海に輸出し 好評を博 した 明治十一年七月再びフランスに渡り ドイツ スウェー デンのマッチ事業を視察して帰り 以来ますますその改良に苦 心し増産につとめた その後打ち続く不 況に見舞われ 逐に二十一年には業界か ら引退して郷里金沢に帰った しかし その後もなおマッチ製造機の改良に情熱 を燃やし 二十九年新鋭機の特許をとり 翌二十年大阪に出て その製造に従事し た 明治三十二年(1899年)二月八 日病をえて没した 時に年五十四才であ る 大正四年政府はその功績を賞して従 五位を遺贈した なお没後間もなく当亀 戸天神社の境内に追慕顕彰の碑が建てら れたが今次の戦災によって破損したまま になっていた 今年あたかも国産マッチ 創始百年に当たり 業界の有志によって 新しく再建されることになった ここにそ の由来を誌し先人の功をたたえ 一文を 草して頌辞とする
昭和五十年五月十二日
文学博士
内野 吾郎 撰
帰りがけにもう一度桜を見て見ました。