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ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

戒行寺・日宗寺・汐干観音(新宿区)江戸名所図会めぐり

2018年01月26日 23時41分53秒 | 江戸名所図会めぐり

須賀神社の周辺を散策していて江戸名所図会に描かれているお寺さんに出合いました。

江戸名所図会より

戒行寺(左)と日宗寺(右)と右下に汐干漢音が描かれています。

戒行寺の山門です。

入ったところにこんな碑がありました。

長谷川平蔵供養塔

『池波正太郎の原作と中村吉右衛門のテレビ時代劇で広く世に知られる「鬼平犯科帳」の火付盗賊改の鬼平こと長谷川平蔵は延享3年(1746)江戸赤坂築地中之町(現港区赤坂6-12の拝領屋敷で生まれた。姓は藤原、名は宣以。称は初め銕三郎、後に平蔵といった。寛延3年(1750)鉄砲洲築地湊町に転じ、明和元年(1764)本所三ツ目通り菊川安置に移った。父宣雄が火付盗賊改のとき、目黒行人坂の放火犯を捕らえて、京都西町奉行に栄進したが、わずか10ヶ月で急逝した。その後、宣以が家督を継ぎ、西城御書院番や御徒頭を勤め、御先手弓頭から火付盗賊改を兼帯。さらに石川島人足寄場を開設した。軽犯者や無宿者を収容して手業を習得させ、工賃の一部を積み立てて、出所時の更生資金に充て、授産所として成功させた功績は大である。
 寛政7年、50歳で病没、当山に葬られた。
 なお、当山には、鬼平の父宣雄ら5人の火付盗賊改が葬れている。
 安部式部信旨、桑島肥後守政恒、山岡豊前守景之
 長谷川備中守宣雄。菅沼主膳正虎常』

池波正太郎の鬼平犯科帳により、長谷川平蔵が注目され、今ではもてはやされているようですが、明治末期に、戒行寺内にあった墓は、杉並区堀の内の共同墓地に改葬移転され、この時に、遺族の立会がなかったので、墓は無縁のものとして処分されて無縁仏になってしまったようです。

本堂の面して墓石があったので撮ってきましたが、右手の墓石が長谷川家のもののようです。

★ランドマーク戒行寺:戒行寺は、玉泉院日養が麹町に戒行庵として文禄4年(1595)創建、隣家の宮重作兵衛重次(妙典院殿蓮經日珠居士、正保3年1646年歿)の助力により、一寺となし戒行寺となったということだそうです。江戸城外堀建造に伴い、寛永11年(1634)当地へ移転、江戸期には身延山末頭5ヶ寺の一つとして繁栄、塔頭数ヶ院を擁していたといいます。

境内には漢音像や多宝塔などがありました。

山門前の通りは急坂ですが、戒行寺坂とありました。

坂を下りてから四谷三丁目に急いで向かいました。

高いところに四谷霊廟とありましたが、後で調べたら汐干漢音の所だったようです。

★ランドマーク真成院、四谷霊廟:慶長三年(1598)、祈祷僧である清心法印によって開山。 江戸城外濠工事のため、幕府に替地として与えられた四谷に移転し、その後、本堂と観音堂が失われてしまったものの、天保八年(1837)に再建。 その頃に描かれた『江戸名所図会』では、「四谷の四名所の一つ」に数えられています。当寺の観音像は、鹽踏観音は一に汐干観音とも称され、村上天皇の守護仏だったともいいます。

日宗寺の山門がありました。入った左手に

浄行菩薩がありました。日蓮像

★ランドマーク日宗寺:日宗寺は、弘法山浄蓮寺として麹町9丁目清水谷に元和5年(1619)創建、外濠拡張のため寛永11年に当地へ移転したといいます。三代目藤堂大学頭高次の室高見院殿心月日宗大姉(慶安2年1649年没)より高見山日宗寺と改めたといいます。

日宗寺からさらに四谷三丁目の駅に向かうと

法蔵寺がありました。

★法蔵寺は、兵庫頭松平親良(元和9年没)が三州法蔵寺の寺號を移して、大譽永蓮和尚を請して天正19年(1591)開山したといいます。

江戸時代の絵図古地図です。

この処は江戸時代には、元々鮫ヶ橋北町と云って、書上に北町一円を入といい、北の方の離地は日宗寺境内に付日宗寺前と相唱え候とある。法蔵寺の下辺り、向い側日宗寺前から元の谷町1丁目にかけて(今の若葉2~3丁目)、その名残のような曲折した道路が谷の低地を未だに形ち作っている。
江戸期切絵図を見ると法蔵寺横町よりは、この寺の前には出られず、天王横町より入り東福院坂を下って日宗寺に入ったように記してあり、明治中頃法蔵寺前より新道を切開いて、この寺の前から鮫ヶ橋谷町の通りへ出られるようになった。(四谷南寺町界隈より)

江戸名所図会には描かれていませんが、途中で戒行寺の前にあった崇福寺でも写真を撮りました。

山門

庚申塔

寺を覘いていたら不審に思われてなにかご用ですかと呼びとめらたので写真を撮らせてもらっていますと答えたら清麿の墓は奥ですよと教えられましたが、たどり着けませんでした。

★ランドマーク崇福寺:宗福寺は、勝興寺二世岳室存積大和尚が慶長8年(1603)麹町清水谷に創建、江戸城外堀建造に伴い寛永11年(1634)当地へ移転したといいます。

 

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旧中川・逆井の渡し跡周辺(名所江戸百景)

2018年01月16日 15時53分28秒 | 江戸名所図会めぐり

リハビリサイクリングで亀戸中央公園から逆井の渡し跡周辺を散策しました。

亀戸中央公園では山茶花が咲いています。ちょっと見頃は過ぎましたが昭和の栄が長く咲いていました。

サザンカ冨士の峰はいくつか残っていました。

亀戸中央公園は旧中川に面しています。川にかかる「ふれあい橋」の上から東京スカイツリーで、こちらは上流になります。

写真を撮ろうとしたらユリカモメが寄ってきて橋の欄干に整列しました。

ここから河川敷にでて下流に向かいました。下流の写真は11月のものです。見えなくなっている少し先に逆井橋があります。

橋の袂の両側に渡しの跡碑があります。

こちらは江東区側のものです。

こちらは小松川神社のところにある案内版です。

 

江戸川区側の川岸に立っているものです。

★ランドマーク逆井の渡し跡:中川をわたる逆井の渡しは、『新編武蔵風土記稿』に「中川、村の西を流る、幅四十間許、対岸は亀戸村なり、ここに渡船場あり、元逆井村にありし渡しなるを以て、今も逆井の渡しとよべり、船2艘あり、一は亀戸村の持、一は当村持」とあるように、もとは北隣りの逆井村にあったものが、その後西小松川村(現在の逆井橋付近)に移転したもののようです。ここに江戸と房総を蒸すぶ街道がひらかれたからでした。この街道を元佐倉道といい、区内を北東にほぼ直線で横切って、小岩市川の渡しを渡り、市川から佐倉、成田へ向かいました。明治に入って千葉街道とよばれるようになりました。

 逆井の渡し付近は風景も良く安藤広重が「名所江戸百景」のひとつに描いています。明治12年(1879)、渡し跡に橋が架けられて、逆井の渡しは廃止されました。架橋答辞は村費による架橋費を補うために通行料(橋銭)を徴収する賃取橋でした。明治27年(1894)に橋銭徴収は終わり、明治31年(1898)に、東京府によって架けかえられています。昭和43年(1968)には、江戸川・江東両区の協力で鉄橋になっています。その後、旧中川沿岸の景観整備や、虹の大橋やもみじ大橋・さくら大橋がかけられて、現在のすがたになりました。

広重 「江戸名所百景 逆井のわたし」です。

コサギが描かれていますが、今もコサギが棲んでいます

清流とは言い難いですが、今は魚も捕れるようになりました。

逆井橋から見た、竪川との合流地点です。江東区内の竪川は上は首都高速7号線、川は暗渠になり、堅川河川敷公園となっています。

ランドマーク旧中川:江戸の昔に利根川(江戸川)と隅田川の間を流れることから『中川』と名付けられたと言われています。

旧中川は、1924年荒川放水路に注水を開始したことによって分断された中川の下流部分です。江戸時代には歌川広重の名所江戸百景「逆井の渡し」や江戸名所図会の「平井聖天」(燈明寺)、新編武藏風土記稿の「逆井渡船場図」などで、情緒豊かな川であったことが知られており、川沿いに史跡が残っています。

1945年3月10日の東京大空襲では、猛火を逃れようと川に入った3000人以上が犠牲となりました。その犠牲者の慰霊のために、1999年に「旧中川灯籠流し」が始まり、以来毎年8月15日に行われています。

平常時は、両端の水門を締め切って両端とも荒川へ排水しているため水は流れていませんが、灯篭流しの時だけは木下川水門より取水し、荒川ロックゲート側から排水することにより水流を発生させ、灯篭が流れるように工夫しているということだそうです。

江東区ではここを終起点とした亀戸あさくさ古道を訪ねてという案内板です。これは「亀戸あさくさ古道保存会」(鴇田慶三会長)が、江東区亀戸エリアの古道を紹介するガイドマップを2013年4月上旬に制作するとともに、道中8か所に案内板を設置したものです。

堅川に沿って北側は佐倉道(千葉街道)となっています。分岐点にあった道標を再建したものです。

浅草方面へはここから坂を下りて浅間神社の脇を通って行きます。

両国方面に向かっています。堅川通りとも言ったようです。右手の堅川に六つ目橋があったようです。先が逆井橋になります。

浅間神社のところに六つ目地蔵尊があります。元禄10年(1697年)在銘の庚申塔です。

江戸名所図会中川釣鱚: 天保7年に出版された、江戸の観光ガイドブック『江戸名所図会』には、中川での鱚釣りの様子が描かれており、当時は釣りの名所として有名だったようです。

キャプション:

春鱚は三月の末より四月に入りて盛んなり。春釣りといふは寛文(1661~73)の頃南総伍大力の船頭仁兵衛をはじめとす。岩崎兵太夫といふ人これに継ぐ。いま岩崎流といふはすなはちこの人に始まりて、これより後春鱚を釣ること世に盛んなりしといふ。秋鱚は八月の末より九月なかばを節とす。しかれども十月に至り寒気にうつれば沖に出づるがゆえ川釣りに幸なし。漁人海に産するを白鱚と呼び、川にあるを青鱚と唱う。また鱚に大小の差あり。当歳は腹白く、五、六寸なるを二歳す。腹すこし黄色を帯びて背通り黒みあり。七寸より八寸までを三歳と呼ぶ。腹黄色にして赤みを帯び背の通り黒し。九寸以上を鼻曲がりと号す。鱗あらし。尺に越ゆるを寒風と唱ふるよし漁人の説なり。

 

 明治、大正時代あたりまでは鱚をはじめとする様々な魚が生息していて、釣り好きの文人、幸田露伴などにも愛されたそうです。中川の下流今は荒川となっています。

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自證院(自証院・新宿区富久町)江戸名所図会めぐり

2018年01月11日 23時18分34秒 | 江戸名所図会めぐり

新宿曙橋の鍼灸治療院に通っています。新年最初の治療で少し早めに行き、付近を散策しました。自證院は靖国通りを新宿駅方面に向かっていった坂の上にありました。

奥にある新宿の文化財の案内が外から見えたので何となく寄ってみました。

★ランドマーク自證(証)院:自証院は、寛永17年(1640年)、尾張藩主徳川光友の夫人・千代姫の母、自証院を供養するために創建された寺です。最初は日蓮宗「本理山自証寺」でしたが、天台宗に改宗されました。古くは桜の名所であったといいます。また、堂塔の用材に檜の節目が多いものを用いたため、「ふし寺」または「瘤寺(こぶでら)」とも呼ばれました。 

明治時代末期、この付近に住んでいた文学者・小泉八雲が自証院の風致を大変好みました。境内で杉の木を切り倒す音を聞いて、杉の木がかわいそうでいたたまれなくなって転居したという逸話も残されています。 

境内には、弘安6年(1283年)に造立された、区内最古の阿弥陀三尊種子板碑(新宿区指定有形民俗文化財)などがあります。阿弥陀三尊種子板碑です。

★自証院の阿弥陀三種子板碑:弘安6年(1283)の紀年銘を有する区内最古の板碑であり、その大きさも都内で屈指のものである。

 山形の下に二条線が切りこまれ、天蓋の下に阿弥陀・観音・勢至の三尊の種子がそれぞれ蓮台を配して刻まれ、その下に紀年銘が記されている。天蓋・種子ともに古様を示し、板碑全体が鎌倉中期の特徴を持っている。 当時市谷付近に有力武将の居住を物語るものとして、また浄土信仰の普及を示すものとして貴重である。

なお三尊種子板碑両脇の「栄寿院妙山准心大姉」「元禄八乙寅年六月十九日」の文字は江戸時代の追刻である。

江戸名所図会より

左下の道から坂を上っていったことになります。

江戸切絵図でも「こぶ寺」というと書いてあります。右手の紫のところは尾張殿の広い敷地ですが、そこが現在の市ヶ谷の自衛隊になっています。

本堂

入り口の左手に仏足石

真ん中の桜は新宿区の保護樹になっていました。

★文豪、小泉八雲とのゆかり小泉八雲(Lafecadio Hearn)は明治29年9月東京大学で教鞭をとる為、松江より上京して西大久保に移るまで、5年余り、当自證院の門前に邸を持ち、日々、老杉の生い茂った当院の墓地を逍遥することを楽しみとし、また当時の住職とも心安く、仏教にも深い造詣を有していました。八雲の葬儀は明治37年、当院において営まれ、遺骨は、雑司ケ谷墓地に葬られているそうです。

山門の右手にこんな碑はありました。特に目的として歩いたわけではありませんでした、探していた江戸名所図会の施設に出合えました。

今は狭い土地に押し込まれているように思えましたが、こんな説明書きを見つけました。

天台宗東京教区の公式サイトでより引用させてもらいました。
http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/5jishoin/

自證院は、市谷の高台に位置し、新宿という大都会にしては、静寂の中にあります。

開基は、尾張大納言徳川光友卿の夫人千代姫の生母振(ふり)であって、そのお振の方は大猷院殿(三代将軍徳川家光)の局の一人で寛永17年8月没寂され、法名「自證院殿光山暁桂大姉」と号し、正保4年三代将軍より御朱印寺領二百石を拝領しています。

当寺に葬られるにあたり、現在の市谷の地に壱万六百余坪を賜わって、牛込榎木町よりここに移転しました。

後、寛文元年(1661年)千代姫によって本堂建立が行われ、更に門前の地、三百余坪を買上げて民屋を開き、霊廟掃除の役に供えたのです。

寛永5年(1665年)幕府の不受不施派禁断の令により、以後天台宗に改められ、上野東叡山寛永寺より法印信祐(中興)を招いて住持とし、当寺、台宗の祖となり、これより寺号を「鎮護山、圓融寺、自證院」と称することとなり、前天台座主、本照院一品親王の命により、東叡山輪王寺の常院室となりました。

その後、享保15年(1730年)近隣より出火の為、類焼したので元文3年(1738年)尾張徳川家戸山屋敷内の丸太節木作りの観音堂を拝領して本堂、中門等が再建され、以後、寺域内の諸堂宇等、建立され明治維新に至るまで、広大な寺容を備えていました。

明治4年、明治維新政府の社寺上地令により境内地と墓地の一部を残して寺領の大半は国有地として没収されました。

明治末年、経済的な寺門経営上の困難もあって、墓地は現在の中野区上高田に移転、改葬が行われ、広大な周囲の寺域も樹木を伐採して、宅地として、売却、貸付が行われた為、当時の東京市の都市化進展とあいまって、周辺は宅地化され寺地は著しく縮少され、さらに昭和3年、境内地の一部は、小学校建設用地として東京都に譲渡され、これに際し本堂、庫裡の移転、改築が行われました。

昭和10年代以後、大東亜戦争の激化につれて、梵鐘、銅像などの金属什宝物は強制献納され、創建当時の財物は次第に失われつつあったが、ついに昭和20年4月13日の東京大空襲によって、本堂、庫裡その他、什宝物の一切は灰燼に帰してしまい、現在の本堂、庫裡は昭和52年に再建したものです。

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愛宕神社(港区愛宕)江戸名所図会めぐり

2018年01月10日 22時01分27秒 | 江戸名所図会めぐり

東京タワーのところにある施設の衛生点検に伺いました。ちょっと離れていますが愛宕神社に寄ってみました。今回は参拝者も多く、時間もなかったのであまり写真も撮れませんでした。前回2013年10月28日撮ったものを追加して江戸名所図会めぐりとしてアップします。

★ランドマーク愛宕神社:1603年、慶長8年、江戸に幕府を設く徳川家康公の命により防火の神様として祀られました。
慶長15年、庚戊本社をはじめ、末社仁王門、坂下総門、別当所等将軍家の寄進により、建立されました。祭礼などには下附金を賜るほど、当時の幕府の尊崇は篤いものでした。
その後江戸大火災で全焼してしまいましたが、明治10年、9月に本殿、幣殿拝殿、社務所の再建がなりました。
大正12年9月1日、関東大震災に、昭和20年5月24日帝都大空襲により太郎坊神社を残し社殿は焼失しましたが、昭和33年9月、氏子中の寄付により、御本殿、幣殿、拝殿などが再建され、現在に至ります。(神社のHPより)

2013年の写真です。
【丹塗りの門】ほおずき市の時には、茅の輪が設置され、これをくぐると災いを避けられるということだそうです。

愛宕山:愛宕神社は、標高26メートルの愛宕山の山頂にあります。これは23区内で自然の地形としては一番高い山。春は桜、夏は鬱蒼と茂る樹木の涼と蝉時雨、秋は月と紅葉、冬は雪景色と四季折々の表情で、訪れる人の目を楽しませています。
オフィス街に位置することもあり、境内はお昼休み時は近隣で働く人々でにぎわいます。

2013年10月の時の写真です。

こちらは神社のPHの写真です

【出世の石段(男坂】曲垣平九郎の故事にちなみ「出世の石段」と呼ばれる急な石段です。

今回は上から撮りました。鳥居も赤く塗られています。

こんなものがありました。

★男坂と曲垣平九郎:現在でも「男坂」の急な石段は「出世の石段」と呼ばれている。これは、江戸時代の1634年2月25日(寛永11年1月28日)、徳川秀忠の三回忌として増上寺参拝の帰り、徳川家光が山上にある梅が咲いているのを見て、「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と言ったところ、讃岐丸亀藩の家臣(曲垣平九郎)が見事馬で石段を駆け上がって枝を取ってくることに成功し、その者は馬術の名人として全国にその名を轟かせた、という逸話から来ている(講談や浪曲の定番、「寛永三馬術」で今も伝わる)。 

以降、出世の石段を馬で登った成功例は今までに3例存在する。1例目は仙台藩で馬術指南役を務め、廃藩後曲馬師をしていた石川清馬で、師の四戸三平が挑み、果たせなかった出世の石段登頂を1882年に自らが成功させ、これにより石川家は徳川慶喜より葵の紋の使用を許された。

 2例目は参謀本部馬丁の岩木利夫で、1925年11月8日、愛馬平形の引退記念として挑戦し、観衆が見守る中成功させた。上りは1分ほどで駆け上がったが、下りは45分を要した。この模様は山頂の東京放送局によって中継され(日本初の生中継とされる)、昭和天皇の耳にも入り、結局平形は陸軍騎兵学校の将校用乗馬として使われ続けることとなった。

 3例目は馬術のスタントマン、渡辺隆馬である。1982年、日本テレビの特別番組『史実に挑戦』において、安全網や命綱、保護帽などの安全策を施した上で32秒で登頂した。(ウイキペディアより)NHK放送博物館側

からの入り口です。

2013年の写真です。

江戸名所図会より

キャプション  宕山高く倚る勝軍宮/晴日登臨す積水の東/江樹千里闕下に連なり/海運一半城中に傍ふ/まさに憐れむ精衛なお水を含むことを/誰か識らん鵬鯤のたちまち風に撃つることを/羞殺す魚塩都会の地/世を治めて陶朱公に似ることなし 服元喬(服部南郭)

愛宕山総門 そのニ 京洛より移遷して武州に座す/壇を築き閣を構へ山丘に陟る/誰か知らん幣帛神封の物/ かへつて沙門活命の謀と作らんは 羅山子

 

正面の階段が男坂、右手の階段が女坂です。以上の3枚が続いて描かれています。キャプション この次ニ丁の図、愛宕本社に至るまで続画(つづきえ)なり。

キャプション

愛宕山円福寺毘沙門の使いは、毎歳正月三日に修行す。女坂の上愛宕おやといへる茗肆(みずちゃや)のあるじ、旧例にてこれを勤む。 この日寺主を始めと支院よりも出頭して、その次第により座を儲け、強飯(ごうはん)をき饗す。半ばに至る頃、この毘沙門の使ひと称する者、 麻上下を着し、長き太刀を佩(は)き、雷槌(すのりき)を差し添え、また大なる飯(いい)がいを杖に突き、初春の飾り物にて兜を造り、 これを冠る。相従ふるもの三人ともに本殿より男坂を下り、円福寺に入りてこの席に至り、俎板(まないた)によりて彳(たたず)み、 飯がいをもて三度魚板(まないた)をつきならして曰く、

「まかり出でたる者は、毘沙門天の御使ひ、院家役者をはじめ寺中の面々、長屋の所化ども、勝手の諸役人に至るまで、新参は九杯、 古参は七杯御飲みやれ御のみや。おのみやらんによっては、この杓子をもって御まねき申すが、返答はいかん」といふとき、この一臈(いちろう) たるもの答へて曰く、

「吉礼の通りみなたべふずるにて候へ」と云々。

「しからば毘沙門の使ひは罷り帰るで御座ある」といひて、本殿へ立ち帰る。

2013年10月の時、虎ノ門ヒルズはまだ工事中でした

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目黒不動堂(瀧泉寺=目黒区下目黒)江戸名所図会めぐり

2017年12月30日 18時11分12秒 | 江戸名所図会めぐり

目黒に行く機会があったので、大鳥神社と目黒不動を散策しました。仁王門です。

★ランドマーク目黒不動(瀧泉寺):泰叡山瀧泉寺(目黒不動)(天台宗)は寛永寺の末寺で、目黒不動尊縁起によれば、「慈覚大師が少年時代、現在の地に宿をとったとき、神人の夢をみた。その後大師が青年になり、唐に留学して、ある日長安の青竜寺を訪れ不動明王を拝んだところ、それが少年のころ霊夢に感じた神人と同じ姿であった。大師は奇異に感じ、帰朝後さっそく不動尊像を彫刻し、これを目黒の地に安置した」とある。

目黒不動尊縁起によれば「滋覚大師が大同3年(808年)比叡山に向かう途中目黒で宿をとった。その時、不動明王の夢を見たのでその像を彫り、安置した。それが寺の始まりである。」という。

仁王門の手前に比翼塚がありました。

★比翼塚:処刑された愛人白井権八と、彼の墓前で自害した遊女小紫。その悲話は『後追い心中』として歌舞伎などで有名だが、この比翼塚は、2人の来世での幸せを祈り建てられたという。

★伏見稲荷

★目黒不動尊の子連れ和犬像

 

独鈷(とっこ)の滝の左手にあるのが前不動堂。本尊は不動明王立像で、庶民信仰の便を図ったものとも、本堂に祈願するための徳を積む修業の場であったともいわれる。

独鈷(とっこ)とは…煩悩を打ち砕く仏具

垢離堂(瀧泉寺)

★独鈷の滝:このお滝は今を去る1200年程前、泰叡山瀧泉寺をお開きになった慈覚大師円仁が堂塔建設の敷地を占って、御自身が持っていた独鈷(とっこ)を投げたところ、忽ち滝泉が湧き出したので之を「独鈷の滝(とっこのたき)」と名付けられた。それより今日迄どんなに旱天が続いても涸れることもなく、滔々と落ちており、長く不動行者の水垢離の道場として利用されてきた。
 今日都内では大変珍しい名所である。


 泰叡山瀧泉寺は大同3年(808年)天台座主第三祖慈覚大師円仁(えんにん)の開基で、大師自ら尊像を彫刻して安置したのに創まる。天安2年(858年)堂于を造営するに際して、大師が所持の独鈷を投じて、建設の敷地を卜したところ滝泉忽ち湧き出したので「独鈷の滝(とっこのたき)」と称してより、今なお千百有余年絶えず湧出している。大師はお堂の棟札に「大聖不動明王心身安養呪願成就瀧泉長久」と付記して瀧泉寺と名付け、貞観2年(860年)、清和の御代に「泰叡」の勅額を下腸されるにおよび山号を泰叡山と定める。爾来、関東最古の不動霊場として、幾多の霊験が伝えられている。浄域の風情は春の花、夏の滝しぶき、秋の紅葉、冬の雪と四季折々に、自然の如法の姿が、参詣される善男善女の心に安らぎをもたらしている。

 

< 目黒不動尊ご詠歌 > 清らけき 目黒の杜の 独鈷滝   さいやく難を 除ける不動尊

 

ここに、目黒のお不動さまと諸願成就の縁を結び大願が円成するよう身代わりとなって、水を浴びて下さる「水かけ不動明王」が造立され、より清らかな心と身で、大慈大悲の不動明王に参詣できるようになったのである。  平成8年(1996年)5月吉日 泰叡山瀧泉寺

 

 

★鷹居の松跡(たかすえのまつあと):徳川3代将軍家光が寛永の頃(1630年頃)不動尊の近くで狩猟中に、かわいがっていた鷹が行方不明になりました。そのとき不動堂別当の実栄という僧に祈らせたところ、鷹はたちまちここにあった大きな松の枝に飛びもどってきたと伝えられています。今はその松の跡だけが残り標石が立っています。 

 家光は大いに喜び、この松を「鷹居の松(たかすえのまつ)」と命名するとともにこの不動尊を深く尊信し、火災のために堂塔ことごとく烏有に帰した当寺再建のため堂塔を寄進し、寛永11年(1634)には諸堂末寺等50余棟に及ぶ壮大な堂塔伽藍が完成したといいます。

★神愛大菩薩

★大本堂

★八大童子の山

★鐘楼堂

★災厄除 護衛不動尊

★延命地蔵尊

★意志不動

 

★不動明王

★微笑観音菩薩

★愛染明王

大本堂の裏手に

★銅造大日如来坐像(目黒区指定文化財昭和59年3月31日指定):蓮華座に結枷趺坐しているこの坐像は宝髪、頭部、体躰、両腕、膝等十数ヶ所に分けて鋳造し、それを寄せて一体とした吹きよせの技法で造られています。総高385cm、座高281.5cm、頭長は121cmで、体躰にくらべ頭部を大きく造るのは大仏像共通の特色であり、面相も体躰も衣文表現もよく整っています。
現在は露座となっていますが、「江戸名所図会」の目黒不動堂の挿図より、江戸時代には堂舎の中にあったことがわかります。
台座の蓮弁には開眼の年、入仏開眼供養の際の導師や僧侶の歴史が刻まれると共に、多数の施主名と供養者名が見えることから、大衆による造像だったことがうかがえます。また、刻銘から制作年の天和3年(1683)と制作者が江戸に住む鋳物師横山半右衛門尉正重であることがわかることも貴重です。

帰りは女坂で降りてきました。途中に力石があります。その下に

『 銅造 役の行者倚像(えんのぎょうじゃいぞう) 』      目黒区指定有形文化財(彫刻)    昭和59年(1984)3月31日指定

  別名『神変大菩薩』とも云い、修験道の開祖、足・腰を強靭にしてくれる。この像はやや痩せ形の神秘的な面相、均整のとれた体躯や手足の表現、法衣や袈裟の衣文のしわなどもまことに巧みで江戸時代の銅造彫刻としては優れた遺品の一つである。また、像の腹部、胸部、腕部等に寛政8年(1796)神田に住んでいた鋳工大田駿河守藤原正義作の刻銘があることも貴重である。  昭和59年(1984)8月 東京都目黒区教育委員会

以上は指定当時の説明書きのようです。

女坂=水音聞きてまた祈る

坂を下りたところに

『 地蔵菩薩 』 大悲をもって凡ゆる人間を教化、救済して下さる仏さま  地蔵堂にあり

『 閻魔大王 』 地獄の仏として人間生前の罪を判する王 地蔵堂にあり

『 三途の河婆 』 人間の死後、三途の河を亙る時、助勢をしてくれる老婆

水子地蔵尊
 
阿弥陀堂
観音堂

 『 観世音菩薩 』 江戸三十三観音の一つで慈悲の仏さま、聖観音、千手観音、十一面観音、観音堂にあり

★豊川稲荷

★三福神(弁財天・大黒天・恵比寿天)

池畔に三福神(弁財天・大黒天・恵比寿天)が祀られ、ここが山の手・七福神の恵比寿天となっています。

弁財天は七福神中の紅一点、美しい音楽の女神である。

ということでまだまだ見どころがあるようですが、池の所がバス停でちょうど渋谷行のバスが来たので乗り込みました。

天台宗
 泰叡山 瀧泉寺
     目黒不動尊


 天台宗で泰叡山瀧泉寺(たいえいざんりゅうせんじ)といい、大同3年(808)に慈覚大師(じかくだいし)が開創したといわれています。徳川3代将軍家光が堂塔伽藍(どうとうからん)を造営し、それ以来幕府の保護があつく、江戸近郊におけるもっとも有名な参拝行楽の場所となって、明治まで繁栄をきわめました。 境内は台地の突端にあり、水が湧き老樹が茂り、独鈷の滝や庭の池が美しく、庶民の信仰といこいの場所でした。

 壮麗をきわめた古い建物は、戦災で大半が焼失しましたが、本堂、仁王門、書院、鐘楼などの再建が着々と進められ、「前不動堂(まえふどうどう)」(都指定文化財)、「勢至堂(せいしどう)」(区指定文化財)は、江戸時代の仏堂建築としての面影を残しています。

境内には『銅造役の行者倚像(どうぞうえんのぎょうしゃいぞう) 』『銅造大日如来坐像(どうぞうだいにちにょらいざぞう)(区指定文化財)』、『仁王門』、『大本堂』、『垢離堂』、『延命地蔵尊』、『八大童子の山』、『勢至堂』、『前不動堂』、『観音堂』、『地蔵堂』、『降魔の三鈷剣』、『独鈷の滝』、『水かけ不動尊』、『養老孝子像』、『鷹居の松跡』、『腰立不動』、『本居長世碑』、『意思不動尊』、『力石』、『男坂』、『阿弥陀堂』、『北一輝先生顕彰碑』、『三福神〔山手七福神恵比寿天〕』、『豊川稲荷』、『地主神』、『三界万霊塔(無縁塔)』、『野村宗十郎銅像』があります。

裏山一帯は、縄文時代から弥生時代までの遺跡として知られ、墓地には青木昆陽(あおきこんよう)の墓(国の史跡)があります。
 昭和61年(1986)3月 目黒区教育委員会

コメント
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