ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

自證院(自証院・新宿区富久町)江戸名所図会めぐり

2018年01月11日 23時18分34秒 | 江戸名所図会めぐり

新宿曙橋の鍼灸治療院に通っています。新年最初の治療で少し早めに行き、付近を散策しました。自證院は靖国通りを新宿駅方面に向かっていった坂の上にありました。

奥にある新宿の文化財の案内が外から見えたので何となく寄ってみました。

★ランドマーク自證(証)院:自証院は、寛永17年(1640年)、尾張藩主徳川光友の夫人・千代姫の母、自証院を供養するために創建された寺です。最初は日蓮宗「本理山自証寺」でしたが、天台宗に改宗されました。古くは桜の名所であったといいます。また、堂塔の用材に檜の節目が多いものを用いたため、「ふし寺」または「瘤寺(こぶでら)」とも呼ばれました。 

明治時代末期、この付近に住んでいた文学者・小泉八雲が自証院の風致を大変好みました。境内で杉の木を切り倒す音を聞いて、杉の木がかわいそうでいたたまれなくなって転居したという逸話も残されています。 

境内には、弘安6年(1283年)に造立された、区内最古の阿弥陀三尊種子板碑(新宿区指定有形民俗文化財)などがあります。阿弥陀三尊種子板碑です。

★自証院の阿弥陀三種子板碑:弘安6年(1283)の紀年銘を有する区内最古の板碑であり、その大きさも都内で屈指のものである。

 山形の下に二条線が切りこまれ、天蓋の下に阿弥陀・観音・勢至の三尊の種子がそれぞれ蓮台を配して刻まれ、その下に紀年銘が記されている。天蓋・種子ともに古様を示し、板碑全体が鎌倉中期の特徴を持っている。 当時市谷付近に有力武将の居住を物語るものとして、また浄土信仰の普及を示すものとして貴重である。

なお三尊種子板碑両脇の「栄寿院妙山准心大姉」「元禄八乙寅年六月十九日」の文字は江戸時代の追刻である。

江戸名所図会より

左下の道から坂を上っていったことになります。

江戸切絵図でも「こぶ寺」というと書いてあります。右手の紫のところは尾張殿の広い敷地ですが、そこが現在の市ヶ谷の自衛隊になっています。

本堂

入り口の左手に仏足石

真ん中の桜は新宿区の保護樹になっていました。

★文豪、小泉八雲とのゆかり小泉八雲(Lafecadio Hearn)は明治29年9月東京大学で教鞭をとる為、松江より上京して西大久保に移るまで、5年余り、当自證院の門前に邸を持ち、日々、老杉の生い茂った当院の墓地を逍遥することを楽しみとし、また当時の住職とも心安く、仏教にも深い造詣を有していました。八雲の葬儀は明治37年、当院において営まれ、遺骨は、雑司ケ谷墓地に葬られているそうです。

山門の右手にこんな碑はありました。特に目的として歩いたわけではありませんでした、探していた江戸名所図会の施設に出合えました。

今は狭い土地に押し込まれているように思えましたが、こんな説明書きを見つけました。

天台宗東京教区の公式サイトでより引用させてもらいました。
http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/5jishoin/

自證院は、市谷の高台に位置し、新宿という大都会にしては、静寂の中にあります。

開基は、尾張大納言徳川光友卿の夫人千代姫の生母振(ふり)であって、そのお振の方は大猷院殿(三代将軍徳川家光)の局の一人で寛永17年8月没寂され、法名「自證院殿光山暁桂大姉」と号し、正保4年三代将軍より御朱印寺領二百石を拝領しています。

当寺に葬られるにあたり、現在の市谷の地に壱万六百余坪を賜わって、牛込榎木町よりここに移転しました。

後、寛文元年(1661年)千代姫によって本堂建立が行われ、更に門前の地、三百余坪を買上げて民屋を開き、霊廟掃除の役に供えたのです。

寛永5年(1665年)幕府の不受不施派禁断の令により、以後天台宗に改められ、上野東叡山寛永寺より法印信祐(中興)を招いて住持とし、当寺、台宗の祖となり、これより寺号を「鎮護山、圓融寺、自證院」と称することとなり、前天台座主、本照院一品親王の命により、東叡山輪王寺の常院室となりました。

その後、享保15年(1730年)近隣より出火の為、類焼したので元文3年(1738年)尾張徳川家戸山屋敷内の丸太節木作りの観音堂を拝領して本堂、中門等が再建され、以後、寺域内の諸堂宇等、建立され明治維新に至るまで、広大な寺容を備えていました。

明治4年、明治維新政府の社寺上地令により境内地と墓地の一部を残して寺領の大半は国有地として没収されました。

明治末年、経済的な寺門経営上の困難もあって、墓地は現在の中野区上高田に移転、改葬が行われ、広大な周囲の寺域も樹木を伐採して、宅地として、売却、貸付が行われた為、当時の東京市の都市化進展とあいまって、周辺は宅地化され寺地は著しく縮少され、さらに昭和3年、境内地の一部は、小学校建設用地として東京都に譲渡され、これに際し本堂、庫裡の移転、改築が行われました。

昭和10年代以後、大東亜戦争の激化につれて、梵鐘、銅像などの金属什宝物は強制献納され、創建当時の財物は次第に失われつつあったが、ついに昭和20年4月13日の東京大空襲によって、本堂、庫裡その他、什宝物の一切は灰燼に帰してしまい、現在の本堂、庫裡は昭和52年に再建したものです。

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