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ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

目黒大鳥神社(大鳥明神社、江戸名所図会めぐり)

2017年12月29日 23時50分02秒 | 江戸名所図会めぐり

目黒区中小事業センターで行われた食品衛生講習会の講師をしたので、ついでに周辺を散策しました。目的は目黒不動でしたが、途中で大鳥神社に出合いました。家で調べて見たら江戸名所図会にも載っていた古社でした。江戸名所図会より

★ランドマーク目黒大鳥神社:この神社は、日本武尊の東征にゆかりがあるといわれるこの地に、大同元年(806)創建された区内最古の神社です。江戸地図として古いものとされる「長禄江戸図」に画かれている古江戸9社の1つで、目黒村の総鎮守でもありました。祭神は日本武尊を主神とし国常立尊と弟橘媛命を合祀しています。

 毎年11月に開かれる酉の市は、東京では古いものの1つといわれており、現在も都内では有数の賑わいをみせています。この市のいわれは日本書紀に「10月己酉に日本武尊を遣わして、熊襲を撃つ」とあり、尊の出発日が酉の日であったことから、おこったと伝えられています。

 毎年9月の例大祭には、目黒通りに大小30余基の町みこしが勢ぞろいします。それとともに社殿では「太々神楽・剣の舞」が奉納されます。11月の酉の市には、「太々神楽・熊手の舞」が神前で舞われます。

 境内には、東京都の天然記念物に指定された「オオアカガシ」の老木や三猿だけの延宝塔、元禄時代(1688-1703)や宝永年間(1704-1710)の屋根付庚申塔など5基の石造物もあります。また、俗に切支丹燈籠といわれる「織部式燈籠」や、天保6年(1835)の酉の市に神楽を奉納した記念碑などもあります。(目黒区教育委員会掲示より)古地図

大江戸絵図より

拝殿です。神楽殿、ここで「剣の舞」「熊手の舞」が舞われるのでしょうか。

手水舎

★ランドマークアカガシの木、この木ではなく、オオアカガシがあり、東京都指定天然記念物だった。
「大鳥神社境内に生育していたオオアカガシは、基本種のアカガシに比べ非常に大きく、薄い葉を繁らせ、また、雄花穂の花軸はアカガシより太く長く、苞や果実も大きいという特徴からアカガシの変種とみなされました。新変種命名の基準となった本樹は、学術上貴重な樹木として、昭和三八年に東京都の天然記念物に指定されました。本樹の枝葉は、現在でもオオアカガシCyclobalnopsis acuta(Thunb.) Oerst.var.megaphylla Hayashi,var.nov.のタイプ標本として、国立科学博物館筑波実験植物園に保管されています。
 指定時に樹高約一六メートル、幹周り一・六メートルあった本樹は、生育環境の変化等により昭和五〇年代初め頃から樹勢の衰退がはじまり、数回にわたる樹勢回復事業も実施されましたが、平成一四年枯死が確認されました。また、後継樹育成のため挿し木による増殖も試みましたが、成功せず、平成二四年に指定解除となりました。
 ここに説明盤を設置し、都内でも学術上貴重な名木が存在したことを後世に伝えるものです。
 平成二四年三月 東京都教育委員会」

★切支丹燈籠:下目黒の大鳥神社所蔵で、昭和38年、守屋図書館に開設された郷土資料室に出品公開されて以来、中庭で展示していたものです。
 もとは千代ヶ崎の大村邸内にあり、かつてこの地にあった肥前島原藩主松平主殿守(とのものかみ)の下屋敷にまつられ、密かに信仰されていたものと伝えられています。
 竿石(さおいし)の下部に刻まれた像には足の表現がなく、イエス像を仏像形式に偽装した珍しい型の切支丹灯籠で、キリシタンへの弾圧と迫害が厳しくなった、寛永・正保・慶安の頃から江戸中期にかけて作られたものと考えられます。

銀杏も大きい木がありました。

銀杏の木の奥に櫛塚の碑

★櫛塚:全国美容週間実行委員会が奉納した櫛塚(くしづか)です。9月4日は櫛の日として櫛供養が行われるそうです。

延宝銘の庚申塔に将軍家と書かれた石碑など。

三猿だけの庚申塔となりは力石でしょうか。

笠付の庚申塔将軍家の墓です

この奥に末社の目黒稲荷神社がありました。

★酉の市:酉の市は、鷲神社、酉の寺、大鳥神社など鷲や鳥にちなむ寺社の年中行事として知られる。また、愛知県名古屋市の稲園山七寺(大須七寺、長福寺)など関東地方以外でも行われ、多くの露店で、威勢よく手締めして「縁起熊手」を売る祭の賑わいは、年末の風物詩となっています。

江戸時代後期から、最も著名な酉の市は、浅草の鷲神社 (台東区)(おおとりじんじゃ)と酉の寺 長國寺(とりのてら ちょうこくじ)境内で行われた酉の市です。鷲神社 と酉の寺 長國寺の東隣には新吉原という遊郭が存在し、酉の市御例祭の日には遊郭内が開放されたといわれ、地の利も加わり最も有名な酉の市として現在に至っています。 規模(熊手店約150店舗・露天約750店)賑わい(毎年70万人~80万人の人出)とも日本一の酉の市である。

区民センターに行く途中の目黒川で頭の茶色いとりが泳いでいました。ホシハジロでしょうか。

★ホシハジロの雄ホシハジロ

 

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麻布一本松(麻布十番周辺)江戸名所図会めぐり

2017年12月20日 23時36分46秒 | 江戸名所図会めぐり

食品安全検定の問題作成委員会が麻布であったので、途中で麻布一本松を散策してきました。前から行きたいところでしたが、なかなか機会がありませんでした。今回会議会場の周辺を探したらちょうどあったので喜んで行ってきました。ただ大変だったのは急な坂でした。

会場は南北線の麻布十番が近かいのですが、地図をみたら大江戸線の駅のところに十番稲荷神社があったので、こちらから伺いました。十番稲荷神社です。

★ランドマーク十番稲荷神社:「十番稲荷神社は、もとは末広神社(旧坂下町鎮座)および竹長稲荷神社(旧永坂町鎮座)でした。両神社は、昭和20年4月15日に戦災に遭い焼失、昭和25年6月復興土地区画整理により、両社境内地を現在地に換地、隣接指定されました。その後両社は合併して社名を十番稲荷神社と改称し、平成9年3月29日、現社殿に建て替えられました。」ということです。鳥居の脇に宝船とガマガエルが祀ってありました。手水舎狭い境内で立体的にできています。拝殿です。

古地図宮下町のほうかた赤いくつのきみちゃん像のあるパティオ十番街から坂を上ります。

途中に大黒天さんがありました。

★ランドマーク大法寺:日蓮宗寺院の榮久山大法寺は、慈眼院日利上人(慶長19年1614年寂)が開山となり慶長2年(1597)に創建したといいます。当寺では大黒天を祀っており、門前の大黒坂の由来となっている他、港区七福神の大黒天となっています。

脇に稲荷神社がありました。

一本松が見えてきました。大黒さんの前の坂は大黒坂というようです。古地図では一本松坂になっています。

今は一本松のところからの上を一本松坂というようです。一歩松の由来です。

★ランドマーク一本松:石碑には、 「江戸砂子によると天慶二年西紀939年ごろ六孫源経基 平将門を征服しての帰途此所に来り民家に宿す 宿の主粟飯を柏の葉に盛りささぐ 翌日出立の時に京家の冠装束を松の木にかけて行ったので冠の松とも云い又一本松とも云う」と書かれています。江戸名所図会より

御神燈文花4年(1807年)?とあります。奥に見えるのは長伝寺です。

★ランドマーク長伝寺:浄土宗寺院一松山長傳寺は、行蓮社心譽林哲和尚(貞享4年1687年寂)が開山となり、寛永5年(1628)創建したといいます。大黒坂を下ります。

★ランドマーク徳正寺:浄土真宗本願寺派寺院の松本山徳正寺は、釋道教(俗名毛利兵庫治信、明暦元年1655年寂)が寛永元年(1624)一本松の側に庵室を結び、寛永15年(1638)寺號を公称、寛保3年(1743)当地へ移転したといいます。

パティオ十番に戻ってきました。

会場のある善福寺方面に向かいました。善福寺は以前に訪れています。

 

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香取神社・亀戸(香取大神宮)江戸名称図会めぐり

2017年12月10日 09時57分11秒 | 江戸名所図会めぐり

家の近くなので何回も訪れていますが、なかなかアップする機会がありませんでした。12月上旬に撮ったも中心に掲載します。

江戸名所図会より

手前は香取神社商店街になっており、蔵前橋通りのところにも鳥居があります。

近くには有名な亀戸天神

亀戸 宰府天満宮(亀戸天神社)があります。この絵で右上隅にある社が香取大神宮と思われます。

 

★ランドマーク香取神社:当社の創立は天智天皇四年(665)、藤原鎌足公が東国下向の際、この亀の島に船を寄せられ、香取大神を勧請され太刀一振を納め、旅の安泰を祈り神徳を仰ぎ奉りましたのが創立の起因であります。


 天慶の昔平将門が乱を起こした時、追討使俵藤太秀郷が当社に参籠し戦勝を祈願して戦いに臨んだところ、目出度く乱を平げたので神恩感謝の奉賽として弓矢を奉納、勝矢と命名されました。

現在でもこの故事により勝矢祭が五月五日に執り行われております。
 以来益々土民の崇敬が篤く郷土の守護神というばかりでなく、御神徳が四方に及びましたので、葛飾神社香取太神宮と称え奉るに至りました。(当時の葛飾は下総国の大半を意味します。)
 元禄十年検地の節は改めて社寺の下附があり、徳川家の社寺帳にも載せられ古都古跡十二社の中にも数えられております。(神社の案内より)「亀戸鎮守葛飾神社」だったころの石碑でしょうか。亀戸惣鎮守葛飾神社号標石文政7年在銘(江東区登録文化財)のようです。

昔の狛犬の台でしょうか。

もしかするとこれでしょうか「狛犬(残欠)文化2年在銘(江東区登録文化財)」

石造燈籠(寛政6年在銘)(江東区登録文化財)

木遣りの由来の碑、富岡八幡にもありましたが。こちらは平和記念の碑です。戦災で多くの死者を出した下町の社寺仏閣にはどこにも震災の慰霊碑などが建てられています。

現在の狛犬です。

右手には神楽殿

手水舎の手前に

江東区指定有形文化財の「紙本淡彩道祖神祭図 歌川広重筆」の案内碑があります。

 

 軸に仕立てられた道祖神祭の様子を描いたものです。人物や宝船を墨で描き、朱や青などで淡彩を施しています。画面の右から宝船が進み、前で宝船を担ぐ人物と周りを歩く人物3人が描かれています。画面右肩に「年中行事亀戸道祖神祭」という題、その下方には広重の署名と落款(らっかん)があり、歌川広重の肉筆として貴重な作例です。また、宝船の旗には「宝船」「亀戸村氏子」の文字が確認できます。

 亀戸香取神社の道祖神祭は、毎年正月14日に行われ、氏子の子供たちが宝船を担いで亀戸から両国あたりまで練り歩いたとされています。道祖神祭は、『江戸名所図会』や『東都歳時記』にも取り上げられています。

亀戸邑道祖神祭の絵は江戸名所図会に描かれています。

★亀戸ダイコンは、文久年間(1860~1864)の頃から昭和初期まで、亀戸香取神社周辺で栽培されていました。
 根が30センチ近くと短く、先がくさび状に尖っているのが特徴で、明治の頃はさかんに栽培されており、「おかめ大根」とか「お多福大根」と呼ばれていましたが、大正初期に産地の名をつけて「亀戸大根」と呼ばれるようになりました。
 亀戸周辺が宅地化されるのにつて、生産の拠点が高砂地域に移転し、現在でも亀戸大根を生産しています。新鮮な亀戸大根は根も葉も共に浅漬にしておいしく、江戸時代から多くの庶民から愛されています。

拝殿です。

右手には

この奥に亀ヶ井が復元されている。「亀村」が「亀戸」と称されるようになったのは、当地周辺にあった「臥龍梅庭」の井戸「亀ヶ井(かめがい)」と、地名が混同されて「亀井戸」と呼ばれるようになり、それが転じて「亀戸(かめいど)」となったとされる。

江戸名所図会めぐりは昔の観光地の回りみたいにして昔を偲ぶというのが目的ですが、古いだけではやっていけないようで、神社でもいといろと新しいものができてきます。

こちらは2016年に建立された「勝石」です。

 

右手にはいろいろな末社が並んでいます。

手前から「熊野神社・三峯神社・水神社」「福神社」「稲足神社」「天祖神社」です。

★熊野神社

 

総本社で曽ては「蟻の熊野詣で」の諺通り、貴賎老若男女をとわず全国から参詣者が集り、信仰絶大にして盛況を極めました。当社は元梅屋敷隣の北の方に位置し、熊野入りと称して、亀戸村の水利を司っていました。大正13年、北十間川が拡張されるのに伴い、香取神社の境内に移転鎮祭しました。

 

★三峯神社

 

御由緒:享保年間(1716~35)の創立。有名な亀戸梅屋敷園主安藤喜右衛門が園内にお祀していたのを、明治の末年に香取神社に移しました。火防、盗難除のご利益あらたかで、梅屋敷講を受継いだ亀戸三峯講の多くの崇敬者も増え、近年本社参拝も盛んです。

 

★水神社

 

御由緒:天明6年(1787)香取神社13代神職香取正武がその年の洪水を記念し、災害防止、氏子住民の安体を祈願して石祀をもって建設しました。江戸名所図絵にもみえます。わたし彩(いろ)江戸名所図会より拝殿の左ほぼ中央におるのが水神です。

★稲足神社

御由緒:寛文9年(1670)創立。明治以前は普門院の主管であったが、明治元年香取神社の奉仕となる。明治35年香取神社隣接地に所在していたが境内に移転。琴平神社は宝暦年間香取12代神職香取正幸の鎮祭する処で、稲足神社は元渡辺稲荷神社と称え明治12年当社に合祀。

御神徳:産業発展・家運隆昌

★福神社

御由緒:元々御本社の相殿に奉仕されていた大国主神と併せて明治年間に至り、七福神のうちの恵比寿神・大国神として境内に鎮祭しました。当時の社殿石燈篭は小山富蔵氏寄進造営です。

御神徳:富徳円満・商売繁昌の守護神

★天祖神社(入神明宮)

御由緒:香取神社改築に伴い移転され、境内神社として祀られるようになりました。当神社の創立には江東区内では最も古く、口伝によるとこの地が四辺海に囲まれていた頃、漁船がしばしば風浪の危難に会う毎に、伊勢の大神を祈念すると災害を免れたという事で、太平榎塚に小祀を営み鎮祭されたといいます。

江戸名所図絵に描かれている神明宮は当社です。 尚、境内から多量のおもり(石器)が出土(明治40年)し、考古学的にも有益な資料とみることができます。現在香取神社にて保存しています。

 江戸名所図会より

 もともとあった場所です。ここから香取神社に移されました。

 

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秋葉神社再訪(秋葉権現宮・千代世稲荷社)江戸名所図会めぐり

2017年11月21日 23時03分05秒 | 江戸名所図会めぐり

秋葉神社には以前訪れていますが、江戸時代から紅葉の名所ということで、再度この時期に散策してみました。向島百花園(新梅屋敷)の近くで江戸時代の名所の一つだったようです。隣には大きな料理屋が2軒並んでいます。

江戸名所図会では

方向感観がよくわかりませんが、今の正面の鳥居です。由緒書きがあります。

★ランドマーク秋葉神社:昔この地を五百崎の千代世の森と云い千代世稲荷大明神がまつられていた。草創は正応2年(1289)と伝える。江戸時代の始め善財という霊僧この森に庵を結び精修数年の後、秋葉大神の神影を彫みこれを社殿に納めて消え去った。元禄の始め修験者葉栄が神感得てこの社に参り祈願の利益をうけ、当時請地村の長百姓岩田与右衛門を通じ寺社奉行に願出て上州沼田城主本多正永の報賛にて、元禄15年(1702)秋葉稲荷両社と称して社殿を造営し又千葉山満願寺を興して別当となった。

爾来鎮火の霊験・産業縁結びの神徳により諸大名はじめ士庶人の信仰を受け、享保2年(1717)に神祇管領より正一位の宗源宣旨を受けるに至った。明治元年神佛分離令の施行により、秋葉神社と称し別当満願寺を廃した。大正12年の震災に社殿倒壊し、昭和5年復興したが、昭和20年戦災にかかり昭和41年氏子崇敬者の奉賛により現社殿を再建した。

奥に東京スカイツリーも見えます。

わたし彩(いろ)江戸名所図会より

キャプション:請地 秋葉権現宮 千代世稲荷社  社頭に青松、丹楓(たんぷう)おほし。晩秋の頃、池水に映じて錦をあらふがごとく、奇観たり。

広重 『江戸名所百景』[請地秋葉の境内]

紅葉が象徴的に描かれています。

真っ赤にはなっていませんが少し色付いています。神木のイチョウ

石燈籠がたくさんありますが、墨田区の登録文化財になっています。

狛犬は顔が破損していました。

神楽殿

この自転車で散策しています。杖を付けられるようにしてあります。この道路を挟んで料理店があったのでしょうか。右手の先に行ったところにはお好み屋さんありますが、テニスが終った後に時々きていましたが、神社のことは全く気にしていませんでした。

江戸名所図会にはもうひとつ描かれています。

 江戸名所図会より 

★庵崎:俗間、請地秋葉権現の辺(あたり)をしか唱ふれども定かならず。須崎より請地秋葉の近傍(ちかく)までの間、酒肉店(りょうりや)多くおのおの籞(いけす)をかまへ鯉魚(こい)を畜(か)ふ。酒客おほくここに宴飲す。中にも葛西太郎といへるは、 葛西三郎清重の遠裔といひ伝ふれども是非をしらず。むさしやといふは、昔麦飯ばかりを売りたりしかば、麦計(むぎばかり)といふここにて麦斗(ばくと)と唱へたりしも、いまはむさしやとのみよびて、麦斗と号せしをしる人まれになりぬ。

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宝珠院(増上寺山内 芙蓉洲弁天社)江戸名所図会めぐり

2017年11月14日 14時44分44秒 | 江戸名所図会めぐり

東京タワーの下の所にある会社を2月に2日ずつ訪問しているので、その度にその周辺を散策しています。今回は宝珠院を散策してみました。都営地下鉄の赤羽橋駅から向かいました。

赤羽橋はこの錦絵が有名です。

広重 名所江戸百景 増上寺塔赤羽根より

江戸名所図会より 当時、増上寺には普通の人は入れなかったので、宝珠院は、増上寺の市井の人々の入り口として創られたお寺だそうです。

橋を渡って広小路の所から東京タワーです。右に行くと弁天さんの宝珠院があります。弁天池です。

 

宝珠院は今建て替えということで本堂と手水舎、地蔵堂を除いて取り壊されていました。

本堂です。手水舎子育・水子地蔵尊

★ランドマーク宝珠院・弁財天:宝珠院は、増上寺第三十世貫主生譽靈玄大僧正が、閻魔王と共に白蓮池の辨才天女を勧請、別当寺として貞享2年(1685)に創建したということです。港区七福神の一つとなっている弁財天は、三井寺を開山した智証大師が858年に竹生島で彫刻、源頼朝や徳川家康の崇敬を受けたといいます。

★開運出世辨才天: 三井寺の開山智証大師が八五八年竹生島で奇縁に依り彫られその後源家に伝わり再興に当り頼朝公深く信仰し天下を平定される。

 又徳川家康公も厚く信仰され天下の平和を築かれ除波辨才天を改め開運出世辨才天と改称されました。古来より一心に崇敬拝する者に開運出世巳成金福寿円満厄難消滅縁結びの利益を授けられ現在港区七福神の一つに制定されている。

閻魔大王も引っ越し中で写真のみが飾ってありました。調べて見たら取り壊す前の閻魔堂

中に飾ってあったようです。

★閻魔大王坐像および司録・司命半跏像(港区指定文化財)

閻魔大王は地蔵菩薩の変身であるといわれ、インドでは天上の楽土にあって、死者を導いたが、もちに下界におりて死者を審判する神となった。わが国では鎌倉時代(1192~1333)から、庶民信仰の対象として一般に流布するようになった。
 江戸時代には、正月と盆の16日に「地獄の蓋があく」といって参詣人が群集し、門前には露店が立ち、見世物小屋が掛って賑った。
 この閻魔代魔王坐像は、寄木造、高さ2mの大王で、貞享2年(1685)作といわれ、右に司録、左に司命の二像を従えているのは都内では珍しい。
   平成11年10月12日 港区教育委員会探してみました。ヘビとカエルは見つかりましたが、なめくじは見つかりませんでした。ネットで検索したら写真が載っていました。

地蔵さんも残っています。

えんま堂の跡地は樹木墓地になっていました。

道路を隔てた坂を登って東京タワーに向かいます。

タワーの下では菊が展示されていました。

無事坂を登り切りました。

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