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ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

東禅寺(東京都港区)江戸名所図会めぐり

2018年03月15日 23時24分46秒 | 江戸名所図会めぐり

午前中に港区で会議があったので、品川駅まで足を延ばして東禅寺を散策しました。山門

★ランドマーク東禅寺:国指定史跡 東禅寺

 東禅寺 は、幕末の安政6年(1859)、最初の英国公使館 が置かれた場所です。東禅寺は、臨済宗妙心寺派 に属し、開基の飫肥藩主伊東家の他、仙台藩主伊達家、岡山藩主池田家等の菩提寺となり、また、臨済宗妙心寺派の江戸触頭でもありました。

 幕末の開国に伴い、安政6年6月、初代英国公使(着任時は総領事)ラザフォード・オールコックが着任すると、東禅寺はその宿所として提供され、慶応元年(1865)6月まで7年間英国公使館として使用されました。その間、文久元年(1861)5月には尊皇攘夷派の水戸藩浪士に、翌2年5月に松本藩士により東禅寺襲撃事件が発生し、オールコックが着した「大君の都」には東禅寺の様子や、東禅寺襲撃事件が詳述されています。

 現在の東禅寺の寺城は往時に比べ縮小し、建物の多くも失われていますが、公使館員の宿所となっていた「僊源亭」やその前の庭園などは良好に残っています。庭園と僊源亭を含めた景観は、公使館時代にベアトが撮影した古写真の風景を今に伝えています。

 幕末期の米・仏・蘭などの各国公使館に当てられた寺院は大きく改変され、東禅寺が公使館の姿を伝えるほぼ唯一の寺院であることから国史跡に指定されました。 

平成24年3月 建設  東京都教育委員会

江戸名所図会より江戸切絵図

★最初のイギリス公使宿館跡:

安政5年(1858)7月に帰結された日英通商条約により、翌6年6月6日、イギリス初代公使オールコックらがここに駐在し、わが国最初のイギリス公使宿館となった。文久元年(1811)5月28日夜、水戸浪士の襲撃事件、同2年5月29日夜警固士のイギリス人殺傷事件があったが、明治6年(1873)ごろまで使用された。

 当時、公使館にしようされたのは大厳間および書院と奥書院であったが、現在その一部である奥書院(5.4x9.0m)と玄関が旧時のままよく保存されており、そのほかは昭和初年に改築された。

阿形(あぎょう)の仁王像です。

吽形(うんぎょう)の仁王像です。

境内に入ります。三重塔が見えてきました。平成4年に建てたもののようです。

鐘楼です。

宝物殿の正面玄関は19世紀中頃の部材を利用していということだそうです。

眼前に東京湾が広がることから海上禅林とも呼ばれたそうです。大きな石灯籠がありまさいた

 東禅寺事件:幕末の安政年間(1855年 - 1860年)以降、当寺は西洋人用の宿舎に割り当てられた。安政6年(1859年)には日本初のイギリス公使館が当寺に置かれ、公使ラザフォード・オールコックが駐在した。 

安政7年1月7日(1860年1月29日)、公使オールコック付きの通訳小林伝吉が門前で2人の侍に殺害された。 

文久元年(1861年)、攘夷派の常陸水戸藩浪士によって寺が襲撃される(第一次東禅寺事件)。オールコックは難を逃れたが、書記官らが負傷し、水戸藩浪士、警備兵の双方に死傷者が出た。翌文久2年(1862年)には護衛役の信濃松本藩藩士伊藤軍兵衛によって再び襲撃され、イギリス人水兵2名が殺害された(第二次東禅寺事件)。

などなど、まだまだいろいろと歴史があるようです。長い三℃をあるいて帰りました。

門を出たところに公園がありました。

看板が出ていたので、公園の注意書きではなく、この辺の歴史が書いてるといいな!と思って覘いてみたら希望通りの看板でした。

なんだか港区の文化度の高さを感じました。

ここから午後の仕事で東京タワーの下にある施設に向かいました。

施設の庭にはミツマタが咲いています。

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高山稲荷神社・石神社(品川)江戸名所図会めぐり

2018年03月12日 22時10分32秒 | 江戸名所図会めぐり

東京タワーのところにある施設の点検と報告会を2か月に一度行っています。報告会のあった3月12日は午前中は労働委員会会館で厚生労働省の医薬・食品衛生審議会食中毒分科会があったので傍聴しました。午後の報告会までに時間があったので品川まで出かけて、江戸名所図会に掲載されている高山稲荷神社と東禅寺を散策しました。

高山稲荷神社は品川駅の西口の近くにあります。江戸名所図会より

キャプション:薩洲侯御藩の南にあり。

江戸切絵図より稲荷と書かれているところが高山稲荷神社です。キャプションのように薩州藩の屋敷があります。

切絵図では江戸時代は国道1号線は海岸線に沿っていたようです。

★ランドマーク高山稲荷神社:高山稲荷神社の創建年代は不詳ですが、凡そ五百年前当地域に創建、有馬邸の東北丘上にあつたので、高山稲荷と称したといい、明治初年当地へ遷座したといいます当時神社の前面は海辺で房総方面よりくる舟の目標となっていた。永く高輪南町・下高輪町の鎮守の神として崇敬を集めた。現在の社殿その他は、昭和六年氏子崇敬者の浄財によって造営せられた。とのようです。

江戸名所図会では長い階段がありますが今は短い階段があります。

ということだそうです。狛犬は慶應元{1865年)年の銘記でしょうか。手水舎

社殿

港区登録有形民俗文化財平成6年(1994)3月22日指定の石燈籠(おしゃもじさま)です。

★ランドマーク石燈籠:「おしゃもじさま」は、縁結びの神として祀られているが、その名の由来はわかっていない。高輪の台地上にあった「石神社(別名『釈神社』)」が、高山稲荷神社に合祀されたもので、『江戸名所図会』によれば、石神横町(しゃくじんよこちょう)といわれていた。これを誤って里俗で「おしゃもじ横町」といったとされ、この名からつけられた名である可能性もある。

  このおしゃもじさまは、もとは切支丹燈籠で、一説には高輪海岸で処刑された外国人宣教師を供養するために建てられたといわれ、また海中より出土したともいわれる。切支丹の隠れ信仰があったことを物語る資料である。(東京都港区教育委員会)江戸名所図会より

キャプション 縁遠き婦人、当社に詣で良縁を祈れば必ず験(しるし)ありといふ。報賽には社地に何に限らず樹木を栽ゆるを習俗(ならい)とせり。相伝ふ、石剣を祭るといふ。

 

よく読めませんが以下のように書いてあるようです。

高山稲荷神社は京都伏見稲荷大社の御分霊・正一位福聚稲荷大明神の御分霊を祭祀しております。
往時の文献によれば今から凡そ五百年前当地域に神社の建立を御勧請し神社を建立したと記されております。
当時高輪の地形は小高い丘陵で社殿は二百数十段の石段の山峰に位置し山上の神社故高山神社と称されたと伝えられております。
現在の社殿前方品川駅一帯は見晴らすかぎり海辺がつづき遠く房総方面より往き来する舟の目標となったものと記されております。(寛政年間の江戸名所図会参照)
明治初期毛利公爵が当地に邸宅を構えるに及び同家より広大な敷地の寄進があり境内からの眺望は目を見張るものがあったと思われ明治天皇が京都より江戸への遷都に際して当所で御休息・御野立をなされたと伝えられて居ります。(毛利家所蔵文献参照)
大正十二年関東大震災後国道の拡張に伴い約十五米の境内を失い参道も(旧参道は現在地北側約三十二米先の石畳道路に面しており南方へ向って石段を昇った)現在の方位に移りましたが歴史の流れと共に社殿の損傷も甚しく昭和の初期諸先輩の努力により高山神社奉賛会を設立し氏子一同の熱心な御協力により昭和六年九月吉日社殿の御造営を落成し現在の荘厳な新社殿を仰ぎ見るに至った。当社は古来高輪南町・下高輪町(旧中町)の鎮守の神として氏子町民の信望を集め毎年九月十五日を期し賑やかに大祭の行事を執行致しております。
昭和六十三年に至り約六十年間風雪に耐えた神社大鳥居並社殿内外の大改修の必要にせまられ茲に奉賛会会員並氏子一同の絶大なる御協力・御奉納により改修の完成を見るに至った。
当神社は数百年来鎮守の神として氏子町民の守護神として信望を集め強いては全人類の平和と幸福を祈り国家の隆昌と子孫の繁栄に御加護下さる由緒ある神社です。

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白山神社(小石川白山権現社)江戸名所図会めぐり

2018年02月15日 23時46分26秒 | 江戸名所図会めぐり

鍼灸治療の予約が中途半端な時間になってしまったので、帰りがけに「江戸名所図会」に描かれており、東京十社にも載っている文京区の白山神社を散策しました。都営地下鉄の白山駅のA3出口から向かい、ちょっと上り坂でしたが鳥居のところに着きました。。

★ランドマーク白山神社:創開は古く、天暦年間(947~957)に加賀一宮白山神社を現在の本郷一丁目の地に勧請したと伝えられる。

 後に元和年間(1615~1624)に2代将軍秀忠の命で、巣鴨原(現在の小石川植物園内)に移ったが、その後五代将軍職につく前の館林候綱吉の屋敷の造営のため、明暦元年(1655)現在地に再度移った。この縁で綱吉と生母桂昌院の厚い帰依を受けた。(文京区のHPより)江戸名所図会より

鳥居は右手奥入り口のところに当るようです。

手前の階段のところは白山通りからの入り口のところになるのでしょうか。

★白山神社由緒:当社人皇六十二代村上天皇天暦2年(948)9月加賀一宮白山神社を武蔵国豊島郡元国木と号して今の本郷元町に奉勧請す。
建武4年(1338)足利尊氏により国家平安御祈願所に命ぜられ永百貫文之御判物を賜る。元和2年(1616)徳川秀忠公の命に依り小石川白山御殿(巣鴨原)へ遷座、慶安4年(1651)徳川家綱公の用地と相成り、明暦元年(1655)現在地に移奉す。同年社頭其外造立に相成り、後に五代将軍家綱公之生母桂昌院の信仰を受けらる。元禄年中までは本社摂社寄附神楽宝庫は勿論神官宅まで、旧幕府より修繕を加えられる。寛文6年(1677)9月29日祭礼賑々しく執行いたすべき旨申し渡され、御開帳並びに祭具等寄附あり。
元禄3年(1690)正月29日旧幕府より社領30石寄附之あり。右朱印元禄6年(1693)9月29日戸田能登守相渡さる。元禄16年(1703)11月29日小石川辺より出火、本社摂社末社宝庫並びに祭具のこらず社中惣門まで悉く類焼し、宝永元年(1704)6月14日加藤越中守掛にて仮殿手当として金500両桧5000挺寄附あり。再建せられたるも享保3年(1719)3月回禄の時再び火災にあい宝物什器祭具等悉く焼失す。後数十年間本殿のみ建立しありしに明治32年拝殿建設、昭和8年改修し同9年9月18日盛大に正遷座大祭施行す。
なお白山御殿の地名は元白山社地なるが故であり、小石川の地名は始め加賀国石川郡より奉勧請当社鎮座の旧地に倣へるが故なり。
当社は明治元年勅祭神社に準じられ(準勅祭神社)、東京十社の一つである。

社殿です。枝垂れ桜が植えられています。

手水舎

今は境内のあちこちに梅の花が咲いています。

後ろの浅間神社(富士塚)にも梅が咲いていました。富士塚は紫陽花の時期に多くの参拝者が訪れるようです。

他の境内社には八幡神社 

 

★白幡桜:平安時代の永承6年(1051年)、八幡太郎義家が奥州平定の途中、この地を通った時、旗をこの樹にかけ戦勝を祈願したと伝えられており、この事から白旗桜とも呼ばれているそうです。

 

旗桜記

桜の根元にある桜記碑(明治29年(1896年)建立)

関東松尾神社

★嵐山の松尾大社(京都市西京区嵐山宮町3):京都盆地の西一帯を支配していた秦氏により、西暦701年(大宝元年)創建された京都最古の神社です。渡来人の秦氏に酒造りの技能者が多く見られたことから、室町時代末期頃から「酒造第一祖神」として崇拝されるようになったということです。

稲荷神社稲荷神社の脇に石碑がありました。冨士登山同行記念碑でしょうか。

その他に

何を祀ってあるのか不明でしたがありました。

境内は広く駐車場になっていました。後ろのビルは東洋大学でしょうか。

こんなのもありました。桜の木です。潤一郎の奉納の桜です。

福寿草

万両

サザンカ

銀杏の木は保護樹銀杏の下に神輿蔵が並んでいます。

社殿の裏は白山公園でアジサイいの名所のようです。とりあえず今は梅が咲いています。高校のグランドから絶壁になっていて高台にあることがわかります。

鳥居を入ったところの左手に「孫文先生座石」が建っていました。

★孫文先生座石の碑:碑文の略記には「明治43年(1910)5月中旬、神社近くに住む盟友、宮崎滔天宅に寄遇していた孫文は滔天と共に、白山神社の境内の石に腰掛け、中国の将来と革命について語り合った。そのとき、夜空に光芝を放つ、一条の流星をみた。このとき、祖国の革命を心に誓った。そして、清朝を倒した辛亥革命の最高指導者となり、中国国民党の創設者になった。孫文が流星を見て、清朝を打倒し、新中国建設を誓った場所を後世に残そうと、白山神社の清水宮司を中心に町会有志が、この記念碑を建立した。
孫文と滔天が見た、一条の光芝を放つ流星は、ハレー聾星ではないかと思われる。ハレー彗星が太陽に最も近づいたのは、明治43年(1910)4月20日であった。中国や日本では、むかし、この星を妖星と呼び、変事が起こるきざしと考えられていた。」(文京区史跡さんぽ実施報告書より)

手前の黒い石が腰かけて話し合ったもののようです。

江戸時代の切絵図です。広い通りが旧白山通りになります。根津神社(根津権現)も近くにあります。

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麻布氷川神社(港区元麻布・氷川明神)江戸名所図会めぐり

2018年02月02日 13時37分31秒 | 江戸名所図会めぐり

食品安全検定の問題作成会議で元麻布に出かけました。付近に江戸名所図会に描かれている氷川明神(麻布氷川神社)があるというので、行ってみることにしました。江戸名所図会より

前回は麻布一本松まで行ったので、その奥までと歩いてみました。あいにく小雨で片手杖で傘も差さずに歩きました。

大江戸線の麻布十番駅から暗闇坂を登っていきました。

江戸切絵図

左手が暗闇坂、右手が一本松坂と書かれています。

黄色く塗ったコースを歩きました。

前回はピンクのところきみちゃん像のあるところから大黒坂から一本松坂を歩きました。以前の一本松のブログはこちらです。江戸名所図会に描かれている一本松です。鬼平犯科帳などにも登場します。

元麻布ヒルズの入り口の前を通ってすぐのところにありました歩くのが大変で横道から入りました。

稲荷神社。

そして手水舎

★ランドマーク麻布氷川神社:天慶5年(942年)、源経基が平将門の乱平定のため東征した折、武蔵国豊島郡谷盛庄浅布冠の松(現麻布一本松)の地に創建されたと伝えられる。他方で、文明年間(15世紀後半)に太田道灌が勧請したという説もある。2,000坪以上の社有地を有したといわれるが、創建地が増上寺の所領となり、万治2年(1659年)当地へ遷座した。江戸時代は、江戸七氷川に数えられた。

東京大空襲で、本殿・社務所等が焼失、戦後に再建されている。

周辺には麻布宮村町、麻布宮下町、麻布鳥居坂町等、関連する地名が残っていたが、住居表示実施による町名変更に伴い、これらは公式の町名としては廃止された。

1990年代のアニメ『美少女戦士セーラームーン』で、火川神社の名で登場し、かつ同作品のキャラクターであるセーラーマーズ・火野レイが巫女をしているという設定のため、放送当時ファンが押しかけたことでも知られる。

(ウイキペディアより)鳥居です。毘沙門天とありますが見つかりませんでした。神楽殿

神輿蔵です。

こちらの宮神輿は千貫神輿で有名なようです。sy殿のうしろにそびえるのは元麻布ヒルズ(森ビル)です。

前に善福寺に来た時になんと不似合なビルと思ったので覚えています。

麻布氷川神社周辺を説明したものにこんなものがありました。

元は豊島郡谷盛庄麻布郷冠ノ松即ち宮村町くらやみ坂上(一に切通し)今の一本松の邊に在り、境内頗る廣く二千餘坪程あつたと云ふ。此の縁由に依つて一本松は當社の神木となつて居り、その注連飾は今以て當社で執行してゐる。古くは麻布明神と呼び、麻布郷總鎮守であつた。創建の年代に就ては二説ある。一は天慶五年九月十七日源経基東征の時と云ひ、一は文明年中太田道灌が北足立郡大宮驛の氷川神社から勧請したものと云ふ。現地へ移つたのは萬冶二年で、増上寺の本譽露白和尚が舊社地を其の退隠地として請受けた爲めである。古くより近郷の崇敬を集め江戸氷川七社の市に算へられてゐる。

 明治維新迄は芝愛宕真福寺末の冥松山徳乗院(古義真言宗)が別當として社務を掌つてゐたが、同二年神佛分離に依つて廢され、五年十月郷社に指定された。(「麻布區史」より)「猫の足あと」さんからお借りしました。

ここから会議の場所に向かいました。妙行寺とかかれているところを左に折れると下り坂です。善福寺のところ左折して、前回は門前で摂りました。

後ろのビルは何者かと思いましたが、元麻布ヒルズとわかりました。善福寺のブログはこちらです。

★ランドマーク元麻布ヒルズ:東京都港区元麻布にある森ビルが開発した高級レジデンス(マンション)群である。フォレストタワー(地上29階 地下3階)・フォレストテラスイースト(地上6階地下1階)・フォレストテラスウェスト(地上5階地下1階)の三棟で構成されている。

本地の敷地の大部分は善福寺の所有地であったが、バブル景気直前の1983年に森ビルが善福寺より譲り受けた事を発端に開発に着手されたが、他の土地所有者との交渉や資金調達などが難航し、バブル崩壊を迎えたため一時中断された。その後は2000年に着工、2002年6月に竣工した。とのことです。

ということで広大な土地をもっていた善福寺の敷地に建てたようです。

 

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須賀神社(新宿区須賀町・牛頭天王社)江戸名所図会めぐり

2018年01月28日 12時17分33秒 | 江戸名所図会めぐり

新宿の曙橋の鍼灸治療院に行く途中で、念願だった須賀神社とその周辺を散策してみました。信濃町駅から外苑東通りを四谷三丁目方面に向かってあるいて右手に入って須賀神社に着きました。蔵のような建物は天白稲荷神社でした。

こちらからは入った左手に天白稲荷神社がありました。

社殿の脇に新宿区の文化財の案内板がありました。

★須賀神社の三十六歌仙絵:三十六歌仙は、平安時代中期の公卿藤原公任(966-1041)が、過去および同時代の優れた歌人三十六人を選定したもので、万葉歌人から柿本人麿・小野小町ら33名が選ばれている。

 須賀神社の三十六歌仙絵は、三十六歌仙を一人一枚の絵に仕立てたもので、縦55cm、横37cmの絹地に彩色したものを、額装の上社殿内に掲げている。

 当時画家として高名だった四谷大番町(大京町)の旗本大岡雲峰(1764-1848)の絵と、和歌や書画で人気を博した公卿千種有功(1797-1854)の書により、天保7年(1836)に完成・奉納されたものである。

 四谷の総鎮守として信仰を集めた須賀神社の隆盛を物語る文化財の一つである。

拝殿です。左手に天白稲荷神社があります。

右手には火消のく組の碑と半鐘と梯子の碑、奥に祖霊社です。

手水舎

神楽殿です。

★ランドマーク須賀神社:東京都新宿区須賀町に鎮座する神社で、江戸時代には四谷鎮守の天王様として信仰を集めた。主祭神は須佐之男命(須賀大神)、宇迦能御魂命(稲荷大神)。主祭神の左右には五男神(天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、熊野樟日命、活津彦根命)、宗像三女神(多紀理姫命、市杵島姫命、多岐都姫命)が祀られている。

須賀神社の始まりは寛永11年(1634年)、赤坂一ツ木村(一ツ木)の清水谷にあった稲荷神社を江戸城外堀普請のため四谷に遷座したことであるとされる。寛永14年(1637年)、日本橋大伝馬町の鎮守として神田明神摂社に祀られていた牛頭天王(須佐之男命と習合)を合祀したことにより江戸時代には「稲荷天王」「四谷牛頭天王社」と称されていたが、明治元年(1868年)の神仏分離により社号を改めた。今も授与品の茅の輪守や近隣の地名(天王坂(東福院坂)、天王横丁)などから往時の信仰を偲ぶことができる。

 須賀神社には、新宿区指定有形文化財(絵画)に指定されている三十六歌仙絵がある。この絵は天保7年(1836年)に大岡雲峰の絵と千種有功の書により製作、奉納された。

江戸名所図会より

参道は下右手の階段のようです。今、この階段のところの風景が人気スポットになっています。それはアニメ映画「君の名は。」で描かれたためです。ちょっと曇っていて遠くが見えず残念でした。次に戒行寺に行ったのでこの階段は通りませんでした。鳥居の手前右側が階段になっています。

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