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ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

妙勝寺(江戸川区江戸川)江戸名所図会めぐり

2018年06月20日 14時22分35秒 | 江戸名所図会めぐり

天気が良かったので念願だった江戸川区の妙勝寺に行ってきました。住まいから少し離れているので、リハビリサイクリングにしては遠いのでなかなかいけませんでした。ひたすら新大橋通り進んで環状7号線まで行きました。

環七からちょっと入ったところにお寺さんがありました。こちらは裏口でした。

表に回って

古川親水公園の所から撮りました。

★ランドマーク古川親水公園:昔、船堀川、橫川などと呼んでいた河川がありました。この川は、もとは利根川とよばれた江戸川の旧河道でした。

天正18年(1590)8月、江戸に入府した徳川家康は、小名木川の開削とあわせて旧河川を連結するなどの改修をして江戸川と結ぶ水路(船堀川)をひらきました。行徳の塩を江戸に運搬するためで、この運河は行徳川とも呼ばれました。その後、江戸の繁栄とともにこの水路を利用する舟運が盛んになりましたが、屈曲が多くて、その頃よく使われていた高瀬舟の航行には支障をきたしていました。寛永6年(1629)この支障をなくすために、今の三角(新川橋)のところから東へ、江戸川まで一直線に新しく水路を開削しました。

行徳や上総方面からの舟荷はもっぱらこの新しい川から、小名木川を経て江戸へ入ることになり、その頃から「新川」とよび、元の川は「古川」とよび、元の川は「古川」とよばれるようになりました。 

長い間、田園地帯の水源・水路として活用されてきた古川の流れにも、昭和30年代(1955)後半になると、都市化の波が押し寄せました。周辺に住宅や工場が増え、家庭の雑排水などが流れ込み、やがて悪臭を放つドブ川同然となってしまいました。

昭和48年、都会の中では回復不可能と思われていた“清流”がよみがえり、昭和495月には「全建賞」を受賞。また、昭和575月にはナイロビで開催された「国連人間環境会議」で紹介されるなど、国内はもとより世界各国で大きな反響をよんだ画期的な国内の親水公園第1号です。(江戸川区郷土資料室・区役所HPより)

江戸名所図会より二之江妙勝寺

図会でも寺の前に古川が描かれています。

キャプション:ニ之江より今井・舟堀・桑川のあたりに産する海苔を、世に葛西海苔と称す。本草にいはゆる紫菜の類にして、 浅草に異なり。

山門です。脇に由緒書きがありました。

★ランドマーク妙勝寺:日蓮宗で本覚山成就院と号し、中山法華経寺の中本寺として14か寺の末寺を抱えていました。土地の人から「じょうじん」(成就院)とか「黒門寺」と呼ばれ親しまれています。

 寺伝によると、弘安7年(1284)堀江の浦(葛西沖)に漂着した難破船に残っていた少年を、二之江村の漁師が救い上げました。少年は平家の末裔で、中山法華経寺の二世日高上人の弟子となり、のちに成就院日尚と号して古川べりの妙見社のかたわらに小堂を建てました。これが本寺の始まりで、徳治2年(1307)3月のことといわれます。

■紙本墨書大曼荼羅(区登録有形文化財)

 天保14年(1843)三十二世日信の代に、小島(現・西葛西)に住む控井権右衛門が寺に寄進したと記録されています。日信はその鑑定を法華経寺百一世日道(~1850)に依頼し、2幅とも日高、日祐上人の真筆であると認めた証文が残っています。

 平成3年3月 江戸川区教育委員会

山門を入ると右手に釈迦堂です。お釈迦さまと四菩薩が安置されているそうです。

仏陀の言葉 慈しみの碑がありました。

その先に鐘楼があります。

鐘楼堂は12月31日の除夜の鐘の祭には大勢の方で賑わうそうです。

鐘楼の奥に見えるのが開山堂です。開山した成就院日尚聖人を祀った御堂だそうです。

★妙勝寺縁起:弘安7年4月(1284)下総国堀江の浦に漂着した難船にのこされていた童子を、当村二之江村漁師の五郎が救い上げて育てたところ、童子は後に中山法華経寺2世、日高上人の弟子となり、成就院日尚と号して当村古川べりの妙見社のそばに草庵をいとなみ、一寺を建立した。即ち開山の日尚上人で時は徳治2年(1307)春3月のことであった。中山法華経寺の末寺・葛西の融水頭であり、中本寺として14ヶ寺の末寺をかかえていたという記録がある。安置する宗祖大士像は中山法華経寺3世日佑上人がある夜、宗祖聖人が微妙な音声で読経している夢を見て、自ら夢中感得のお姿を彫って開眼供養をして日尚上人に与えられたものである。安政地震で倒壊したが、かつては水神宮があり、現在開山堂に祀られているが、この本尊は日尚上人が難船で漂流している時、深く水神に祈誓して波浪の難をのがれたので報恩の為、彫刻して日高上人に点眼を乞い、以後は一乗の法味をささげたものとされている。地元の有力な檀信徒の外護も代々続き、大木に囲まれた中にある。大伽藍、客殿は威風堂々として風格を備え、民間に開山上人の院号、成就院がなまった”ジョウヂン”の呼名で親しまれている有数の名寺である。

 境内を散策してみました。本堂

水子観音像:水子となった尊い生命を供養する観音様です。

手水舎に水屋です。

駐車場からの入り口のところに浄行菩薩像です。

霊廟です。昭和27年に日蓮宗開宗七百年を記念して建立された合奏式墓地として永代供養をしているそうです。

アジサイはちょっと盛りを過ぎていますがあちこちに咲いていました。白ユリもありました。

駐車場の出入り口にはノウゼンカズラが咲いていました。

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小岩市川渡し跡(江戸川区北小岩)とその周辺 江戸名所図会めぐり

2018年06月13日 23時46分15秒 | 江戸名所図会めぐり

小岩菖蒲園の帰りの途中で京成江戸川駅の周辺を散策してみました。近くに社寺仏閣があるというの歩き出すと江戸川堤の方面に案内板が見えました。

堤を再度登ってみました。今度は京成鉄橋の下流側です。

偶然に江戸名所図会の市川渡口・根本橋・利根川の所でした。

★ランドマーク小岩市川の渡しと関所:房総と江戸をむすぶ佐倉さくら道みちが江戸川を渡るこの「渡し」は、古くから交通の要衝ようしょうでした。連歌師柴屋く軒宗長の紀行文『東路のつと』(永正6年)にも、この渡しを渡って善養寺へ向かう記述があります。江戸時代には元和2年(1616)に定船場となり、番所がおかれ、いわゆる「入鉄砲に出女」という言葉があるように、江戸を往来する人や物資を厳しく監視しました。番所はのちに「関所」となりました。関所付近の街道筋は「御番所町」とよばれ、旅籠屋や掛茶屋が立ち並び、大名の参勤交代や成田詣での人々でにぎわいました。

関所を通るには、名主の発行した手形または切手と呼ばれる通行証明書が必要で、特に鉄砲の持ち込みと女性の地方への旅は厳重に取り締まられました。そのため、千葉県側から嫁に来た場合は、里帰りや祝儀・葬儀、実家に帰る場合にも手形を必要とし、奉公人としてやとわれてきたときには年季が明けるまで帰ることはできませんでした。

小岩市川の関所は、現在の京成電車鉄橋から約50m下流にあったとされています。

利根川は古利根川で今の江戸川です。

旧中川の逆井の渡しから元佐倉道から続いている所だということが分かりました。「逆井の渡し」については何度かこのブログにアップしています。

堤から通りに出たところに佐倉道についての案内がありました。

よく読めませんが御番所町跡について書かれています。

★ランドマーク御番所町跡:御番所町とは関所前の界隈のことですが、京成江戸川駅から南へ蔵前橋通りに至る道路部分を区史跡として登録しています。ここは佐倉道と元佐倉道の合流するところで、南北に走る岩槻道にも接する交通の要衝でした。小岩市川の渡しが定船場となり、御番所(関所)が置かれたことから御番所町と称したと思われます。江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』(1828年成立)の「伊予田村」の項にも、関所は「新町内江戸川の傍にあり、ここを御番所町とも云」と書かれています。『徳川実紀』延宝2年(1674)の記事にある佐倉道(元佐倉道)の小岩の駅(宿場)に当たるものと考えられます。角屋、筑前屋、清水屋などの旅籠を兼ねた小料理屋をはじめ、井熊鮨、あめ屋、豆腐屋、ぬか屋、掛茶屋などがならんでいたと伝えられます。角屋は近年まで同じ場所で旅館を営業していました。江戸川につきあたる付近が関所跡で、関所から来ると正面左に大きな道標が望めました。

道標は今も原位置にあり、道路の様子も昔をしのばせます。そのほかにも、江戸川の川岸にあった常燈明(宝林寺)や関所役人中根平左衛門代々の合葬墓(本蔵寺)など当時にゆかりのある旧跡がよく残っています。

こちらが宝林寺の常燈明です。

★ランドマーク常燈明:もとは小岩市川の渡し場に建てられていました。昭和9年に河川改修のためここに移されました。この渡しは江戸時代には成田詣での人たちで賑わいました。この常燈明は千住総講中の人たちによって天保10年(1839)に建てられました。燈籠の高さは2m、台座は5段に組まれていて、高さは1.82mあります。

昭和56年(1981)1月登録  区登録有形文化財・建造物

★ランドマーク宝林寺:真言宗豊山派に属し、愛宕山地蔵院と号します。もとは千葉県国分(市川市)の金光明寺の末寺です。起立は文秀法印(慶長12年・1607没)で、本尊は不動明王です。本堂前には常燈明が、墓地には旧伊豫田村(現在の北小岩3丁目ほか)の開拓者・篠原伊豫の墓と伝わる宝篋印塔があります。参道入口には地蔵菩薩庚申塔があります。

宝林寺本堂

北向き地蔵

★ランドマーク宝林寺所在の地蔵菩薩像庚申塔(寛文10年銘)

昭和59年(1984)2月登録 江戸川区登録有形文化財・民俗資料

参道入口に他の石仏群と共に祀られています。舟型で地蔵菩薩立像は半肉彫、左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。像高は144㎝、寛文10年(1670)に建てられました。銘文には庚申供養のために造立したと刻まれています。宝林寺参道脇に、六地蔵に並んで祀られています

庚申塔

六地蔵

こちらが本蔵寺です。山門

★ランドマーク本蔵寺:当寺は、元和8年(1622)浅草新寺町に起立され、京都妙顕寺開基龍華樹院日像菩薩の「像」の一字をもって大雄山本像寺と称し、妙顕寺の末でした。延享2年(1745)の同寺「略縁起」は、加賀中納言前田利光の母寿福院尼が一寺を草創したのがはじまりと伝えています。明治43年(1910)に下総真間弘法寺末の晴立寺と合併し、晴立山本蔵寺となり、晴立寺のあった現在地に移転しました。

  晴立寺は、小岩市川関所役人を代々つとめた中根氏の館のあとといわれ、菩提寺と伝えられています。現墓地には、中根平左衛門家の代々合葬墓があります。

 

★木造日朗・日像聖人坐像 (江戸川区指定有形文化財)

  日朗は宗祖日蓮の高弟で、日蓮宗池上門流の祖として知られています。寛元3年(1245)下総国平賀(千葉県松戸)に生まれ、日蓮聖人佐渡配流中も鎌倉にあって教えをひろめ、池上に法華堂(現・本門寺)をはじめとする諸寺を創建し、元応2年(1320)入寂、76歳でした。

  日像は日朗の末弟で、文永6年(1269)下総国平賀に生まれ、7歳で身延山にて日蓮聖人に給仕しました。聖人滅後は、兄の日朗に師事し、後に日蓮上人の遺志をたいし、京都で法華経をひろめ、妙顕寺を拠点とする京都日蓮宗の基礎を築いたといわれています。享年74歳でした。

  この両聖人の坐像は京都妙顕寺の旧蔵品であり、天保6年(1835)に妙顕寺より下賜されたものと伝えられています。寛永19年(1642)に彩色補修が加えられ、妙顕寺十三世日饒、十四世日豊の署名と花押も残っています。製作年代は室町時代と考えられる秀作で、両像とも35センチメートルの小さな坐像ですが、写実性に富み、高僧の面影がよくしのばれます。

  平成12年(2000)9月  江戸川区教育委員会

 本堂

こちらが御番所町の慈恩寺道石造道標です。

 

★ランドマーク御番所町の慈恩寺道石造道標: 江戸時代、庶民の間に霊場巡拝の風習がさかんになりました。坂東33カ所観音霊場もそのひとつで、埼玉県岩槻市の古刹慈恩寺は、その12番札所として関東各地から参拝人を集めています。

この道標は佐倉道と元佐倉道の合流点にあり、対岸市川から江戸川を渡って小岩市川関所を通るとほぼその道筋の正面に見えたと思われます。房総方面から慈恩寺へお詣りする人びとは小岩市川の渡しを渡ってからこの道標を見て北へ曲がって行きました。安永4年(1775)建立で、銘文は正面に「右せんじゅ岩附志おんじ道」「左り江戸本所ミち」、右側面には「左りいちかわミち」、左側面にも「右いち川みち」とあります。

江戸川区登録有形文化財・歴史資料

江戸川駅に近いところには

北野神社がありました。

★ランドマーク北野神社:旧伊予田村(現在の北小岩3・4丁目)の鎮守です。江戸時代にはこの地にあった稲荷神社と北方の北野神社が明治42年(1909)に合祀され、今の北野神社となりました。昭和39年(1964)には一里塚近くにあった須賀神社を合祀し、そこで行われていた茅の輪くぐりをここで行うようになりました。祭神には稲荷神社の倉稲魂命と北野神社の菅原道真、それに須賀神社の素戔嗚尊を加えた三柱を祀ってあります。

 

・茅の輪くぐり(区指定無形民俗文化財)

  直径3メートルに及ぶ大きな茅の輪を作って境内に立て、氏子たちが家族の氏名や年齢を書いた人形を持って茅の輪をくぐり、無病息災を願う夏越しの行事です。毎年6月25日の例祭日に行われます。茅の輪くぐちが終わると大祓いの式を行い、昔は人形を江戸川に流しました。素戔嗚尊が茅の輪で流行病を防ぐことを村人に教えたという故事による行事です。

  平成6年(1994)3月 江戸川区教育委員会北野神社拝殿

裏に回るとこんなものが置かれていました。古い拝殿のようです。こちらは水神宮のようです。北野神社水神宮

 

境内には『力石』があります。

★力石(北野神社):江戸時代から昭和の初期まで多くの集落で行われていたのが「力石」を用いての力くらべ(力持ち)である。本力石は日本一の力持ちといわれた三ノ宮卯之助(1807~1854)が持ち上げたとされる。東京で唯一現存する力石で卯之助の名前と三十八貫目と印されている。

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海神念仏堂(天道念仏=江戸名所図会めぐり)船橋市海神

2018年06月05日 08時58分44秒 | 江戸名所図会めぐり

船橋にあるうたごえゴリに行ったついでに念仏堂まで散策してみました。

目的は江戸名所図会の天道念仏踊り図にある念仏道です。

いまでも毎年3月の第2週の日曜日に、「天道念仏」という伝承行事を行っています。

★ランドマーク海神念仏堂:所蔵の「阿弥陀如来立像」は市の文化財になっています。これは鎌倉時代作(ただし光背と台座は室町期)という古仏です。かつて船橋海神に存在した天摩山善光寺という古寺にありましたが、善光寺が廃寺となり、一時小金の東漸寺に移されていましたが、高麗屋佐治右衛門がこの念仏堂に納めたと伝えられています。

「天道念仏」は毎年3月の第二日曜日に行われます。
冬から春にかけて太陽の力の復活の時、五穀豊穣を祈るのである。祭壇の中央に太陽をかたどった「梵ぼんてん天」を立て、その前に大日如来を祀る。「講」の人々が祭壇の前で念仏を唱え、梵天の周りを鉦かねと太鼓に合わせ「テントウダー、ナンマイダ」と唱えながら回るそうです。

念仏堂の手前に

地蔵院がありました。本堂です。

★地蔵院:地蔵院の創建年代等は不詳ながら、地蔵院の公式ページによると「天正3年(1575年)僧長蓮、法印勝誉の創建」といいます。海神村内の各社の別当寺を勤めていたといいます。関東百八地蔵霊場82番です。(HP猫の足あとより)右手にあるのがお願い地蔵尊のようです。

船橋本町に入ると船橋日枝神社がありました。

★船橋日枝神社:昔から山王様と呼称されて土地の人々には産土神であり信仰の中心であった。
明治初年頃神仏分離令により日枝神社と改称され、明治四十三年には村社日枝神社となる。
大正十年当時の在郷軍人会が中心となり社殿の大改築が行われ、昭和六十年現在の社殿の様姿となす。(境内掲示より)庚申塔や境内社がありました。

こちらは西向地蔵尊です。

★西向地蔵尊:ここは旧船橋宿の入り口で、かつては罪人の仕置場(処刑場)と言われている。地蔵尊像、阿弥陀仏如来像、聖観音像が全て西側に向いていることから地元では西向き地蔵と呼んでいる。

★御成街道(とうがねおなりかいどう):九十九里方面での鷹狩のために徳川家康が土井利勝に命じて、慶長19年正月から数ヶ月間かけて元和元年11月に完成した道路です。

 

 

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常光寺(亀戸・江戸六阿弥陀巡礼6番目の霊場)江戸名所図会めぐり

2018年04月23日 16時36分17秒 | 江戸名所図会めぐり

亀戸四丁目の常光寺は近くにあるので何度か訪れていますが、単独では初めてアップします。山門です。

常光寺は千葉方面からの巡礼者が逆井の渡しから浅草に向かう古道の途中にあります。

本堂

★ランドマーク常光寺: 『新編武蔵風土記稿』巻之二四によれば、本尊阿弥陀如来は行基作で、六阿弥陀の六番目であり、春秋彼岸には参詣の者が多い。この寺を開いたのは行基であり、中興は勝庵和尚といい、天文一三年(一五四四)に亡くなるという。

 寺の縁起(「六阿弥陀 常光寺 縁起・沿革」)によれば、建立は天平九年(七三七)、開山は行基菩薩で、開基は豊島の冠者、本尊は行基作の阿弥陀如来座像、天文一三年に曹洞宗に改宗し、中興開山は勝庵最大和尚で、このときの開基は下総里見義実であるという。この寺に阿弥陀如来が祀られるようになった由来について以下のように伝えている。聖武天皇の時代に、足立の庄司藤原正成は子供がいないことをなげき、熊野権現を信心していた。ある夜、霊夢をみて、ほどなく女の子をもうけた。後に、この娘(足立姫)を豊島清光へ嫁がせたところ、舅姑と折り合いが悪く、実家に帰る途中、荒川に身を投げた。このとき、おつきの侍女たち一二名も一緒に沈んだ。正成は悲しみ、法師となり、諸国の霊場を巡り、紀州熊野山で霊夢により、社内の光明に放つ霊木をみつけ、正成の名を記して海に流し、国に戻ると、霊木は流れ着いており、お告げにあった行基の巡来を待ち、行基が来たときに、これまでのことを語ったところ、行基は断食し、弥陀仏に念じ、六体の阿弥陀如来を彫った。侍女の出生地に寺を建立し、阿弥陀仏を大仏させ、菩提を弔った。なお、神木の余り木で足立姫を弔う観世音菩薩を彫ったという。六阿弥陀を祀る寺は以下の通りである。

 一番 西福寺 北区豊島  二番 恵明寺 足立区江北  三番 無量寺 北区西ケ原  四番 与楽寺 北区田端

 五番 常楽院 府中市(台東区上野より移転)  六番 常光寺 江東区亀戸  木余り 性翁寺 足立区扇

 『帝都郊外発展誌』城東の巻亀戸編によれば、中興開山の勝庵和尚は浅草総泉寺四世であるという。六阿弥陀道道標延宝7年在銘(江東区登録文化財)

江戸名所図会より

キャプション

亀戸邑の常光寺は江戸六阿弥陀回(めぐ)りの第六番目なり。春秋二度の彼岸中、都鄙(とひ)の老若参詣群集せり。

古い石仏も残っています。

石地蔵尊像延享3年在銘(江東区登録文化財)でしょうか?

地蔵逆修供養塔寛文12年在銘(江東区登録文化財)でしょうか。

水盤延宝8年在銘(江東区登録文化財)でしょうか客殿

わたし彩江戸名所図会大人の塗り絵より

まだいろいろと文化財があるようですので、また散策しに行きます。

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隅田川堤春景 隅田川東岸の桜(江戸名所図会めぐり)

2018年03月27日 23時24分08秒 | 江戸名所図会めぐり

隅田川東岸の花見と江戸名所めぐりを兼ねて散策しました江戸時代から隅田川東岸の堤は桜の名所だったようです。わたし彩の江戸名所図会よりここjは隅田堤と描かれている地点のようです。

隅田川堤

春景色

 はるばると霞わたれる隅田川の堤をうちみれば、青柳の放髪(ふりわけかみ)も緑の眉にほひやかにかきたれ、莟(つぼ)める花のほころびそめて、ゑまひつくらふなんど立ちまじりたる、夕ばえいとえんなり。わきて咲きみちるひとえだは、たが挿頭(かざし) にや手折らんと、さすがに心のともる木の本なりけらし。

古地図にも隅田川東岸の桜が描かれています。

古地図で見るかぎり桜があるのは三囲神社ところと、隅田堤と書かれているところから水神の森までとなっています。今は隅田川堤より上流の橋(奥に見える人道橋です)の先が曲がっている堤になっています。下流は言問橋の先墨田区役所とアサヒビールのある手前、源森川の所までとなっています。手前のビルが墨田区役所、奥がアサヒビールのビルとなっています。人道橋の桜橋から撮っています。

隅田川東岸上流、桜が少し少なっているところが高速の入り口で堤が曲がっていたところです。江戸名所図会にも描かれています。曲がり角のところに長命寺があります。現在は曲がり角が高速の入り口です。

下に描かれている東岸の景色は奥に見えるビル大林組のあたりです。その先が白髭橋「隅田川渡」のあったところになります。

隅田川渡 隅田川東岸

初花もけふこそみつれめづらしきすみだ河原の春をとひきて 冷泉為村卿

筑波根の峯ふきおろす春風にすみだ河原の花ぞほころぶ 冷泉為村卿

ここは三囲神社の入り口あたりの桜です。

江戸名所図会でも堤に桜が植えてあります。

対岸からは後ろに東京スカイツリーが見えます。水戸殿と書かれているところが墨田区側の隅田公園になっています。源森川の手前になります。源森川の手前水戸殿の入り口の川よりにピンクの桜が咲いていました。雅という種類の桜のようです。ここが桜並木の終点になります。水戸殿の入り口に咲いているハナモモです。中の隅田公園にもたくさんの桜が咲いています。ここからもスカイツリーの桜が撮れます。手前ではなく奥の曲がっているところにちょっと曲がって今でも段差があります。堤の内側です。角に子育て地蔵尊

突き当りは白髭神社になります。

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