カン・ドンウォンに会いたい

カン・ドンウォンに会えたら想い残すことは無いと思っていました。
でも、違った…また、会いたい…

既存と違ったスタイルの映画をしたかった「チョンウチ」チェ・ドンフン監督(後)

2011-10-21 19:17:52 | チョンウチ

急に寒くなり、風邪などにお気をつけ下さい

 

・・・と言っていた自分が風邪を引いちゃいました~

朝起きたら、ハナじゅるじゅるでした 

 

 

明日から「カメリア」公開

ドンくんイベントもあるのに~~~

 

キンチョー感が足りん 

 

 

 

 

 

 


<過去記事> 

既存と違ったスタイルの映画をしたかった<チョンウチ>チェ・ドンフン監督


2009年12月24日 翻訳サイト使用

http://www.movist.com/article/read.asp?id=17255&type=32

 

 

アクション場面が多くて苦労が多かったようだ。
<コウモリ>の撮影会場に行ってワイヤーカットをとるのを見たが、時間がたくさんかかった。 これをどのようにとらなければならないか私たちはあのようにとれば1年はかかるがやりたかった。 それで現場で会うと大声を出した。 俳優らも大変だった。 ところが別に不満を言わないで、素晴らしくとるべきだという一念だけ見えた。

塀で横に立って戦う場面は特に印象的だった。 風変わりなアクション場面だ。
ワイヤーを結び直接したものだが、一番長くかかった。 準備だけ5時間、準備終わって俳優が乗るために結ぶのにまた、30分. 俳優が乗ってみてまた調整してまたとって…. セッティングが完成されればすぐとるのに準備が長かった。 それを乗ってまた、反対側の壁に行って継続だ。 骨が折れたが、誰も壁に乗ってそのような形にはしなかったから。 中国武侠映画のように見られたくなかった。 難しかったがそれでさらに固執した。

視空間を無視するという感じがしたよ。
そのような意図であった。 導師だから。

特に朝鮮時代の塀対決場面が印象に残る。
人々が好むのがみな違う。 ある人はその場面が長いという。 私は短かいと思ったのに。(笑い)また、かえって最後のアクションが良いという人もいて、反対に最後が長いという人もいる。 自動車アクション場面が良いという人もいて、また良くないという人もいて。 とにかく意見が入り乱れていたよ。

本来自動車アクションが好きなのではないか? <犯罪の再構成>時もそれでさらに気を遣ったし。
今でも人が車のバックミラーをたたいてきた。(笑い)バックミラーをたたいたので、おりようとしたところその車がそのまま行ったよ。 見たようだ。(笑い)自動車アクション場面が映画に出てきた時は快感がある。 <犯罪の再構成>の時とってみてとても難しくて次はとらないのと思ったのに、何かの麻薬に陥ったようだ。<いかさま師>の時の汽車にぶらさがるのを思い出した。 少しずつ強度を高めていきつつある。

都心中心の自動車アクションも我が国ではめったに見ないアクション場面だった。
ところがそのような話をする人があまりなかったよ。(笑い)

 とても大変な場面で、ソウルで道路をふさいでとるというのが並大抵のことではないんだけど。
加山(カサン)デジタル団地側で8日とった。 ある場面は3ブロックを防いで5日をとった。 製作部は警察に引きずられて行って大騷ぎが起こっただろう。(笑い)許可をとらないのにとても永く精魂を込めた。 そこは住宅街ではなくて週末に人々がかなり減るから週末にだけとった。 ところがその道を通過して家に行かなければならない方々がいた. 特に酒を召し上がった方々はなぜ防ぐかと怒る。 その人はタクシー費がかかる問題だから帰ることはできないってことだね。(笑い)それで製作部が事情を説明すればエリ首とらえて殴ってきた。 普通の人の体の二倍位ある過激なお兄さんらも来て、それから警察がきて製作のお兄さんと一緒に引っ張っていく。 その間に私たちはまたとる。

清渓川(チョンゲチョン)でもとったが、難しいソウル都心でのロケが多かった。
許可を受けるのに時間がたくさんかかった。 結局は一般市民らに被害を与えることもあるから許可がおりてくるけれど許可された時間が長くない。 それで寝ないでとった。 清渓川(チョンゲチョン)場面は昼間の場面と夜の場面が両方出てきて寝ないでとった。 普通は昼間とって夜とって家に行くが、夜とって昼間とるとからだが死にそうだったよ。 とてもくたくたに疲れた。

朝鮮時代場面は主にセットでとったか? アクション場面だと仕方なかっただろう。
史劇をたくさんとるから野外セットでとったりもするが、石垣で戦う場面はセットを作った。 韓国式家屋はそのような石垣もないだけではなく高さがそんなにない。 そうしたらお金が多くかかった。 こういう映画はお金を多くかけるほかはないから。 冷静に話せば韓国で120億映画を撮るというのは途方もない製作費なのにますます製作費がなくなって終盤にはのりまき食べてとった。

完成のために苦労たくさんしてとった。
ところが<アバター>が出てきて.(笑い)

製作費を比較する話もしばしば出たよ。
私たちも<アバター>をとることはできる。 3分30秒程度? 短編<アバター>.(笑い)

<チョンウチ>は力をちょっと抜いたという感じだ。 愉快で奮い立つ映画で、大義名分から離れたキャラクターも自由だ。
本来12才向けの映画を一度とりたかった。 18才以上の映画だけ継続した。 <犯罪の再構成>が18才になった時は気持ちがちょっとショックだった。 なぜ18才になったのか! 主人公が犯罪者なので? もしブラッド・ピットが犯罪者として出てきたら15才以上になった。 ところでパク・シニャンが犯罪者の役をして18才だ。 基準はまさにそれだ。 <いかさま師>は18才にならなかったら反則であったし、<チョンウチ>は18才でとったとすれば反則だった。 ところが人々はそうではなかったようだ。 18才でとることだけを望んだのか? 当惑した。

キャラクターだけ見るなら<チョンウチ>は18才に行くことは大変な映画ではないか?
<チョンウチ>は誰でも見ることができる映画でなければならない運命だ。 大人たちは本来そのような話が好きでない。 暮らすのが難しいから。 どうせ商業映画は大衆を読まなければならないが、大衆を把握するのがちょっと遅い。 大衆というのは目に見えないから当初から大衆の変化が遅く分かったり、2年ずつこのようにとるなら中学生だった子供たちが高校生になる。 監督は何かずっと新しいことをとる義務がある人だ。 そうでなければずっと留まることにならないだろうか? 他のものに挑戦してみて出来なければならないのではないか?(笑い)そうしなければならない。

 チェ・ドンフン監督という名前にかける期待も大きい。 期待に対する負担はないか?
率直にあまりない。 過去は過去よ。(笑い) 33才に作った映画だが?(笑い)そこに合わせることはできないということだ。 私に合わせなくちゃ。 監督ならばそのような段階を体験することになるようだ。 自分自身から若干他の変化を試みたりもしなければならないだろうし。 何度かしてみてこそ分かるようだ。 そのような次元で<チョンウチ>は十分に魅惑的だ。 前作と比較して個人的な反省のようなものがあるが、人々は反省せずに継続しなさいと言うようだ。(笑い)前作に対する自己反省がある。 具体的に話すことは大変だが、構成する方法と同じように言葉で表現するのが難しい部分だ。

<チョンウチ>は想像力も必要で、おもしろくしなければならなくて、ワイヤーとCGもなくてはならない。 完成度で均衡がよく合わなければならない。
合う。 話だけでなく見どころも多くなければならない映画だ。

撮影する時、最も精魂を込めた場面はどこなのか?
序盤に天女が宮廷に降りてくる場面. それが二つのカットなのに、とるのがとても難しかった。 クレーンが上がることができる最も高いところまで上がってワイヤーを付けておこなった。 実際にすべておこなったものだが人々はそのままCGだと思ったよ。 もとの場面は古典を脚色したファンタジーの特徴であり、映画の前半部に出てくる場面も一日中とった。

三神仙はほとんど主人公級だ。 全体の話を作って、進行させて、終える役割だ。
その人々が始めてその人々が終わらなければならない。 すべての話はその人々が作った話だ。 こういうジャンルの映画では一般観客らとの接点を作るべきだがそれを三神仙がしている。 事実三神仙はあまりにも真剣な人間だ。 真剣だからバカだ。 もともとシナリオ上で三神仙は少ししか出てこないが、常に撮影会場にいなければならない。 チョンウチが戦っていれば後から上手にするといっていなければならない。 10日をとれば10日ずっと後からそれをしなければならないから。(笑い)

ファダムはインギョンによって突然の死を迎える。
厳密に言えば死ではない。 そしてその話全体が‘マクベス’からとったものだ。 予言があったし、予言のとおり進行されて運命になった。 結局<チョンウチ>も運命に対する話だ。

イム・スジョンとは初めてで、呼吸はどうだったか?
良かった。 パク・チャンウク監督がそのような話をしたよ。 スジョンが私と映画を作って引退したら良いと。(笑い)したら驚く。 韓国には良い俳優が多いが良いシナリオがなくて彼女を遊べないようにしているという気がするほどだ。 ある場面を撮る時はどうしてあんなディテールを作り出すことができるのだろう? 私があんなディテールまでシナリオで書くべきだったのに! という気もする。 とても繊細さを学び、他の役でもう一度会ってみたい俳優。

 キャラクターが多いが、話とキャラクターの均衡をどのように合わせたのか?
先ずはドラマを中心に書く。 その後でキャラクターを入れる。 初めからキャラクターがたくさん出るドラマを考えるほうである。ところが、はっきりいえば話を作ろうとするならキャラクターがたくさん必要なのが当然だ。 冷静に見れば私の映画が他の映画に比べてキャラクターが多いほうでない。 他の映画も主要人物が10人ずつにはなる。 いつもその10人で話を引っ張っていく。 主人公がいて、悪党がいて、彼らの周辺に姻戚がちょっといてそんな式. ところで問題は助演らを適材適所に入れることだ。 主人公とずっとあたるようにするのが好きだ。 特別に私の映画にキャラクターがたくさん出るということではない。

助演の活用が良くてキャラクターの数がさらに多く見える。
そのような傾向がある。 現代映画で見ればキャラクター何人かで話を作るのがありふれている。 例をあげれば<海雲台(ヘウンデ)>のような映画を見てもキャラクターが多くはない。 スリラー映画もそうで。 私の場合は小さいキャラクターも死なないでよく作ろうと努める。 映画に出てきたが人々が記憶もできなければつまらなくはないか。

現場ではどうなのか? 緻密な計算で現場を運営しそうなんだけど。
現場でたくさん変えるほうだ。 コンテは最初から持っていない。 そのままその場でこのようにこのようにしましょうこのような形だ。(笑い) <犯罪の再構成>の時もコンテは持っていなかった。 コンテは計画をたてる道具なだけであって俳優をどこに置くのかは現場でまた決める。 カメラ位置も現場で決める。 机で描くコンテより現場が正確だから。 後で見ればコンテと大いに違うこともある。 初めの考えを固めておかない。 大きい考えはあるが、ここで見るとこれがより良いように見えればそのようにすることだね。

初めて試みるアクションが多くて撮影計画をたてるのも大変だっただろう。
アクションは正確なコンテを組むのが難しくて即興アクションが多かった。 CGもCGチームがコンテを土台にシミュレーションを作ればコンテのとおりしないでくれという。 コンテをもう少し動的に作ってくれと要求をする。 コンテは編集された絵ではないか。 撮影は編集にならない絵であるからコンテにプラスアルファがなければならない。 次にはもう少し正確に計算して計画のとおりとってみようかと思ったりもする。 ところでイム・サンス監督はこのような話をしたよ。 撮影する4ヶ月前に描いた絵を持ってとることはできないと。 その間考えが変わるから。 イム・サンス監督の下で演出部をしたからのようだ。

<チョンウチ>が良い興行結果を出すことを願う
うまくいかなければならないが、迷惑を及ぼさなければいい。 ところで<アバター>がスクリーンが900個だ. <アバター>が劇場を奪われたくないから<チョンウチ>はそれよりは小さいだろう。 ところで900個にどのように勝つか。 <いかさま師>の時は500個越えたと非難されたが。(笑い)

 

コメント (4)
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