‘私、何も分からないです’という感じでミヌの過去の場面を演技した・・・
というドンくんに対して
記者さんが
‘兄さん’よりは‘弟’により近のでもう一文字あれば完ぺきだと言う
それは
ヌナ!
‘ヌナ、(私は)何も分からないです’(笑)
やっぱり、記者さんもそう思うのですね~
ドンくんがどんな家を建てるのか後半の作業を見守って行きます~~
後半作業を早く再開して下さい!
<過去記事>
(1) 'M'のカン・ドンウォン、設計図を手にした俳優
2007.10.15 翻訳サイト使用
http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=106&oid=263&aid=0000000128
'M'のカン・ドンウォン(c)イ・ドンジンドットコム-キム・ヒョンホ
カン・ドンウォンは俳優という名の家を作る人のようだ。 ‘彼女を信じないで下さい’で土地を整え‘オオカミの誘惑’で資材を充分に購入した彼は‘デュエリスト’で強固な基礎を作り‘私たちの幸せな時間’で丈夫な柱をたてた。 その家を完成するのに必ず必要ならば、(声でだけ出演した) ‘あいつの声’のようにレンガを整えることにだけ多くの時間を注いだりもする。 そして本格的に壁を作るのに先立ち、新作‘M’を通じて最高のインテリア デザイナーと事前に会った。
彼が選択してきた映画を通してみるなら、本当に彼の手には数十年かけて作ることになる家の設計図を持っているようだ。 カン・ドンウォンは自分がどんな家を建てなければならないかを知っている。 そして自分にどのような幅があってどのような資材が確保されているのかも知っている。 これから家を作る順序を変えることはできても、多分彼は工期を短縮する方法を使いはしないだろう。
カン・ドンウォンは謙虚で多少遅い語り口の中でも自信を隠さない俳優であった。 韓国人にはとうていもつことができない体形とどんな女優より美しい顔に劣らないくらい印象的だったことは自らのスタイルと行かなければならない道を正確に知っている姿勢であった。 すでに6編の印象的な映画を撮ったが、カン・ドンウォンは相変らず未来がさらに明るい演技者だ。 そして今まで見せたものより先に見せることがさらに多い俳優はいつも幸せだ。
-先週に終わった第12回釜山(プサン)国際映画祭の最高スターはカン・ドンウォン氏でした。 私も現場で直接確認すると、本当に人気がすごいんですよ。(笑い)
“先輩があまり来られなかったからですよ。 それで私が相対的にさらにスポットライトを受けたようです。 チャン・ドンゴン先輩も来なくて、チョン・ウソン先輩も来なかったのではないですか。”
-去る6日釜山(プサン)パラダイス ホテル シドニールームで開かれた映画‘M’の記者会見が異常な進行を体験したことはもちろん映画祭側が事前に記者たちが集まることをまともに予測できなくて相対的に小さい場所を会見場で捉えたためです。 だが、それは逆説的にカン・ドンウォンというスターに対する関心がどれくらい熱いのかを証明した事例です。
“過去1年間私はこういう席に出たことはありませんでした。 ‘M’は製作発表会もなかったのではないですか。 とても久しぶりに出てきて皆気になったようです。”
-今はファンたちや記者たちのこういう反応に慣れたでしょう?
“ファン ミーティングのように私を好んで下さる方々だけ集まった席は気楽です。 ところが釜山(プサン)映画祭の記者会見のような席はまだ恐ろしいです。 その記者会見に来られた方々皆が私を好んで下さったり‘M’という映画に特別に関心があってインタビューをしに来られたのではないから、私もかなり緊張します。”
-そのような席でもしも失敗したらと思いますか?
“はい。 公式の席上で韓国俳優はあまり話をできないという話もあるが、事実そのような席で失言を一度すれば最初から埋没される水準まで行くこともあると、敬遠しなければならない側面があるようです。 そのような席は本当に恐ろしいです。 失敗しても容認しないような雰囲気もあります。 それで気を付けます。”
-俳優たちにはそのような恐怖が皆あるようです。
“みなそうでしょう。 私も自然に上手にしたいがひょっとして失敗するかと思って最初から話を減らし気を付けるんです。 ‘ここでは基本だけしよう’という気持ちがあります。(笑い)私をとるカメラが一台だけあれば私も自然に動けるのに、そのように写真を取る方々が多く立てばどのようにするべきかよく分からないです。”
-そのような席でポーズを取られて、いわゆる‘屈辱写真’が作られたりもします。(笑い)
“そのとおりですよ。 そんなこともとても嫌いです。(笑い)”
-ひょっとして失言のために物議に上がったことがありましたか?
“特別な物議はなかったです。 あまりにもそのような席では基本だけするからです。(笑い)オープンな記者会見場でする言葉と真剣なインタビューでする言葉は完全に違うように受け取られるようです。 ア、こういう事がありました。 私が‘デュエリスト’の時に映画評論家協会が主管する映評賞授賞式場で監督の代わりをして作品賞を代理受賞したことがあります。 私はその映画でアン・ソンギ先輩の演技がとても好きだったので、受賞の感想を言う時にアン先輩を念頭に置いて‘この映画は私が予想したすべての賞をみな受けたがまだ主演女優賞と男優助演賞を受けられなかったので、今後その二つの部門を受ければ心残りがないと思います’と話しました。 すると‘カン・ドンウォン、男優助演賞にも欲を出して’という題名の記事が上がったのです。(笑い)その記事以後に色々な所で皮肉を聞きました。 やはりそうしたところから基本だけするべきだったのですね。(笑い)だから私が映画を6編して、ドラマまで合わせれば9編したのに相変らず恐れなければなりません。”
-今日この席は恐ろしくないでしょう?(笑い)
“全然です.(笑い)事実昔にはインタビューの時に何の話をしているか知らなかった。 ‘この映画をして良かったのか’と尋ねれば、ただ簡単に‘良かった’と話して口を閉じる形でした。(笑い)今は私という人の考えをお見せすることができる席がこういうインタビューしかないと積極的に感じるほうです。”
-イ・ミョンセ監督の新作‘M’で結婚を控えて初恋の記憶を探し回る小説家ミヌ役を担って、普段とは違い巻き毛に角のメガネで出てきました。 さらに前髪ヘアスタイル自体をMの字形にしたんですって?
“初めからM字の形にしようとしていたわけではありませんでした。 撮影前監督が劇中人物のミヌのスタイルに対するコンセプトをすでに持っておられました。 巻き毛に脱毛が始まったように、ヘアースタイルがちょっと新鮮に見えるのが良いですよね。 ところでそれが外国俳優らにはすばらしいが、東洋俳優にはあまりよく似合わないようです。 すべてしてヘアースタイルがMの字に似てきたことを見ると、監督がお好きで以後からMの字ヘアースタイルの話をし始めましたよ。(笑い)”
-巻き毛と角のメガネは誰アイディアだったのですか。
“全部監督の考えだったんですよ。 出演が決定される前であったのに、私に会って‘今度はこういうヘアスタイルをしなければならない’と説明されましたよ。(笑い)その話を聞いてそのようにすればおもしろいという考えがすぐにしたのです。”
-そのようにしてみると自らどうでしたか。(笑い)
“確かに年をとって見えましたよ。(笑い)私は配役と作品によく合うスタイルだと考えました。”
-‘M’は俳優として違う演技をしなければならない映画です。 話が最小限に減った状況でイメージに集中する映画で、写実的な演技よりは人工的な演技をしなければならない作品ですから。 他の映画と比較すると‘M’の演技の方式はどのように違いましたか。
“おっしゃる通り演技のトーン自体を人工的でちょっと誇張するように捉えました。 それがこの映画によく合うと考えました。 この映画をしながら、もう一つ念頭に置いたことは演技を流動的にするべきだとのことでした。 特定の方式のとおり練習を引き続き枠にはまった演技をするよりは、劇中の状況によってこうもしてああもしながら変化を見せようということでした。 恐れずに現場で怒鳴ろうというのがこの映画を撮りながら俳優として私が持った目標でした。”
-この映画でのセリフはその意味に劣らないくらいリズムが重要です。 どのセリフもとてもはやくて何の意味なのかよく把握されない時もあるが、事実そのようなセリフは観客がその意味を把握しなくても特別問題にならないです。 映画の中で反復される日本料理店の場面のようなところからカン・ドンウォン氏はセリフをとてもはやくてコミカルなトーンで処理します。
“この映画でセリフを処理する方式は確かに違いました。 事実私が‘デュエリスト’をとる時にアン・ソンギ先輩が登場する一場面で非常にしてみたいという考えを内心しましたね。 アン先輩がフレームの中に入ってきてそれと共にとても早くずっと話す場面があったが、そのリズムをより一層誇張した方式で、現代版で、一度してみたかったんですよ。”
'M'のカン・ドンウォン(c)イ・ドンジンドットコム-キム・ヒョンホ
-‘デュエリスト’のその場面でも本当にセリフのスピードがすごかったです。
“はい。 ‘M’の日本料理店の場面では私の相手役に出られた出版社の編集長役の俳優の方の演技もちょっと誇張されるじゃないですか。 私はその日本料理店で感情的に爆発する場面を撮る時その方の誇張された独特のスタイルをもう少し雲をつかむような方式で繰り返すスタイルの演技をしながら俳優として非常に興味を感じました。”
-その日本料理店の場面は演技に多様な変化が可能な状況なので見る人にも興味深かったです。 扇風機が声に影響を与える方式や、全三回も反復されながらあたかも歌を歌うように互いに違う三人の俳優が同じセリフを変奏するように構成されている形式のようなものがそうでした。 それなら、この映画で演技的に最もおもしろかった場面はその日本料理店の場面でしたか。
“はい、そうです。 喜びのようなものがありました。 事実その場面の撮影自体は技術的にちょっと難易度が高くて大変でした。 朝九時から準備したが、午後四時になって撮影に入ることができました。 ショートの長さがかなり長いロンテイクだったが、技術的な問題のために十五回も繰り返したんです。 その場面で民ミヌが苦しむほどその部屋が狭くなるように表現されるが、そのようなセットの変化がカメラの動きとよく合うことができなくてずっと演技しました。”
-ミヌが心の中で想像したり夢を見る場面あるいは過去を回想する場面ではスラプスティックコメディー演技もあって、誇張された方式の演技もあって表現法になじまない観客は当惑を感じそうです。
“ミヌは日常では決して誇張された姿を見せません。 幻想や夢の場面だけでそのように表現されました。 それがミヌという人物の強迫が表に出される姿だと考えました。 私はその二種類のミヌの姿を描き出しながら最初から別のジャンルと考えて演技しました。 いくら冷徹な人でも誰でも自身の想像の中では与えることもできるのですから。”
-ストーリーに従っていく映画で演技するのとイメージを表現する映画で演技するのは大きい差があるようです。 ストーリーテリングを主とする映画は話の進行により人物の内面を伝達する方式で演技すれば良いが、この映画はそのようにすることができませんから。
“そうです。 話に従っていく映画は感情線を描いていくのがどうやらちょっと簡単です。 シナリオのとおりに行けば良いから気楽です。 ところが演技をする人の立場では後者がもっと興味深いです。”
-そのような演技は実際俳優に危険なこともあるという感じです。 話中心の映画は話の流れだけに乗って行けば少なくとも完全に失敗する心配はないです。 だが、イメージ中心の映画は俳優の表現自体が成し遂げることができる振幅があまりにも大きくて、期待も何もなしで事実、無から有を創造する方式に近く作り出さなければならないというために、成功した時の喜びと劇的に対比される凄惨な失敗もあるということです。
“その点に対しては私もよく分かりません。 だが、私は俳優が失敗したとすれば、それは真似事だけしたためだと思います。 人物を自分で消化して真実に表現すれば必ず成功すると信じます。 イメージ中心の映画でも、万一、俳優がまねないで自身のことを守るならば結局俳優は残ると考えます。”
-劇中ではチョン・フンヒ氏の歌‘霧’が何回も流れます。 カン・ドンウォン氏がギターを持って直接歌う場面もあります。 最近ボア氏がリメークしたが、事実この歌はカン・ドンウォン氏が生まれる遥か前の歌ですが(笑い),その歌を歌う時どんな感じでしたか。
“この歌はそのように古かったんですか? 私は映画を撮りながら初めて聞いたが、全く古い曲という感じはしなかったです。 今回ボア氏がリメークしたのがとても良かったです。 本来は私が直接その歌を歌う場面はなかったです。 ところが、撮影中に監督がある日突然私に二日後ギターを弾きながらこの歌を歌う場面を撮るといいます。 私はギターをひけないので大変なことになったと考えました。 結局一日中練習してその場面を撮りました。 一日したとしては悪くなかったようで幸いでした。 私はその歌を特別に感情をのせないで節制しながらきれいに歌おうとしました。 それがその場面や私の感じに合うようでした。”
-‘M’の過去の場面は画面の色調と演技方式で現在の場面と完全に違った感じを与えます。 ‘M’は結局過去の初恋を訪ねて行く映画ですからね. 演技者でも過去の場面は別の気持でとられたでしょう?
“はい。 演技する感じが違いました。 ミヌの現在は少し一癖あって、過去は純粋な感じがするでしょう。 例えば‘私、何も分からないです’という感じといいましょうか。(笑い)”
-‘兄さん’よりは‘弟’により近いカン・ドンウォン氏のイメージを考える時、ただ一文字多くあれば完ぺきだと思います。 それは‘ヌナ、(私は)何も分からないです’という感じでしょう。(笑い)
“そうですか?(笑い)ところで、劇中ミミ役で出てくるイ・ヨニ氏もそのような感じを与えるでしょう? だから二人が出てくる場面は‘ウリ何も分からないです’という感じでしょう。(笑い)”
-演技に対する欲が非常に強いようです。 本人の出演作の他に‘あの映画に出演したとすればどうだったのだろうか’と想像してみた作品はあるのですか。
“運が良くも今までは私がしたい作品を継続することができたようです。 ところが、最近そのような想像をしてみた作品が一つありました。 キム・ジウン監督がとっている‘良い奴、悪い奴、変な奴’でした。 機会がなかったが、参加したとすれば非常におもしろかったと考えます。”
-今年で二十六です。 二十六という年齢に対してどのように感じますか。
“オ、あの二十七ですが。”
-まだ二十六でしょう。(笑い)
“二十六といわれるから、わけもなく気分が良くなるんですが。(笑い)”
-その笑いの中に私の質問に対する返事がすでに入っているのも同じですね。(笑い)
“二十代が終わろうとするから少し苦々しい気がします。 私より年上である方の前でこうした話して申し訳ありませんが。(笑い)この頃切実に感じるのは私が曖昧な時期にあるということです。 一種の過渡期に置かれているようです。 三十へ渡る前、少年から男になる過渡期の感じといいましょうか。 私の自らの容貌でも同じ感じを受けます。
-容貌がどのように変わっているようですか?
“言葉どおり曖昧に変わる感じでしょう。(笑い)私は私の顔を見ても冷静に分析する方なので、鏡を見ていると本当にそのような気がします。 私はこの頃運動ができなくてコンディションがあまり良くないです。(笑い)
-カン・ドンウォン氏の故郷は慶南(キョンナム)、昌原(チャンウォン)です。 イメージでは‘慶尚道(キョンサンド)男’的な感じが殆どないが、そのようなカン・ドンウォン氏にも‘慶尚道(キョンサンド)男’的な何かあるでしょう?(笑い)
“多くはないようです。 演技生活をしながらあまりなくなりました。 あえて残っているのは私が表現をうまくできないということが上げられるでしょう。 気持ちの中にはありがとうでも言葉では有り難みをうまく伝えることができなくて、ほめることも少ない方です。 ところがそれもたくさん変わりました。 有難いという言葉もたくさん言って、意図的に感情表現も積極的にしようとします。”
-映画では特にそうではないが、このように話をする時は少しなまりを含んでいる口調を使います。
“演技する時は使わないが、平常時には少し出てきます。 ところが普段にはそのような口調を変えたいという考えはないです。 ちょっと生意気に聞こえるかも知れないが、私はこういう語り口が良いですね。(笑い)”