多歌子が面接に現れたのは、昼の客が一段落した午後三時半ごろのことだった。
それまで配膳を手伝っていた町内の小母さんが、突如体調を崩して辞めることになったため、ハローワークに求人依頼をして間もなくのことだった。
しばらくの間、弟夫婦と三人で「味楽」を切り盛りしていかなければなるまいと覚悟していた矢先のことなので、面接希望者が現れたのは店主の漆畑にとっても予想外のことだった。
「うちのことは職安で?」
つい、古い呼び名を口にした。
「いえ、入口に張り紙がしてあったでしょ。あれで・・・・」
女は少し上目遣いに漆畑を見てニコッとした。
「ああ、道理で・・・・。申請してまだ二日しか経っていないのに随分早いと思って」
店主は空いている食卓の椅子に女を掛けさせ、店側の条件を説明して反応を見た。
履歴書は持参したかと訊くと、案の定用意してきていなかった。
仕方なく雑記帳に使っている大学ノートに、住所と名前それに電話番号や家族構成を書いてもらい、それを元にパート従業員として採用するかどうか検討した。
「うちに来る前は、どのようなお仕事を?」
似たような仕事を経験していると、逆に使いづらい面がある。
「はい、主婦してましたので初めてです」
愛想がいいので、ちょっと不安を感じた。
「旦那さんは了承しているのですね?」
「いえ、別れました・・・・」
「・・・・」
立ち入ったことを聞くつもりはなかったが、どうしてもプライベートなことに触れる結果となる。
「四時間だけのパートでいいんですか。もっと働きたいといった希望は?」
離婚という事実を訊き出してしまった関係で、場合によっては夜の部に仕事を用意してもいいかなと考えていた。
夜は酒と和食の小料理屋ふうの店になるのだが、そちらはそちらで安定した客筋がついていたから、もうひとり女手があってもよかったのだ。
実際に前任の小母さんには、時給を百円上げて夜の部を手伝ってもらったこともある。
午後三時までの四時間びっしり働いて、更に午後七時から四時間というのはきついだろうが、相手が希望すれば考慮しないでもない。
とは言っても、まずは昼時の仕事が第一だ。
前任者の場合、配膳だけでなくレジから皿洗いまで骨身を惜しまず動いてくれた。
幸い「味楽」は、周辺の工場従業員がクルマでどんどんやってきて、順番待ちになるほど繁盛していた。
漆畑と弟は共に板前の経験があり、料理の腕には自信があった。
今でこそ昼時の定食屋として評判をとっているが、最初に開いたのは夜の店だったから、あくまでも本業はじっくり腰を落ち着けられる割烹だと自負していた。
それでも最近は、昼と夜のどちらに重きを置くか迷うところもあった。
「では、明日からお願いできますか。ユニフォームは用意しておきますから」
「はい、ありがとうございます」
うれしそうに礼をいう多歌子を送って外に出ると、折しも西日を受けた浅間山が雄大な裾野を風呂敷のように広げていた。
佐久の中心部へ向かって自転車を走らせる多歌子の後ろ姿を見送りながら、案外長続きするかもしれないと期待する気持ちが湧いた。
翌日、十一時少し前に現れた多歌子に、厨房裏のロッカー室でユニフォームに着替えさせた。
現れた女は意外とスリムで、「味楽」のお仕着せである紺絣のもんぺと半纏がよく似合っていた。
付属の臙脂色の帯と、同じ色の木綿のスカーフも小顔の多歌子を引き立てた。
「ほう、若いってのはいいねえ」
思わず声が弾んだ。漆畑自身さほどの年齢でもないのに、年寄りじみた物言いをしてしまったことが恥ずかしかった。
「あら、そうかしら。・・・・うれしいわ」
多歌子は素直に喜んだ。それまでの緊張が一瞬でほぐれたようだった。
いったん店を開けると、椅子席も座敷も徐々に埋まっていった。
注文の取り方とか、お冷やの出し方とか、店主の心配をよそに多歌子は無難にこなしていた。
厨房は弟夫婦に任せ切りで、漆畑も多歌子と交互に皿を載せた膳を運んだ。
十二時半を過ぎて客の入れ替えが激しくなると、漆畑はレジに付きっきりとなる。
親子連れの客に手こずっていた多歌子が、「注文お願いしま~す」と店主に救いを求めた。
一日目にして機転の利く応対を見せる多歌子に、漆畑は内心舌を巻いていた。
(この女、ほんとに初めてかな?)
主婦してましたという言い方が何やら嘘っぽく感じられるほど、客あしらいに馴れている印象だった。
有難いには有難いが、このまま順調に行くのかなと一抹の不安を覚えるのだった。
一週間も経つと、多歌子は「味楽」で何年間も働いているベテランのように存在感を増していた。
思い切ってレジを任せてみると、客あしらいの巧みさが際立っていた。
「ありがとうございます。今日のお料理はお口に合いましたか。・・・・そうですか、よかった。また来てくださいね」
聞いていて面映くなるほど愛想がいい。
客の方も、自分が特別扱いされていると思い込んで、頻繁に足を運んでくる。
漆畑がレジに入ると、代金の受け渡しでだけで終わることになる。
だから慣れた客は、そっけない店主より多歌子を探して会計を済まそうとする。
日が経つにつれてレジは多歌子の占有するところとなり、漆畑は厨房の端から様子を窺いながら注文取りと皿の上げ下げを受け持っていた。
三ヶ月が過ぎると、「味楽」の昼は多歌子の仕切るところとなった。
「店長さん、お座敷1番さんビールのお代わり」
「あ、テーブルのお客様わたしが伺います」
店長と呼ばれたのにはびっくりしたが、のびのびと駆け回る多歌子を規制しないことが、このところの売上アップにつながっているのを実感していた。
更に日が経つと、多歌子の接客術は予想外の領域に向かっていた。
「おれ、もう明日から来れなくなっちゃったよ」
ある日、支払いを済ませながら、若い男が自分の事情を告げたようだ。
「あら、転勤なさるの? 残念だわ~」多歌子は大げさに驚いてみせた。
お釣りを受け取る掌に小銭を握らせて、「・・・・これからも、味楽のことを忘れないでね」
名残惜しそうに出口まで送っていくではないか。
漆畑はさすがに、それはやり過ぎだろうと困惑していた。
クラブのホステスじゃあるまいし、定食屋の店先で白昼夢を見ているような気分だった。
他の客も、二人のやり取りを見ていて、目のやり場に困ったような表情を浮かべていた。
初めてその場に居合わせた通りすがりの客は、呆気に取られたのか、うすら笑いを漏らして多歌子から目を離さなかった。
困惑の笑みを消すため俯き加減になりがちの漆畑をよそに、多歌子の奮闘で売上げは一割ほどアップしていた。
男性客が八割を占める郊外型の飲食店としては、普通なら季節によって集客にバラつきがあるのだが、「味楽」を利用する地元の労働者は減る気配を見せなかった。
リピーターが週に何回通ってくるか、それが売上げを左右する要因の一つだった。
だから、浅間山から吹き降ろす木枯らしが肌に刺さる時期になっても、客の入りはさほど減らないのだ。
(多歌子さまさまだ・・・・)
毎日、青い自転車で帰っていく後ろ姿を見送っていると、漆畑はしみじみ人生の寂寥を感じるのだった。
アパートに帰って、これから何をするのか。
乱暴な亭主だったと話してくれたが、独り身になってどれほどの苦労をしたのやら・・・・。
夜の部の手伝いのことも話してみたが、なぜか乗ってこなかった。
ひょっとして、多歌子には別の働き口があるのではないか。
あるいは、託児所に子供をあずけているとか。
繁華街のスナックといったサービス業に勤めていると考えれば、「味楽」での接客ぶりも理解できないではない。
四ヶ月目に時給百円を上げてやったが、「味楽」だけの稼ぎで暮らしが成り立つとは思えない。
となると、やはりホステス系の仕事しか考えられない。
今では、漆畑の思いは確信に近くなっていた。
(ああ、別れるってのはよくないよな。・・・・女が必死に働く姿は見たくない)
多歌子の境遇に思いを馳せると同時に、漆畑は自分の身の上に引き比べていた。
今どきの夫婦は、簡単に離婚して当然のような顔をしているが、どれだけの痛手を被っているか計算できていないのだ。
金銭面の損失だけならやり直しも利くが、万が一子供がいて奪い合うようなことになったら、子供があまりにも可哀そうだ。
その辛い失敗を、漆畑は三十歳半ばで経験していたのである。
銀座の老舗割烹店に二十歳前に弟子入りし、三十歳になった時その店の主要な料理人に引き立てられて脚光を浴びた。
取材に現れたのが、まもなく結婚することになったグルメ雑誌記者の沙織だった。
褒められて、写真付きの特集記事を掲載され、宣伝にもなるからと京都で取り仕切る女将にも容認されたのだが、その時の縁が後に命取りとなった。
三十一歳で沙織と結婚し、まもなく女児が生まれた。
ところが娘が三歳になった頃、妻が漆畑にパリ行きを勧めるようになったのだ。
渋る夫に対し、妻のパリ熱は高じるばかりで、せっかくパリの日本料理店に席を見つけたのだから、こちらを辞めて向こうで働いてくれと懇願されたのだ。
田舎出の漆畑は、いまさら外国語を習ったり、外人の評価を受けたりのストレスに耐えられるか心配だったが、娘の寝顔を見ていると妻の意見に従うしかなかった。
心が決まると、漆畑は本部に出向いて女将に弟子の返上を願い出た。
「おまえ、うちを辞めてどこへ移る気だい?」
女将のこめかみに青筋が浮くのが見て取れた。
「パリの日本料理店で、国際的な評価を試してみたいと思っています」
「ああ、そうかい。お前の腕で、うちの評判が落ちることになったら、どう責任を取るんだい!」
ぐうの音も出なかった。あれほど二の足を踏んだパリ行きを、無理やり勧めた妻に腹が立った。
険悪な空気を残したまま帰宅すると、今度は沙織が激高した。
「行き先はいうなとあれほど言ったのに、バカ正直になんでも喋ってしまうんだから」
「いっとき誤魔化したって、どうせ判ってしまうじゃないか」
「その、いっときが大切なのよ。日本を離れてしまえば、あんな女将手も足も出ないのに」
確かに沙織の言うとおりだった。
女将は何らかの手を打って、漆畑の転職は認めないと通告したようだ。
まだ弟子として修業中で、外国になど恥ずかしくて出せないと、中傷まがいのことも言ったらしい。
女将は執念で漆畑を潰した挙句に、翌月には彼を追放した。
途方に暮れた漆畑は、沙織との間で大喧嘩となった。
「そんなに能力の無い人とは知らなかったけど、判ったからには私の方から願い下げだわ」と三行半を突きつけられた。
娘の親権で言い争いをしたが、当面無職となった男に勝ち目はなかった。
別の料理店で修業する弟に相談し、なんとか郷里の佐久で開業するまでの数年間は、鬱屈した日々の連続だった。
なるべく忘れるようにしていた前妻とのいきさつが、多歌子の天然とも思える頑張りに出会ってシクシクと脇腹をつついた。
沙織は憧れのパリへ行って、フランス語を武器に旅行業のライセンスを取ったようだ。
日本からの観光客を案内するのが主な仕事だが、フランス向けに日本の文化や料理を広める役所の駐在員的役割も委嘱されていると聞いた。
沙織にとって、漆畑との離婚など引っかき傷程度のものだったのだろうか。
それに比べ、漆畑はいま雇い人の多歌子の身の上と自分の置かれた立場をなぞろうとしている。
どう見ても湿った穴ぐらに篭ったような人生だが、突然這い出してきて場違いな歌を唄うガビチョウのような女に出逢って、腹の底からクスクスと噴気のようなものが湧き上がってきた。
漆畑は毎日異なった位置から多歌子の接待ぶりを見ながら、この人は自分の能力を本気で評価してもらいたいのだと気づいた。
「あなたのおかげで売上げが上がったよ」
「まだ半年も経たないけど、時給を百円上げさせてもらいます」
他人からの褒め言葉が、無性に身にしみる人生なのか。
一方で漆畑の方は、褒められた喜びに浸る中、一転バカ扱いされた情けなさが甦ってくる。
それらは、むしろ可笑しさといった感覚に変質しまった気がするが、多歌子の大真面目な接客ぶりを見ていると、恥ずかしさを超えて胸にこみ上げてくるものがある。
(明日、多歌子をレストランのディナーに誘ってみよう)
その答えで、彼女の日常が少しはわかるはずだ。
夜の仕事を休むと言ったら、弟の奴なんと言うか。
多歌子の時給を上げたいと相談したとき、兄貴、あの人に気があるんじゃないかと突っ込まれた。
バカいうなと笑い飛ばしたが、案外読まれていたのかもしれない。
別の場所で生きるための仕事をしているとしたら、自分はむしろ安堵するはずだ。
何かのハンディを隠しているとしても、健気さの表れでしかない。
客のいなくなった店内を見回っていると、レジの足元に子供用の髪飾りが落ちているのを見つけた。
(子供連れの客が落としていったのだろうか。それとも・・・・)
漆畑は屈んで拾い上げ、多歌子の持ち物かどうか訊いてみようと思った。
弟夫婦はもう休憩に入っている。
明かりを落とした空虚な店内で、店主の手の中のビーズと造花の髪飾りが、窓からの光を受けて仄赤く点った。
(つづく)
(2014/01/26より再掲)
この小説は一旦終わったものの、当時コメントを頂いた方の要望を考慮し、(つづく)にしました。
コメントをされた方に無断で申し訳ないのですが、コメント欄も再掲することで作者の試行錯誤ぶりもご覧にいただきたいと思います。
⁂ (当時のコメント)
- 「定食屋の女」 (katakuri)
- 2014-01-26 06:21:49
- おはようございます。
一気に読んでしまいました。
エッ 終わりですか~~
続編は?
謎の多歌子気になりますねえ~~
- 大概こんな終わり方 (tadaox)
- 2014-01-26 16:17:06
- (katakuri)さま、お読みいただき大変ありがとうございます。
いろいろ流儀があるでしょうが、大概このような終わり方をさせています。
いや、いつもより見切りが早かったかな?
続編、考えてみます。すみません。
- とても気になります (aqua)
- 2014-01-26 18:48:26
- tadaoxさま こんばんは
面白く読ませていただきました!!
多歌子さんは消えてしまったのでしょうか?
すみませんが 後編をよろしくお願いたします!!
- 考え中です (tadaox)
- 2014-01-26 22:32:49
- (aqua)さま、あとを推測してください・・・・では、済みませんか。
確かにもう少し絞ってからの方が良かったかも、という気もしますが。
コメントありがとうございました。
ぜひ続きをよろしくね
ぜひ続きをよろしくね
当時のコメントを合わせて収録させていただきました。