猫が消えたあたりを目で追いながら、数馬は声を掛け損なったことに心残りを感じている。
そして、半年も前に妻が発した言葉が、残響のように耳の奥で振動するのを聞いていた。
「あなた、あの黒猫を可愛がったりしないでくださいね」
「別に悪そうな猫じゃないだろう・・」
そのとき数馬は反論したが、たちまち淑子にねじ伏せられた。
「そう思わせるのが上手なの。一度でも気を許したら大変よ。どんどん家の中に入ってきて、蚤や虱を落としていくんだから」
淑子は、かつて叔母から聞いたという話を持ち出して、数馬の思いを押さえ込んだ。
以来、数馬は、淑子の言葉が閂のように自分の行動を制しているのを感じ取っている。いろいろな場面で彼の胸の中に渦巻くもどかしさのようなものが、長年にわたって降り積んだ心の澱であることに気付いていた。
現実に起こったことでなくても、淑子が口にしたとたんに、言葉が真実味を帯びるのは不思議だった。
結婚したての頃の話だから、もう四十年も前のことだ。
ある日、近所のラーメン店で冷やし中華を食べて帰ろうと誘ったとき、淑子が即座に口にした言葉が、いまも数馬の脳裏に刻まれている。
「あなた、お店で出す冷やし中華なんて、よく食べる気になるわね」
数馬が見返すほど、きつく咎めた。
淑子の瞳の中に尋常でない輝きを見て、彼は言葉を失った。
「・・俎板のくぼみに、ビショビショと水が溜まっている光景、想像がつくでしょう。一日中、乾くことがないのよ。・・その俎板で、ハムや胡瓜を刻んで、キンシ玉子だって同じ包丁で細切りして、それでもあなた食べる気になれる」
不幸なことに、数馬の下意識に写し込まれた映像が、忌避への引き金となって彼を支配した。街の食堂で何度か冷やし中華への思いを遂げようと、口に出しかけたこともあったが、結局は強烈に火の通ったものを注文することになるのだった。
淑子が食卓に出す刺身は、たとえばマグロなら表面が熱湯をかけられて白く変色しているし、タコは間違いなく酢だこになり、貝の類はまず生で登場することはない。
そのくせ、淑子の得意料理の一つは冷やし中華である。
俎板と包丁を熱湯消毒し、ハムも胡瓜も使い捨てのビニール手袋をつけて調理し、玉子焼きは焼けすぎるぐらいのものをフライパンから移して、別の包丁で細切りするのだ。
数馬は、うまいうまいと喜んでみせるが、心のどこかで虚しさを埋められないでいる。はっきりと意識しているわけではないが、食物から生気のようなものが失せている気がする。
子供のころ、捥ぎたてのトマトや胡瓜をシャツの袖でひと拭きして、かぶりついた。まくわ瓜や西瓜も、その場で割ってむさぼり食った。
そうした記憶を持つ数馬にとっては、心身が多少の毒を求めている気配を、それとなく察知することが出来るのだ。無菌のものには住み着き得ない人生の旨みを、無意識のうちに求めている。
心底からの欲求と、それを押し止める有形無形の規制の間で、いつも心が揺れ動いていた気がする。
突き詰めれば、自分の決断力のなさが災いしているのだが、今日もまたあのずるそうな黒猫と渡り合う機会を失って、忸怩たる思いに陥っている。
誰に腹を立てるというわけでもなく、ステッキの先に不満を込めて、彼は公園へ向かう一歩を踏み出した。
(続く)
(2006/01/23より再掲)
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