東大安田講堂に立てこもった学生が排除されて以来、目標を見失った若者たちは、呆然とした思いで日を送っていたはずだ。放水という変幻自在の弾圧の前に、誇りをぐしゃぐしゃにされた学生たちは、拠って立つ抵抗原理まで濡れ鼠にされ、へたったダンボールとともに地に落とされた。銃で撃ちもせず、時計塔から飛び降りもさせなかった権力側の冷酷な計算が、いまになって明瞭に意識される。
一方、社会の底辺で隠者のごとく生きてきたおれは、騒然とした時代の終焉を冷ややかに眺めていた。多少の無気力さは、むしろ歓迎するぐらいの気持ちで、その後の推移を見守っていた。
写植機の操作にも慣れ、出版社や印刷会社のほか、商店や公共機関からの仕事をこなせるようになると、おれの意欲は高まり、世間の沈滞とは逆に元気を増していった。
ゴシック体や太明朝体の見出しを作り、斜体をかけた文字列を打ち出すとき、おれは覚えたての技術を使える楽しさに、この仕事に就けた悦びを噛みしめた。
なかでも、多々良が取ってくるコミック誌の仕事は、おれの本能をいたく刺激した。「バシッ」「おりゃあ」「ムワワ」といった擬音類、「おぬし・・」「あわれな者よのう」などの劇画的科白を、原画のフキダシに合わせてバランス良くはめ込む作業は、仕事を超えておれの活力を高めるものだった。
小島剛夕や小池一夫の名を知り、『ガロ』や『COM』の評判を聞いたのもそのころだ。書店でコミック誌を買い、辰巳ヨシヒロ、水木しげる、矢口高雄などの活躍も目にすることとなった。
白土三平の『カムイ伝』が、学生運動の闘士たちにバイブルのように受け入れられていたとの話は、あとから知って驚いた。バックナンバーをたどって、おれは若者たちの心の軌跡をある程度は理解した。
そうした作家たちの中で、おれを無条件に虜にしたのは、つげ義春だった。『ゲンセンカン主人』『紅い花』『李さん一家』などの世界にのめりこんだ。キクチサヨコの名は、おれの性の芽生えをうながした七尾時代の女生徒と、区別がつかないほどに血肉化していた。
たたら出版での昼休み時、つげ義春を讃えるおれをからかったのか、オペレーターの紺野が一つのエピソードを話してくれた。
「きみ、メメクラゲって、どんなくらげか知ってる?」
「いや・・」と言いかけて、おれは『ねじ式』の中の一コマを思い出していた。たしか物語の最初の方で、上半身裸の少年が腕を押さえながら「メメクラゲに刺された」と、波打ち際を砂浜に向かって歩いてくる場面があった。血の気が失せたような子供の顔が、おれの脳裏に忘れられない印象を刻み込んでいたようだ。
「やっぱり、分かりませんね」
「あれはねえ、つげ義春がXXクラゲと伏字で書いてきたのを、あるオペレーターが間違えて、メメクラゲと打っちゃったらしいんだ。そのままガロに発表されて、すっかり評判になったというわけさ」
嘘かまことか真相は分からないが、写植を打つ立場からすると、なるほどありそうなことだと、頬が緩むのを抑えられなかった。
おれの経験に照らし合わせてみても、フキダシに書かれている鉛筆の文字は、薄かったり、殴り書きであったり、画に注がれる神経の十分の一も配慮されていない。漫画家の意識のありようが見えて面白いのだが、とりあえず打ち込む写植オペレーターと校正をつかさどる編集者の双方に油断があれば、紺野が披露するような裏話が生じてもおかしくはないのである。
そのエピソードを聞いた翌日、おれはミナコさんに、いっそう増幅させた形でしゃべっていた。「・・メメクラゲって何だというわけで、百科事典や動物図鑑を調べる奴もいたらしいんだ。なかには、言葉のひびきから連想して、優柔不断な水母のことだと主張する詩人もいたらしい」
おれの声は、かなり弾んでいたにちがいない。
「いい仕事にめぐり合えて、よかったわ」
ミナコさんは、心底うれしそうに喜んでくれた。「・・あなたは、まだまだ発展できるはずよ。がんばってね」
フウーっと息を吐いた、その息の長さに、おれはミナコさんの気がかりを感じ取っていた。
「なにか、あったの?」
「いえ、なにも・・」
「おかしいよ。何でも話そうって約束したじゃないか」
おれの追及に窮して、ミナコさんは目を伏せた。
ミナコさんが顔を上げてしまえば、それまで触れずにいた彼女の暗部に否でも接しなければならない。おれは、そのことに気付いて慌てていた。曖昧な言葉を捜してベールを掛けようとしたが、一瞬早くミナコさんが口を開いた。
「わたしたちのこと、気付かれたみたいなの。・・でも、あなたは心配しなくてもいいのよ」
いやな気持ちと、ホッとする思いが交錯した。
考えてみれば、おれにしろミナコさんにしろ、完全に隠蔽しようなどと意図したことはなかった。知られなければそれでいいが、いつかは明らかになる日が来ると予感していた。その時が、いまやってきたと思えばいいことだった。
ミナコさんのマンションで、あの自動車内装会社の社長と鉢合わせしてから、すでに半年以上の時が過ぎている。その間、あの男は、おれのことをどのように考えていたのだろうか。
ミナコさんの色香に迷った若造が、身のほど知らずにのこのことやって来たが、追い払うまでもなく自ら尻尾を巻いて退散した。その程度の認識だったに違いないと、おれは推理した。
おれを見下した薄笑いの奥には、おれの存在など歯牙にもかけない奢りが見えたが、同時に、何があっても動じることのない絶対的な自信といったものを、嗅ぎ取っていた。
だからと言うべきか、おれは、ミナコさんの属する領域に迂闊に踏み込むことを避けてきた。ミナコさんへの思慕は、近ごろでは均すことが出来たかに見えていたが、ときには制御不能の状態になるほど狂おしく求め続けることもあった。
ミナコさんも、おれの胸中を理解し、おれ以上に苦しんでいたのかもしれない。体が一つになってしまうほどしがみつき、おれの背中に幾つもの指の痕を残したりした。
(そろそろ、パンドラの箱を開ける時が来たのか)
おれは、これから先の展開も読めないまま、覚悟だけは決めていた。
おそらく、社長の方からアクションを起こすだろう。おれに向かって直接攻撃してくるなら、もっとも対処がしやすいと思う。ところが、ミナコさんを挟んで起こる出来事は、おれには予想もつかないのだ。
ミナコさんと社長の間には、ほんとうは何があるのか。噂されるように、社長の二号として甘んじているのか。それとも、やがては本妻に納まる目途でもあったのか。それならば、なぜおれに係わるような危険を冒すのか。
おれは、まだ、問題の周辺をうろついているだけだった。核心に踏み込んでいくには、いまに倍する勇気が必要なことに薄々気が付いていた。
(続く)
(2006/03/24より再掲)
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新しい展開を楽しみにしています。
本筋に入っちゃうとなかなか区切りが見つからなくて・・・・。
今後ともよろしくお願いいたします。